お母さんとの想い出箱

OCNブログ人から引越ししました。
書きたいことはたくさんあるけど、時間がない…
でも、お母さんとの想い出は永遠

春はそこまでの頃の想い出

2017-03-24 02:42:47 | 日記



一昨日は釧路・帯広が春の雪に見舞われた

そして昨日は札幌も雪で時々吹雪の状態

私は朝方寝たので気付かなかったが

昼近くに起きたのに寒いな…と思った

カーテンを開けるとビックリ雪だから寒かったのだ

お母さんの戒名には春雪という言葉がはいっている

お母さんが亡くなった頃、季節は冬の終わりで暦の上では春とされ

道端に雪が残っていたから?

でも、それもはっきり覚えているわけではないし

毎日朦朧と生きているうち3月11日がやって来て

寝たきりのサスケを抱いて研修を放棄して無職だったシオと

寒さと恐怖に震えていたのは覚えている

そして私は今日高校野球を観ながら

もうかれこれ40年以上も前の春まだ浅い頃を思い出していた

私は高校受験でがむしゃらに勉強したわけではなかったけど

合格して春休みはなんだか手持無沙汰のような気の抜けた

『無所属感』を味わっていた

高校合格のご褒美に釧路のヤマハ楽器で

フォークギターを買ってもらった

当時私は自分のギターがかの有名な『モーリス』だと思っていたが、

実は『モラレス』と言うメーカーだと後から知った

フランク三浦のような?感じだったのか…

ギターは教本に則りコードはマスターした

FやGマイナーが抑えにくかったが

EやDのコードは楽だった

当時の私の手は小さかった

そこからわずかだったけど160cmまで背が伸びたから

手もそのあと大きくなった

高校へ入学した後

男女でも単なる友人だった下重君を家に呼んで

ギターを教えてもらったりもした

そしてそのギターを買った時

ヤマハ楽器から

なんと釧路市公民館で開催のNSP(New Sadistic Pink)のコンサートの招待券をもらった

ど真ん中の最前列、今でいう神席だった

たくさん持っていない中からおしゃれして

何となく雪の残っているような季節の中

当時幣舞橋を渡って出世坂を昇ったところにあった公民館へ行った

フォーク好きの中学の同級生たちに会ったような記憶もある

とにかく良席なので羨望の的だったようだ

当時の私はパパが厳しかったから

バレー部でさえスクールバス(17時頃学校を出発する)の時間内で許可されていたくらいで

ましてやフォークグループのコンサートだろうが何だろうが

遅くても19時くらいには帰宅しなくてはならず

開始が17時位だったから

1時間観られるかどうかというところだった

それでもいい、NSPを一目でも観られたら…

ところがそこでも雪に阻まれる

雪で飛行機が遅れて開始には間に合わないとアナウンス

当時行くはずの江南高校の先輩がやっているグループ(確かブラインド・レモンという名)などが

今でいうオープニングアクト(前座)を務めて時間繋ぎをしていた

私のリミットは近づき

ようやくギターのチューニングしながらステージに上がったNSPを

「眺めた」だけで、

歌い出した頃には席を立っていた

後ろ髪惹かれるを絵に描いたようなシーンだった

その頃はやっぱり雪が降っていたのだ、3月の終わり頃…

高校生でも中学生でもない期間

そして当時親戚が多かったのでお祝いを沢山もらった

勿論私への名目で我が家にいただいたもの

『お返し』を買いに幣舞橋の手前北大通り1丁目?2丁目?あたりにあった

マルカツ本店という瀬戸物屋さんへ

お母さんと行った

階段で降りる地下には瀬戸物が所狭しと並べてあり

一階は花瓶や置物などが多かった気がする

半分螺旋のような階段の壁を利用した飾りスペースにも

瀬戸物が展示されていた

そこで何を買ったか詳しく覚えていないが

私は自分にもらったお祝いのお返しを買うお母さんのに持ち運びだったのだ

当然のことだと理解もせず

「寒いのに連れ出されて嫌だ…」

「家で高校野球を観ていたい…」

なんて考えていたことも覚えている

そして、当時国鉄の線路(貨物用で和商市場から浜釧路駅方面へ延びていた)の所に鉄道官舎があり

そこに今頼りにさせてもらっている瀬野さんのお兄さん・お姉さん夫婦の家があった

そこへお返しをもって訪問するということを当時高校生でも中学生でもない私がやっていた

あの時も、短靴を履いていたけど道は埃っぽくたまに残った雪のあるところを避けて

寒さに凍えながらスプリングコートを着て歩いていた

たぶん『手分け』している感じで、

お母さんも違うところへお返しを配っていたのだと思う

お母さんも若くて元気

まして私なんて十代で気力体力有り余っている頃だった

でも、そんな寒い中出歩いて

家に帰って茶の間のルンペンストーブの前でコタッと寝ていた

それがとても気持ちよくて

親に守られている頃は安心して昼寝も出来たようだ

そして月日が流れて平成11年3月26日

すぐ戻って来られると思って釧路を後にした

子供たちサスケと一緒にお父さんの転勤についてゆく…

実家の門の前に停めていた車に乗って離れる時

お母さんも炒飯弁当を作ってくれて

私たちの手を握り

パパは男泣きしていた

あの場面私も涙で後ろを振り向くことが出来なかった

胸が潰れる思いだった

そしてそこからお母さんに恩返しも出来ずに

旅立たせてしまうことになるとは夢にも思っていなかった

あの頃も日陰には雪が残って

野の草は枯れた色のまま撫でたように横たわっていた

昔はやってくる未来も知らなかったけど春の雪の季節はどこか切ないと思っていた


最新の画像もっと見る