daiozen (大王膳)

強くあらねばなりませぬ… 護るためにはどうしても!

俳句に馴染まない地名

2014年10月02日 | (転載・記事)  総 合
俳句とは、何ぞや?

俳句の意味は、俳人ごと・句会ごとに、解釈は異なるかも知れない。
だけど、俳句は詩の心で詠うのが一番好いって誰しも思うでしょう。
そう理解した上で、俳句をもう一歩・深く突っ込んで考えてみたい。

俳句の「句」の意味を「節」と解釈したら好いのじゃないかと思う。
いくつかの節がつながり・伸びていって、一本の竹が出来るように、
幾つかの節がつながって、俳句が出来上って好いのじゃないかしら。

詠むのは楽しいし、読むのも楽しい、皆で詠んでも・読んでも好い。
『蛙飛こむ水のおと』って詠んだら、上の句(節)を皆で出し合う。
詠んで競い合うのも楽しいし、それを読んで批評し合うのも楽しい。

「蛙飛こむ水のおと」に反応して、皆はお好みの場所に遊びに行く。

基角は京の井手の「かはづ」の里にすぐに飛んでいって遊んだんだ。
帰ってきて、井出の山吹や「かはづ」の鳴き声の美しさを自慢する。
座の人たちは井出・山吹の里へ行って河鹿を見たいと思ったのです。

座の人たちは、噂に井出の良さを知っていたかも知れないでしょう。
けど、行ったことがない井出の里をどうして想像できるでしょうか。
食べたことがない料理に採点をつけるに等しい不可能な作業でした。

一方、芭蕉が古池に飛んだのは大概の現代人も御承知のとおりです。
芭蕉の古池の話は素朴で・艶やかさなど無かったのは、確かでした。
だけど、蛙が棲んでいるような古池なら座の誰もが知っていました。

座の皆はそれぞれに古池に飛んでいって、寛ぎ・遊んで帰ってきた。
皆でワイワイ言いながら、愈々・節と節をつなぐことになりました。
「蛙飛こむ水のおと」の節に上五の節をつなぐなら、どれが好いか。

知らない節は繋ぎようがないけれど、知っている節は繋げますよね。

俳句は詩の心で遊びたい

2014年10月02日 | (転載・記事)  総 合
(梁塵秘抄)
遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、
遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ。
舞え舞え蝸牛、舞はぬものならば、
馬の子や牛の子に蹴させてん、踏破せてん、
真に美しく舞うたらば、華の園まで遊ばせん。

(このような意味合いでしょうか)
みんなで ふざけて あそぼうか   だれかに いたずら しようかな
ふざける こどもは ゆかいだろう   いたずらする子は おもしろかろう
うちの子 泣かずに 遊んでるかな  いじめられては つらかろう

舞え 舞え デデ虫 舞わぬ時は  馬ん子 牛ん子  蹴ってやれ 踏んづけてやれ
まこと きれいに 舞うたなら   お花の お里へ 解き放すかも

(山寺の和尚さんの歌…部分)
やまでらの おしょうさんは  毬をつきたし 毬はなし
ねこを 紙ぶくろに 詰めこんで
こんと 蹴りゃぁ  ニャンと なく
ねこが ニャンと なく  ・・・

そして、そして、、どこからか哀しい声が聞こえませんか?
あなたには ホン の遊びの つもりでも 私は とっても 辛いです・・・。

もしも・・・俳句が、こんな悲しい遊びなら、なんて哀しいのでしょう。


(詩心を謳えば)
みんなで お弁当を ひらきましょう。
みんなで お遊戯を やりましょう
なかよく遊ぶ 声がして それで私も うれしくて
おやつを つくって あげましょう

舞え 舞え デデ虫 舞わっておくれ
馬ん子 牛ん子 蹴られぬうちに 踏まれぬうちに
まこと きれいに 舞えるよう  お花の里で あそびましょう

「遊ぶ」って、心が慰められること・心が楽しめることでしょう。
「戯れる」って、楽しさに夢中で遊び・楽しいことを言って笑うのでしょう。
みんな 笑ってる その陰で 泣いてる 人は いませんか。

俳句は、詩の心で遊ぶのが好いと思います。

俳諧は去来抄に詳しい

2014年10月02日 | (転載・記事)  総 合

>『去来抄』は芭蕉の死後、高弟の去来が芭蕉の教えを書き残したものである。
>芭蕉がこの世を去ると、基角、支考、惟然、ら有力な門弟たちはそれぞれの道を歩みはじめる。
>去来は…蕉風が草に埋もれてしまうのを憂えて、『『去来抄』を書きはじめ…
>去来が亡くなったときにはすさまじい推敲の筆の入った草稿が遺された。
>『去来抄』が出版されたのはさらに七十年後…蕉風復興運動の最中。
>『去来抄』は芭蕉の生の言葉を伝える蕉風の聖典として世に流布する…

芭蕉が提唱した俳諧については『去来抄』に詳しく述べられている。
それなら、俳諧の専門知識は『去来抄』に譲ることにしたいと思う。
それでココでは、於多福姉ていどの知識が学べる場として参ります。

俳諧とは何ぞや。

俳諧・俳句の「俳」は、戯れることですが、戯れるって、どんな事?
俳諧の「諧」は、おどける事です。そして、諧謔もおどける事です。
俳諧の意は即ち、おどけ・戯れるサービス(精神)をいうと思います。

だから、俳句の場に「諧謔」を求め・持込む人たちが現れるのかも。
ただ、諧謔の精神と詩心は同一の地平にあるモノではなさそうです。
芭蕉が生きた時代、諧謔とは常に下位者が上位者に尽すことでした。

俳諧は、そのような封建的な体質から脱却出来ているのでしょうか。
封建体制を笑い飛ばす文芸では、狂歌・川柳等が健闘してきました。
それなら今、昼間の幽霊のように諧謔を持出す真意は何でしょうか。

私の好きな詩「梁塵秘抄」を紹介します。ネットで見つけました。
ェエ~ッ!? 梁塵秘抄は「詩」ではないっておっしゃいましたか?
詩と読むも、説教と読むも、読み手まかせだと私は思っています!?

左脳と右脳の共同作業

2014年10月02日 | (転載・記事)  総 合
俳句を覚える途上で知る言葉に「二句一章」という概念があります。
俳句の約束事はいくつか有りますけども、二句一章もその一つです。
芭蕉か子規が提唱した言葉と思いきや、別人が言い出したようです。

大概の俳句は、二つのバートから出来ていると捉えたら好いのです。
そして、一句を二つのパートに分けている言葉を「切れ字」という。
「や」「かな」「けり」など十八語が切れ字として先人に定められている。

しかも、あらゆる文字が切れ字として働き得ると理解できそうです。
ただ、切れ字については「秘すべし」との言い伝えは有るようです。
長谷川櫂氏の述べられた文も、私のと凡その違いはないと思います。

但し、私は小学生に俳句を詠む楽しみを教えるべきと考えています。
初めは切れ字無し・季語無しの「一句一章」の素直な俳句でしょう。
低学年に切れ字などの約束ごとは却って邪魔になるかもと思います。

俳句を詠み続けて三・四年生にもなれば、切れ字を教えるべきかも。
切れ字によって区切られたパートを繋ぐ作業は、きっと楽しい時間。
今日風に申せば、左脳と右脳の共同作業が図られる俳句の時間かも。

古池や蛙飛こむ水のおと

そっと目を閉じれば、古池が浮びます。
鳴いている蛙もいるだろうし、眠っている蛙もいる。
それは過去にどこかでキッと見たことのある風景なのです。

古池(に)蛙飛こむ水のおと

2014年10月02日 | (転載・記事)  総 合
長谷川櫂氏は巧いことをおっしゃる方だと、感心して読んでいます。
なるほど、そういう説明の仕方があったのかと、つくづく思います。
ただ、引き合いに出した方々が亡くなった人では反論も有り得ない。

それはさて置き…

古池に蛙飛こむ水のおと…確かに元句と大した違いは感じないかも。
なぜ、大した違いを感じないか…それは俳句に慣れてないからです。
文学部教授である長谷川櫂氏は、学生たちに感じたのかも知れない。

俳句を感じられない者が、どうして人間を感じられるだろうか…と。

乗越えるべきは何?

2014年10月02日 | (転載・記事)  総 合
>公式にとらわれている点では公式に従うのと変わらない。
>公式に従うのでもなく、そむくのでもないもの、すなわち「古池や」とおいた。
>この瞬間、芭蕉は公式の呪縛そのものから解き放され、基角が乗り越えようとした和歌ばかりでなく、和歌を乗り越えようとした基角さえも乗り越えてしまう。

このような潔い論法は実に判りやすくて於多福姉には納得できます。
櫂氏は論理を重視し、論理に則って詠まれた句を高く評価している。
このフレーズは長谷川櫂氏の人間像を具体的に示していると思える。

それはさて置き、古池以前の芭蕉は基角に一目置いていたようです。
芭蕉は「古池や」の一閃によって基角を完全に凌駕したとしている。
和歌・連歌の発句に過ぎなかった俳諧が、和歌を一瞬にして超えた。

ここのフレーズ、長谷川櫂氏の論旨は結局、そういう事になります。
巌流島・武蔵と小次郎の戦いのように、基角は芭蕉に完敗しました。
但し、和歌が俳諧に敗れた話の顛末が明快でないのは至極残念です。

「この瞬間、芭蕉は和歌を乗り越えた」と櫂氏は明快に述べられた。
芭蕉が和歌の呪縛から開放されたとしても…和歌を乗り越えた証は?
古代より続いてきた和歌を俳諧が超えた明確な証を櫂氏に求めたい。

和歌には枕詞・季語・縁語等など、世界に誇れる和歌の文化がある。
俳諧には俳諧の文化があり、近代俳句もまた・然りと私は思います。
独自の論理も好い、伝統の論理も好いが、明快さは必要大事でしょ!?

論理には整合性がある

2014年10月02日 | (転載・記事)  総 合

>(基角は)蛙が水に飛びこむとぼけた音をぶつけて大笑いしようとしたのだろう。
>このとき、基角は和歌の言葉の因襲を批判する立場に立っている。
>山吹には蛙の声という決まりきった古臭い取り合わせへの痛烈な批判になる。
>これが、この時点で基角が考えていた俳諧というものだったに違いない。

櫂氏は、俳諧に基角がそのような考えを持っていたと確信している。
櫂氏も又、俳諧は「風刺・笑い」の精神に満ちたものと捉えている。
櫂氏は、芭蕉がそのような俳諧の流れを変えようとしたと理解する。

>芭蕉は基角や以前の自分自身の俳諧に対する考え方を批判しようとした…
>古池の句は、和歌やそれ以前の俳諧に対する芭蕉の創造的批判の句なのだ。

櫂氏は「古池や」までの蕉風の俳諧は「風刺・笑い」だったとして、
その俳諧を蕉門の座主・自らが否定し・改革を断行したとしている。
蕉門は「古池や」の句を以って「諧謔」からの脱皮に成功した…と。

けどそれは即・正岡子規が提唱した近代俳句ではない…としている!?
今は長谷川櫂氏の蕉門の実体解説に興味津々の於多福姉に違いない。
上五「古池や」は諧謔でなく、因襲でない枕詞的な位置にあるとは?

諧謔は川柳・狂歌に任せたら済むことで、ここで櫂氏に乖離はない。
枕詞な発想の「上五」を設ける事には納得しかねている於多福姉です。
また「古池や」の句を子規の解釈に任せてはいけないのでしょうか?

結局『櫂氏は俳句に何を期待しているのか』という疑問に戻ります。

俳句に諧謔・枕詞はない

2014年10月02日 | (転載・記事)  総 合
>山吹といえば蛙の声、蛙の声といえば山吹をもってくる和歌の凝りかたまった伝統…
>山吹に蛙の声ではなく、蛙が水に飛びこむとぼけた音をぶつけて大笑いしようとした…

櫂氏は何を言わんとなさってるのか…彼なりに理屈は通している筈。

凝りかたまった伝統かどうか知らないが、和歌の伝統に枕詞がある。
枕詞を取り外しても、フレーズ全体の意味に大きな影響は与えない。
長谷川櫂氏は上五に「枕詞」的な意味を想定なさってらっしゃるか!?

櫂氏は「蛙飛こむ水のおと」だけで完結する趣旨を既に述べられた。
そして、枕詞なしでも和歌は意味が通じるという言い方は成立する。
櫂氏にとって蕉門俳句の上五は枕詞の飾り程度の意味しかなかった!?

だが「古池や」の句の解釈に子規流・芭蕉流・和歌流が有るとして、
櫂氏の解釈は恐らく、これら三つのどの解釈にも当てはまりません。
諧謔・滑稽的なモノを好しとする故に、彼は別の道を探るしかない。

子規の「古池や」の解釈を聞いても尚、櫂氏の解釈は変らなかった。
つまり、子規の敷いた俳句の軌道は櫂氏の目に留らなかったのです。
芭蕉流の俳諧の軌道の延長線上にも櫂氏のレールは無いと思われる。

ともあれ、十七文字の俳句に遊びの文字はないと知るべきでしょう。
必要に応じて枕詞や諧謔を入れることに躊躇いは致しませんけど…。
また、俳句に諧謔味を求めずとも川柳・狂歌の道もある訳ですよね。

それよりも、
櫂氏の著書を読み進めば、あっと驚く展開があるような気がします。
何よりも、長谷川櫂氏の発想に枕詞等の類は無関係かも知れません。
於多福姉は新発見を期待して、長谷川櫂氏の胸を借りているのです。

解釈は正確性が要件

2014年10月02日 | (転載・記事)  総 合
ここからは、第2章(長谷川櫂の著作本)に入ります。

>この句を初めて聞いたとき、芭蕉という人は、いったい、何が面白くてこんな句をよんだのだろうと不思議に思った。

櫂氏は「古池や」に感じた疑問を「不思議」の一語で表現なさった。
この句のどこが面白いのか、自分にはサッパリ判らないということ。
或いは、芭蕉の感覚は正常だろうか、自分は理解に苦しむよ…です。

ここで少しばかり「面白く」の意味を考えてみたいと思います。
単に言葉のあやとして、難しく考えずに使用する人は多いでしょう。
俳諧は…正統の連歌から分岐して、遊戯性を高めた集団文芸であり…(引用:Wikipedia)
諧謔味・遊戯性・面白みを重要視する俳人は結構多くいらっしゃる。
長谷川櫂氏が諧謔味をどう捉えてらっしゃるかは存じませんけど…。

それだけでなく、櫂氏は芭蕉について、次のように述べられました。
通常の解釈では、芭蕉自身の言葉を借りれば「俳意たしか」でない…
つまり「古池や」の句は通常の解釈をしてたのでは俳意が判らない…

「俳意が判らない」ような句は稚拙であると仰りたいのでしょうか…
「俳意が判らない」のは読み手の能力不足と仰りたいのでしょうか…
「古池や」の俳意が判らない場合、どちらに責任があるのでしょう?

於多福姉は、俳意が判らないのは誰の責任でもないと思っています。
この第二章も於多福姉に早々に色色の疑問を起こさせる仕組みです。
後のページで「これらの疑問」に応える仕掛けなら嬉しいものです。

>子規は「古池の句の弁」という文章の中で、この句について「古池に蛙の飛び込む音を聞きたりといふ外、一毫も加ふべきものあらず」といさぎよく書いているが、それだけではなさそうだ。

「それだけではなさそうだ」…早い話、もっと有るという事になる。
すなわち、長谷川櫂氏の読み方と、子規の読み方では深さが異なる。
子規の解釈を標準とするとき、櫂氏の解釈は深読みになってしまう。

流石に「正岡子規は読みかたが浅い」とは仰らない長谷川櫂氏です。
先達・子規を立てるべく、櫂氏を子規と同列に並べ置いておられる。
長谷川櫂氏の考え方の一端が漸く、ここに表れてきたのを感じます。

ともあれ、於多福姉のHPでは正確を要件として学習して参ります。
櫂氏の言わんとする所は、子規の読み方は間違っているって事です。
櫂氏は飽くまで正しい解釈が基準でなければならないとお考えかも。

それは於多福姉にも異論のない所で、じつに善い方向だと思います。
正しい解釈が基準なら「櫂氏が標準で・子規の読みは浅い」もある。
それなら、子規の読みはどのように浅いかの説明は欠かせませんね!?

不要な言葉などない

2014年10月02日 | (転載・記事)  総 合

>ここで芭蕉が何よりもいいたかったのは蛙が鳴いたのではなく飛んだということだったのであり、それはこの「蛙飛こむ水のおと」でいい尽くされている。

芭蕉が「古池や」で言いたかったのは「蛙が飛んだこと」だろうか?
そう結論づける時、芭蕉の人格を貶め・卑小化しはしないだろうか!?
細心の注意を払った明快な論理を以った自説の展開をすべきと思う。

「蛙が飛んだこと」を言いたかったと出来る場合が無い訳では無い。
蓋し、基角の「山吹」を否定する為には「蛙が飛んだ」となります。
実際、鳴く蛙は山吹に落ち着き、飛ぶ蛙は古池に落ち着くでしょう。

だが何よりも重要なことは、
基角だけを目的に芭蕉の「古池や」が詠まれたと考えるべきでない。
芭蕉の句「古池や」は基角を対告衆として詠まれたかも知れないが、
真実は全ての読み人の耳目に適い・耐えられる俳句を目的に詠んだ。

(もっと詳しく述べるなら)芭蕉は「水のおと」がしたと詠んでいる。
どんな水の音かと云うと「蛙が水に飛こんだ」音だと詠んだのです。
どんな場所かというと「古池」だと詠んだのです。

「古池・蛙・飛こむ・水の音」のどれ一つも欠かすことは出来ない。
これらの中のどれ一つが欠けても、この俳句は満足出来ないのです。
上記・切れ字「や」が抜けていますけど、必要不可欠な「や」です。

第二章は切れ字「や」について述べられているようです(念のため)。

俳聖・芭蕉の道場

2014年10月02日 | (転載・記事)  総 合

>中下の「蛙飛こむ水のおと」が先にできたということである。
>「其角が『山吹や』としてはどうですか」と口をはさんだ。
>芭蕉は…「山吹や」を採用せず「古池や」とおいた。

櫂氏は芭蕉の弟子・支考の『葛の松原』を引用して上記の如く綴る。
そしてそれらの光景は、さらに詳しく次のように続けられていく。

>「蛙飛こむ水のおと」は当時はこれだけで驚くべき表現だった。
>当時…蛙は鳴声を詠むもの…河鹿のこと…夜…涼しい声で鳴く。
>芭蕉は河鹿ではなく…ただのカエルをカハヅとして…詠んだ。
>座に居合わせた其角らはこの中下を聞いて「これはおもしろい…
>上五を何とするか。ここで其角が「山吹や」を提案した…
>和歌では古くから河鹿の声を必ず山吹と取り合わせてきた。
>京都府の南、井出町の山あい…河鹿の名所…山吹の名所…

櫂氏は鴨長明(1155年~2016年)の方丈記を次のように引用なさる。

>世の人の思ひ侍るは、たゞ蛙をば皆かはづと云ふと思へり。
>カハヅは普通のカエルのようにはねることもなく…
>中下を聞いて、其角はこの井出の蛙を思い出し…山吹を連想した
>これをかぶせると句はこうなる。 山吹や蛙飛こむ水のおと

このような貴重な資料を収集して戴いた長谷川櫂氏に感謝致します。

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さて、芭蕉の高弟として知られる其角はどのような人だったのか。
江戸生まれ。十五歳で芭蕉の弟子になり、四十七歳で亡くなった。
医者の息子。医学・絵画・詩・漢籍・書等に長じていたそうです。

そしてこれらを要約すると、
俳句の中七・下五の部分「蛙飛こむ水のおと」を初めに決めていた。
その後で芭蕉は上五は何が好いかと其角などの弟子に問うたとなる。
学問を積んでいる知識人・其角は事も無げに「山吹」と答えました。

他の弟子にすれば其角の言葉には重みがあったに違いないでしょう。
其角の「山吹や」に他の弟子は成り行きを見守ったかも知れません。
師匠と弟子の句会というより、俳人が練磨し合う道場だと考えたい。

芭蕉と其角の勝負は静かな中にも火花を散らし鎬を削る剣豪の如く。
天才肌・其角が佐々木小次郎なら、芭蕉は当然・宮本武蔵でしょう。
武蔵の「小次郎敗れたり」に、小次郎は「山吹や」と切り掛ります。

「小次郎敗れたり」は当然、中七下五の「蛙飛こむ水のおと」です。

武蔵が斬られたと思われた刹那、気合一閃「古池や」で勝負有った。
其角より五百年前の人・鴨長明は蛙(かわず)は跳ねないと述べた。
しかるに「蛙飛こむ」と詠まれた蛙なら、それは普通の蛙であろう。

「普通の蛙」と「山吹」の取合せに意外性はあっても、何の脈絡もない。
汗一つ流さないで爽やかな澄まし顔でいた筈の小次郎は最早いない。
そこには好好爺風かどうか知らないが、ゆとり笑顔をした芭蕉のみ。

他の弟子たちは、只ただ・感嘆の面持ちで『古池や』と唱えるか…。

枯れ葉に美を観る茶人

2014年10月02日 | (転載・記事)  総 合
>「水のおと」の「水」は古池の水である。とすると、芭蕉はここで「古池や」といい「水のおと」といって同じ古池の水を二度出したことになる。
>十七音しかない俳句で同じことを繰り返すのは言葉の無駄である。

僅か百年も生きられないのに眠るのは人生の無駄と考える人はいる。

俳句は付き過ぎてはいけないという言葉に振り回されているのか…。
形式とか理屈に囚われて、詩の心を見失っているとも言えそうです。
俳句はこうでなくてはならないと決めて、窮屈な考えに陥っている。

掃き清めた庭に落葉を散らすなど、有ってはならないと考えている。
整然たる美、落葉の美、侘び、寂び、自然美、人工美、全て美しい。

破調に破調の味わい、付き過ぎには付き過ぎの味わいが有って好い。

>「古池や蛙飛こむおと」といえばこと足りる。

「古池や蛙飛こむおと」の句、どこの誰が味わいを感じるでしょう。

才能があれば、古池を描くだけで幽霊の存在をも表現できるのです。
古池と述べるだけで蛙を想像する人はいる、睡蓮だって想像できる。
だからと言って「古池」と書いて俳句とするなら、アバウト過ぎる。

人間は複雑なんです

2014年10月02日 | (転載・記事)  総 合

>「古池に蛙が飛びこんで水の音がした」とするこの解釈は…
>そう解釈するとおかしな問題がいくつも出てくる。

解釈とは、要約すると「その人の論理に従って理解すること」(新明解国語辞典)
結局、櫂氏の解釈では「おかしな問題がいくつも出てくる」らしい。
「(櫂氏の)解釈は間違いです」と櫂氏は自らの間違いを証明している。

今、櫂氏・ご自身を間違いに導いた「櫂氏の解釈」を観ていきたい。

>誰もが考えているようにこの句が「古池に蛙が飛びこんで水の音…

櫂氏は「誰もが考えている」と述べられた根拠を示すべきでしょう。
仮にもせよ「誰も」のなかには於多福姉も当然含まれることになる。
(ヒント): 「考えた」のは芭蕉が「古池」の句を詠んだ前か?後か?

(こたえ): 芭蕉は古池を詠む前にあれこれ「考えた」とも思える。
      詠む時は、あれこれ考えることは当然でありましょう。
      映画監督が、或いは全体の流れを計算するようにです。
      照明・効果が、或いはディティールに拘るようにです。

(こたえ): あなたも古池を読んだ後、想像を巡らしたと思います。
      あなたの想像世界はどのような画面だったでしょうか。
      私の場合は只々、古池に遊ぶ蛙たちと過していました。
      静寂のなか、忘れたころにポチャと小さく音がします。

観客の誰もの耳に全く同じように『ポチャ』と聞こえる訳ではない。
法学を単純に白黒で片づけてならないのと同じではないでしょうか。
私たちは人間を対象にするのだから、命の重みを感じたいものです。

白日の下なら見えるかも

2014年10月02日 | (転載・記事)  総 合
>から井戸へ飛そこなひし蛙よな  鬼貫

古池の句をもじった句として、櫂氏が挙げたモノであるが駄作です。
こんな駄作を引き合いに出されたって、芭蕉に傷がつく物ではない。

>古池に蛙が飛びこんでキャブンと音のしたのを聞きて芭蕉がしかく詠みしものなり。(子規)

子規のフレーズに甚く気分を害された櫂氏ですが、打つ手に欠ける。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎いのとおりで、長谷川櫂氏の苛立ちは分る。

>芭蕉が深川の庵にあって、聞くとなく聞いてをると、蛙が裏の古池に飛び込む音がぽつんぽつんと聞えて来る。(虚子)

虚子の文が気に入らないのであれば、虚子に噛みつくべきでしょう。
虚子の文を以って、子規に噛みつくのは筋違いと云うものでしょう。
蛙が水に飛びこむ音が虚子の耳に、ぽつんぽつんと聞えたのですよ。

>子規が一掃しようとしたさまざまな深読みも同じだった。

長谷川櫂氏は、ここに至っても未だ深読みの説明をなさっていない。
深読みのどこが間違いで、どこが合理的なのか…説明が欠かせない。

>ほんとうに蛙は古池に飛びこんだのだろうか。

一般的に云って、真実は一つだけど、事実はいっぱい有るものです。
「古池に飛びこんだ蛙はいない」と想像するほうに無理があります。
櫂氏は真実を知りたいのでしょうか。事実を知りたいのでしょうか。
それをハッキリとお述べにならない櫂氏の話法は無駄に曲りくねる。

長谷川櫂氏の手法は、誰かを追詰め・問詰める手段になっています。
とうぜん、なにを質したいか、なにを知りたいかは暗闇に置かれる。
或いは、後出しジャンケンと同じで、納得ある結果が出る筈はない。

私程度の能力があれば言えること。それは、
詩歌は信頼・協調・励まし合いです。希望・勇気・平和の土台です。
俳句が詩の一分なら、理解しあい、和解に繋げていかねばならない。

子規は間違ってますか?

2014年10月02日 | (転載・記事)  総 合

序章的な部分は終えて、愈々第一章に入ることにしたいと思います。
長谷川櫂氏には真に申し訳ないけれど、氏の説明に納得できません。

長谷川櫂氏は「古池や」の句に深遠な意味が隠されているのではないかと深読みする人々も出てきた、と述べる。

深読みとは何のことか…櫂氏は「深読み」の説明を省いておられる。
「深読み」は正しいのか、それとも「深読み」は間違っているのか。

氏の次のフレーズは深読みは間違いであると思わせぶりに表現する。
『正岡子規は、そうした怪しげな深読みを一笑に付して…喝破した』
即ち、深読みを否定する「怪しげ」、子規を肯定する「喝破」です。

けれど、氏は次に一転して、疑問形を使って子規を否定しに掛かる。
即ち「子規が自明のこととしている…といっているのだろうか」と。

櫂氏が言いたいのは「深読みは間違いで、子規も間違い」でしょう。
説明のないままに「深読み」を否定するのは如何かと思うも…置く。

それなら氏は、子規のなにが間違っていると言いたいのでしょうか。
それについて、氏は正岡子規の次下のフレーズを挙げているのです。

「古池の句の意義は一句の表面に現れたるだけの意義にして、復他に意義なる者無し」(古池の句の弁)

「古池に蛙が飛びこんで水の音がした」光景を子規が想像したのは間違いと述べているようです。
更に氏は「古池に蛙が飛びこんだ」光景を想像すること自体が間違いと述べているのでしょうか。

この句に、詠み手は詠み手の、読み手は読み手の古池を想起します。
子規がそのような説明をしたとして、それの何が間違いでしょうか。

或いは、氏の著書の第一章に載っていない事実が有るのでしょうか。