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極私的雑記録

大衆娯楽に傾倒する学生のエンタメ雑感

言葉ってなんだ 鈴木剛介『THE ANSWER』

2017-03-22 21:58:54 | 



 古本屋の外で野ざらしになっている廉価本の棚を見ると、つい足を止めてしまう。それは慣れ親しんだ本への愛着なのか、貧乏学生の懐事情に依るものなのかは知れないが、私にとって運命の一冊となり得る本がそこにあるのでは、と淡い期待半分にフラフラと気がつけば引き寄せられている。

 たいていの古本は裏表紙をめくると、鉛筆で値段が控えめに書かれている。知らずに手に取ってぱらぱらとめくり、レジへと持ち出した本の値段に驚かされることがあった。老練の店主に伏目がちで「やめときます」と呟き、もとある場所に返しに行く経験は誰しもが通ってほしい。常識とは恥をかいて初めて学べるもの。たぶんね。

 鈴木剛介さんの作品(この呼び方が正しいのかはわからない)『THE ANSWER』を手に取って買うと決めるまでにそれほど時間はかからなかった。本でジャケ買いなんて初めてだな、と考えながらレジへと進み、そこで表示された数字に胸を安堵させてカバンにしまった。帯に書かれた書評「哲学パンクノベルの傑作です」という触れ込みに心地よい疑問を感じたことが印象に残っている。

 著者は上智大学文学部哲学科を卒業後に広告代理店、築地魚河岸と職を渡り歩き、老人ホーム職員として働きながら新風社よりこの本を自費共同出版した。小説でもエッセイでもなければ、ノンフィクションと呼ぶにも気が引ける。見合う言葉を探して辿り着くのは「独白」か。学説仕立てのような、書簡形式の独白。それもどこか違うような気もするが、ひとまず。



 とにかく読んでほしい。この本を読み終えたあとだからこそ、「言葉」でこの本を評そうとする行為自体がそもそも無益で無意味だ。無理矢理にでも言ってしまえばG.P.S.(General Problem Solver 一般問題解決システム)を名乗る哲学者(筆者)が発見してしまった「哲学とは何か?/真理とは何か?」という問に対して読者に提示する「最終理論」という答えの解説・普及を目的とした一冊だ。言ってしまった。

 私は「言葉」が好きな就活生だ。その想いを胸に現在、出版業界を目指している。都築響一さんの著書『圏外編集者』という本に出会い、その想いがより強固になった矢先にとんでもない本と鉢合わせてしまった。自分が好きなものを知ったつもりで21年生きてきた。わかったつもりで過ごしてきた。それもこれも全て、自分で「決めた」だけ。それを好きなんだと「言葉」で「決めた」だけ。筆者が心を病み身を削って提示した、世界人口73億人が永遠に納得する「普遍的な理屈」を受け止め切れるか?

とにかく読んでくれ。


小説『ブンとフン』雑感

2016-02-05 19:05:19 | 
希代のナンセンス文学『ブンとフン』雑感



 処女作には、その作家の全てが詰まっている。よく言われる言葉ではあるが、私はこれほどまでにキテレツな処女作を知らない。今回紹介するのは、井上ひさし氏の名著『ブンとフン』である。
 物語の主人公は、しがない小説家のフン先生。書けども書けども小説は売れず、毎日の食事すらままならない生活。そんな先生の下に、転機が訪れる。小説『ブン』が初めての大ヒットを飛ばしたのだ。「大泥棒ブンの華麗なる冒険生活」と銘打ったこの作品。大泥棒ブンとは一体何者か? フン先生の頭の中を覗いてみよう。
 「ブンとは何者か。ブンは時間をこえ、神出鬼没、やること奇抜、なすこと抜群、なにひとつ不可能はなくすべてが可能、どんな願いごとでもかなう大泥棒である。(中略)それはブンが四次元の男だからである」        
一章 「ブンとは何者か」P14

 フン先生も、(われわれ読者同様)なぜこんな本が売れたのか全くわからない。しかし先生は深く考えることもなく、書店社長から届いた久しぶりの食事を能天気に頬張っていた。そんな矢先、「ブン」と名乗る男が先生の家を訪ねて来たのだった。
 馬鹿馬鹿しい。素晴らしく馬鹿馬鹿しい設定だ。小説『ブンとフン』が出版された当時、井上氏は三十五歳。放送作家として『ひょっこりひょうたん島』等のヒット作を手掛けてはいたが、小説家としてはまだ無名に等しい新人であった。それ故か、この作品からは作者の若々しい熱気と、形式に縛られない自由奔放な気風が感じられる。その勢いがそのまま、この作品が持つ摩訶不思議な魅力となっているのだ。小説から飛び出したブンと出会ったフン先生。物語は動き出す。
 どうやらこの男、正真正銘の「ブン」らしい。「不可能などない四次元の人間」として作ったのが災いして、小説から飛び出してしまったのだ。ブンは天下の大泥棒。恐れるものなど何もない。世に放たれた今、ブンを止められる者は誰一人として居なかったのである。


 全九章からなるこの作品。その中の「次から次へと奇ッ怪千万」と題された第二章では、大泥棒ブンによる身の毛もよだつ悪事の数々……ではなく、奇怪ではあるがどこかユーモラスで滑稽な事件が描かれている。数ある事件の一部を紹介しよう。炬火の代わりに、巨大なソフトクリームを掲げる自由の女神像の出現。動物園に現れた、格子模様のシマウマ。野外ボートレースの試合中、突如干上がる川の水。もはや泥棒が起こす事件の枠を超えてしまっている気もするが、この第二章こそ、ナンセンス作家井上ひさし氏の真骨頂。大喜利のような柔軟な発想で、あらゆるユーモアをあらゆる角度からぶつける。それは一歩間違えれば物語の破たんにも繫がりかねない、井上流ナンセンス・ギャグの乱れ打ちだ。しかし読者は休む間もなく、この突飛でナンセンスな世界観が、徐々に普遍的なテーマへ昇華されていく場を目の当たりにする。
 たちまち「ブン現象」と名付けられた一連の事件は、フン先生の耳にも届いた。真相を警察に説明しようと試みるが、信じてもらえない。困ったフン先生の元に、再びブンが姿を現す。ブンは形あるものを盗むのをやめ、人間の形なき「心」を盗もうとするのだった。
 劇作家としてのキャリアを持つ作者は、この作品にミュージカル的な演出を施した。主役級のブンとフンはもちろん、あらゆる登場人物にシャレの効いた「歌」を歌わせるのだ。ブンが人間の虚栄心を盗む印象的なシーンがある。第四章の舞台は高級ホテルのレストラン。歌うのはお高くとまったご婦人たち。
 サーイザンス サイザンス/おミュージックはサンサーンス/(中略)/ドレスはパリのハイセンス/家具は柾目の桐ダンス/(中略)/旦那は東大出ておりやンス/なによりきらいなナーンセンス……
四章 モノからココロヘ P108

 作者が自在に操る駄洒落・語呂合わせによる洗練されたことば遊びは、全編を通じて作品の重要な構成要素だ。「モノからココロヘ」というタイトルがつけられたこの章から、少しずつ作者の世の中に対する皮肉的な視点も垣間見えてくる。物語の方向転換の潤滑油として、この言葉遊びは効果的に用いられているのだ。結局このご婦人たちは、レストランのボーイに扮したブンに虚栄心を盗まれ、純粋な少女のように料理にはしゃぐ女性に変えられてしまう。虚栄、見栄、気取りに満ちた現代人の振る舞いに対する、皮肉的描写として作品にエッジを効かせる。ブンはフン先生に、人間の一番大切なものを盗みたいと打ちあけた。しかし、それが何かは先生にもわからないことだった。
 ブンはある答えにたどり着く。人間が一番大事にしているもの。それは「権威」であると。とある哲学教室に訪れたブン。威厳ある態度で授業をする博士は、立派に蓄えた「ヒゲ」が自慢だった。というより、心のよりどころであったのだ。いつもの様に授業を進めていると、学生が何やらクスクス笑っていることに気が付く博士。いつもの様にあごを触ると、ヒゲが無い。博士はうろたえた。みるみるうちに自信を無くし、学生に対して俯きながら話した。「ぼくは、哲学のテの字も知らないの」ブンは人間に呆れ、失望した。そして、今や人気小説家の仲間入りを果たし、権威を手に入れたフン先生の記憶までも奪ってしまったのだった。


 作者はあとがきの中で、このような言葉を残している。
 私が最も熱中していた考えは、じつはこれらの不易の常識や道徳が、じつはなんとなく頼り甲斐のないものではないか、(中略)この小作の成り立ちそのものが、この考え方に基づいているようだ。
あとがき P200 (文庫版)

 作者である井上ひさし氏は、世の中に対する痛烈な風刺を、ナンセンス・ユーモアの中で描いた。それも、この上なく馬鹿馬鹿しく。これら二つの要素を同居させるのは、並大抵のことではない。それを作者は「ことば遊び」という天性の才能を駆使して成し遂げてしまった。この物語のラストは、ある種の衝撃を覚えるだろう。小説作法から逸脱した、作者の綱渡り的実験精神が結実した瞬間である。


学校のエッセイを書く講義内で発表した作品です。
「コレはエッセイじゃなくてレビューだ」と一刀両断された思い出。