希代のナンセンス文学『ブンとフン』雑感
処女作には、その作家の全てが詰まっている。よく言われる言葉ではあるが、私はこれほどまでにキテレツな処女作を知らない。今回紹介するのは、井上ひさし氏の名著『ブンとフン』である。
物語の主人公は、しがない小説家のフン先生。書けども書けども小説は売れず、毎日の食事すらままならない生活。そんな先生の下に、転機が訪れる。小説『ブン』が初めての大ヒットを飛ばしたのだ。「大泥棒ブンの華麗なる冒険生活」と銘打ったこの作品。大泥棒ブンとは一体何者か? フン先生の頭の中を覗いてみよう。
「ブンとは何者か。ブンは時間をこえ、神出鬼没、やること奇抜、なすこと抜群、なにひとつ不可能はなくすべてが可能、どんな願いごとでもかなう大泥棒である。(中略)それはブンが四次元の男だからである」
一章 「ブンとは何者か」P14
フン先生も、(われわれ読者同様)なぜこんな本が売れたのか全くわからない。しかし先生は深く考えることもなく、書店社長から届いた久しぶりの食事を能天気に頬張っていた。そんな矢先、「ブン」と名乗る男が先生の家を訪ねて来たのだった。
馬鹿馬鹿しい。素晴らしく馬鹿馬鹿しい設定だ。小説『ブンとフン』が出版された当時、井上氏は三十五歳。放送作家として『ひょっこりひょうたん島』等のヒット作を手掛けてはいたが、小説家としてはまだ無名に等しい新人であった。それ故か、この作品からは作者の若々しい熱気と、形式に縛られない自由奔放な気風が感じられる。その勢いがそのまま、この作品が持つ摩訶不思議な魅力となっているのだ。小説から飛び出したブンと出会ったフン先生。物語は動き出す。
どうやらこの男、正真正銘の「ブン」らしい。「不可能などない四次元の人間」として作ったのが災いして、小説から飛び出してしまったのだ。ブンは天下の大泥棒。恐れるものなど何もない。世に放たれた今、ブンを止められる者は誰一人として居なかったのである。
全九章からなるこの作品。その中の「次から次へと奇ッ怪千万」と題された第二章では、大泥棒ブンによる身の毛もよだつ悪事の数々……ではなく、奇怪ではあるがどこかユーモラスで滑稽な事件が描かれている。数ある事件の一部を紹介しよう。炬火の代わりに、巨大なソフトクリームを掲げる自由の女神像の出現。動物園に現れた、格子模様のシマウマ。野外ボートレースの試合中、突如干上がる川の水。もはや泥棒が起こす事件の枠を超えてしまっている気もするが、この第二章こそ、ナンセンス作家井上ひさし氏の真骨頂。大喜利のような柔軟な発想で、あらゆるユーモアをあらゆる角度からぶつける。それは一歩間違えれば物語の破たんにも繫がりかねない、井上流ナンセンス・ギャグの乱れ打ちだ。しかし読者は休む間もなく、この突飛でナンセンスな世界観が、徐々に普遍的なテーマへ昇華されていく場を目の当たりにする。
たちまち「ブン現象」と名付けられた一連の事件は、フン先生の耳にも届いた。真相を警察に説明しようと試みるが、信じてもらえない。困ったフン先生の元に、再びブンが姿を現す。ブンは形あるものを盗むのをやめ、人間の形なき「心」を盗もうとするのだった。
劇作家としてのキャリアを持つ作者は、この作品にミュージカル的な演出を施した。主役級のブンとフンはもちろん、あらゆる登場人物にシャレの効いた「歌」を歌わせるのだ。ブンが人間の虚栄心を盗む印象的なシーンがある。第四章の舞台は高級ホテルのレストラン。歌うのはお高くとまったご婦人たち。
サーイザンス サイザンス/おミュージックはサンサーンス/(中略)/ドレスはパリのハイセンス/家具は柾目の桐ダンス/(中略)/旦那は東大出ておりやンス/なによりきらいなナーンセンス……
四章 モノからココロヘ P108
作者が自在に操る駄洒落・語呂合わせによる洗練されたことば遊びは、全編を通じて作品の重要な構成要素だ。「モノからココロヘ」というタイトルがつけられたこの章から、少しずつ作者の世の中に対する皮肉的な視点も垣間見えてくる。物語の方向転換の潤滑油として、この言葉遊びは効果的に用いられているのだ。結局このご婦人たちは、レストランのボーイに扮したブンに虚栄心を盗まれ、純粋な少女のように料理にはしゃぐ女性に変えられてしまう。虚栄、見栄、気取りに満ちた現代人の振る舞いに対する、皮肉的描写として作品にエッジを効かせる。ブンはフン先生に、人間の一番大切なものを盗みたいと打ちあけた。しかし、それが何かは先生にもわからないことだった。
ブンはある答えにたどり着く。人間が一番大事にしているもの。それは「権威」であると。とある哲学教室に訪れたブン。威厳ある態度で授業をする博士は、立派に蓄えた「ヒゲ」が自慢だった。というより、心のよりどころであったのだ。いつもの様に授業を進めていると、学生が何やらクスクス笑っていることに気が付く博士。いつもの様にあごを触ると、ヒゲが無い。博士はうろたえた。みるみるうちに自信を無くし、学生に対して俯きながら話した。「ぼくは、哲学のテの字も知らないの」ブンは人間に呆れ、失望した。そして、今や人気小説家の仲間入りを果たし、権威を手に入れたフン先生の記憶までも奪ってしまったのだった。
作者はあとがきの中で、このような言葉を残している。
私が最も熱中していた考えは、じつはこれらの不易の常識や道徳が、じつはなんとなく頼り甲斐のないものではないか、(中略)この小作の成り立ちそのものが、この考え方に基づいているようだ。
あとがき P200 (文庫版)
作者である井上ひさし氏は、世の中に対する痛烈な風刺を、ナンセンス・ユーモアの中で描いた。それも、この上なく馬鹿馬鹿しく。これら二つの要素を同居させるのは、並大抵のことではない。それを作者は「ことば遊び」という天性の才能を駆使して成し遂げてしまった。この物語のラストは、ある種の衝撃を覚えるだろう。小説作法から逸脱した、作者の綱渡り的実験精神が結実した瞬間である。
学校のエッセイを書く講義内で発表した作品です。
「コレはエッセイじゃなくてレビューだ」と一刀両断された思い出。