お母さんとの想い出箱

OCNブログ人から引越ししました。
書きたいことはたくさんあるけど、時間がない…
でも、お母さんとの想い出は永遠

夏の昼下がり

2012-08-26 23:08:20 | インポート

鉄道官舎に住んで居るころは

お母さんは毎日のように洗濯をして

朝、外の物干し竿に整然と干して

午後3時を目安に取り込むというスタイルで

布団も同様で

午前中の空気の湿気が抜ける頃の

ちょうど日が高くなる頃に干し始めて

やはり午後3時を目安に取り込むというスタイルで

布団のダニを座敷箒で掃き落とすようにして

決して布団たたきでバンバン叩くようなことはしませんでした

綿がちぎれてしまったり

浮き出てきたダニを塗りこんでしまうことになるという情報を知っていて

その頃お母さんに聞いた説明をその当時の私は正しい事と理解して

現在もその時のお母さんの教えを守り

洗濯物を取り込む時間は多少遅くなることはあっても

布団はせっかく干したことが台無しになるような

時間と動作はしないようにしています

今ベランダのあちこちから布団をバンバン、パンパン叩く音が聞こえてくると

バカじゃないのか?! と薄ら笑いを浮かべてしまいます

とにかく若い頃のお母さんは

家族が清潔に快適に過ごすことに一生懸命で

誰も褒めてもくれない当たり前のことを

さらっと軽くこなしていましたが

私はちゃんとお母さんが私たちのために

一生懸命なことを感じていました

私は中学時代が終わる頃には

ある意味今でいうオタク風になっていて

中学3年の夏までは部活の練習で家から出る時間があったけど

高校時代はお家大好きで

昼寝も大好き

お母さんも大好き

オタクと違うのは自分の趣味で費やす時間が占めるのではなく

家族と過ごせる家が好きだったこと

中学3年の夏休みは終業式の前日に

体育の時間にくるぶしのところを骨折し

入院こそしなかったものの夏休みはギブスを付けて

ずっと家から出られず

高校2年の時は膝の靭帯を損傷し

これまた夏休み前でギブスの夏休みを過ごすことになり

夏休みは家にいるのが当たり前のようになり

そのうち家が大好き

お母さんや非番のパパと過ごす時間が

とても満ち足りた気分になり

まるで赤ん坊に戻ったようなやすらぎを感じていました

午前中は少し暑いと思いながら

窓の外に洗濯物がそよいでいるのを見ながら

建前上勉強机に向かう形で

その当時好きだった室生犀星や井上靖の本を読み

だんだんお腹が空いて来て

その頃の実家のお昼ごはんは麺類と決まっており

(それはパパが好きだったから)

パパが居ないときはスパゲティーになることもあったけど

それを食べて高校野球に夢中になる合間に

昼のメロドラマや徹子の部屋や遠山の金さん系のドラマを観て

『3時のあなた』が入る頃には眠くなり

お母さんが取り込んだ布団を積んだところに寄りかかって

お日様の匂いを嗅ぎながら眠ることが日課(?)で楽しみでした

でも大抵お母さんに見つかり

「お姉ちゃん、せっかく干したのに布団がつぶれるから嫌だね。」と叱られ

気が付くと布団から離されて

畳の上に横になっていて

私の上にはタオルケットが掛けられていて

そこからもお日様の匂いがして

本当に安らぎの時間とはこれなのだと感じていました

後日大人になってからその気分を詩に書きました

レースのカーテンがそよいでその窓辺に

ハンモックに入った赤ちゃんの私が眠り

傍らにはお母さんが微笑みながら子守唄を歌ってくれている

そんな光景が夢か現かわからない狭間に浮かんでいる

とても心地よいものでした

そしてフワフワ漂うように眠っていると

台所から晩御飯の匂いがして

窓の外はすっかり黄昏時にさしかかっていて

「そろそろ起きなさいよ。」とお母さんの声がするのです

あの頃の幸せ度と言ったら数字にできないものです

やがて来るお母さんとの別れも知らず

お母さんにすべて託して守られて

気分は生まれたての赤ちゃんでした

お母さんの愛はまさしくお日様の匂いでそよ風の心地よさに他なりません

実際肌身で感じていた頃も

そして過ぎた思い出に浸る今も

私がお婆さんになっても同じ気持ちに帰れる時間でしょう、きっと


電話台

2012-08-18 22:44:58 | インポート

今日ね真由美が

引き出しの壊れていた電話台を買い替えたらしいよ

「生きているうちに買ってあげたかった」って真由美が言ってた…

あれは何処で買ったんだっけ?

吉田家具店?

十条サービスセンターのライコー?

もう聞けないね…

パパに聞いても分らないかもしれないし

断捨離なんてとんでもないって言いそうなパパだから

聞けないなあ…

今何気なく買い替えたところで違和感なくしてるのに

取り立てて思い出させると

NGがかかるかもしれないものね(-_-;)

お母さんも断捨離は苦手だったね

物を大切にする世代だもの

無理のないところですよね

でも真由美が言ってた

底板が外れて開け閉めもままならなかった引き出しは

もう買い替えないと不便だし

体裁悪いし

私も遊びに行くたび買ってあげたいと思ってたの

でもパパの目に触れると咎められそうで

しかもお母さんとお別れするのが

こんなに早いとは夢にも思っていなかったから

そのうちに…と思ってた

「それはコツがあるの」って

引き出しが開かなかったり閉められない時に言ってたね

そのコツはどうだったの?

いつも黙って開けたり閉めたりしてくれてた

電話もFAX付きに買い替えて

何度か子供たちから『お手紙』を送信して

『お返事』もくれてたね

いつのまにかそれも壊れて

お母さんの人生のうちで電話器を買ったのは4回くらい?

黒電話、クリーム色の電話、緑色のプッシュホン

今の前の電話はFAXなしの新型電話

そして今の電話

私の家の電話番号がお気に入りの1番目に登録されてる…

お母さんとお別れする前の日

お母さんがくれた最後の電話もこの電話器からだった

受話器を持ってどんな気持ちで電話くれたの?

電話台を買った店も

最後の気持ち

もう聞けないね…


盆踊り

2012-08-11 19:26:57 | インポート

外を歩いていたら

盆踊りのお囃子が聞こえてきました

お母さんが盆踊り好きだったなと思いだし

涙が零れそうでした

子供たちが小さい頃

仮装盆踊り大会に出て

私が海賊の格好の陽の手を引いて

お母さんが天使の格好のシオを抱いて

盆踊りの輪の中で歩きましたね

結果私の子供たちは二人とも優勝、入賞でした

お母さん大喜びでした

普段は盆踊りはあまり好きではないパパも

孫達をシャッターに収めるために来てました

おやつや出店があるお楽しみ会の券も

真由美のとこのあーやんの分も買って用意してましたね

パパの転勤で地方に行ってた頃は盆踊りの習慣のないところだったから

お盆で親戚の家に行って帰る時

大楽毛の駅前の盆踊りを懐かしそうに眺めていましたね

北海盆唄とまりも音頭が流れている中列車に乗り

駅を離れてもしばらく聞こえてました

私が結婚してしばらくはお母さんの近くに住んで居たけど

2年目は車で30分くらいの所に住んで

私は事業団アパートの町内会の盆踊りの音楽が聞こえて

急にホームシックになり

お母さん…と呼んで胸が痛いくらい切なくなったんだよ

あの頃は会おうと思えばいつでも会えるところに

お母さんは私を待っていてくれる、そう知っていても

盆踊りの曲が夕暮れの夜空に流れて

寂しくて淋しくてたまらなかった

今日はそれ以上に悲しい気持ちになりました

社交的なお母さんの一面は盆踊りの想い出の中にあります

楽しげににこにこしながら盆踊りの輪の中にいるお母さん

私の大好きなお母さんの思い出です


オリンピック

2012-08-05 03:21:19 | インポート

お母さんがこの世にいた時に決まっていたロンドンオリンピックが

連日熱戦開催されてます

お母さんが産んでくれたこの命

一生の間にオリンピックに出たかったって思います

若かった頃漠然と「オリンピックに出たい!」って

真剣に思ってました

今なら馬術にその機会があるかな?

でも1、2度観光地のどさんこに乗ったことがあるくらいのくせに

それも叶わないね

オリンピックに対する気持ちを植え付けてくれたのは

間違いなくお母さんです

東京オリンピックも一緒に観た記憶がありますし

冬のオリンピックは

編み機で服を編んでいるお母さんの傍らで

スキーの回転競技やフィギュアスケートのテレビ放送を観ましたね

私がバレーボールを始めたのは

お母さんと「東洋の魔女」を観たことと

自分の意志で「サインはV」を観たのがきっかけかな

お母さんと家の前の路上でパスをしましたね

ボールを受けた腕が真っ赤になって

皮膚の弱いお母さんは後から痒くなってたね

ボールを受けて打つことを

「ボールをはく」って言ってたね

バドミントンもかなり小さい時から遊んでくれたね

ガットの所にコックが当たると「材木(ザイモク)」って言ってたね

うちのコックはビニールのじゃなく、

鳥の羽のシャトルコックだった

結婚する前のお母さんが職場の庭でラケット持って映ってる写真が残ってるよ

こんな日が来ることを知らず若くてきれいな顔で笑ってるの

その当時あんなにスポーツで遊んでくれる母親って珍しかった

スケートはお母さんが子供の頃は「下駄スケート」って言う

自分の外を歩く時の靴に金具でできた土台付きスケートをバンドで止めて

スピードスケート式に滑るものだったんだってね

よく私のスピードスケートを「貸してね」って言って

小学校のリンクに滑りに行ったね

手をまっすぐ指先まで伸ばして腰を曲げて

手を振りながらスイスイ滑ってたね

あの当時の世の母親の中では珍しかったと思う

子供と一緒に体を使って遊んでくれたね

小さい小学校で親が出る競技のある運動会では

張り切って走ってくれて

パパもお母さんも速かった、どのお父さん・お母さんよりも

私は安心して観てて誇らしかった

なのにあんなにきびきびキラキラ元気はつらつだった2人

お母さんは違うところへ逝ってしまい

パパは歩くことが思いのままにならないなんて

時の流れの無常観に胸が痛みます

今度生まれ変わったら

今度はオリンピックに出るような私になりたい

そしてもちろんお母さんを喜ばせてあげたいの

感動してもらいたいの

約束だよ、今度も私のお母さんになってね

オリンピックのある世の中に二人して生まれ変わろうね