羊の歌

見たこと。聞いたこと。考えたこと。
感じたこと。・・・思いのままの手記

羽田空港の国際化での思い出(1)

2010年11月01日 17時11分31秒 | 社会

 10月19日に羽田空港の新国際線ターミナルがオープンし、31日国際線の就航が本格的に再開された。1978年「新東京国際空港(成田空港)」の開港によって、一部の便を除いて、国際線の就航が成田に移転し、国内線だけの空港となっていたが、32年ぶりに、東京都心に近い、国内線への乗り継ぎも便利な空港として復活した。また、成田空港が、滑走路が少ないことや24時間の離着陸ができないことなどで、アジア地域での「ハブ空港」としての役割について、韓国の仁川空港などに遅れを取っていたが、羽田空港の機能強化によって、「ハブ空港」としての期待も高まっている。


 1978年「新東京国際空港」が開港した。私は、この時のことを一生忘れることができない。当時、成田空港の開港については、「成田闘争」「三里塚闘争」など、当時の大学闘争などと呼応した一連の闘いがあった。成田空港も、当初の開港日が、一部「新左翼」の管制塔襲撃事件によって、一か月遅れることとなった。この年、アメリカ・ニューヨークの国連本部で、「国連軍縮特別総会(
SSD)」が開催されることとなり、その総会に出席する各国の代表に向けて、世界で唯一の被爆国として、100万名の署名を全国各地から集め、500名を超える代表団を組織して、国連へ出掛けることとなった。ジャンボ機1機チャーターして、それだけでは間に合わなかったので、定期便にも分乗して送り込んだ。私は、その時の代表団の事務局の責任者を任されていた。それで私は、チャーター便に乗って、全国各地からの参加者と一緒に行くこととなっていた。


 ところが、管制塔襲撃事件によって、開港日が一カ月遅れとなり、運悪く、私たちのチャーター便の離陸が2番機となってしまった。(1番機は貨物便だった)私と一緒に行く予定だった、私が所属していた労働組合の責任者もそのチャーター便で行く予定だった。しかし、私も含めて、その責任者も、「成田闘争」の「1坪地主」でもあった。その時私は、いかにしても「1坪地主」として、成田空港の反対運動をしていた者が、開港日、しかも事実上の1番機に乗ってアメリカへ行くことはいかがなものか、と思ったのである。私は、責任者に、そのチャーター便に乗っていくのはやめようと提案したのである。(つづく)
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