ある日の気づき

歴史ノート/「明治維新」批判その2

節へのリンク
1. 「明治維新」の「思想的背景」
2. 戊辰戦争
3. 建国理念欠如の証明:「超然内閣」
4. 「元勲」長州代表+総括
4.1 (悪い順での)筆頭者:山縣有朋
4.2 全「元勲」の合作:明治憲法の曖昧さに起因する制度的欠陥
5. 「元勲」公家代表:岩倉具視
更新履歴と同カテゴリの記事(←「明治維新」批判その1以外の関連記事リンクも含む)

歴史的観点から憲法と国際法を考える3. に関連するメモからの抜粋その2。
(「歴史ノート/「明治維新」批判その1」の落ち穂拾い)。

1. 「明治維新」の「思想的背景」^

https://news.kodansha.co.jp/20170923_b01
『明治維新という過ち 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト〔完全増補版〕』
(著:原田 伊織)
https://ameblo.jp/oinon-sakai/entry-12344321608.html
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&m=350416&pgh=114
http://www.yamamotomasaki.com/archives/2063
https://ameblo.jp/chihointokyo/entry-12370405488.html
原田氏は、さらに松陰や長州の志士たちを駆り立てた思想のルーツは「水戸学」にあると指摘する。
吉田松陰は、水戸学の中心人物である藤田東湖を崇拝したという。著者によると「水戸学は学問と
いえるような代物ではなく、空虚な観念論を積み重ね、それに反する生身の人間の史実を否定し、
己の気分を高揚させて自己満足に浸るためだけの〝檄文〟程度のものと考えて差し支えない。
この気分によって水戸藩自身が、四分五裂し、幕末には互いに粛清を繰り返すという悲惨な状況に
陥った。」という。水戸で生まれた浅薄な狂気の思想が長州を狂気に駆り立て、幕府を滅ぼし、
その後も水戸藩ゆかりの人物たちによって日本ファシズム運動として受け継がれていく。
#私見では、本居宣長、平田篤胤に代表される「国学」の影響も*はなはだ有害*だったが、議論
#すると長くなるので、別の機会に。

2. 戊辰戦争^

http://www.nnh.to/01/03.html
1月3日:戊辰戦争開戦の日
1868(慶応4)年のこの日、戊辰戦争が始った。
京都の鳥羽・伏見で旧幕府軍と薩摩・萩軍が戦闘したが、装備で劣る旧幕府軍は敗退し、
5日後に徳川慶喜は海路江戸へ向かい、新政府軍は慶喜追討令をうけて江戸へ進撃した。
戊辰戦争 - Wikipedia
慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、王政復古を経て明治政府を樹立した
薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った
日本の内戦。名称は慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来する。
https://kotobank.jp/word/戊辰戦争-133107
「1867年(慶応3)12月9日の王政復古クーデターによって成立した新政府は、徳川慶喜を政権
から排除し、辞官・納地を彼に要求」「新政府は、天皇親政の名のもとに少数の専制的政治家が
国家の最高意志を決定する方向に変貌」
「新政府や奥羽鎮撫(ちんぶ)総督府参謀に不満・不信を抱いた東北諸藩は、5月奥羽列藩同盟を
結成」「北越諸藩もこれに参加して奥羽越列藩同盟となって新政府に抵抗」
https://honcierge.jp/articles/shelf_story/4498
https://history-men.com/boshin-war/
「西郷隆盛は武力によって幕府軍を倒そうと考えます。
そのため、薩摩藩士に命じて江戸で強盗や放火などの挑発行為を行わせ、旧幕府軍を挑発し、
旧幕府軍が薩摩を攻撃するように仕向けました。これらの行為に激怒した旧幕府軍は、江戸の
薩摩藩邸を襲撃します。」
# こういう策略を使う西郷隆盛を「大人物」と評価する人が多いのは不思議(司馬遼太郎史観?)
# ↓池田屋事件での長州藩の京都放火計画といい ... 放火魔の政権....
https://ja.wikipedia.org/wiki/池田屋事件
「自白内容は、「祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち、
# 飛び火して京都中が火事に成りかねない ,,,,
その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉、一橋慶喜・松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ
動座させる(連れ去る)」」

1868年(新暦3月29日) - 新選組の再組織隊・甲陽鎮撫隊が甲州勝沼で官軍に敗北。八王子まで
敗走し解散。
https://ja.wikipedia.org/wiki/甲陽鎮撫隊
https://ja.wikipedia.org/wiki/甲州勝沼の戦い
戊辰戦争における戦闘の一つである。柏尾の戦い、勝沼・柏尾の戦い、甲州戦争、甲州柏尾戦争
とも呼ばれる。板垣退助の軍勢と近藤勇の軍勢が戦った歴史に残る合戦。
新選組局長の近藤勇は、抗戦派と恭順派が対立する江戸城において勝海舟と会い、幕府直轄領で
ある甲府を新政府軍に先んじて押さえるよう出陣を命じられた
https://bushoojapan.com/jphistory/baku/2021/03/06/71330
新選組局長・近藤勇は、勝海舟から「ちょっくら甲府まで行って、新政府軍を止めて時間を
稼いでくれ」(意訳)と言われます。近藤はこれを引き受けました。
# 甲州行きを命じたのは?勝海舟説と大久保一翁説があり、上は勝海舟説、下は大久保一翁説。
# http://bkmts.on.coocan.jp/sinsengumikaisyu6.htm
http://www7a.biglobe.ne.jp/~soutokufu/boshinwar/kasio/main.htm
近藤勇が甲州を目指した理由については、当時徳川家の陸軍総裁だった勝海舟が近藤に甲州を
制圧するようにそそのかしたというのが一般的な説。これは実際に甲陽鎮撫隊に参加した
旧新選組幹部の永倉新八がそう供述していますし、また実際陸軍総裁だった勝が当時目論んで
いた江戸無血開城の障害となる過激派勢力を江戸から遠ざけていた形跡があります。
しかし近年これに対する説が出始め、特に松浦玲氏は「当時甲州は大久保一翁の管轄だった
のだから、近藤の甲州行きには勝よりも大久保の方が関わっていた筈」という文献を駆使した
説得力ある説を提唱されています。
また松浦氏は近藤が大久保に「新政府軍とは戦う気はない」と偽り甲州に向かう許可を取ったの
ではとも述べています。
# 勝海舟にせよ大久保一翁にせよ、多分「捨て駒」感覚だったので、気にしていなさそう ...
# このあたりも「勝海舟の人格には胡乱なところが...」と思わせるゆえん。小栗上野介による
# 「小田原近辺で迎撃し、海上から砲撃すれば、優位に立てる」という堂々とした案と対照的。
# 一説によれば、後に大村益次郎が「その案が採用されていれば惨敗だった」と言ったとか。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/大久保一翁
https://kotobank.jp/word/大久保一翁-39130
https://bit.ly/2NYu5mR
https://ja.wikipedia.org/wiki/勝海舟
https://kotobank.jp/word/勝海舟-15669
https://philosophy.hix05.com/Politics/fukuzawa/fuku07.yase.html
http://sign104.kazelog.jp/blog/2011/06/post-23a8.html
https://ameblo.jp/yagiri2312/entry-12630234180.html
http://ktymtskz.my.coocan.jp/denki2/ono.htm
http://ktymtskz.my.coocan.jp/denki2/ono11.htm
https://amzn.to/2O9b0yf: 「勝海舟の罠――氷川清話の呪縛、西郷会談の真実-水野-靖夫」

3. 建国理念欠如の証明:「超然内閣」^

1885年 - 伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任して、第1次伊藤内閣 を組閣。
# 首相を決める手続きが前近代的なことも明治国家の欠陥の一つ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/枢密院_(日本)
政党政治の時代にあっても、藩閥・官僚制政治の牙城をなした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/藩閥
https://ja.wikipedia.org/wiki/元勲
https://ja.wikipedia.org/wiki/元老
憲法制定以前の明治政府においては藩閥の有力者や岩倉具視などのいわゆる「元勲」たちに
よって政治や人事は行われていた。 # 制度設計の欠如は政治の私物化も暗示→事例

1889年 - 日本の黒田清隆首相が超然主義演説を行う。
# 藩閥寡頭制強盗国家宣言=「議会など飾り」=失政の責任を取らない事を大っぴらに認める
https://ja.wikipedia.org/wiki/超然主義
大日本帝国憲法発布後の帝国議会開設から大正時代初期頃までにおいて、藩閥・官僚から成る
内閣が採った立場を指し、内閣は議会・政党の意思に制約されず行動すべきという主張を言う。
また、この主義を採る内閣を超然内閣と呼ぶ。
大日本帝国憲法起草を主導した伊藤博文も同様の主張を表明する演説を行った。
# 伊藤博文の憲法理解も、しょせん、この程度だった。

1891年 - 日本の帝国議会で樺山資紀海相がいわゆる「蛮勇演説」を行う。
民党は、前の第1次山縣内閣時からの主張「民力休養・政費節減」を継続した。
# 民党の主張の方が、真の国益にかなっていたことは明らか。

https://kotobank.jp/word/清浦奎吾-53108
「山県直系の官僚政治家として法相,農商務相などを歴任。第二次山県内閣の法相として
治安警察法を制定。大正13年(1924)首相に就任したが、護憲三派の攻撃で総辞職。

4. 「元勲」長州代表+総括^

薩摩の西郷隆盛だけ名前を出した状態を続けるのは不公平なので....

4.1 (悪い順での)筆頭者:山縣有朋^

1870年 山縣有朋がヨーロッパへの軍事制度の視察から帰国。
# 何をどう見て来たのやら。この後、ロクなことをしていない。自分が直接経験した内戦の教訓
# (北越戦争で長岡藩が用意した機関銃(ガトリング砲)に大苦戦した戦訓)から何も学ばず、
# 日露戦争でロシア軍の機関銃の前に大損害を出した元凶が、「視察」で学べるはずもないが。
https://ja.wikipedia.org/wiki/北越戦争
長岡藩主・牧野忠訓と家老上席、軍事総督・河井継之助のもと、イギリス人の武器商人の
ウォーター、アメリカ人の武器商人のスミス、ファブルブラント商会(C.&J.FAVRE BRANDT)、
スネル兄弟などからアームストロング砲、ガトリング砲、エンフィールド銃、スナイドル銃、
シャープス銃(軍用カービン)などの最新兵器を購入。
https://kotobank.jp/word/北越戦争-869233
新政府軍は戊辰戦争中最大の苦戦をしいられた

https://matome.naver.jp/odai/2152928232821978101
新政府軍は四十数藩を動員し総兵力は3万人。奥羽越列藩同盟軍の兵力は最大で8000人にすぎ
ない。ましてや長岡藩は、老兵や少年隊、農兵隊などを含めても総兵力1500人ほどにすぎない。
この小藩に手こずり、3カ月にも及ぶ戦いで新政府軍は900人以上という戊辰戦争最大の犠牲を
払った。
1889年 - 日本で山縣有朋が第3代内閣総理大臣に就任し、第1次山縣内閣が発足。
# ↓総理大臣を経験しながら出陣。よほどの戦争狂。そう言えば「狂介」って名前だった ...
1894年 - 日清戦争: 山縣有朋率いる第1軍が鴨緑江作戦を開始。
# ↑事前の軍令を無視して勝手に突出したため、速攻で更迭されたとか。

1941年 - 戦陣訓が布告される。
https://hc6.seikyou.ne.jp/home/okisennokioku-bunkan/okinawasendetakan/senjinkun.html
https://kotobank.jp/word/戦陣訓-88411
https://ja.wikipedia.org/wiki/戦陣訓
特に1941年1月8日に陸軍大臣東條英機が示達した訓令(陸訓一号)を指す。
陸訓一号も軍人としてとるべき行動規範を示した文書で、このなかの「生きて虜囚
(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」という一節が有名であり、玉砕や自決
など軍人・民間人の死亡の一因となったか否かが議論されている。
# 現実には、当然、捕虜は発生するが、この愚劣な文書のため「捕虜になったときの
# 振る舞い方の教育」がされないため、日本軍には軍事機密をしゃべってしまう捕虜が
# 多かったという「純軍事的に見ても大きなマイナス」というオチ。
日清戦争中に第一軍司令官であった山縣有朋が清国軍の捕虜の扱いの残虐さを問題にし、
「捕虜となるくらいなら死ぬべきだ」という趣旨の訓令が「生きて虜囚の辱を受けず」の
原型との指摘もある。
# ↑仮にそうだとすると、「元勲」を頂点とする明治国家の権力者たちは、「国際法」の
# 重要性を*かけらほども*理解していなかった事になる。∵1899年にハーグ陸戦条約が
# 締結され、大日本帝国も署名国である。同条約の一部「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」の
# 第4条に「俘虜は敵の政府の権内に属し、これを捕らえた個人、部隊に属するものでは
# ない。俘虜は人道をもって取り扱うこと。」とある。∴1894-1895 年での特定の経験に
# のみ基づいて、1899年の条約締結以後の戦争での(自軍/他軍)兵士の俘虜(捕虜)化
# への考え方/対応方針を定める事は、不見識も甚だしい。「戦陣訓」公表は1941年。
# ∴その内容を「検討」していた連中の戦時国際法への無理解は「救い難い」の一語。
# 必要だったのは「敵国の条約参加状況も考慮した、戦時国際法のマニュアルと教育」。
# 明治国家での有害無益な規定のルーツを辿ると、しばしば、山縣有朋にたどり着く....
https://ja.wikipedia.org/wiki/教育ニ関スル勅語

https://kotobank.jp/word/教育勅語-52408
# とか、下記のような事件の原因にも絡んでいたりするわけだが ....
1891年 - 第一高等中学校講師の内村鑑三が教育勅語への拝礼をキリスト教徒の立場から拒否
したため免職。(不敬事件)
https://ja.wikipedia.org/wiki/内村鑑三不敬事件
内村は1890年(明治23年)から第一高等中学校の嘱託教員となったが、その年は
10月30日に第一次山県内閣のもとで教育勅語が発布された年でもあった。
# 何と言っても、最悪は↓これ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/軍部大臣現役武官制
「明治憲法下の日本において制定されていた軍部大臣(陸軍大臣、海軍大臣)の就任資格を
現役の大将・中将に限定する制度である。現役武官に限るため、文官はもちろん予備役・
後備役・退役軍人にも就任資格がないのが原則だった」
「政党政治の高まりから、軍政に政党政治が浸透してくるのを防止するため、1900年
(明治33年)5月に山縣有朋内閣が軍部大臣の補任資格を現役の武官の大将・中将に限るという
軍部大臣現役武官制を規定」
「欧米諸国においては、文官が陸海軍大臣に就任する場合も少なくなく、シビリアン・
コントロール(文民統制)の理念が守られていたが、日本では軍が自らの政治的要求を実現
する道具に軍部大臣現役武官制を利用して政治進出を行ったとして批判される」
# トドメは↓米内内閣を潰したため、より無能で事態収拾能力のない首相が続き、開戦へ....
1940年
陸軍の画策で畑俊六陸相が辞職し、後任の陸相を陸軍が推挙しなかったため、米内内閣
総辞職。

https://kotobank.jp/word/軍部大臣現役武官制-58468
政党の力が軍部に及ぶことを防止するために1900年第2次山県有朋内閣 の時に実施。
二・二六事件以後軍部はこれを倒閣・軍部専制の武器とした

https://ja.wikipedia.org/wiki/文民統制
プロイセン王国の将校であったカール・フォン・クラウゼヴィッツが、自著『戦争論』の
なかで、「政治が目的であって戦争は手段である」と述べて政治の軍事に対する優越を論じ、
... 軍事を政治の統制下におくために、「武官を入閣させるべきである」と論じた。しかし
クラウゼヴィッツの理論は後世の研究者たちによって「政治を軍事行動に奉仕させるために、
武官を入閣させるべき」と誤解された。
# 政治家は軍事に素人としても、軍人は政略・外交また特に近代戦を遂行する際に不可欠な
# 経済・産業・財政について素人であり、戦争が外交の延長である以上、戦争の大局判断、
# 政略・戦略・外交、そして開戦と講和については政治家が最終的に判断を下すべき事項

# 山縣有朋は、神仏分離令の際に京都の南禅寺から没収した土地に自分の別荘を作ったりも
# していたが .... まさか、そのための神仏分離令???
https://ja.wikipedia.org/wiki/南禅寺界隈別荘
https://ja.wikipedia.org/wiki/無鄰菴
「広い庭園は山縣が七代目植治(小川治兵衛)に作らせたもの」

4.2 全「元勲」の合作:明治憲法の曖昧さに起因する制度的欠陥^

# 大日本帝国憲法の統帥権の独立規定は、結局、薩長の「元勲」連中は「自分たちが勝手に
# 政治をする」ことが最優先であり、「よりよい国家を成立させる」事は二の次、三の次
# だった事の反映
https://ja.wikipedia.org/wiki/統帥権

統帥権独立の考えが生まれた源流としては、当時の指導者(元勲・藩閥)が、政治家が統帥権
をも握ることにより幕府政治が再興される可能性や、政党政治で軍が党利党略に利用される
可能性をおそれた ....
# 連中が国家の先行きを考えていた形跡は全くないが、仮にそんな「心配」をしていたなら、
# 近代国家の基本要件を把握していないがゆえの本末転倒な発想。自分たちの為政者としての
# 未熟ぶりの自覚がない小人物らしさ全開である。
https://kotobank.jp/word/統帥権干犯問題-580692
1930年(昭和5)ロンドン海軍軍縮条約の政府回訓決定の是非をめぐっておこった憲法論争。
明治憲法は、国務と統帥の一元化を究極的には天皇によって実現すべきことを規定していたが、
天皇自身は立憲君主の分限を厳守し権力の統合者になろうとはしなかったため、国務機関
(政府)と統帥機関(軍部)の権限をめぐる争いは熾烈(しれつ)を極めた。
# 「天皇が立憲君主の分限を厳守」することを前提にすれば、立憲君主国イギリス、ベルギー、
# オランダ、スウェーデン...などの憲法を参考にすべきでした。プロシア憲法を参考にする
# 事は岩倉具視の上奏に基づくようです。岩倉具視は「元勲」の中でも有害さでは山縣有朋と
# 双璧かも。プロシア(プロイセン)憲法は、君主が実際の権力者として政治の最終責任を負う
# 事が前提の構成です。よって、私見では当時の憲法制定の際にプロシア憲法を参考にした事は
# 大間違いで、敗戦に至る無責任政治を決定付けたと考えます。
# 明治の「元勲」連中は、そもそも政治における「責任」という観念自体を持っていなかった
# でしょう。テロと陰謀ばかりで国政、藩政において責任ある地位を経験したことがなく、
# 識見に乏しい人物ばかりでしたので。

5. 「元勲」公家代表:岩倉具視^

1882年 - 参議・伊藤博文ら憲法調査班の一行がドイツ・オーストリアへ向け出発。
# 思想/志操が低い連中が、近代憲法の本質や成立の背景とは無縁の上っ面を「調査」。
https://motomiyatakahiro.hatenablog.com/entry/2018/02/05/165447
天皇を通じて国会開設を約束した政府は、憲法作成に乗り出します。その際、政府の最大の目的は、
「天皇の権限を利用して、人民を支配すること」です。
# 「支配のための支配」/「自己目的化した支配」で、何の理想もない。近代憲法は、何らかの
# 「建国の理想/理念」の提示から始めないと ... 「天皇の統治」とやらは「水戸似非学」、
# 「国似非学」に由来する幻想の実体化に過ぎず、近代国家の理想/理念には成り得ない。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1065733995
伊藤博文がドイツに行く前から既にドイツ流の憲法を作ろうという路線はできていました。
1881年6月~7月にかけて、法律と政治を司る法政官僚の井上毅が、ドイツ人の法律顧問
ロエスレルに意見を聞いて、憲法に関する綱領をまとめ、岩倉具視に示しました。
# ここから「陰謀の岩倉具視」^^; の面目躍如。
当時、大隈重信がイギリス流の二大政党政治を主張していましたが、伊藤博文や岩倉具視は
イギリス流は急進的過ぎると考えており、岩倉は憲法について大隈と対立している伊藤博文を
味方にし、明治14年(1881年)の政変で大隈を政界から追い出します。
# 「急進的」とは、「無軌道、無責任、手前勝手な寡頭政治の継続には都合が悪い」の意。^^;
https://kotobank.jp/word/伊藤博文-15413

1883年
前右大臣・岩倉具視の葬儀を初の国葬として実施。
# 「明治維新」というアナクロ思想によるクーデターにおける最大の陰謀家であるが、
# 幕府が西欧諸国の脅威におびえるあまり、不用意に朝廷に権威を認めるような動きを
# とらなければ、朝廷が政治的権威を復活させることはなかったはず。
# 政治の現場から長く離れていてため、現実に即した政治を考える能力などなかった時代遅れの
# 集団が政治に介入したことが、幕末の数多の政治的混乱の根本原因。、
# 朝廷自体には現実の政治など見えていないので、長州などのテロリスト集団のコマとしてのみ
# 機能した。「尊王攘夷」なる非現実的スローガンでの役割が、その典型例。テロリスト連中と
# 最もうまくなれあったのが、岩倉具視。
# 狐である自分が「威」を借りる「虎」の立場が形式上強い方が自分に有利であるという程度の
# つまらない打算こそ、プロシア憲法を骨格にした憲法を推進した動機だろう。
# 憲法の何たるかなど理解していたはずはないので、複数の既存憲法の概要を見て、実際の
# 政治における意義の違いを比較対照しての理解など、期待する方が間違い。^^;そう言えば、
# 前体制を内戦の末に転覆したばかりで*混乱の火種が無数にあることが明白な状況のなか、
# 新政権の主要メンバー大半が外遊するという世界の政治史上稀に見る大愚行*の「団長」を
# 務めた。↑政治的には、あまりに不合理過ぎる。∴↓私的な「洋行願望」を満しただけでは?

https://ja.wikipedia.org/wiki/岩倉使節団

「明治4年11月12日(1871年12月23日)から明治6年(1873年)9月13日まで、日本からアメリカ
合衆国、ヨーロッパ諸国に派遣された使節団。岩倉具視をリーダーとし、政府首脳陣や留学生を
含む総勢107名。
# なんと、1年10か月もの間、国内政治体制の整備や外交の立て直しなどの緊急課題を放り出し、
# 政府首脳の過半が海外旅行!開いた口が塞がらない。
https://bushoojapan.com/jphistory/baku/2021/01/03/116682
岩倉使節団って実はトホホでお粗末……だから明治政府は分裂した?
・いくら何でも期間が長すぎた(国政停滞)
・やるはずがなかった条約改正のようなことに手を出し、アメリカからその手続きのために
 一時帰国する羽目に陥る
・銀行詐欺に騙され、大金をだまし取られる
・西南戦争はじめ、政権を揺るがす事件に繋がった側面を持つ
・「西洋を真似したらいいってもんじゃねえだろ」派が反発
・同行していた女子留学生、結局、政府からフォローされず、後に詰みそうになる
# 多額の*公金*を騙し取られる最低の「おのぼりさん」。「恥の輸出」の草分け。
# こういう連中が、明治の「元勲」。昨今の海外視察不祥事と比較し、害があまりに巨大。
# 小栗上野介を含む幕末の海外使節は、西欧人には見慣れない髷を結った和装であったが、
# 現地の報道では「一目置かれている」様子が伺える。
# 一方、岩倉本人を含む岩倉使節団の洋装には、西欧人からの侮りを防ぐ効果などなかった。
# よく、「岩倉使節団」の「意義」として「留学生などが海外の知識を得る機会になった」とかの
# 寝言が平然と語られるが、留学生だけ送れば得られる効果を、「政府首脳の過半が内政、外交
# ともに不安定な時期に外遊する」という愚行の「効果」に挙げるのは、非論理的。首脳自身の
# 海外経験は、(小栗上野介の海外経験とは異なり)その後、役にたった形跡はない。
# そもそも、「海外経験」が、「政府首脳の過半が1年10か月も不在」になることの政治的損失を
# 埋め合わせられるはずもない。

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