ドラマが始まる前は、紫式部が主人公で清少納言も登場するなら、
清少納言は紫式部のライバルでヒールになるのだろうと思っていたので、
まひろとききょうが才女つながりで仲良くなっていることを驚きつつ見ていました。
どうやら、ここまでが二人の物語としては序章であったようです。
ききょうが見せた「枕草子」について、
まひろは、「生き生きとした書きぶりだが、定子の影の部分も知りたい」と評します。
人は光の部分と影の部分が複雑であるほど魅力的になる、それが見たい、と。
しかし、「華やかな姿だけを書き留めたい」とするききょうの意図は違いました。
定子は道長が殺したようなもの、道長は伊周・隆家を地方に流し、
定子を帝から引きはがし、帝の意に反し幼い娘を入内させた恐ろしい人と断罪し、
道長に一矢報いんと枕草子を宮中に広めようとするききょうを見ていると、
枕草子が定子の無念を訴えるための檄文にも見えてきます。
むろん、ききょうが語った道長像は、まひろが知っている道長とはずいぶん違います。
しかし、それは「光る君へ」以前の常識的な道長像ともいえます。
ききょうの道長評についムッとした私たちは、
半年かけてすっかり大石静に手なずけられています。
それに輪をかけるように、為時の除目では道長は結果を見るだけで関与していないとし、
無官となった為時に家庭教師の仕事をもちかけます。(いい人だ。)
それを断った為時は相変わらずですが、
宣孝が亡くなったことを生活の苦しさに結び付けてくるあたりの作劇が巧みです。
一方、道長も明子の家で倒れたことで、見ないふりをしていたことが見えてきます。
関わりたくなくても倫子は明子にお礼の品を送らねばなりません。
彰子に帝のお渡りがない(子どもだよ)ことがイライラの種なのはわかりますが、
道長のあの物言いは完全にダメなお父さんです。
また、ここへきて家柄の良すぎる明子の存在が重くなってきました。
いかに帝の所望とはいえ、詮子の四十の賀に倫子と明子が同席するばかりか、
それぞれの子が童舞を披露し、
あげく出来が良かった明子の子の舞の師だけが官位を与えられることとなりました。
かくして、妻としてならば我慢の出来たような関係が、
母としては抜き差しならぬ関係に置き換わっていく道長の治世です。
そして、たとえ高貴な人でも人の魅力を描くには「影の部分」も必要とするまひろは、
自ら「影の部分」を含んだ物語を書き始めたようです。
というわけで、今回の秀逸は、
史実か否かは別にして酒ネタなら当然のように役目が回ってくる宣孝の日本酒人生でも、
為時の評定においても損得抜きの公平無私を貫く実資の識見でも、
いとの恋人のはずなのに為時の帰還に明らかに腰が引けている福丸の間男感でも、
昔は乙丸とじゃれあっていた百舌彦が、
道長の正式な使者ゆえ為時より格上の席から口上を申し渡していることの隔世の感でも、
越前で時が止まったままの4年をすごし賢子の父親の名も知らぬ為時の
まひろの気持ちを思えばとの一人時間差的説明で流れていた香港映画っぼい音楽でも、
いつも必死な割に的はずれ感のある伊周のいまさらな道長への呪詛でもなく、
今や唯一話の出来る親族だからか弟への呪詛を代わりに受け止めたような詮子の、
敦康親王を彰子に養育させよ、伊周の官位を戻せと死ぬまで政治的だったのに、
円融帝の件以来の「薬は飲まない」を貫きとおした意地。
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