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淨泉亭閑日録

平戸淨泉の雑記帳です。不定期更新します。

A12 ジヴェルニーの食卓

2016-05-14 08:52:54 | 美術史メモ

原田マハさんという作家が、印象派とモネに関する短編小説集を出している。直木賞の候補にもなった作品らしい。モネの話もだんだん種がつきてきたので、今回はちと横道にそれて、この本の特集。赤字以外の文章は、すべて「原田マハ『ジヴェルニーの食卓』集英社文庫 2015年」からです。

第1話 うつくしい墓 (Interview avec Maria Magnolia)

マグノリアのある静物
マグノリアのある静物 1941年
ヴァンスのロザリオ礼拝堂

マティス(1869-1954年)の家政婦マリアの回想である。

こんなにもたくさんの花瓶の中からひとつだけ、マグノリアの花に見合うものを選び取ってみよ、と申し付けた芸術家の気まぐれが、突然、私の心の内側をくすぐりました。
私は、息を詰めて目を凝らしました。
ふと、いちばん奥にある花瓶に私の視線がひきつけられました。翡翠色の花瓶。
すがすがしい薄緑。上部はふっくらと胸を張るはとにも似て、下はすっきりと貴婦人の腰のごとくしまっている。模様はなく、マグノリアの大きな白い花とつやのある葉を活ければ、均整のとれた華やかな帽子のようににえるはず。
「これを」と、私は、ほとんど迷いなく申し出ました。 

ロザリオ礼拝堂のステンドグラス

そう。それは、ここ。ヴァンスのロザリオ礼拝堂です。目もくらむような西日の射す中、私はこの場所へとたどりつきました。小さな礼拝堂の扉を開けたとき、真っ白い無垢な光に全身を包まれたことを、いまでもはっきりと覚えています。なんと表現したらいいのでしょう。それはまさしく天上の光。やわらかく祝福に満ちた光でした。真っ白な光の中を、私は、祭壇に向って歩んでいきました。そして、ヴァロリスからずっと胸に抱いていた一輪のマグノリアの花を、祭壇の上に、そっと置きました。静かに、目を閉じます。涙がこぼれ落ちました。ただ、まぶしかったのです。先生がお創りになったなった、何もかもが。そのときでした。私が、修道女になろう、と決心したのは。

第2話 エトワール (L'étoile)

14歳の小さな踊り子 1881年
エトワール 1878年
Mary Cassatt - Portrait of the Artist - MMA 1975.319.1.jpg
メアリー・カサット自画像 1878年

ドガのモデルとなった踊り子マリーと女性画家メアリー・カサットのすれ違い。

吐き捨てるようにマリーが言った。「どんなポーズをとればいいんですか。教えて下さい」 メアリーは少女の目をみた。燃えるように冷徹な目だった。射すような視線にかすかに軽蔑が混じっているのを、メアリーは感じ取った。「違うのよ」彼女は急いでいった。「私はあなたのヌードを描こうなんて思っていないわ。少し、お話をしたかっただけよ」「なんの話ですか」なおも硬い口調で、マリーが返した。「話をするだけで、お金をくれるんですか」

少女の像は、第6回印象派展に出品され、人々を驚嘆させた。保守的な批評家には「気色の悪い、醜い人体標本」と気って捨てられた。とんでもない悪趣味。年端もいかない少女を「自分のもの」にしたいと願った、芸術家のエゴ以外の何ものでもない。エドガー・ドガよ、恥を知るがいい―。ガラスケースの中でポーズをとる踊り子は、万人の視線を一身に受けて、ひっそりと立ち尽くしていた。結局、踊り子の像は売れぬまま、ドガのアトリエの奥深く姿を消した。「エトワール」になることなく、マリーがオペラ座を去ったのは、その数ヶ月後のことだった。

第3話 タンギー爺さん (Le Père Tanguy)

Van Gogh - Portrait of Pere Tanguy 1887-8.JPG
タンギー爺さん 1887年夏
タンギー爺さん 1887/88年冬

パリで画材屋兼画商を営んでいたタンギー爺さんの娘が、ポール・セザンヌに宛てた手紙の形式である。セザンヌが登場する場面はないが、「セザンヌの息子」を目指す画家達(ゴッホゴーギャンベルナールら)が登場する。

父はポン=タヴェンの画家達の作品がことさらお気に入りで、ゴーギャンやベルナールが絵の具を求めにくれば、無条件で提供したものです。そうこうするうちに、ゴッホの描く絵に夢中になり始めました。色がいい、構図がいい、タッチがいいと、ゴッホが作品を持ってくるたびに手放しで褒めます。ゴッホのほうでも、若い画家達がいつも集まっているタンギー親父の店がすっかり気に入ったようでしたが、あるとき、何を思ったか、父に『親父さんの肖像画を描かせてくれ』と言い出したのです。父は、大変驚いて、『そりゃありがたいけど・・・・・・わしにはそれを買い取る金がないよ』と答えたそうです。それでゴッホに笑われたと。画家のほうは、溜まりにたまった絵の具代の代わりに、肖像画を描いて帳消しにしようと思ったというわけで。
それで、去年のある日、レストラン・タンブランの一角を借りて、テオが買い集めたとかいう浮世絵を壁いちめんに貼って、その前に父を座らせ、ゴッホは豪快に筆を揮いました。
なんというか、強烈な絵です。太い線、ごつごつした筆触、顔にも体にも木版画のような荒々しい筆の跡が残り、一度見たら忘れられないような絵です。それでいて父の温和な性格が、静かに微笑んだ表情ににじみ出ていて、こら、ヴァンサン、お前、ほっぺたに絵の具がついとるぞ・・・・・・とでも語りかけそうな、父親じみたやさしさがあふれる絵に仕上がりました。
『タンギー爺さん』と名づけられたこの絵を、父はたいそう気に入って、これもポールが帰ってきたら見せるんだと、店の居間に飾っております。」

第4話 ジヴェルニーの食卓 (À table à Giverny)

晩年のクロード・モネは、睡蓮装飾画の完成に苦しむ。画家の世話をする後妻アリスの連れ娘ブランシュ。少女の頃の彼女は、モンジュロンでもヴェトゥイユでもモネの助手役を夢中で努めていた。

モンジュロンの庭の片隅 1876年

「ブランシュは、父がいたずら心で勧めたのを真に受けて、結局、夏のあいだじゅう画家の助手を務めた。といっても、たいしたことをするわけではない。戸外で制作するのを常としていたモネに付き従って、手押し車に絵の具箱やイーゼルを載せて出かけていく。ここと決めた場所にパラソルを開き、太陽の動きに合わせて少しずつパラソルをずらす、川辺に行って筆をあらう水を小ささなバケツに汲んでくる。実に些細な―けれども重要なこととモネは言ってくれた-手伝いだった」
「・・・すごい。すごいわ。ああ、ほら、あんな風に。先生の絵筆がちょっと動いただけで・・・・・・吹き渡る風が、見えるみたい。ブランシュは、夢中になった。息をするのも忘れそうになりながら、画家の所作のひとつひとつをけんめいに追いかけていた。あるとき、いつものようにカンヴァスに向っていたモネが、とうとう笑い出した。突然笑い出したので、ブランシュは心臓がとまりそうなほどびっくりしてしまった。『ああ、なんだか背中が熱いよ、ブランシュ。そんなに見つめられたら、私の背中が火を噴きそうだ」ブランシュはきょとんとしたが、すぐに一緒に笑い出した。自分でもおかしかった。ほんとうに、こんなにひとつのことに没頭したのは初めてだったから。」

ヴェトゥイユの雪解け 1881年

「『ブランシュ。絵の具を取ってくれ。鉛白と、クロムの黄、ヴァーミリオン、漆赤』 モネの声が響いた。はっとして、胸にしっかりと抱きしめていた絵の具箱のふたをあわてて開ける。氷点下の冷たさに絵の具が固まってしまわないよう、けんめいに温めていたのだ。が、指先がかじかんで思うように絵の具のチューブを取り出せない。「かしてごらん」と、もう一度やさしい声がした。かさかさになったモネの指先が、パレットの上に次々に鮮やかな色絵の具を絞り出す。それを掬い取った絵筆の先が、カンヴァスの上を縦横無尽にすばやく駆け巡る。ブランシュは、凍えそうな寒さも痛いほどの空腹も忘れて、雪原を舞い飛ぶうつくしい渡り鳥を追いかけるように、その動きを追った。ノルマンディーの東、セーヌ川右岸の田舎町、ヴェトゥイユ、その冬はとりわけきびしい寒さに見舞われ、降り続く雪が一切を白一色の中に埋めてしまった。セーヌ川は完全に氷結し、夏のあいだは永遠のように感じられた滔々とした流れは、静寂の中にひっそりと閉じこめられた。」
「そしてついに、モネの絵筆が動き始めた。以前よりも軽やかに、鮮やかに、流れるように。画家の目の前では、凍ったセーヌ川が、ゆっくりと変容し始めていた。永遠の流れを氷結させていた川は、突然、かすかな春の兆しに解氷を始めたのだ。その一瞬を逃すまいと、モネは描いた。おそるべき速さと、正確さと、感動をこめて・・・・・・『もっと、もっとだ。もっとたくさんのカンヴァスが必要だ。全部、写し取らなければ』」

モネの睡蓮装飾画を描かせて国に寄贈させ、オランジュリー美術館の専用ルームに展示をもくろんだのは、元首相のクレマンソーであった。しかしモネは、すでに白内障を病み、絵を描き続ける気力を失いつつあった。

青い台所
モネの家 青い台所

クレマンソーは無言でグラスを受け取ると、くいっと勢いよくあおってから、モネに向って訪ねた。「この作品は国に寄贈されたのち、パリ市内のビロン邸―おととしロダン美術館になったあの邸の庭に特設する建物の円形の部屋に展示してはどうか、と先月、こちらから提案したね?ところが、君はそれを拒絶した。どうしても楕円形の部屋にしてほしい、と。あのアイデアは変わっていないのかい」
「無論変わっていない」モネはぶっきらぼうに返した。
「楕円形の部屋での展示、という君の案は受け入れよう。ただしロダン美術館の庭ではない、別の場所だ。候補としては、チュイルリー宮の中にある既存の建物―球技場か、オレンジの温室(オランジュリー)の建物を考えている。」 

黄色いダイニングルーム
モネの家 黄色いダイニングルーム

食前のプラム酒を味わいながら、部屋の中をおもむろに見回して、クレマンソーが言った。
「以前から、一度訊きたいと思っていたんだが・・・どうしてこのダイニングルームはここまで黄色でなくちゃならんのかね?」
庭を満たす光の明るさを部屋の中にも持ち込みたいと願ったモネは、それぞれの部屋を花々の色彩で飾った。台所はあじさいの青、ダイニングルームはミモザの黄色で。壁には額に入った浮世絵がずらりと並び、床も壁も天井も、暖炉も食器棚も椅子までも、すべてがあざやかな黄色に染められていた。
「このくらい明るくなければ意味がなかったんだろうな。70年近くも、太陽の光にさらされ続けた目には」クレマンソーが、ぽつりはとつぶやいた。その顔に、微笑はなかった。「白内障なのか?」
クレマンソーの質問に、ブランシュは黙っていたが、「はい」とひと言、答えた。

Giverny1.jpg
ジヴェルニーのモネの家

「手紙がきているね。クレマンソーから」
庭に向かい合ったままで、モネがポツンと言った。
「ええ、そのとおり。いま、持ってきますわ」ブランシェは部屋へと足早に行き、銀の盆の上に置いたままだった水色の封書を手に、またモネの背後へと戻ってきた。
「余計なお世話だ」と、やはり庭に向かい合ったまま、モネがつぶやいた。「まだ何も読んでいませんのに?」
    ・・・・・・・・・・・・
    ・・・・・・・・・・・・
手紙を読み上げて、しばらくのあいだ、モネは押し黙っていた。背中に羽織ったウールのマントが、そよ風のかたちにかすかに揺れる。
「・・・余計なお世話だ」ぼそりとつぶやく声が聞こえた。その声には、かすかな希望の響があった。そよ風にすらかき消されそうなそのひと言を、ブランシェは確かに聞きとめた。

オランジュリー美術館の楕円の部屋
オランジュリー美術館の楕円の部屋

 


A11 サン・ラザール駅

2016-02-28 08:40:06 | 美術史メモ
Fig. 1 サン・ラザール駅

モネの後半生には、積みわら、睡蓮など連作が多い。これらは、1つのモチーフで何枚も描いてどんどん売ろうという動機があると思われる。当然ながら絵がたくさん売れるようになった後半生に多いわけである。

そのはしりといえるのが、『サン・ラザール駅』(1877年、最初の妻カミーユの死の2年前)である。ただし、この時期のモネはまだ売れっ子ではない。何が彼を連作に駆り立てたのか不明だが、連作のうち7枚をその年の印象派展に出品している[1]。この第3回印象派展は4月だから、実際の制作開始は前年だったとも推察される。

Fig. 2 サン・ラザール駅
(ノルマンディの気車)
Fig. 3 サン・ラザール駅
(列車の到着)
Fig.4 現在のサン・ラザール駅
(モネ時代と同じ屋根)
Fig. 5 サン・ラザール駅
(信号)
Fig. 6 サン・ラザール駅
(鉄道線路)
Fig. 7 マネ 『鉄道』

この連作の制作について、ルノアールは次のような回想を残している。「モネは一番上等の服を着て、袖の先をしかるべく引っ張り、金の握りのついたステッキをぞんざいに振り回しながら、サン・ラザール駅西鉄道路線の駅長に名刺を手渡した。駅長は緊張して、すぐにモネを招き入れた。地位の高いこの駅長は『私が画家のクロード・モネです』と簡潔に自己紹介をした訪問者に座るように勧めた。絵についての知識が全くなかった駅長は、それを白状する勇気を持っていなかった。モネは、そんな彼に十分に気をもませた上で、『あなたの駅を描くことに決めました。北駅にするか、こちらの駅にするか、ずいぶん迷いましたが、こちらのほうが特色があると信じています』といった。そしてモネは望んでいたことをすべて達成した。駅長は汽車を停車させ、ホームを遮断し、モネが望んでいたとうりに蒸気をもうもうと吐き出させるため、機関車に石炭を一杯詰め込んでくれた。こうしてモネは専制的に駅を占拠し、深い感動の元で一日中描いた。そして最終的には、そこから6枚の絵を仕上げた[2]。」

この文章からは、どうもルノアールも同行しているようだが、彼にはこの駅をテーマとした絵はないようだ。 それにしても、当時のフランスでは、画家は尊敬されていたのだと思う。モネや印象派の若年の貧困生活は苦しかったが、画家の社会的地位は高かったのだ。成功した名のある画家を装って、モネは駅長さんをだましたのだ。実際のモネは貧乏画家だったが、こんなチャンスに恵まれ「できるだけ何枚も描いてしまえ、どうせ印象派展もあるし」と思ったのだろう。

英語版Wikipedia には、モネがその年に6枚どころか11枚の絵を仕上げたとある[1]。実際、日本のモネ・ファンのサイト「モネlog」には、同じ1877年の作品として11枚の絵が載っている。

Fig. 1~3 については、「技術的建造物の直線的構造を追及し、それを煙、蒸気、差し込む太陽の光によって再生し、空間的な効果を出している。」という評価がある。この評者ハインリヒは、『直線の交わり=平面』に、『色彩の効果によって空間=立体』をもたらすのが、この種のモネの絵の特徴だと指摘している[2]。構造物への言及は他の批評にもある。「モネは列車というテーマだけでなく、駅の屋根の金属製の骨組みにも関心を示している。駅のガラス製の屋根は、進行中の列車を軸として左右対称の構図を構成している[3]。」ちなみに、サン・ラザール駅のガラスの屋根は今日でも残っている (Fig. 4)。

Fig. 5 のモネの絵はビックリするような構図である。「青とピンク、白の絵の具で蒸気の渦巻きが描かれており、それは角ばった線路や建物と対照を成している。平らな円板上の信号機は画面のど真ん中で厚塗りされ、その強い効果で絵全体が抽象画のように見える[1]。」 同じく信号機を描いた fig. 6 の線路の切替ポイントのグネっとした描き方も面白い。

なぜモネはサン・ラザール駅を描いたのだろうか?「当時を代表するこの建物は、まさにその時代の精神や気分の象徴だったのである。ゾラの小説『獣人』やプルーストの『失われた時を求めて』にも登場するこの駅は、ロンドンの水晶宮(クリスタル・パレル )に代表されるガラスと鉄の建築、そして工業化されていく社会の象徴であった[3]。」 なぜ?に関する直接の回答は無理だが、鉄道によってパリから郊外に出掛けやすくなったことが、戸外制作の印象派の興隆につながった。モネはサン・ラザール駅を何度も利用し、絵心を搔きたてられたのだろう。

印象派時代にはサン・ラザール駅のすぐそばに多くの画家が住んだらしい。その一人がマネであり、彼は『鉄道』(Fig. 7) を1874年のサロンに出品している[1]

これには鉄柵の前で、子犬を膝に抱え本を拡げながらこちらを見つめる女性と、汽車を見ている後ろ向きの少女が描かれている。このようなスナップ写真のような図柄の絵は、後年の印象派の特徴なのだが、当時は評判が悪かった。”it was caricatured and the subject of ridicule[1]." 『草上の昼食』といいこの絵といい、印象派に先駆けたマネは避難とあざけりを受けた。しかし、印象派画家たちと親しくつき合い支援する一方で、彼自身は印象派とは一線を画し続けた。

マネのこの絵の右端に(よく見ないと分からないが)、ヨーロッパ橋(サン・ラザール駅の操車場に架かる橋)が見えている。モネやカイユボットは、この橋も描いているが、このあたりの薀蓄は参考文献[1]と[4]、[5]、その他のサイトにお任せする。

[1] 英語版Wikipedia 『Gare Saint-Lazare』 2016年2月26日閲覧 
[2] クリストフ・ハインリヒ 『モネ』 TASCHEN 2006年 pp.39-40
[3] シルヴィ・バタン著 高階秀爾監修 渡辺隆司・村上伸子訳 『モネ-印象派の誕生』 創元社 1997年 pp.64
[4] 世界の美術館紀行 『カイユボットが描いた「ヨーロッパ橋」へ』 2016年2月28日閲覧
[5] Caillebotte.net ブログ 『行ってきました(4) ヨーロッパ橋』  2016年2月28日閲覧
[6] モネlog 『「サン・ラザール駅の連作」最初の連作Ⅰ』 2016年2月26日閲覧


A10 日傘をさす女

2015-07-17 21:27:10 | 美術史メモ

モネの最初の妻カミーユは、「草上の昼食」「庭の女たち」でモデルを努めた。結婚後もモネはカミーユをモデルにした作品を描いている。代表的なのは「散歩、日傘を差す女」であるが、このほかにもたくさんカミーユ、そして息子ジャンの絵を描いている。

日傘を差す女(モネ夫人)1875 ナショナル・ギャラリー(ワシントン)

「散歩、日傘を差す女」が制作されたときは、父の遺産とデュラン=リュエルのまとめ買いのおかげで、モネ一家の生活も小康状態で、モネの人生の中で最良の時期と言われている。心地良い風と日差しの下、幸せな家族が草原を散歩する途上、モネが妻と子を暖かい眼差しで眺めやる光景が目に浮かぶ。
「心地良い風や足元に咲く黄色い花々、そして流れる雲も一瞬の静止を感じさせることはない、何か温かい印象を感じさせる。モネは写真でも撮るように見上げた角度でその様子を見事に描写している。(・・・)改めて見るとカミーユの表情がとても微妙に感じられる。柔らかいヴェールが顔を隠す形になっているためか、彼女が不思議と悲しげに見える。カミーユはこの幸せが長く続かないことを予期していたのではないか。そして、それをモネは知らずのうちに感じとっていたのではないか。私はこう思えてならない」[1] カミーユという女性はこの絵に限らず、どの絵で見てもちょっと眼のあたりが暗いような印象だ。

幸せな時期は束の間、モネとカミーユの生活は、デュラン=リュエルの経営危機とエルンスト・オシュデの破産でまたも危機に陥ってしまう。しかも、1878年からは、大家族のオシュデ一家との共同生活が始まる(オシュデの妻アリス夫人が子どもまで連れて、モネの住まいに転がり込んできたのだ)。そんな中で、カミーユは次男ミッシェルを出産してから体調をくずし、2人の子供を残して32才という若さでなくなった。

死の床のカミーユ 1879年 オルセー美術館(パリ)
 
ヴェトゥイユのモネの庭(1880年)ミッシェル・モネとジャン=ピエール・オシュデが描かれている

モネは花束を胸に死の床に横たわったカミーユを絵に描いた。
「夜明けに私にとって最愛の人だった妻のベッドの頭部にいたときだ。(・・・)ふと、私の目が死者の顔に現れた色彩の微妙な変化の様を追っていることに気づいた。青、黄、灰色の色調。(・・・)知らず知らずのうちに、その色彩が私に有機的な感動を呼び起こし、私は自分の意思に反して、反射的に私の日常を支配していた無意識の行為を行っていたのだ。あたかも石臼を回し続けるあの動物のように。私を悲しんでください」[2]
カミーユが亡くなったあと、モネは、残りのアリス夫人と6人の子供、自分の2人の子供を養うことになった。モネは合計10人の大家族の父親役になった。アリス夫人と自然に結ばれることになり、エルネスト・オシュデの死(1981年)の翌年に正式に結婚した。

この間の事情について、モネの醜聞が取りざたされている。1876年にモネがモンジュロンの別荘の装飾画を描いていた時期(つまりカミーユの生前)に、モネとオシュデ夫人は関係ができていた。オシュデ夫妻の子とされるジャン=ピエール・オシュデ(男)は、同じ年に生まれたカミーユの子ミッシェル・モネと異母兄弟であったということである。[3]

 1886年、モネは、再婚相手アリスの娘シュザンヌをモデルにして戸外での習作「日傘をさす女」を描いた。カミーユ「散歩、日傘をさす女」から既に11年がたっていた。
シュザンヌをモデルにしながらも、亡き最愛の人、カミーユを思い描いたのだと言われる。この世には存在しない人だからこそ、風景と同化し、目鼻立ちも表情もはっきりとしない顔であり、しかし優しげな雰囲気を漂わせている。これは亡き妻カミーユを想う画家の心情が表れたものだとも解釈されている。モネは女性の顔をはっきりとは描いていない。モデルの右胸の下にある、カミーユへの思いを表すかのような「ひなげし」のコサージュが印象的である。

日傘の女(左向き) 1886年 オルセー美術館(パリ)
 
日傘の女(右向き) 1886年 オルセー美術館(パリ)

これはモネが戸外で描いた最後の肖像画になった。以降、モネは自身の作品に人物を描く事をやめ、積みわらや睡蓮などの連作に没頭して行った。「日傘をさす女」はモネにとってカミーユとの再会であり、永遠の決別だったであろう。


[1] 作曲家八木澤教の公式ホームページ吹奏楽曲「散歩、日傘をさす女性」http://www.sounds-eightree.com/windmusic2.php?eid=00056
[2] 「はじめて読む芸術家ものがたり⑤ クロード・モネ」 アン・ウォルドロン著 潮江宏三監訳 同朋舎 出版 1993
[3] Terry W. Strieter (1999). Nineteenth-century European Art: A Topical Dictionary. Greenwood Publishing Group. pp. 103–104. ISBN 978-0-313-29898-1.


A09 モネの支援者たち

2015-01-01 12:01:52 | 美術史メモ

モネのような平民出身の画家は、成功するまでは貧困から逃れられない。(この事情は、現在の日本でも変わらない。)そして、貧困な画家は、いわゆるパトロン(支援者)の援助を受けて大成するケースが多かった。(この事情は、現在の日本ではどうなのだろう?)

それでは、貧困時代のモネの支援者たちは、いったいどんな人たちだったのだろうか?

(1)マリー=ジャンヌ・ルカードル(~1870)

fig. 1 「サン・タドレスのテラス」 1867年

モネは、パリのラフィェット通りで生まれたが、父親の商売の雑貨店がうまくいかず、一家で父の姉であるルカードル夫人(マリー=ジャンヌ・ルカードル)を頼ってル・アーブルに引っ越した。ルカードル夫人は自身もアマチュアの画家で、モネの才能にすぐに注目した。彼女は自分のアトリエをモネに使わせ、知り合いの画家にもモネを紹介した。また、モネがアルジェリアに徴兵されたときには、美術学校に通って勉強するという条件つきで、残りの徴兵期間をお金で買い取った。

「サン・タドレスのテラス」(fig. 1)はこの伯母の別荘で描いた絵で、手前の日傘で後ろ向きの女性がルカードル夫人といわれている。その右の紳士はモネの父親といわれている。

(2)フレデリック・バジール(1841-1870)

fig. 2 「自画像」バジール 1867-1868年
fig. 3 「庭の女たち」 1866–1867年
fig. 4 「バジールのアトリエ、ラ・コンダミンヌ通り」 バジール 1870年


 パリに出てきたモネは、後の印象派メンバーのルノアール、ピサロ、シスレーたちとともに、フレデリック・バジール(fig. 2)とも親交を深めまた。バジールは28才で普仏戦争で戦死したため、残された作品はそう多くない画家である。ただし、実家が裕福だったのでパリでは自分のアトリエを持ち、そこをモネたち友人に利用させていた。カミーユとの結婚や第一子ジャン誕生の前後に、モネはたびたびバジールに金を借りている。バジールはモネの才能を信じきっていたらしく、「庭の女たち」(fig. 3)を購入し代金を分割払いにするなどしてモネを援助している。

この作品(fig. 4)は、自分のアトリエをバジール自身が描いたものである。左階段上が小説家エミール・ゾラ。階段下で腰掛けているのはルノワール。中央に立つ背の一番高い男がバジール(これは本人でなくマネが加筆したとのこと)。彼の左、山高帽がマネ、その左がシスレー又はモネ。(この2人の人物の特定については異説がある。)ピアノを弾いているのが音楽家のメートル。壁には、描きかけの絵や、ルノワール、モネの絵が掛かっている。

(3)ゴーディベール夫妻(生没年不詳)

fig. 5「ゴーディベール夫人の肖像」 1866年
fig. 6 「緑衣の女」 1866年

ル・アーブルの裕福な船主ルイ=ジョアキム・ゴーディベールとその夫人。ジャンが生まれて貧窮状態のモネに、ルイ=ジョアキムの肖像画2枚、夫人の肖像画1枚を注文して援助した。
「ゴーディベール夫人の肖像」(fig. 5)は、モネが伝統的なスタイルの肖像画をたやすく描けることを証明していますが、夫人が顔をそむけている構図はモネならではかも知れない。こんな横顔だけで彼女のエレガントな美貌がうかがわれるのが不思議である。また衣装の絹の質感は、「緑衣の女」(fig. 6)と共通している。


(4)オシュデ夫妻

fig. 8「モンジェロンの庭の片隅」 1866年
fig. 7「エルネスト・オシュデとその娘マーサ」 マネ 1876年

エルンスト・オシュデ(1837~1891)とアリス・オシュデ(1844~1911)の夫妻は、遺産としてお金とパリ郊外モンジュロンの城、百貨店を受け継いで、贅沢三昧の生活をしていた大富豪であった。「エルンスト・オシュデと娘のマーサ・オシュデ」(fig. 7)。1876年のこと、オシュデはモネに城に来て絵を描かないかと言った。モネには絵具や絵筆を買うお金もなかったため、オシュデは必要なものが買えるように代金の一部を前払いしてくれた。モネは何回か城に出かけて絵を描いた(fig. 8)。
しかし、わずか2年後の1878年にオシュデは破産してしまった。彼はベルギーに夜逃げしてしまい、残された妻のアリス・オシュデと6人の子供が、モネを頼って転がり込んでくることになった。

(5)ポール・デュラン=リュエル(1831-1922)

fig. 9「ポール・デュラン=リュエルの肖像」 ルノアール 1910年

パリの画商で、普仏戦争中のロンドンでフランスから避難してきていたモネ、ピサロに出会う。それをきっかけに印象派絵画を扱い始めた。ロンドン、パリはもちろん、とくにアメリカで新たな市場開拓に成功し、印象派の有力な支援者(画商)となった。マネ、モネ、ベルト・モリゾ、ピサロ、ルノワール、シスレー、メアリー・カサットなど、多くの画家の絵を購入、アメリカでどんどん販売した。経済発展を遂げたアメリカは印象派絵画の巨大市場になったのである。
デュラン=リュエルは、アメリカ人の印象派に対する好意的な受け止め方について、『アメリカ人の大衆は笑ったりしない。買ってくれるのだ!』という言葉を残した。

 

 


A08 草上の昼食

2014-11-12 09:13:15 | 美術史メモ
fig. 1 ルエルの眺め 1858年 埼玉県立美術館

パリで生まれル・アーブルで少年時代を過ごしたモネは、先輩画家ウジェーヌ・ブータンの影響を受けて、風景画を描くようになった。最初の油絵である「ルエルの眺め」(fig. 1)は青空と日射し、伸びやかな樹木、それらを水面に映した小川、釣り人を描いていて、気持ちのよい作品である。

モネは画家を目指してパリに出てくると、すぐにルノアールやピサロ、シスレー、バジールなどのちの印象派を構成する画家達と友人になった。この当時の彼らにとっては、芸術アカデミーが主催する「サロン(官展)」が登竜門であり、みんながサロンの公募展に応募している。
幸いにも1865年に、モネの「オンフルールのセーヌ河口」(fig. 2)、「干潮のエーヴ岬」(fig. 3)の2点がサロンに入選した。絵も売れてそれなりの金は入ったが、小さい絵なので数千点が展示されるサロンでは目立たなかったので、モネの知名度は上がらなかった。

 
fig. 2 オンフルールのセーヌ河口 1865年
fig. 3 干潮のエーヴ岬 1863年
fig. 4 エドワール・ジョゼフ・ダンタン作 1880年のサロン風景

サロンでは床から天井まで最高5段に分けて展示されたので、良い位置でないと見てもらえない(fig.4)。
また風景画なのでそもそもの評価が低いことも、モネには不満であった。当時は、歴史画や肖像画に比べて風景画はどうでもいいと軽んじられていた。

この1865年のサロンには、もう1人の画家マネの「オランピア」(fig. 6)が入選していた。名前のよく似ていたマネとモネの絵は隣り合って展示され、彼らはこれをきっかけに知り合い、親交を深めたといわれる[1]

fig. 5 マネ作 オランピア 1863年
fig. 6 マネ作 草上の昼食(水浴)

しかし実は、マネは2年前の1863年に応募し落選した作品ですでに「有名人」であった。たぶんモネもその時点でマネを意識していた。マネの作品「水浴」(fig.5 のちに「草上の昼食」と改題)が、神話の女神ではなく現実の全裸の女性が、着服した男性とともに描かれていることが、「不道徳」であると激しく批判されたのである。サロンは、画家が世に認められるチャンスを与える場所を提供し、いわば国立のパトロン役をはたしていたが、一方ではあくまで保守的であった。 


この1863年には5000点の応募のうち入選したのは2217点だけです。サロンの落選者があまりに多かったので批判がうずまき、それをかわすためか居直るためかはハッキリしないが、ナポレオン三世は落選の絵だけを集めて展覧会を開いた。こちらのほうが本来のサロンよりも観客を集めたので、マネのこの絵はますます話題になった。「大胆な主題の選択ときらびやかな技法とがモネとその友人たちを興奮させたのだ。際立った色の対比、絵筆の跡を滑らかに仕上げていないこと、暗色で下書きをしていないこと、色彩を使って影を描く技法などについて、モネたちは語り合った[2]
1965年にサロンに応募した「オランピア」でも、マネは全裸の売春婦がベッドに横たわる姿を描いたために同じような批判を受けたが、かろうじて入選を果たしたのである。

かねてからマネの「水浴」に感心していたモネは、1866のサロンを目標に、この「水浴」と同じ意匠の、しかも自分なりの作品を描こうと決心した。肖像画でしかも大きな画にすれば、展示でも天井や片隅に追いやりようがないので目立つはずだし、女性も裸でなく着衣にすれば、マネの絵が悪い意味での話題を呼んだだけに入選の可能性も高いし、入選すれば自分の名声につながるのではと考えたのである。「モネは真の『力技』でマネを超えようと試みた。すなわちモネは『昼食』を、白樺の森の中にワイン、詰め物をしたチキン、そしてトルテを持って食事に集まった12人の等身大の人物像を4.2M x 6.5Mという途方もなく大きなカンヴァスに描くことを計画したのである[3]」(fig. 8-9) この絵の女性モデルは後にモネの妻になるカミーユ、男性モデルはバジール、シスレーさらには先輩のクールベなどの画家仲間が努めた。当時はモネも他の画家達も貧しくモデルを雇う金がなくて、お互いに助け合ったらしい。

マネもこのモネの試みを不快に思った様子はなく、後年には自分の「水浴」の絵のほうを「草上の昼食」と改題している。

fig. 8 モネの『草上の昼食】(残存中央部分) 1865–1866年
fig. 9 モネの『草上の昼食】(習作) 1865–1866年
fig. 7 緑衣の女 1866年
 
fig. 10 フレデリック・バジールバジールのアトリエ、ラ・コンダミンヌ通り』 1870年 左から右へ座っているのがルノワール、階段に立つエミール・ゾラ、マネとモネ(帽子着用)、中央の背の高い人物がバジール、ピアノに向かっているのは音楽家のメートル。バジールの像はマネが描いたとされる。ただし、バジールとメートル以外は人物同定に異説がある。

しかしあまりに大きかったので、モネは1866年のサロンの直前になって完成は無理と判断し、急遽4日間で別の肖像画「緑衣の女」(fig. 7)を完成させた。この絵は、「モネの恋人カミーユ・ドンシューをモデルにしたもので、ベラスケス風の人物画であり、当時の審査員の好みに合うものであった。[4]」 緑のスカートの絹にちがいない質感がすばらしく、作家のエミール・ゾラはそれを絶賛している。しかし、野心家のモネにとっては、ずいぶん不本意な結果だったかもしれない。

注:モネや印象派の話には、よくこのエミール・ゾラが登場する。彼は印象派の画家達とはこのころから親しかった。「バジールのアトリエ」の絵がその証拠である。当然のことながら「草上の昼食(水浴)」についても、マネを弁護している。モネや印象派への彼のほめ言葉は、仲間内の評価であり割り引いて聞く必要がある。

「自分の『昼食』でマネを凌駕したいと思ったモネは、『緑衣の女』で喝采を博した。モネはこの成功に励まされて、引き続き人物画を描こうとする。しかも、大きな肖像画を描くというプランを放棄することはかった[3]

翌年のサロンのためにモネは「庭の女たち」を描き始めた。このときの「庭の女たち」も2.5M x 2.0Mの大作だが、モネはこれをアトリエでなく戸外で仕上げることにこだわった。このような大きな絵は戸外では水彩で下絵だけを描いておいて、アトリエで大きなキャンバス上に仕上げるのが常識であった。実際にモネは「草上の昼食」をそうやって描いている。したがって「庭の女たち」のモネは、戸外制作に異様な執着をみせたことになる。

「庭の女たち」は大きすぎて絵筆が届かないので、公園の花壇に溝を掘ってそこにキャンバスの下部を落とし込んで描いた。「ある日クールベがモネに会いに立ち寄り、どうして仕事をしていないのかと尋ねたことがある。モネは日が照っていないからだと答えた。『背景ならいつでも描けるのでは』とクールベが言うと、それに答えてモネは、背景であっても日の光のもとで描かなければならないと言うのだった[2]」 モネは戸外で写生することによって、絵の上に光を描くことにこだわった。そのために、室内での肖像画である「緑衣の女」では、モネは完全燃焼できなかったのであろう。

この「庭の女たち」は、1867年のサロンに落選した。また、この絵は現在でも評価は高くない。
「はじめは誹謗中傷されても後に認められるようになった少し後の絵とは異なり、この絵は後世の人々の目にも完全に成功したとは言えないものだった。人物像が自然の中に溶け込んでおらず、ショーウィンドウのマネキン人形が庭に置かれているようである。モネはこの女性たちが庭に集まる理由となる状況を表現しておらず、また個々の人物それぞれに生命を与える心理に関心をもっていない[2]

fig. 11 庭の女たち 1866–1867年

しかし、この批評は次のように続く。「それでもなお、この絵にはどこか人を魅了するものがある。それは彼の時代に先例のなかったもの、つまり画家が大きなタオルを広げたように道に投げ入れた日の光であり、白い花の輝きであり、前の女性の衣装を大胆に寸断している影である。そしてまた、前方の女性の顔に見える絹のような艶のある輝きである。これは傘で濾過された太陽の光が明るい衣装で反射して、女性の顔を照らしているのだ。この絵には命がある。だが人物像の命ではなく、影の命、光による命である。(・・・)つまり、モネは自分のテーマをつかんだのだ。それは光である。[2]

なぜかモネの「草上の昼食」(fig. 8)は、翌年のサロンにも出品されることもなく、未完のままになってしまった。モデルまで努めたクールベがこの絵を批判したせい[5]とも言われているが、ハッキリしない。「モネはこの絵を巻き上げて12年間、手元に置いていたが、78年アルジャントゥイユの家の家賃未払いのため、この絵を家主に取られてしまった。そして6年後、ようやくモネの手元に戻った時には、湿気で絵画の一部は相当の損傷をきたしていた。しかたなくモネは、損傷した部分を破棄し、残ったのがオルセー美術館に所蔵されれいる、中央部分(248×217cm)と左側断片(418×150cm)である[1]
2014年に東京の国立新美術館でオルセー展が開かれ、2つの残存部分が公開されている。

この後のモネは、しだいにサロンから遠ざかり、1874年に友人たちとグループ展(兼、絵画の即売会)を開催する。これは、のちに第一回印象派展と呼ばれるようになった。「印象派」の誕生である。

【参考文献】
[1] 「モネの庭」 http://marieantoinette.himegimi.jp/monet.htm
[2] 「はじめて読む芸術家ものがたり⑤ クロード・モネ」 アン・ウォルドロン著 潮江宏三監訳 同朋舎 出版 1993
[3] 「クロード・モネ」 クリストフ・ハインリヒ ABC Enterprise Inc.訳 TACHEN GmbH 2006
[4] Wikipedia日本語版 クロード・モネ
[5] モネ-印象派の誕生 シルヴィ・パタン著 渡辺隆二・村上信子訳 高階秀爾監修 創元社 1997


A07 印象派絵画とは?

2014-10-10 07:41:17 | 美術史メモ

モネに代表される印象派絵画について、その特徴をまとめてみる。

 (1) 印象派、とりわけモネは光を描く

サン・タドレスのテラス, 1867, メトロポリタン美術館(ニューヨーク)
庭の女たち, 1866–1867, オルセー美術館(パリ)

どちらかと言えば、あまり評価の高くないモネの絵2点を取り上げてみよう。「サン・タドレスのテラス」は芝居の書割みたいな感じの絵であり、彼の絵に特徴的な太い筆跡もあまり目立たないといっていいだろう。輪郭も比較的ハッキリし、私の印象としてはマネの絵に近い。だがここに描かれた日光はすばらしい。テラスの半分を、燦燦と日光が照らしている。女性の日傘から紳士の腰掛けている椅子とその隣の空き椅子まで、西日に近い強い日差しが当っている。これに気がつけば、この絵に参ってしまう。テラスでも花壇でも、人物でも海でも三色旗でもなく、モネはこの日光を描いたのだと感心してしまうのだ。

「庭の女たち」は情景としては不自然だが、素晴らしいのは日光と木陰のコントラスト。座ったの女性の顔への照り返し。日傘を通過した光が衣装の右袖あたりから照り返している。光だけでなく、その動きと変化を絵画で表現するのが印象派である。

(2) 筆触または色彩分割

 印象派では「ストローク」が、絵画の基本構成要素だ。「ストローク」とは絵筆(ブラシ)でグイッとやった1掻きのことである。タッチ(日本語では筆触[ひっしょく])というと筆と画面の接触感覚になってしまうが、ストロークは絵画面の要素としての大きさがある。もちろん、ときにはグイッでなくてスイーッとやったストロークもある。ただし、絵の具をボタポタとばら撒くとストロークとは言いにくい(1掻きもしていない)。なんともうまい表現が見つからない。最近では(もともとはタッチの意味であった)「筆触」とか、すこしひねって「筆触単位」という日本語で、絵画を構成するこのような基本単位をさすようになってきたようである。とりあえずここでは「ストローク」と呼ぶ。

印象派の絵はストロークがそのまま見える。印象派以後は筆跡の見える絵はアタリマエとなったし、モノの輪郭をグィーンと1ストロークで描いてしまう画家さんもいる。

 
カバネル『ヴィーナスの誕生』1863
オルセー美術館(パリ)
 
アングル『グランド・オダリスク』1814
ルーヴル美術館(パリ)

印象派以前は、ストロークを大威張りで残す画家は下手だという評価を受けたらしい。人でも物でも、ストロークを残さず滑らかに描き上げ、輪郭線をはっきりさせた絵画が素晴らしいと信じられていた。このような絵の代表例として、アカデミーの院長を務め押しも押されぬ巨匠であったドミニク・アングルの「グランド・オダリスク」、印象派を大量落選させたときのアカデミー審査員の1人であったアレクサンドル・カバネルの「ヴィーナスの誕生」がある。どちらも見事な女性裸体画である。

確かに滑らかな立体感で女性の裸が美しく描かれているのだが、(ランプせよ日光にせよ)現実の光が、このように都合よく裸体に当たるとは考えられない。つまり、画家の頭の中でつくりだした光と影で描いているのだ。印象派はこのような画法にNOを突きつけたのだ。たとえば、マネの「オランピア」の裸体は、立体感のある陰影を意図的に切り捨てている。

ストロークは、印象派絵画では基本単位である。印象派の画家達は, 線ではなく幅広のストロークで表現する新しい絵画技法を確立した。各ストロークは原色に近く、それもかなり違う色を次々と並べていく。ストロークによる点描技術である。(スーラの点描画は、これをさらに徹底させたものだ。)いろいろなストロークは、いろいろな光の単位として描きこまれる。モノ自体に固有の色はない。モノの色は光が当たって反射してできるという自然科学的にも正しい認識に到達しているのである。鮮やかな色を並置することで,目の網膜上で加法混色を起こし、彩度の低下を避けながら実質的に混色する。加法混色の効果だけではなく、目の錯覚による同時対比の効果も、絵画に文字通り色を添えた。これが筆触分割または色彩分割と呼ばれる技法である。

ラ・グルヌイエール 1869, メトロポリタン美術館(ニューヨーク)太いストロークと強い色による戸外での作品

 その他、黒はそのまま使わない、絵の具が乾くのを待たずに次の絵の具を塗る(ウェット・オン・ウエット) 、絵の具の薄膜(グレーズ)を上塗りしない、陰影には青を使う、白もしくは明るい色の下地の上に描いていく、なども印象派の技法 的な特徴として挙げられる。これらも、光を描くための工夫である。

 

 (3) 戸外 (en plein air) での制作。

 
パラソルの女(左向き), 1886. オルセー美術館 戸外の人物習作
 
ルノアール  アルジャントゥィユの庭で制作するモネ

それまでの画家たちが主にアトリエの中で絵を描いていたのとは対照的に、印象派は好んで屋外に出かけて絵を描いた。とくにモネはそうだった。「庭の女たち」を描いたときは、公園の地面に溝を掘ってそこに2.5Mx2Mのキャンバスの下部を埋め込んで描いていたので、通り掛かったギュスターヴ・クールベに冷やかされたらしい。(当時は、というかたぶん今でも、このような大きな絵は戸外では小さな下絵を描いておいて、アトリエで大きなキャンバス上に仕上げるのが常識だった。)

またあるときは、海辺での制作に夢中のあまり、キャンバスとともに流されて遭難しかかったこともある。

戸外での制作が可能になった背景には、チューブ入り絵の具が発明されて持ち運び可能になったことと、鉄道が敷設されてパリから郊外へキャンバス、イーゼル、絵の具箱などを抱えて出かけられるようになったことがある。 


A06 モネの青年時代(4)印象派の誕生

2014-09-04 20:09:39 | 美術史メモ

このページ、以下はすべて、英語版Wikipedia - Impressionism より訳出。

Napoleon III, 1868

19世紀の中ごろは、皇帝ナポレオン三世がパリを改造する一方で、戦争に突き進むなど変化の多い時代であった。

しかしアートの世界は旧態依然として、美術アカデミー (Académie des Beaux-Arts) が支配していた。アカデミーは伝統的なフランス絵画のスタンダードを継承していた。 歴史的な題材や宗教的なテーマ、肖像画が価値あるものとされ、風景画や静物画は軽んじられた。アカデミーは、慎重に仕上げられていて間近で見てもリアルな絵画を好んだ。 このような絵画は、アーティストの手描きの筆跡が見えないように、正確で微妙に描かれていた。 色彩は抑えられ、金のワニスを施すことで、さらにトーンダウンされた。 これに対して、印象派が使った化学絵の具の色彩は、もっと明るく鮮やかであった。

アカデミーには、その審査員が作品を選ぶ展覧会であるサロン・ド・パリ (Salon de Paris) があった。ここに作品が展示されたアーティストには賞が与えられ、注文が集まり、名声が高まった。審査員の選考基準はアカデミーの価値判断を表わすが、それはジャン=レオン・ジェローム (Jean-Léon Gérôme) やアレクサンドル・カバネル (Alexandre Cabanel) の作品で代表されていた。

何人かの若いアーティストたちは、旧世代より軽い明るいやり方で絵を描いた。彼らは、グスタフ・クールベ (Gustave Courbet) の写実主義やバルビゾン派 (Barbizon school) よりもさらに先駆的であり、歴史的または神話的な場景よりも、風景やその当時の生活を描くことに興味があった。チャールズ・グレール (Charles Gleyre) のもとで学んだ若い写実主義者のグループ、 クロード・モネ (Claude Monet) 、ピエール=オーギュスト・ルノワール (Pierre-Auguste Renoir) 、アルフレッド・シスレー (Alfred Sisley) 、フレデリック・バジール (Frédéric Bazille) は互いに友人となり、しばしば一緒に絵を描いた。彼らはカフェ・ゲルボア (Café Guerbois) にたむろした。そこでは感嘆の的である先輩のエドゥアール・マネが議論をリードした。すぐに カミーユ・ピサロ (Camille Pissarro) 、ポール・セザンヌ (Paul Cézanne) 、アルマン・ギヨマン (Armand Guillaumin) もこれに加わった。

 
Édouard Manet, The Luncheon on the Grass (Le déjeuner sur l'herbe), 1863

1860年代を通じて、サロンの審査会はモネとその友達の作品の半分ぐらいを落選とした。従来の様式を順守するアーティストには、この判定は好評であった。 1863年にサロンの審査会は、マネの「草上の昼食」を落選とした。その主たる理由は、ピクニックで2人の着衣の男性とともにいる裸の女性を描いていたことである。サロンは歴史的寓話的な絵画ではヌードをいつも受け入れていたが、同時代の設定でリアルなヌードを描いたことでマネを非難した。審査会は厳しい言葉でマネの絵画を落選としたので、彼のファンは唖然となった。この年の異常に多い数の落選作品は、フランスのアーティストを動揺させた。

1863年の落選作品を見たナポレオン三世は、人々が自分で作品を判断できるようにすると宣言し、落選展 (Salon des Refusés) が組織された。 多くの観客はただ冷やかしに来たのだが、それでも新しい傾向のアートの存在に対する関心がまき起こり、落選展には通常のサロンよりも多くの観客が訪れた。

 
Alfred Sisley, View of the Saint-Martin Canal, Paris, 1870, Musée d'Orsay
 
Claude Monet, Impression, soleil levant (Impression, Sunrise), 1872, oil on canvas, Musée Marmottan Monet, Paris

再度の落選展を求めるアーティストたちの請願は、1867年、そして1872年にも拒否された。 1873年の後半に、モネ、ルノアール、ピサロ、シスレーはSociété Anonyme Coopérative des Artistes Peintres, Sculpteurs, Graveurs(画家、彫刻家、版画家の共同出資会社)を組織し、自分たちの作品の独自の展覧会を企画した。 この会社のメンバーには、すぐにセザンヌ、ベルト・モリゾ (Berthe Morisot)、 エドガー・ドガ (Edgar Degas) も加わり、サロンへの出展を拒否することになった。会社はその最初の展覧会に、他の進歩的アーティストもたくさん招き入れた。、その中には、年長のウジェーヌ・ブーダン (Eugène Boudin) もいた。数年前には彼の絵によって、屋外で書くことの素晴らしさをモネが学んだのである。マネや、モネたちに影響を与えた画家であるヨハン・ヨンキント (Johan Jongkind) は、出展を見合わせた。合計30人のアーティストが、1874年4月に写真家ナダール (Nadar) のスタジオで開かれた最初の展覧会に出展した。

批判的な反応がいろいろあった。なかでもモネとセザンヌは、いちばん激しい攻撃を受けた。批判者でユーモアに溢れたルイス・レロイ (Louis Leroy) は新聞 Le Charivari  に痛烈なレヴューを書いた。その中ではクロード・モネの「印象、日の出」 (Impression, Sunrise) とういうタイトルにかこつけて、アーティストたちを印象派と呼んだ。これが、このアーティストグループの呼び名になった。嘲笑の意味で The Exhibition of the Impressionists とタイトルをつけた記事で、レロイはモネの絵画はせいぜいスケッチであり、完成した作品とは言えないと断じた。

鑑賞者どうしの対話のかたちを借りて、レロイはこう書いている。

印象 ー 確かにそのとおりだ。私が印象を受けたからには、何らかの印象があるには違いない  ― この制作態度のなんと勝手気ままなことか? この海景画よりは、壁紙の模様の下絵のほうがよっぽど完成度は高い。

ところが、印象派という言葉は人々からは好感をもって迎えられた。アーティスト自身もこの言葉を受け入れた。スタイルや気性は反対のグループに属しても、独立と反抗の精神でまず合流したのである。彼らはメンバーはときどき入れ替わったが、1874年から1886年まで一緒に8回の展覧会を開いた。自由で気ままな筆使いの印象派のスタイルは、モダンライフの同義語になった。

モネとシスレー、モリゾ、ピサロは、一貫して自由気まま、日光、色彩のアートを追及し、「純粋」印象派と思われていた。ドガは、色彩よりも描画が優先と信じ、戸外での制作活動にはそれほど価値を見出さなかったので、これらを大部分否定した。ルノアールは1880代に一時的に印象派から離れ、その後は印象派の理想に完全に賛同することはなかった。 エドゥアール・マネは印象派内部では指導者と期待されていたが、色として黒を自由に使うということは止めず、印象派展に出展することはなかった。彼はサロンに出品し続け、彼の「スペインの歌手」は1861年には銀メダルを獲得。彼は「(世間の評価がそこで決まる)サロンこそが真の戦場だ」と説いた。

 
Camille Pissarro, Boulevard Montmartre, 1897, the Hermitage, Saint Petersburg

グループの中心であるアーティストには、(1870年に普仏戦争で亡くなったバジールを除いて)セザンヌ、さらにはルノアール、シスレー、モネのように、サロンに出展するために、グループ展に出展するのをやめる動きが出てきた。 グループ内部にも意見の不一致が生じた。例えばギヨーマンの会員資格について、ピサロとセザンヌはこれを擁護したが、モネとドガは彼には資格がないと反対した。 ドガは1879年の展覧会ににメアリー・カサット (Mary Cassatt) を招待したが、 同時に印象派の活動とは無縁なジャン=フランシス・ラファエリ (Jean-François Raffaëlli)、ルドビック・レピク (Ludovic Lepic)、その他の写実主義者も招きたいと主張した。 これに対してモネは印象派を「絵のうまい下手は抜きにして先着順でドアを開けている」と非難した。 グループは1886年に ポール・シニャック (Paul Signac)  とジョルジュ・スーラ (Georges Seurat) を招待する件で分裂した。全8回の印象派展すべて出展したのはピサロだけである。

個々のアーティストが印象派展で金銭的に報いられることはほとんどなかったが、作品は次第に人々に受容され支持されるようになった。これについては、作品を人々の眼に触れさせ、ロンドンやニューヨークでショウを開くなどをした仲買人のデュラン=ルエル (Durand-Ruel) が大きく貢献した。1899年にシスレーは貧困のうちに亡くなったが、ルノアールは1879年にサロンで大成功を収めている。モネは1880年代、ピサロは1990年代初期には、経済的に安定した生活を送れるようになった。この時までには、印象派の絵画技法は、だいぶ薄められたかたちではあったが、サロンでは当たり前になったのである。


A05 モネの青年時代(3)サロンに挑戦

2014-07-16 07:16:10 | 美術史メモ

モネはサロン(当時のフランスのもっとも権威ある展覧会)に挑戦しはじめたが、あまりうまくいかなかった。以下の青字は日本語版Wikipedia - クロード・モネ。

1865年、サロンに2点の作品を初出品し、2点とも入選した。(出品作は『オンフルールのセーヌ河口』(パサディナ、ノートン・サイモン財団)、『干潮のエーヴ岬』(フォートワース、キンベル美術館)の2点。

Claude Monet - Mouth of the Seine
オンフルールのセーヌ河口 1865
BGMつき


干潮のエーヴ岬 1865
BGMつき

翌1866年のサロンには、マネの著名な作品『草上の昼食』(1863年)と同じテーマの作品を出品することを予定していた。この『草上の昼食』は縦4.5m、横6mの超大作であったが、サロン出品の締切までに制作が追いつかなかった。(この『草上の昼食』のキャンバスは後に切断分割され、そのうちの2点がオルセー美術館に現存するのみである。) 

分割された2点は、2014年に日本のオルセー美術館展(国立新美術館)で公開されています。このページ右下の分割されていない絵は、水彩で描いた習作です。これを戸外で描いて、大キャンバスにはアトリエであらためて描いたわけです。ちなみにモネの絵のモデルですが、女性は後に妻になったカミーユ、男性はバジール、シスレー、さらには先輩画家のギュスターヴ・クールベも務めました。画家同士の友情出演ですね。

Édouard Manet - Le Déjeuner sur l'herbe
マネ 草上の昼食 1862-1863
モネ 草上の昼食
モネ 草上の昼食 1866

しかし、代わりに1866年のサロンに出品した『緑衣の女』と『シャイイへの道』は、2点とも入選を果たした。『緑衣の女』は、モネの恋人カミーユ・ドンシューをモデルにしたもので、ベラスケス風の人物画であり、当時の審査員の好みに合うものであった。

Claude Monet - Camille
緑衣の女
Monet Le Pave de Chailly Musee dOrsay
シャイイへの道

1868年のサロンでは出品した2点のうち1点が入選するも、1869年と1870年のサロンには落選し、以後しばらくサロンへの出品を取りやめる。

庭の女たち, 1866–1867, オルセー美術館(パリ)

 上記の記事では抜けているが、モネは1867年のサロンに「庭の女たち」というW2.0xH2.5の大作を応募したがあえなく落選している。これは大きな絵だが、モネのこだわりによって戸外で制作された。4人の女性が描かれているが、カミーユが1人4役でモデルを務めた。

以下の青字は日本語版Wikipedia - サロン・ド・パリ。

ますます保守的に、アカデミックになっていった審査員たちは、印象派の画家たちを受け入れず、そうした作品は拒否されるか、出展を許可されても扱いがひどかった。1863年、サロンの審査員はおびただしい数の作品を拒絶した。騒動が、とくに拒絶された常連たちから起こった。サロンが民主的なことを示すために、ナポレオン3世はその年に出展を拒否された全作品を展示する「落選展(Salon des Refusés)」を開いた。最初の開催は1863年5月17日で、その日がアヴァンギャルド誕生の日と言われている。印象派は自分たちで自主展覧会を1874年、1876年、1877年、1879年、1880年、1881年、1882年、1886年に開催した。エドゥアール・マネは印象派展に一度も出品したことはなく、公式のサロンへの出品を続けた。

 

【注目】サロンの展覧会とモネを中心とする印象派の出品に関しては、アメリカの美術系大学生John Stephen Hallam氏のページに詳しい。サロン・ド・パリの展覧会の年譜と、彼が制作したらしい毎年の展覧会のチラシがあり、そのチラシにはモネの入選・落選作の画像がある(全部ではない)のも貴重です。     Paris Salon Exhibitions: 1667-1880


A04 モネの青春時代(2)パリで友人を得る

2014-07-12 08:33:20 | 美術史メモ


モネは母親が死んだ後、1959年にパリに移った。アルジェリア駐留軍に徴兵された2年間(1961-1962)はブランクだったが、それ以外の日々はパリの画家仲間と交友を広げ、のちの印象派に連なる人脈を作った。

モネと交流した以下の5人の画家のうち、マネだけは印象派とは一線を画している。

 

 

こんな豪華なメンバーが揃うとは、さすがにパリは芸術の都です。このころのエピソード2つ。

  • モネがルーブルに行くためにパリに旅した特、画家たちが旧い巨匠たちの模写をしているのを目撃した。だが彼は絵の具などの道具を持って、模写などはせずに窓際にすわり、そこから見えるものを描き出した。(英語版wikipedia - Claude Monet)
    何のためにルーブルに道具持って出かけたんじゃ!とツッコみたくなる。モネのパフォーマンス?
     
  • モネとマネは、サロンにモネが出品した作品がマネの作品と取り違えられたのをきっかけに交際するようになった。当時マネは既に有名で、マネはモネが自分の真似をして"モネ"と名乗っていると思って怒ったが、モネが本名と知り誤解が解ける。このエピソードを元にNHKのクイズで「マネがマネするなとモネに怒ったのは、ホントかウソか」という問題が出されたことがある(ネットでの未確認情報)。

A03 モネの青春時代(1)ルエルの眺め

2014-07-10 17:36:06 | 美術史メモ

Claude Monet - Caricature of Léon Manchonモネは1851年4月1日、ル・アーブルの美術系のコレージュ(中学校)に入学した。この学校時代にモネは小遣い稼ぎに木炭による「戯画」を書いたとされるが、仏語版Wikipediaにはその1枚が載ってる。確かに"O. Monet"のサインがある、とても立派な作品です。どうも有名人を描いた風刺画のように見えるが、いまなら地元新聞社にでも売り込めると思えるが、当時はどんな人が買ったのだろう?

以下は、日本語版Wikipedia - クロード・モネの抜粋。

1857年にはコレージュを退学。この頃から地元の美術教師でジャック=ルイ・ダヴィッド (Jacques-Louis David) の弟子であったフランソワ=シャルル・オシャール (Jacques-François Ochard) に絵を学んでいる。1858年頃、モネの描いていた戯画が、ル・アーヴルで活動していた風景画家ウジェーヌ・ブーダン (Eugène Boudin) の目にとまり、彼らは知り合うことになる。ブーダンはキャンバスを戸外に持ち出し、陽光の下で海や空の風景を描いていた画家であった。ブーダンと出会ったことが、後の「光の画家」モネの生涯の方向を決定づけたと言われている。

英語版Wikipedia - Eugène Boudinからの訳出。

1857/58年ブーダンと若き18才のクロード・モネと友人になり、後年のモネの印象派絵画に見られるような、明るい色調と水面に反射する光の素晴らしさを理解させ、戯画をやめて風景画を描くように説得した。2人は生涯にわたる友人であり、この時期のブーダンの影響に対して、モネは後に謝意と賛辞を呈している。モネとその仲間が開いた1874年の第1回印象派展にブーダンも出品しているが、自分が急進的だとか革新的であるとは考えなかった。

モネの現存する最初の油絵は、1858年、モネが18才のときの『ルエルの眺め』である。なんと、現在この絵は日本にある。以下の緑色の部分は、所蔵している丸沼芸術の森コレクション(埼玉県)のホームページより抜粋。

Monet, Claude - View At Rouelles, Le Havre (1858)《ルエルの眺め》について
幼い頃から絵が得意だったモネは、近所で評判になるほど巧みな戯画を描いていましたが、風景画家のウジェーヌ・ブーダンに素質を見出され、画家としての道を示されます。出会って間もない2人は、共に戸外にカンヴァスを持ち出して絵を描くようになります。この作品は、当時モネが暮らしたル・アーブル近郊の小さな村を流れるルエル川の景色を描いたものです。その年、ル・アーブル市で開催された展覧会に、ブーダンの作品と共に本品は出品されました。モネが展覧会に参加した初の作品であり、その第一歩となるです。本作品は文化庁に登録美術品として登録され、より多くの皆様にご覧いただくため、埼玉県立近代美術館の常設展示にて公開しています。公開スケジュールはこちらをご覧ください。

BGMつきのルエルの眺め


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平戸淨泉のまったく私的なメモです。ボケ防止が主目的。自分では正確に書いたつもりですが、もちろん間違いはあると思いますのでうっかり信じる読者の方がいても、責任はとりません。また、写真・画像の著作権は極力尊重しますが、不行き届きなどがあればご連絡をお願いいたします。