chaos in hollow

雑多なものの感想

PSYCHE/唐辺葉介

2016-03-24 17:42:59 | 日記
評価:C+

『SWAN SONG』、『キラ☆キラ』、『CARNIVAL』の三作(18禁)を手がけたライターによる文庫本。

個人的には上の三作と『電気サーカス』に次いでの作品となる。
以下、18禁ノベルゲーのネタバレ抜きで。

唐辺氏の作品には通奏低音として常に人と人との間にある距離への絶望感・諦念、そしてそれに対する抵抗(という名の希望)が流れていると思う。
また、そこでは主人公が内面にある種の空洞を持つ人物として描かれる。
こうした主人公は嫌み無く描かれ、個人的には好感を持って読めている。

18禁だから最後は希望を持たせる形で終わりにしなければならない、という訳ではないし、小説だからテーマを曖昧ないし明示しない終わり方がいいとも限らない。
むしろ、18禁の方が絶望的な最後が許される節はある。
それはユーザー(読者)層の違いもあり、また、絵というものを印象付けに用いることが出来るからだ。そして、ゲームという体裁をとる以上、娯楽的であればいいので、テーマ性は必要とされる部分が少ない。

だが、この二作の文庫本を読んだ限りでは、PCの三作に比べて、文庫本の方が逆に明確なテーマ性と意図を持って描かれていないように感じる。
私の読解力の問題かもしれないが、本作は何を伝えたいのか理解に苦しんでしまったのだ。
見える世界がその人物の世界だ、というものと、今を描かなければいけない。その二つは台詞にも出てくるように、明示されている。だが、それ、とりわけ前者に対する抵抗の形、を私は読みたいと期待していたのであった。
そして、それは叶わなかった。

とはいえ、筆力が衰えてる訳ではないので、台詞主体の物語進行もあって読みやすいので、この評価である。

今後も氏の作品は読むとは思うが、こういう形になるのであれば、別のタイプの主人公も読みたいと思うのであった。


Bitter Kiss/内田彩、Sweet Tears/内田彩

2016-03-13 17:16:49 | 日記
μ'sの南ことり役の声優のコンセプト・ミニ・アルバム二枚。

声優歌手に何を求めるのか。
それは普通の歌手では出来ない、「声色」の使い分けだ。
単純にアニメ声で歌えばいいという訳ではなく、どんなテイストの曲にも合わせられることが求められる。
そして、その声色の変化のせいで音程が狂ってはいけなく、また、表現力も決して落としてはいけない。

無論、そうなると普通の専業歌手より求められるものが多くなってしまう。
その辺は、歌唱力を割り引いてもいい理由にはなる。

時にスタイリッシュに時にヒステリックに時にクールに(Bitter Kiss)、時にキュートに、更にはポップに(Sweet Tears)。
こういった声色を曲とともに絶妙に使い分ける。
この二作でそういう内田彩の魅力を存分に伝えられていると言っていいだろう。
μ'sの時に用いる鼻声とも違っているのだから、表現の幅はそれ以前のアルバム二枚より更に拡がっている。

だが、個人的には曲が満足いくものではない。
もう少し大胆な変化を曲ごとにつけていいし、良メロがあってもいい。
その辺は好みであるが、今後に期待は出来るだろう。


Butterflies

2016-03-09 21:41:48 | 日記
※アルバムに点数はつけません。

BUMP OF CHICKENを好きになってから12年。前作から約2年。
基本的に歌ってる内容は変わってない。自分とか「君」。
でも、今回のアルバムは三ツ星カルテットくらいにはがっかりした。つまり、個人的には好きになれない。
彼らに良質なメロディーだけを期待するのは間違っている。でも、あまりに好きになれるメロディーがない。

そして、これは本人達も言ってることらしいが、EDMの要素多くなっていることだ。そのこと自体はあまり気にしないのだが、結局、前アルバムの『RAY』程のポップさも無ければ、ロックサウンドにも徹し切れてない感じが否めないのだ。
バンプ自体、J-POPともロックとも判別しづらい立場にいる。
そんなジャンルなんてどうでもいいじゃない。
そんな彼らの声が聞こえてきそうだし、実は私もどうでもいい。融合したものでもいい。
だけど、融合・取り入れと中途半端は似て非なるものだ。

バンド自体に熟練が求められる頃だ。
そんな時に本作は頂けないと思う一ファンであった。

批評の批評

2016-03-08 15:11:57 | 日記
最近、作品(ノベルゲーでも小説でも)を読んだあとに作品と自分との対面関係で、つまり、他の情報には触れずに感想や批評を書くことがめっきり減った。
他のレビューや感想を読んでから、それらを参考に自分の文章を組み立てることが多いのだ。
それは、自分の感性や読解力の低下とも関連してはいるが、何より自信を無くしているのだと思う。

そもそも、自分の批評をあまり他人に見せたこともなく、また、身近な他者の批評を読んだことも数える程しかない。
だから、そもそもの批評の「作法」たるものも知らなければ、批評の方法論を学んだこともない。
いや、そんなものは本来的に必要なのかも分からないのだが、こと批評サイトやブログなどで自分の文章を公に晒すとなれば、他者との比較や他者からの批評を免れ得ない。
そして、自分の文章は文学評論の方法論に基づくものでは決してなく、学部であった法律学と勝手気ままに読んだ哲学を基盤に置いているので、どうにも心細い。
それは、内容面だけではなく形式面でも、である。

かくして、批評の批評から自分の作品への批評が始まるのだが、それは、卑怯な気がしてきた。
そして、批評の批評から学び取れることが本来的な方法論に近いものなのかもよく分からない。

まあ、結局のところは、ほとんどの人が手探りで始めているのだろうが、でも、その方法論に裏づけがあるのとないのとでは、文章に顕れる自信が違うのである。