daiozen (大王膳)

強くあらねばなりませぬ… 護るためにはどうしても!

寒そうな冬…お体を大事になさってください!

2014年11月09日 | 気紛れ猫にゃん

   ↑

「記事タイトル」をクリックすればサイドバーが現れるようです。
いつまで見えるか…私のコンピュータ知識では分りません。!(^^)!


只今、故障中で書き込みできません。
故障はgooブログだけで、他のブログは大丈夫です。
数日中には他のブログへの書込み再開したいと思います。
ご心配おかけしてスミマセン (--〆)

gooブログへの書込みは今しばらく難しい状況です。







鋤くほどにくろぐろくろに蚯蚓鳴く

2014年11月05日 | 蚯蚓鳴く杜


ほどに : ‥したので
畔 : あぜ・くろ

固い土は未だまだ残っていて時間をかけて解(ほぐ)すしかないけれど‥



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巻頭の歌の意味③

2014年11月04日 | 萬世の歌
      


さて「巻頭の歌の意味②」に続けますね?
知勇兼備の雄略天皇を万葉集の巻頭に置いたことで「権威」が備わった。
権威を知らずに何も語れないから「権威の価値」を書きました。
すなわち、権威は民衆に崇め奉られる存在じゃない。
権威は「主役・民衆に尽すべき脇役」だと納得して戴けただろうか?

雄略天皇は悪逆非道な人物だったが心を入れ替えた、
仏説に暴悪な王・阿育(アソカ)が改心し立派に政治を執った結果・国が栄えたとあるけれど、両者の話は似ている。雄略天皇がどの程度改心したのか私には分らないが、民を邪鬼から護るためにはパワーが必要であり、阿育大王や雄略天皇の強さが生きたら社会は平和になるでしょう。

雄略天皇が民の真の護りになるまで私たちも見守る度量は必要でしょう。平成の雄略天皇・21世紀の阿育大王を育てるか、堅固な守護神の芽を摘みとるかですが、守護神の芽を摘むと言うことは民を邪悪から護る守護神を排除する愚行であり、それは邪悪を悦ばすだけなのです。ともあれ、万葉集の巻頭に雄略天皇は欠かせない根拠に納得していただきたいものです。




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♬.恵まれている

2014年11月02日 | 詩心



信じられる羽があり

信じられる今があり

信じられる枝もあり

お陰で羽は休まれて

羽を繕う気にもなり

やがて小鳥は舞上る


微風と戯れたい小枝

陽射しが恋しい小枝

小枝に留りたい小鳥

休んで歌いたい小鳥

疲れ微睡む小鳥まで

今日は小枝に戯れる


ゴールは旅の宿ゆえ

今日の旅に今日の宿

今生の旅に今生の宿

小鳥の旅の小枝かな

遠慮しなくていいよ

世界は小鳥の所有さ

*・゜゜・*:.。..。.:*・゜

空を舞う小鳥が真空スポットに嵌ったら、息も出来ず、真っ逆さま~★
それで信じられなくなって飛立たなければ、そこには闇。

日差しに恵まれている幸せを信じられる能力・・・自信。かな~☆

気もそぞろ

2014年11月02日 | 詩心



おっちょこちょいだと笑い
変だぞと言いつつ大笑い
笑う仕様の仕上りだねえ

どこが好いってワケでなく
どこが好きってふうでなく
デキはむら気の好い加減

せかせか歩いて空まわり
そぞろ歩いてみる上の空
そんな風に流れる空の雲

気紛れに見える女の人も
身勝手気ままな男の人も
似た者同士も 秋の高空

巻頭の歌の意味②

2014年11月02日 | 萬世の歌
        
    

万葉集を少し読んだところで「巻頭の歌」を考えておきたい。

雄略天皇の御製歌(おほみうた)

籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち この岳に 菜摘ます児 家告らせ 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居れ しきなべて われこそ座せ われこそば 告らめ 家をも名をも


この歌はいったい何を言いたいのか‥これはチョッカイともイチャモンともとれる呼びかけだろ? 現代も初めての女の子と出会ったら値踏みする男どもだろ? 女の子の持物で値踏みし・家柄で値踏みし・己との力関係を計り・女の子の気持ちを量り・組み敷く意図の元・どう出ようかと計って仕掛ける。

この歌では女の子の名前を尋ねているから雄略天皇のお気に召した女の子だった訳で、つまり求婚の意味を持つチョッカイを仕掛けたのです。結婚しようと申し出て、素直に承諾したらシメシメだけれど、時と場合によっては威したりイチャモン付けたりして己の女にしようとする。当時は通い婚だからセックスだけの夫婦も有り得る。

「センス良いね」とか、「それブランドのバッグじゃない!」とか‥持物を褒めたのは古代も現代も変らないってこと。恐いモノなしの雄略天皇だけど力で押えつける無粋はしなかった、けど己の力を抜け目なく示してみせる。「ここは私の土地なんだよ。勝手に入ったの? いやいやあなたなら構わないから、好きなだけ採っていきなさい」な風に言われたら女の子は・アナタもだけど恐縮したり恐がったりホッとしたりする。

強い強い後ろ盾ができたら弱い女の子でも安心できるでしょ? 美人のお姐さんを舐めて近づいたところが後ろから恐いお兄さんが出てくるだろ? 強い雄略天皇が後ろ盾になってくれてこの娘さんはもう恐いもの無しだ。だけどいくら強くても鬼や天狗や七尾狐じゃイヤだね。やさしさを併せ持つ雄略天皇であってこそあなたも好きってなる計算だ。

すなわち、知勇兼備の雄略天皇を万葉集の巻頭に置いたことで権威が備わった。


        



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猫じゃらし君はこころのつまだから

2014年11月01日 | 気紛れ猫にゃん
 


画像は牡猫やすお、同時に拾った三匹兄妹のうち一番印象に残っている。5才になる前に亡くなってそれから12年だが愛らしくも男らしい顔立ちは今も忘れられない。残った牝猫の一匹、お姉さんタイプは15才で死に、甘えたの弱虫は17才で元気だ。最近私は想うようになった‥順当に亡くなったって意味でだけど。やすおは毎日遊びに出かけて生涯を全うしたのだろうな。二匹目はダメ猫の相手をしてやってオツトメを済ませて死んで、弱虫も一匹になって漸く人間様に甘える術を覚えて落ち着いてきている。尻尾じゃらして遊ばせることももう出来る。それぞれがそれぞれの一生を終えて飼い主も心を落ち着かせていられる。やすおは私たち人間を引っ掻いたり噛んだりしなかったのはダントツに賢かったからだけど、猫同士だと悪さしては追っかけられて逃げるのが日課になっていた。ジッとしてられないのは性分だから長生きしてノンビリ過ごすなんてこと出来ない。画像は間違って室内に入ってきた蝿に狙いを定めているところだ。猫でもこんなに可愛いからね‥況して。




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紀の国の山越えて行け吾が背子が

2014年11月01日 | 萬世の歌



〔巻一・九〕

紀の国の山越えて行け吾が背子がい立たせりけむ厳橿がもと  額田王

(きのくにのやまこえてゆけわがせこがいたたせりけむいつかしがもと)

原文 : 莫囂円隣之 大相七兄爪謁気、吾瀬子之 射立為兼 五可新何本

原文は漢文にみえるが万葉仮名、文法的には現代の日本語とほぼ同じ。万葉仮名を遣ったために読み方は乱れてしまって元歌の読み方を再現するのは至難の業のようです。しかも、漢字は表意文字で幾とおりもの意味(読み)がある、そして表音文字として遣ったので余計に紛らわしい。表音文字に意味はなく読み方は一つでなければややこしい。平仮名が確立しだしたのは万葉集の300年後ぐらい。それゆえ万葉集の元歌の読み方に現代人が迷うのは当然と言えそうで、読み方が変ってしまえば歌の意味も変って当然と云えそうです。ともあれ現代に伝わる文書から元歌の意味や読みを想像していくしかない。

それにしても斎藤茂吉の知識は非凡であり、一つの文字の読みを確立するためにも幾つもの過去の文献を示すから信頼性は抜群に高いというか彼の読みを間違いと出来ないけれども、だからといって彼の示した文献を尊重した万葉集の詠み手であってこそ茂吉の推論どおりと言えるのであって、そんなことに意識が働かず全く別の観点から詠んだ歌ではないと完璧な証明ができなければ‥いやいや、詠み手には詠み手の詠み方があって好いのではなかろうかと‥私が言いたいのは只それだけのことなのですけれど。貶めるのは駄目だが、いたずらに美化するのでなく淡々と読んだらどうなのかな‥と私は言ってるだけです。

こう考えてきて想うのは、斎藤茂吉の試みのように歴史の検証みたいな万葉集の読み方があって好いと思うし、詩は詠み手を離れて一人歩きするのだから背景など考えずに詩としてだけを味わっても好いのでなかろうかとも思うことになる。斎藤茂吉は歴史に則って評価している節があるように想えてそれは過ちではないけれど、しかしそれなら歴史的検証を抜きにした歌に価値は観られないのだろうか?社会科・歴史の授業ではなく、和歌・詩として味わう目的を見失っては何かオカシイのではなかろうか‥と私は確たる根拠はないけれど不安な気分になってしまうのです。私は学者でないし、斎藤茂吉は学者であり詩人であるからその違い・溝はどうにも埋まらないかなあ。

有季定型歴史かな遣いの俳句を詠もうと試みてきた私の想いとして、古典を無視しては限界を越えられない俳句のように想えてならず、それにしても古典・古文といっても百年単位で検証するとどんどん変遷しているのに厭でも気づかされる訳で、時代に対応できない古典の言葉を遣った俳句にどんな意味があるかと考えあぐねてしまったりしているところ。今私が想っているのは「現代文語」を豊かに育てられないものか‥なんだけど、私的に夏目漱石は面白くない、森鴎外は面白いけど疲れる、寺田寅彦は読みやすく面白かった。思うに文語体は助詞や副詞の変化に頼るだけでなく、豊かなボキャブラリーが必要条件になるだろうなあ。いやいや、横道に逸れていってる。

(付け足しですけど‥麗しい心情を詠った歌)
【意】:神の森に私も今立っていて嘗てあなたがお話になった所だよ





紀きの国くにの山やま越こえて行ゆけ吾わが背子せこがい立たたせりけむ厳橿いつかしがもと 〔巻一・九〕 額田王
 紀の国の温泉に行幸(斉明)の時、額田王の詠んだ歌である。原文は、「莫囂円隣之、大相七兄爪謁気、吾瀬子之ワガセコガ、射立為兼イタタセリケム、五可新何本イツカシガモト」というので、上半の訓がむずかしいため、種々の訓があって一定しない。契沖が、「此歌ノ書ヤウ難儀ニテ心得ガタシ」と歎じたほどで、此儘では訓は殆ど不可能だと謂いっていい。そこで評釈する時に、一首として味うことが出来ないから回避するのであるが、私は、下半の、「吾が背子がい立たせりけむ厳橿いつかしが本もと」に執着があるので、この歌を選んで仮りに真淵の訓に従って置いた。下半の訓は契沖の訓(代匠記)であるが、古義では第四句を、「い立たしけむ」と六音に訓み、それに従う学者が多い。厳橿いつかしは厳おごそかな橿の樹で、神のいます橿の森をいったものであろう。その樹の下に嘗かつて私の恋しいお方が立っておいでになった、という追憶であろう。或は相手に送った歌なら、「あなたが嘗てお立ちなされたとうかがいましたその橿の樹の下に居ります」という意になるだろう。この句は厳かな気持を起させるもので、単に句として抽出するなら万葉集中第一流の句の一つと謂っていい。書紀垂仁巻に、天皇以二倭姫命一為二御杖一貢二奉於天照大神一是以倭姫命以二天照大神ヲ一鎮二坐磯城ノ厳橿之本一とあり、古事記雄略巻に、美母呂能ミモロノ、伊都加斯賀母登イツカシガモト、加斯賀母登カシガモト、由由斯伎加母ユユシキカモ、加志波良袁登売カシハラヲトメ、云々とある如く、神聖なる場面と関聯し、橿原かしはらの畝火うねびの山というように、橿の木がそのあたり一帯に茂っていたものと見て、そういうことを種々念中に持ってこの句を味うこととしていた。考頭注に、「このかしは神の坐所の斎木ゆきなれば」云々。古義に、「清浄なる橿といふ義なるべければ」云々の如くであるが、私は、大体を想像して味うにとどめている。
 さて、上の句の訓はいろいろあるが、皆あまりむずかしくて私の心に遠いので、差向き真淵訓に従った。真淵は、「円(圓)」を「国(國)」だとし、古兄※(「低のつくり」、第3水準1-86-47)湯気コエテユケだとした。考に云、「こはまづ神武天皇紀に依よるに、今の大和国を内つ国といひつ。さて其内つ国を、こゝに囂サヤギなき国と書たり。同紀に、雖辺土未清余妖尚梗而トツクニハナホサヤゲリトイヘドモ、中洲之地無風塵ウチツクニハヤスラケシてふと同意なるにて知しりぬ。かくてその隣とは、此度は紀伊国を差さす也。然れば莫囂国隣之の五字は、紀乃久爾乃キノクニノと訓よむべし。又右の紀に、辺土と中州を対むかへ云いひしに依ては、此五字を外トつ国のとも訓べし。然れども云々の隣と書しからは、遠き国は本よりいはず、近きをいふなる中に、一国をさゝでは此哥このうたにかなはず、次下に、三輪山の事を綜麻形と書なせし事など相似たるに依ても、猶なほ上の訓を取るべし」とあり、なお真淵は、「こは荷田大人かだのうしのひめ哥うた也。さて此哥の初句と、斉明天皇紀の童謡ワザウタとをば、はやき世よりよく訓ヨム人なければとて、彼童謡をば己に、此哥をばそのいろと荷田ノ信名のぶなノ宿禰すくねに伝へられき。其後多く年経て此訓をなして、山城の稲荷山の荷田の家に問とふに、全く古大人の訓に均ひとしといひおこせたり。然れば惜むべきを、ひめ隠しおかば、荷田大人の功も徒いたづらに成なりなんと、我友皆いへればしるしつ」という感慨を漏らしている。書紀垂仁天皇巻に、伊勢のことを、「傍国かたくにの可怜国うましくになり」と云った如くに、大和に隣った国だから、紀の国を考えたのであっただろうか。
 古義では、「三室みもろの大相土見乍湯家ヤマミツツユケ吾が背子がい立たしけむ厳橿が本もと」と訓み、奠器円レ隣メグラスでミモロと訓み、神祇を安置し奉る室の義とし、古事記の美母呂能伊都加斯賀母登ミモロノイツカシガモトを参考とした。そして真淵説を、「紀ノ国の山を超て何処イヅクに行とすべけむや、無用説イタヅラゴトといふべし」と評したが、併しかしこの古義の言は、「紀の山をこえていづくにゆくにや」と荒木田久老ひさおいが信濃漫録しなのまんろくで云ったその模倣である。真淵訓の「紀の国の山越えてゆけ」は、調子の弱いのは残念である。この訓は何処か弛たるんでいるから、調子の上からは古義の訓の方が緊張している。「吾が背子」は、或は大海人皇子おおあまのみこ(考・古義)で、京都に留まって居られたのかと解している。そして真淵訓に仮りに従うとすると、「紀の国の山を越えつつ行けば」の意となる。紀の国の山を越えて旅して行きますと、あなたが嘗てお立ちになったと聞いた神の森のところを、わたくしも丁度通過して、なつかしくおもうております、というぐらいの意になる。



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熟田津に船乗りせむと月待てば

2014年10月31日 | 萬世の歌


〔巻一・八〕
熟田津に船乗りせむと月待てば
潮もかなひぬ今は榜ぎ出でな

額田王

(にぎたづにふなのりせむとつきまてばしほもかなひぬいまはこぎいでな)


【意】伊豫の熟田津で、御船が進発しようと、月を待っていると(いよいよ月も明月となり)潮も満ちて船出するのに都合好くなった。さあ榜ぎ出そう、というのである。


月待てば : 月明りが頼りの夜の船出なら明月(名月)がイチバンです。 
潮もかなひぬ : 潮の流れに乗って出るのですね。
今は :潮流に乗るのはタイミング‥今こそその時ですね。
 : 終助詞、この場合は「‥しよう」となる。

このお歌に難しい言葉は含まれてなく、そのままで理解できます。
近畿から九州へは船で瀬戸内海を抜けるのが速かったが、そのために四国に度々寄ったようで、当時の人々に四国の港は今思うよりも身近な存在だったのかな。

船乗り : 「舟遊び」も考えたが池でなく海で舟遊びは大掛かり過ぎます。九州までの舟遊びはちょっと凄すぎ。
歴史を勘案して戦に出るときの歌だったと考えるのが自然に想えて、これは私も斎藤茂吉の説に相乗りするところ。

月待てば : 潮流が頼りの船出なら月はどの辺りが都合好いだろうか? 瀬戸内海は黒潮の影響は少ないらしいから無視して好いだろ? 月の出の刻なら、愛媛県の潮流は東の月に引張られるから九州と逆方向だ。それなら真上に来たときは満潮で潮流はほとんど無かろう? 月が真上から西に傾きだしたら潮流は九州へ向いていて都合が好い。じっさいは数時間の誤差は観なければならないだろうけども。
暦的にみれば、この歌を詠んだ日付けは大潮の満潮というから満月と潮流がピッタリ一致したらしい。すなわち、この歌は作られたものでなく正に実景を詠ったもので、願ったり叶ったりと評している。

結句の原文「許芸乞菜」を「コギコナ」と読んできたが江戸時代末の著「万葉集燈」で「コギイデナ」と読むことが定まったという。もちろん「乞」に「イデ」の読みはあったようである。それにしても作者は「コギコナ」「コギイデナ」のどちらで詠んだのだろうか? 想像するしかないのであれば「読み手」の権限で好きに読んでいいが、作者に頼まれもしないのに「作者はコギイデナで納得する」とする如き極めつけは如何なものだろうか‥権威が添削してしまっては最早作者は作者でなくなる。元歌を額田王が詠んだか、天皇が詠んだかは知らぬが、「コギコナ」では駄目駄目の歌だから訂正してやったことになり、これは如何理解したら良いのだろうか。

これに似た事例として宮澤賢治はオッチョコチョイで「ヒドリ」を訂正して「ヒデリ」とした件を想い出す。また、「太宰治は間違って待宵草を月見草とした」という流言を想い出すが太宰治は月見草を月見草と詠んだと私は言うしかない。権威が間違いを押しつけるのは当然困るが、「コギコナ」と読んだ背景を考慮に入れずに勝手に添削する傲慢な姿勢に私は驕りが感じられてならない。もちろん私は「コギイデナ」の読みを否定するものでなく、額田王や天皇より斎藤茂吉が優れているという主張を肯定も否定もするものでない。 時の流れは真実を見えにくくするだけに私たちはドコまでも謙虚でありたいものです。ともあれ、斎藤茂吉の知識を借りずしては私は到底読めない万葉集にちがいない。



斉明天皇が(斉明天皇七年正月)新羅しらぎを討ちたまわんとして、九州に行幸せられた途中、暫時伊豫の熟田津にぎたづに御滞在になった(熟田津石湯いわゆの行宮)。其時お伴をした額田王の詠んだ歌である。熟田津という港は現在何処かというに、松山市に近い三津浜だろうという説が有力であったが、今はもっと道後温泉に近い山寄りの地(御幸寺山附近)だろうということになっている。即ち現在はもはや海では無い。
 一首の意は、伊豫の熟田津で、御船が進発しようと、月を待っていると、いよいよ月も明月となり、潮も満ちて船出するのに都合好くなった。さあ榜ぎ出そう、というのである。
「船乗り」は此処ではフナノリという名詞に使って居り、人麿の歌にも、「船乗りすらむをとめらが」(巻一・四〇)があり、また、「播磨国より船乗して」(遣唐使時奉幣祝詞)という用例がある。また、「月待てば」は、ただ月の出るのを待てばと解する説もあるが、此は満潮を待つのであろう。月と潮汐とには関係があって、日本近海では大体月が東天に上るころ潮が満始るから、この歌で月を待つというのはやがて満潮を待つということになる、また書紀の、「庚戌泊二于伊豫熟田津石湯行宮一」とある庚戌かのえいぬは十四日に当る。三津浜では現在陰暦の十四日頃は月の上る午後七、八時頃八合満となり午後九時前後に満潮となるから、此歌は恰あたかも大潮の満潮に当ったこととなる。すなわち当夜は月明であっただろう。月が満月でほがらかに潮も満潮でゆたかに、一首の声調大きくゆらいで、古今に稀なる秀歌として現出した。そして五句とも句割がなくて整調し、句と句との続けに、「に」、「と」、「ば」、「ぬ」等の助詞が極めて自然に使われているのに、「船乗せむと」、「榜ぎいでな」という具合に流動の節奏を以て緊しめて、それが第二句と結句である点などをも注意すべきである。結句は八音に字を余し、「今は」というのも、なかなか強い語である。この結句は命令のような大きい語気であるが、縦たとい作者は女性であっても、集団的に心が融合し、大御心をも含め奉った全体的なひびきとしてこの表現があるのである。供奉応詔歌の真髄もおのずからここに存じていると看みればいい。
 結句の原文は、「許芸乞菜」で、旧訓コギコナであったが、代匠記初稿本で、「こぎ出なとよむべきか」という一訓を案じ、万葉集燈でコギイデナと定めるに至った。「乞」をイデと訓よむ例は、「乞我君イデアギミ」、「乞我駒イデワガコマ」などで、元来さあさあと促がす詞ことばであるのだが「出で」と同音だから借りたのである。一字の訓で一首の価値に大影響を及ぼすこと斯くの如くである。また初句の「熟田津に」の「に」は、「に於おいて」の意味だが、橘守部たちばなのもりべは、「に向って」の意味に解したけれどもそれは誤であった。斯かく一助詞の解釈の差で一首の意味が全く違ってしまうので、訓詁くんこの学の大切なことはこれを見ても分かる。
 なお、この歌は山上憶良の類聚歌林に拠よると、斉明天皇が舒明天皇の皇后であらせられた時一たび天皇と共に伊豫の湯に御いでになられ、それから斉明天皇の九年に二たび伊豫の湯に御いでになられて、往時を追懐遊ばされたとある。そうならば此歌は斉明天皇の御製であろうかと左注で云っている。若しそれが本当で、前に出た宇智野の歌の中皇命が斉明天皇のお若い時(舒明皇后)だとすると、この秀歌を理会するにも便利だとおもうが、此処では題どおりに額田王の歌として鑑賞したのであった。
 橘守部は、「熟田津に」を「に向って」と解し、「此歌は備前の大伯オホクより伊与の熟田津へ渡らせ給ふをりによめるにこそ」と云ったが、それは誤であった。併し、「に」に方嚮ほうこう(到着地)を示す用例は無いかというに、やはり用例はあるので、「粟島あはしまに漕ぎ渡らむと思へども明石あかしの門浪となみいまだ騒げり」(巻七・一二〇七)。この歌の「に」は方嚮を示している。

秋の野のみ草苅り葺き宿れりし

2014年10月31日 | 萬世の歌



〔巻一・七〕

秋の野のみ草苅り葺き宿れりし
兎道の宮処の仮廬し思ほゆ


額田王

(あきのぬのみくさかりふきやどれりしうじのみやこのかりいほしおもほゆ)

【意】嘗つて天皇の行幸に御伴して、山城の宇治で、秋の野のみ草を刈って葺いた行宮に宿ったときの興深かったさまが想い出される。


み草 : 薄(ススキ)や萱(カヤ)
兎道 : 宇治
宮処 : みやどころ。①神の鎮座する所。神社のある所。 ②皇居のある所。宮居。
仮廬 : 仮庵。かりほ、かりお、かりいお。狩りに作った庵。旅先などの仮の宿り
(漢字の読みは時代で変化し、詠み・読みは作者・選者の意図的とも思う)

行幸にお供したときの楽しかった出来事を懐かしんだ、頃は秋、泊ったのは宇治の萱葺きの庵、そのようなことが印象深く想いだされるということを一首に詠んだ。
どのくらいの規模の庵なのか、何人くらいのお供を連れた行幸だったのか、そういったことはこの歌だけでは分らないが行幸の雰囲気は楽しいものだったようです。



        


大和と近江との交通路に当っていたから、行幸などの時に仮の御旅宿を宇治に設けたもうたことがあったのであろう。その時額田王は供奉し、後に当時を追懐して詠んだものと想像していい。額田王は、額田姫王と書紀にあるのと同人だとすると、額田王は鏡王の女で、鏡女王の妹であったようだ。初め大海人皇子と御婚して十市皇女を生み、ついで天智天皇に寵せられ近江京に行っていた。「かりいほ」は、原文「仮五百」であるが真淵の考では、カリホと訓んだ。

この歌は、独詠的の追懐であるか、或は対者にむかってこういうことを云ったものか不明だが、単純な独詠ではないようである。意味の内容がただこれだけで取りたてていうべき曲が無いが、単純素朴のうちに浮んで来る写象は鮮明で、且つその声調は清潔である。また単純な独詠歌でないと感ぜしめるその情味が、この古調の奥から伝わって来るのをおぼえるのである。この古調は貴むべくこの作者は凡ならざる歌人であった。

歌の左注に、山上憶良の類聚歌林に、一書によれば、戊申年(つちのえさるのとし)、比良宮に行幸の時の御製云々とある。この戊申の歳を大化四年とすれば、孝徳天皇の御製ということになるが、今は額田王の歌として味うのである。題詞等につき、万葉の編輯当時既に異伝があったこと斯くの如くである。


山越の風を時じみ寝る夜落ちず

2014年10月30日 | 萬世の歌



〔巻一・六〕
山越の風を時じみ寝る夜落ちず家なる妹をかけて偲びつ
   軍王

(やまごしのかぜをときじみぬるよおちずいへなるいもをかけてしぬびつ)

【意】山を越して、風が時ならず吹いて来るので、ひとり寝る毎夜毎夜、家に残っている妻を心にかけて思い慕うている。

時じみ     : 時ならぬ。(想定していない状況)
かけて     : 心に懸けて。心から離さないで。

住み慣れた家でなく旅の宿で寝つけないのだろうか、
あるいは貴人のお伴で緊張していて寝つけないのかも、
横になっていて吹きつける風の音が聞えてきたのだろう、
山から吹きおろす風には私だって心穏やかに過ごせないよ、

山の向こう側‥都の貴女はどうしていらっしゃるだろうか‥
強い風が吹いてるけれど貴女は元気でお過ごしだろうか‥
山を越して私の所まで貴女のことを知らせる風なのか‥
あなたはどうなさってるかといつも想っていますよ。

親しき仲にも礼儀ありと昔から教わってきた筈なのに
近ごろ「気遣いは他人行儀」と想われているのだろうか
乱暴な物言いが優しさの証ででもあるかのような風潮、
そんなもの優しいと考えてるようなら、私は要らないな。
大事な恋人なら、大事な伴侶なら、大事な家族なら、
大事に大事に接していきたい、幸せであってほしいもの。



舒明天皇が讃岐さぬき国安益あや郡に行幸あった時、軍王いくさのおおきみの作った長歌の反歌である。軍王の伝は不明であるが、或は固有名詞でなく、大将軍いくさのおおきみのことかも知れない(近時題詞の軍王見山を山の名だとする説がある)。天皇の十一年十二月伊豫の温湯ゆの宮みやに行幸あったから、そのついでに讃岐安益郡(今の綾歌あやうた郡)にも立寄られたのであっただろうか。「時じみ」は非時、不時などとも書き、時ならずという意。「寝る夜おちず」は、寝る毎晩毎晩欠かさずにの意。「かけて」は心にかけての意である。
 一首の意は、山を越して、風が時ならず吹いて来るので、ひとり寝る毎夜毎夜、家に残っている妻を心にかけて思い慕うた、というのである。言葉が順当に運ばれて、作歌感情の極めて素直にあらわれた歌であるが、さればといって平板に失したものでなく、捉とらうべきところは決して免のがしてはいない。「山越しの風」は山を越して来る風の意だが、これなども、正岡子規が嘗かつて注意した如く緊密で巧たくみな云い方で、この句があるために、一首が具体的に緊しまって来た。この語には、「朝日かげにほへる山に照る月の飽かざる君を山越やまごしに置きて」(巻四・四九五)の例が参考となる。また、「かけて偲ぶ」という用例は、その他の歌にもあるが、心から離さずにいるという気持で、自然的に同感を伴うために他にも用例が出来たのである。併しこの「懸く」という如き云いい方はその時代に発達した云い方であるので、現在の私等が直ちにそれを取って歌語に用い、心の直接性を得るという訣わけに行かないから、私等は、語そのものよりも、その語の出来た心理を学ぶ方がいい。なおこの歌で学ぶべきは全体としてのその古調である。第三句の字余りなどでもその破綻はたんを来さない微妙な点と、「風を時じみ」の如く圧搾あっさくした云い方と、結句の「つ」止めと、そういうものが相待って綜合そうごう的な古調を成就しているところを学ぶべきである。第三句の字余りは、人麿の歌にも、「幸さきくあれど」等があるが、後世の第三句の字余りとは趣がちがうので破綻云々うんぬんと云った。「つ」止めの参考歌には、「越の海の手結たゆひの浦を旅にして見ればともしみ大和しぬびつ」(巻三・三六七)等がある。

たまきはる宇智の大野に馬並めて

2014年10月29日 | 萬世の歌


〔巻一・四〕
たまきはる宇智の大野に馬並めて朝踏ますらむその草深野
  中皇命

(たまきはるうちのおほぬにうまなめてあさふますらむそのくさふかぬ)

【意】今ごろは、宇智の大きい野に沢山の馬をならべて朝の御猟をしたまい、その朝草を踏み走らせあそばすでしょう。


斎藤茂吉が最大級の賛辞と共に最初に挙げた歌、及ばずながら私も理解するよう務めたいが、ゆかしく想われてならないのは万葉人の想いが早や漂ってきているのだろうか‥

たまきはる(枕詞)にも時代が下がるにつれて特別な意味は無くなっていくのだろうけど、初めは賛嘆の気持ちを表したかったのだろうとしたい私の感覚。
感嘆の想い「嗚呼!」に意味はないように、しかし強い想いはあるように、それと同じく枕詞も初めは意味を持って使われたに違いなく、しかし使い馴れると心が籠らない「ありがとう」を言うようになっていきやすい私たちかも知れない。
言葉の覚え初め・使い始めの幼児はたどたどしいながらも心が籠った「ありがとう」を言う。それと同じくこの歌を詠んだ女性の「たまきはる」には心が籠っていたのではなかろうか‥いきなり横道に逸れていきそうな予感がするなあ。
ともあれ、たまきはる「魂が極まる」と理解できるし、これは感嘆詞と言えるにちがいない。「死ぬほど」幸せと言うように枕詞「死ぬほど」は心の奥底からの声にちがいない。しかし、馴れてくると枕詞「死ぬほど」が独りでに口を吐いて出てくるだろう。

この歌を詠んだ女性は感極まるほどの幸せのなか、父か夫かの勇士を想い描いた。誇りに想われてならない男性が大勢のお伴を連れて狩りに行った。「わたしのパパは今ごろどうしていらっしゃるかしら‥」女性は狩りに行かなかった時代であればこの歌の全ては女性の想像の産物なのです。どうでもいい人のことなら想像することはない代わりに、大切に想っている男性のことを想像するときは息が止まりそうな感じ‥あなたも分かりますよね。私だって大切な恋人を想っているときは似たようなものだもの、況して女性なら尚のことでしょう。その場所に行ったことが有るか無いか、恐らく草深い野原にこの女性は行ったことはない気がする‥これ、私の想像。馬を並べて獲物を追う準備したり、勢子の声が響く山あいの繁みかも知れない。じっさいは勢子の声にかき消されて聞えないはずの蹄の音「パカランパカラン」まで聴こえてきそうです。いやいや、想像はどんどん膨らんで私までその草深野を飛びまわっているような気がしてきました。

なるほど、この歌は私も好きになっているみたいです。

留守宅で番

2014年10月29日 | 気紛れ猫にゃん
       

留守宅で番ふしあはせ残るはへ

残る蝿 : 秋の季語(蝿は夏の季語だが‥残る蝿ですから)
しあはせ : しあわせ

誰もいない温かな室内でゆっくりしてた筈なのに
疲れた疲れたって、あんた用事でもしてたのかい? (^_^;)

天岩戸の意味

2014年10月29日 | 萬世の歌


八百万の神々について「座の文芸の壁(2)」「座の文芸の壁(3)」「座の文芸の壁(4)
で触れたが、ここではスサノオ(須佐之男)に焦点を当てて天岩戸を観てみたい。

古事記には須佐之男(スサノオ)が田の畔を壊して溝を埋めたり、御殿に糞を撒き散らしたりして乱暴を働いたとあるようだ。天照大神はスサノヲをかばったけれど乱暴はますます酷くなって人を死に至らしめた。それで天照大神は天岩戸に隠れたので世界は闇となり・様ざまな災いが起きた。

そこで八百万の神々が集まって天照大神に天岩戸から出るように懇願して祝詞を唱えたり唄ったり踊ったりした。天照大神が天岩戸から現れ出て世界は明るさを取りもどした、そして八百万の神々は相談してスサノオに沢山の物品で償わさせたうえに髭と手足の爪を切って高天原から追放した。

スサノオは自分に与えられた土地に不満を抱いてアマテラスを妬んだとされていて、それはスサノオが甘えんぼうで寂しがりで自立できない幼児性のままで社会人になってしまって、それで己の暴力性を抑える心を持たず・術をも知らず、己の望みを叶える手段として暴力を働いたのです。

この愚かな振舞いをする性質・暴力性を多くの男性は現代に引き摺っていて多くの女性や子供・弱者を困らせている。この悪い性質を地上から断ち切るには全ての男どもを抹殺するか、男を産み落す女性を抹殺するか‥すなわち、人間否定という愚かしい思想が闊歩することになる。

スサノオに罪を問うなら不良品を産み落した親の罪を問わねばならず、その同じ親から産れた不良品を全て根絶やししなければならない。不良品を罰して済まそうとする悪しき思想もまた許されるべきでなく、すなわちその悪しき思想の者は身を以って己から始末しなければならない。

このような己を振返ることを知らぬ愚かで身勝手な思想がスサノオの闇を生んだのであり、同じく現代の闇を生んでいるということは天岩戸の出来事に照らせば明らかであり、すなわち、世の邪悪の根源たるスサノオの血を引いていることを知って己の身を潔く改めるべきと解らねばならない。

反省なきところに平和が訪れる訳がなく、どうしても誰かを赦せないと思うときは先ず己を罰して罰して死ぬ日まで罰して赦しを乞うて、それで世界中の全ての者が赦してくれたときに初めて他者の罪を考えてみるのが良いだろう‥どうせ身から出た錆びだものね。

天照大神の願いも八百万の神々の願いも乱暴を働いたスサノオに反省を促がして世界に平和をもたらすことであって、スサノオを殺してしまおうとはどこにも書かれていない。あなたがスサノオに倣うならお気の毒さま。アマテラスや八百万の神に倣うことをあなたにもお勧めしたい。


万葉秀歌~斎藤茂吉

2014年10月28日 | 萬世の歌

「万葉秀歌」を編んだ斎藤茂吉の心についてはクリックして戴きたい
  

「序」に明らかなように古典は様々な読みがされているが対話でも意味の通じないことは多いのだから、ここは気楽に読んでいきたいと思う。ともあれ、歌の解釈は私たち読者に委ねた斎藤茂吉のように思える。

それにしてもやっぱり古典はムズカシイ‥斎藤茂吉の現代解説を読んでいてもそう思ってしまうのだから‥いやいや、泣き言はヤメテ、一つ一つ読んでいくしかない。


〔巻一・四〕
たまきはる宇智の大野に馬並めて朝踏ますらむその草深野  中皇命


次回、この歌から始めてまいりたい。