表紙裏 第一集

2016-09-08 | 第一集

表紙裏

「純粋な憂慮に満ちた心に生ずる真の問題は『人類が急速に成長して、文明と悲惨との競争に勝つことができるであろうか』ということである」

「『原子爆弾の意味するもの』をして地上の各人民が平和と正義の中に行きうる方法を、人々に探究させることを怠らせてはならない」

                             --東京裁判・パル判決文/勧告--


「B29エノラ・ゲイによる原爆投下」 第一集

2016-09-07 | 第一集

1集「B29エノラ・ゲイによる原爆投下」



●●B29エノラ・ゲイによる原爆投下

ボイス・レコーダーによる決定的瞬間の記録
 
 太平洋戦争時米軍は人類史上初めての原爆投下に際し、ボイス・レコーダーをエノラ・ゲイに積み込み、投下の決定的瞬間を録音していた。
 
 以下は、広島市立宇品中学校教諭・永田邦生先生が提供してくださった、エノラ・ゲイ機内の原爆投下の状況を生々しく伝える乗組員たちの言葉である。ちなみに、永田先生は、原爆の問題を考える平和教育の教材として、このテープを生徒たちに聞かせ、各自に感想を求めている。
 
 原爆を考え出し、製造して、爆撃を計画し、実際に投下したのも、同じ人間であることを想い起こしながら、決定的瞬間を振り返ってみたい。

「……です」
「フィヤビー大佐(爆撃手)以外の乗務員は全員遮光メガネ(原爆の強烈な光を避けるための特殊メガネ)をかけています」
「ボブ、彼女(原爆)を起こせ」
「確認」
「進行中。爆弾発射までまだほんの少し間がある」
「原爆は三〇秒以内に投下態勢に入る」
「視界、前方はどのようか」
「クリアーだ。72飛行路には何の敵の妨害もない」
「作動完了警報です」
「飛行機を守れ」
「よし、やったぞ(爆弾投下準備完了)」
「急降下、急旋回の用意だ」
「18秒……15秒前……接近…接近、爆弾投下」(爆弾投下から43秒後に原爆は爆発することになっている。その間に安全圏に退避すべく全速で急降下右旋回)
……
「ジェリイ、何かわかったか」
「何も」
「6、5、4、3、2、1…(爆発)」
「でかいやつだ」
「まるで……のようだ」


“……(unintelligible),Sir.”
“All crew members except for Major Ferebee, on glasses.”
“Bob, get her up.”
“check...”
“We'are running. There'll be a short intermission before the bomb goes off.”
“AB coming up in about 30 seconds.”
“Vision, how's it looking ahead?”
“Clear. There's no enemy interference on the 72 flightpath.”
“I'm turning on the drone.”
“Secure the airplane.”
“You got it. ”
“Stand by for a full break and turn.”
“18...15 seconds....Approaching...approaching...and now, bomb's away.”

“Jerry, did you get anything yet?”
“Nothing.”
“6,5,4,3,2,1(explosion).”
“Yes, it was a big one.”
“Looks like (unintelligible)” 
                                                
“……(unintelligible),Sir.”
「……です」
“All crew members except for Major Ferebee, on glasses.”
「フィヤビー大佐(爆撃手)以外の乗務員は全員遮光メガネ(原爆の強烈な光を避けるための特殊メガネ)をかけています」
“Bob, get her up.”
「ボブ、彼女(原爆)を起こせ」
“check..”
「確認」
“We'are running. There'll be a short intermission before the bomb goes off.”
「進行中。爆弾発射までまだほんの少し間がある」
“AB coming up in about 30 seconds.”
「原爆は30秒以内に投下態勢に入る」
“Vision, how's it looking ahead?”
「視界、前方はどのようか」
“Clear. There's no enemy interference on the 72 flightpath.”
「クリアーだ。72飛行路には何の敵の妨害もない」
“I'm turning on the drone.”
「作動完了警報です」
“Secure the airplane.”
「飛行機を守れ」
“You got it. ”
「よし、やったぞ(爆弾投下準備完了)」
“Stand by for a full break and turn.”
「急降下、急旋回の用意だ」
“18...15 seconds....Approaching...approaching...and now, bomb's away.”
「18秒……15秒前……接近…接近、爆弾投下」(爆弾投下から43秒後に原爆は爆発することになっている。その間に安全圏に退避すべく全速で急降下、急旋回を続ける)
.....
“Jerry, did you get anything yet?”
「ジェリイ、何かわかったか」
“Nothing.”
「何も」
“6,5,4,3,2,1(explosion).”
「6、5、4、3、2、1…(爆発)」
“Yes, it was a big one.”
「でかいやつだ」
“Looks like (unintelligible)”
「まるで……のようだ」




 ●原爆投下の決定的3分間--「エノラ・ゲイ」による--
 
 原爆投下の決定的3分間を、「エノラ・ゲイ」(ゴードン・トマス/マックス・モーガン共著/松田銑訳/TBSブリタニカ)は次のように叙述している。ボイスレコーダーとは若干の違いがあるが、そのときの状況は別な角度からよく伝えられている。少し長いが、ここに引用させていただきたい。

 ちなみにエノラ・ゲイの乗組員は以下の通りである。
機長・操縦士      ポール・ティベッツ
副操縦士        ルイス
爆撃手         フィヤビー
レーダー士       ビーザー
航法士         バンカーク
無線通信士       ネルソン
原爆点火装置設定担当  パーソンズ
電気回路制御・計測士  ジェプソン
後尾機銃手・写真撮影係 キャロン
胴下機銃手・電気士   シューマード
計器手         ドゥゼンバリー
レーダー技術士     スティボリック


 もうあと一分間。
 ティベッツがインターコムに向かって言った。
「眼鏡をかけろ」
 一二人のうち九人がポラロイドの眼鏡を目にかけた。とたんに真っ暗で何も見えなくなった。
 ティベッツとフィヤビーとビーザーだけが眼鏡を額にかけたなりにしていた。それでなければ仕事ができないからだった。
 ルイスは眼鏡をかける前に「航空日誌」に注を書きこんだ。「目標爆撃の間はしばらく記入中断」
 三〇秒前。
 
 いくつもの事が一時に起こった。フィヤビーが広島市がファインダーの中に入り出したと叫んだ。ビーザーがパーソンズに声をかけ、日本のレーダーが爆弾の近接自動信管を起爆させようとしている形跡はないと言った。ティベッツのすぐ後ろに立っていたパーソンズが眼鏡を押し上げて、ティべッツに「たしかにこれが目標だ」と認めた。パーソンズが眼鏡を下ろすと、ティべッツがインターコムに向かって口早に命令した。
「信号音停止用意||旋回用意」
 それが前原子力時代の彼の最後の言葉であった。
 
 フィヤビーは、まだ眼鏡を額にかけたまま、じっと目標から目を放さずにいた。空中偵察写真の白黒の像が色彩のある像に変わって展開していた。緑と柔らかいパステル色と、建物のくすんだ色とが、大きな人の指のような形の陸地の上にぎっしりと並び、広島湾の濃青の海の際まで連なっていた。太田川の六本の分流は茶色であった。市内の主要な街路はにぶい金属的な灰色に見えた。薄い紗のような霞が市の上空にかすかに光っていたが、フィヤビーの視野を曇らせはしなかった。照準点のT字型の相生橋がまさに彼の照準器の中心の十字線のところに来かかっていた。

 「やったぞ」
 フィヤビーは最後の調整を行ない、信号音のスイッチを入れた。それはピッ、ピッ、ピッという低い連続音で、フィヤビーが爆撃航程最後の一五秒間の自動時限装置を作動させたことを示すのだった。
 爆弾が爆弾庫に引っかかって、落ちないということにならないかぎり、もうフィヤビーのするべき仕事はなかった。
 一マイル後ろのグレート・アーティストの機上では、爆撃手のカーミット・ビーハンが爆弾倉の扉を開き、落下傘に付けた爆風測定器を投下する時を待っていた。
 二マイル後ろのマークワードの九一号機は写真撮影の位置につくため、九〇度の旋回を始めた。
 
 エノラ・ゲイの信号音は三機の気象偵察機も受け取っていた。そのうちイーザリーの機は、もう広島から二二五マイル離れて、基地へ向かって進んでいた。
 その信号音は硫黄島のマックナイトも聞いた。彼はもう不要になった予備機、トップ・シークレットの操縦席に坐ったままであった。マックナイトはユアンナに信号音が聞こえると知らせ、ユアンナがテニアン島に無線で報告した。
「爆弾が落ちようとしている」

 午前八時一五分一七秒。エノラ・ゲイの爆弾倉の扉がパッと開いた。そしてこの時には誰も何もしなくてもよかった。世界最初の原子爆弾は自動的にいままでかかっていた掛け金を離れて落下した。

 それと同じ瞬間に--制御盤につながっていたケーブルが爆弾から外れ、信号音が止まった。
 エノラ・ゲイは、突然に九〇〇〇ポンドも軽くなったので、一〇フィート近く跳ね上がった。
 機尾のキャロンはカメラをギュッと握りしめ、保護眼鏡で何も見えないのに、どちらヘカメラを向けたものかと思案していた。
 ティベッツはエノラ・ゲイを右へ急角度に旋回させはじめた。
 グレート・アーティストの機上ではスイーニーがエノラ・ゲイの爆弾倉から爆弾が出て行くのを見た。ビーハンが爆風測定装置を放した。
 九一号機の機上ではカメラが回転し出した。
 午前八時一五分二〇秒。
 この三秒の間に、フィヤビーは「爆弾が落ちる!」と叫び、照準器から目を離し、エノラ・ゲイの機首のプレキシグラスを通して、初め真下を見、それから後ろを振り返った。
 彼の眼には、爆弾がサッと爆弾倉から落ち、爆弾倉の扉がバタンと閉まるのが見えた。ほんのまばたきするほどの間、爆弾は何か目に見えぬ力で支えられて、機の下に宙ぶらりんになっているように見えた。
 それからグングン落ちはじめた。
「それは速度が加わるまでは少しぶらん、ぶらんと揺れたが、そこから先は予期どおりまっすぐに落ちていった」
 爆発まであと四〇秒あった。
……

 エノラ・ゲイの機上では、ティべッツが激しい動力急降下で右方向へ一五五度の急旋回を続けていた。
 スイーニーのグレート・アーティストは左へ向けてそれとまったく同じ運動を行なっていた。
 爆弾の内部では、時限装置が点火電気回路の第一スイッチを入れ、電流が点火装置に向かって定められた区間だけ前進した。
 ティベッツはキャロン(機関銃台座に特別配置されたカメラ撮影担当)に、何か見えるかと尋ねた。キャロンは、自分の砲塔の中に大の字に張りつけになったように身動きもできず、引力の作用で頭からぐんぐん血がひいていくのを覚えながら、やっと喘ぎ喘ぎ一言答えた。「何にも」
 ビーザーも激しい急旋回の力で身動きができず、自分の装置の辺りに視線を据えたまま、針金磁気録音機のほうへ手を持ち上げようと努めていた。
 ほかに誰も身動きする者はなかった。
 あと二〇秒であった。

 その時……広島放送局のアナウンサーは、空襲警報を放送するためにスタジオに入った。広島飛行場の半地下壕の通信室では、安沢少尉が通信会議の場所を問い合わせていた。
 防火帯では、監督たちが号笛を吹き鳴らし出した。何千人もの作業員たち(その多くは学校の生徒の少年、少女であった)に定められた待避所へ駈けて行けという合図であった。
……

 エノラ・ゲイの機上では、ジェプソンが秒読みを始めた。ティべッツは眼鏡を引き下ろしたが、そうすると何も見えなかった。彼は眼鏡をかなぐり捨てた。
 機首では、フィヤビーも初めから眼鏡はかけなかった。
 エノラ・ゲイは、もう息もつけない急旋回運動の終わりに近づいて、フィヤビーの照準点からは約五マイル離れ、市からぐんぐん遠ざかっていた。ティべッツがキャロンに問いかけたが、後部射手はまた「何も見えない」と答えた。
 ルイスは我知らず操縦桿を握り締めた。ビーザーの手はやっと針金磁気録音機のスイッチを入れることができた。ネルソンは見えないながらも無線機のほうを見つめた。スティボリックがレーダーのスクリーンを明るくして、眼鏡越しに見えるようにした。シューマードも見えないながらに胴体の砲塔の中から外を眺めた。ドゥゼンバリーは片手をスロットルに掛けて、爆風でエノラ・ゲイのエンジンがやられはせぬかと心配していた。
 ジェプソンは秒読みを続けた。あと五秒。
 その同じ瞬間に||爆弾の内部では、地上五〇〇〇フィートの高度で気圧スイッチが動いた。爆弾の外殻が空気をつんざく音がごうごうという衝撃波音に高まっていたが、まだ下界では聞き取れなかった。
……

 広島放送局では、アナウンサーが空襲警報のサイレンを鳴らすボタンを押し、息を切らしながらマイクに向かって放送し始めた。「午前八時一三分、中国軍管区発令……」
 ジェプソンの秒読みは続く。四○、四一、四二、……。
 アナウンサーは読み進んだ。「……敵大型機三機……」
 その瞬間に||ジェプソンの秒読みは四五に達した。
 爆弾の点火装置が地上一八九〇フィートの高度で作動した。

 午前八時一六分ちょうど、原子爆弾はエノラ・ゲイを離れてから四三秒の間に、ほとんど六マイルの距離を落下し、相生橋から八〇〇フィート外れ、島医院の(※ほぼ)真上で爆発した。

 午前八時一六分から一〇〇〇分の一秒・・・広島のどんな時計でも計れないほどの短い時間・・・の間に、針の先ほどの大きさの紫がかった赤い一点の光が、直径数百フィートの火の玉に膨れた。その中心の温度は五〇〇〇万度であった。
 爆発直下の地点「爆心地」の島医院でも温度は摂氏数千度に達した。閃光の熱は一マイルの距離で火災を生じ、二マイルの距離で人の皮膚を焼いた。
……
 
 ……ほとんどすべてが、ボップ・キャロンが、保護眼鏡の陰で、閃光に思わずまばたきした一瞬のうちに生じた。 エノラ・ゲイの乗員は、みんなその閃光を見、その強烈さに圧倒された。誰も一言も言わなかった。
 ティベッツは「口の中にその光の味を感じたが、鉛のような味だった」
 この世の物とは思えない、そのすさまじい光は、操縦席の計器盤と、ドゥゼンバリーの管制盤と、ネルソンの無線機と、ビーザーの前の装置の棚とをカッと照らし出した。 (保護眼鏡をかけてもなお閃光のまぶしさに思わずまばたきした)キャロンが目を開けた時には、閃光は消えていた。しかしその閃光に取って代わった物も、同じくすさまじかった。キャロンの言葉によれば、それは「地獄をのぞいた」ような光景であった。

 広島では火焔のつむじ風が吹きまくっていた。幅一マイル以上の地域のなかから、赤と紫の巨大な灼熱の火の塊が天に立ち昇っていた。火の柱の根本には超高温の空気が吸いこまれており、そこでは一切の可燃物が燃え上がっていた。
……

 広島から一○マイルばかりの空をいまだに市を後ろにして飛んでいくエノラ・ゲイの機上では、まず最初にボップ・キャロンが、機尾の見晴らしのいい場所から、恐ろしい現象が起こるのを見つけた。巨大な空気の塊が輪になって、ぐんぐん大きく広がりながら音速で上昇し、エノラ・ゲイ目がけて押し寄せて来る。後部射手(キャロン)はゾッとして目がくらみそうになりながら、仲間に知らせようとした。

 しかし、彼の絶叫は言葉にならなかった。
 原爆の衝撃波を目で見たのは、キャロンが世界で初めてであった。それは空気が猛烈な力で圧縮されたために、有形になったように見えたのである。それはキャロンの目には、「どこか遠くの天体の環が外れて、我々めがけて飛びかかってくる」ように見えた。

 彼はもう一度わめいた。
 それと同時に、その空気の環がエノラ・ゲイの翼と機体に衝突して、機を高く投げ上げた。ティベッツは操縦桿をつかんだ。しかしティベッツがひどく懸念したのは、衝撃波よりもむしろ衝撃波に伴った音であった。ティベッツはヨーロッパでの爆撃飛行の時のことを思い出して、それは「八八ミリ砲の砲弾がすぐ横の脇で破裂した」音だと思った。彼はすぐ「高射砲だ!」とどなった。
 フィヤビーも同じように感じた。「畜生め、こっちを撃ってるぞ!」
 二人の歴戦の古強者は必死になって、機の周囲に高射砲の煙の束が見えはせぬかと探した。機の中は狂乱状態になった。

 それから四秒も経たぬうちに、インターコムにわいわい入り乱れる声のなかに、キャロンがもう一度、きわ高い金切り声を上げた。
「もう一つ来るぞ!」
 背骨も折れそうなほどの衛撃で、第二の空気の壁がエノラ・ゲイにぶち当たった。機はもう一度投げ上げられ、ネルソンは危うく席から飛ばされかかり、ビーザーはころころと転がった。一人が取り乱してわめきはじめた。ティべッツがそれを叱って黙らせた。 衝撃波は来た時と同じく、あっと言う間に去っていった。エノラ・ゲイの機内には落ち着きがもどってきた。

 ティべッツが乗員に話しかけた。
「オーケー。あれは地面からはね返ってきた衝撃波だ。もうこれ以上は来ない。高射砲ではなかった。落ち着け。さあ録音を始めよう。ビーザー、いいか?」
「ええ、大佐」
「乗員を一人一人まわって、感想を録音してくれ。簡単明瞭に話せよ。ボップ、君から始めろ」
「いやあ、大佐。まったくすごい」
「目に触れることを簡単に言うんだ。ラジオ放送に出演してるつもりでやれ」
 キャロンはそのとおりにした。エノラ・ゲイは広島から一一マイル離れた上空を一万九二〇〇フィートの高度で旋回しはじめたが、キャロンはその機上で、永久に忘れられない、生ま生ましい目撃談を述べた。

「煙の柱がどんどん上へのびている。中心は火のように真っ赤だ。その芯の真っ赤な、紫がかった灰色の煙の塊がモクモク渦を巻いている。全体が沸き返っている。焔がそこら中から噴き出ている。大きな石炭の炉から噴き出る焔のようだ。焔の数を数えてみよう。一、二、三、四、五、六……一四、一五……駄目だ。数えきれない。あ、来た。パーソンズ大佐の話されたきのこ型の雲だ。こっちへ来る。煮えくり返る糖蜜の塊みたいだ。きのこの形がどんどん膨れる。多分、横が一、二マイル、高さが半マイルぐらいかな。ぐんぐんぐんぐん上る、上る。この飛行機とほとんど同じくらいの高さで、まだ上へのびる。真っ黒だが、ちょっと紫がかった雲だ。きのこの根元は厚い雲が広がっていて、そこからたくさんの焔が吹き出ている。広島の町はあの下にちがいない。火と煙とがうねって渦巻きながら、山の麓の丘のほうへのびる。丘が次々に煙の下に隠れている。いま町で目につくのは、大ドックと飛行場らしいものだけだ。それはまだ見える。そこには飛行機が並んでいる」

 ティべッツは大きな輪を描いて、雲のまわりを旋回した。その時のきのこ雲の頂上は六万フィートまで昇っていた。
 ビーザーの録音の順番を待ちながら、ルイスは「航空日誌」に書く「文句に苦しんで」いた。同乗していた乗員のなかには、後日、ルイスがきのこ雲を見た時の第一声は「うわあ、あの化け物を見ろよ!」だったと主張する人たちがいた。しかしルイスはそのあとで「うわあ、おれたちは何をしたんだ?」と書くことにした。

 ティべッツの感想は「わたしは驚いた。いやショックを受けたと言ってもいい。わたしは何か大きな事を見るだろうとは思っていたが、しかし大きいとは何だろう? わたしが見たのは絶大な規模の出来事で、その意味するところは、おそらくわたしが実際に想像したより、はるかに大きい破壊が行われたということだ」

 ビーザーはごく簡単に自分の後世に残す言葉を語った。「とてもすごい。やれやれ安心した」
 ネルソンとシューマードとドゥゼンバリーとは、「恐るべき」とか、「信じられないほどの」とか、「気絶しそうなぐらい」とか、「壊滅的」とかいう言葉を使って、見た物を表現しようとした。スティボリックは「これで戦争は終わりだ」と感じたと言った。フィヤビーとパーソンズは爆撃報告書を作るのに忙しくて、感想の録音どころではなかった。

 機尾ではキャロンがやがて世界中で使われることになる写真を撮りはじめていた。
時速二一五マイル、高度二万九〇〇〇フィート、機外温度摂氏氷点下一八度。エノラ・ゲイは爆撃した都市のまわりを一周し終わった。……
……
 エノラ・ゲイの機上では、ネルソンがすでに攻撃成功の報告を送っていた。
……「みごと命中。あらゆる点で大成功。目に見える効果はアラモゴードより大。爆弾投下後、機内は異常なし。基地へ向かう」

     「エノラ・ゲイ」(ゴードン・トマス/マックス・モーガン共著/松田銑訳/TBSブリタニカ/一九八〇)


編集部注※
引用上、わかりやすくするため、省いたところ、また( )で説明を加えた箇所があります。なお、原爆の爆心は、現在では島医院の真上ではなく、ほんの少しずれていることがわかり修正されました。引用文の中では※印の部分です。


      
   

「廃虚の街に母をさがして」 加藤浩さんに聞く第一集

2016-09-07 | 第一集

 

 1集加藤証言

  

  廃虚の街に母をさがして
                 
--加藤浩さんに聞く--



加藤浩さん
生年月日●昭和六年(一九三一年)一月二六日生まれ(インタビュー時七一歳)
被爆当時●一三歳/修道中学三年生 当時自宅は千田町
被爆地●爆心より二・八キロ/霞町・陸軍兵器支廠(ししょう) 



         
陸軍兵器支廠(ししょう)跡は広島大学医学部、歯学部、広島県警察学校などに

当時の部材を一部使い、復元された「医学資料館」  2004/6/9                                   



 私は加藤浩と申します。生まれは東京世田谷の太子堂です。昭和六年(一九三一年)生まれです。
 父の竹夫は、陸軍将校で、転属が多かったので、小さいときはいろいろ住居が変わりました。母の実家は広島の千田町でした。兄と姉と妹の四人兄弟です。

 四歳くらいまで太子堂におりましたが、そのあと広島の千田町に半年ほどいて、五歳から父親の転属で満州に行きました。父は近眼で視力が足りなかったせいか、輜重(しちょう)部隊で活躍しました。今で言う輸送部隊の将校でした。満州は公主嶺(こうしゅれい)というところに戦車学校があって、そこに勤務していました。公主嶺は、瀋陽(しんよう)から満州鉄道で北東へ向かったところにあります。長春の近くです。そこに陸軍の戦車学校がありました。私たちの家族はそこの陸軍官舎に住んでいました。

 公主嶺から長春にまた異動になって、長春に移り住みました。当時、長春には関東軍の司令部があったんですね。司令部付陸軍中佐でした。長春には一年くらいおりましたでしょうか。小学校四年まで満州にいたんです。もう日華事変は始まっていました。
 昭和一五年(一九四〇年)の春ぐらいでしょうか、今度は内地に転勤になったんです。今の世田谷の経堂に東京農大がありますが、あそこの建物が昔、陸軍機甲整備学校だったわけです。戦争前は陸軍自動車学校と言ったんです。そこの副校長として、陸軍大佐となって転勤になりました。

 そのとき世田谷の上馬町に住んで、五年生までそこの近くの駒沢小学校に通いました。六年生からまた転居で杉並区の和泉町の大宮小学校に通ったんです。それからさらに戦争中は荻窪の清水町に転居して、そこから中学に通っていました。今の桐朋高校の前身になった山水(やまみず)中学です。当時は陸軍士官学校などの予備校のような学校でした。

 東京に勤務してから、自動車専門学校ですから、父の送り迎えは、自動車でした。兵隊付の自動車が来ていましたね。乗用車で前部に赤旗が立っていました。大佐は赤旗なんですね。あとから、毎朝迎えに来る自動車は、アメリカ製のフォードになりました。シンガポールとかフィリピンのアメリカ軍からの捕獲品でしょうね。日本の車と違って「ああ、ハイカラな車だな」と思いました。
                               
 広島に行ったのは、戦時中のいわゆる疎開です。
 昭和一九年の終り頃に空襲が始まったんです。B29がサイパンから編隊を組んで爆撃を始めた、しょっぱなの空襲ですね。本格的な空襲があったんですよね。その頃はまだ焼夷弾(しょういだん)による空襲ではなくて、軍需工場などをターゲットにした普通爆弾の爆撃でした。工場や軍需施設を破壊するためのもの、日本の戦力を叩くための爆撃だったわけです。西荻窪から三鷹あたりにかけて中島飛行機の荻窪工場があったんですよね。その中島飛行機工場を狙ってきた。
 しかし最初の頃はあまり慣れていないもんだから、関係のない住宅地にどんどん落ちたんですね。しかも何回もあった。徹底的に飛行機工場を破壊しようとしたんでしょうね。第一回の空襲で、そのとき私は家にいなかったんですが、うちの台所に破片が飛んできた。こんな大きなB29の爆弾の破片が落ちてきたんです。台所に穴が開いて一部めちゃめちゃになったんです。

 当時はもう各家に防空壕があって、母は防空壕に避難していたんですが、「ものすごく恐ろしかった」と言って、破片を見せてくれました。「恐ろしい」と。破片でそれですから、もろに受けたらどれくらいこわいか。それでもう疎開しなきゃいけないと、痛切に思ったんです。でもまだそのときは帰らなかったんです。

 そうしていたら、一週間くらいあとに第二回目の空襲があったんですよ。そのとき私は中学校にいたんですが、警戒警報が鳴って、編隊が来るんで「各自家に帰れ」という命令で、荻窪の家に帰ったばかりのときでした。
 帰ってちょっとしたら、B29の編隊が来ましたよ。かなり真上に来てるから、こりゃあやばいなと思って、あまり見ずに防空壕の中に入っていったら、案の定、また近くに落ちましたよね。二五〇キロの爆弾なんですがすごいものです。私くらいの背の高さですよ。これは恐ろしい。落ちるまでの長いこと。爆弾が空から落ちてくるんですがね、だんだん音が大きくなって、近づいてくる。はじめはゴオオオオーーという音がして、それから雨が降るようなザアアアアーーという音が襲ってくる。爆弾が落ちる音ですよ。もう耳がつんざけるような音です。もうこれは助からんと思って観念しました。
 母が「なんまいだ、なんまいだ」と隣で唱えているわけですよ。母があんな念仏を唱えるなんて聞いたことがないなあと思っていたら、ズカアアアアッと、内臓が千切れるようにきましたよ。地面がグラグラッと揺れて。耳をふさいで、例の調子でこうやってましたけど、それでもものすごかった。やられたと思って。
 そうしたらだんだん音がまた小さくなっていったんですよ。意識はある。何ともない。それでやれやれ助かったなあ、と防空壕から出たんですけどね。

 でもそのときは家には被害がなかったんです。第一回目のときは家の台所に穴が空いた。破片でね。でも二回目は何も被害がないのに、あんなにすごくてもうおしまいかと思ったくらいだったので、一回目はもっとひどかったんだなあと思って、母の恐怖がよくわかりました。それで母が「こんなことが再三あったんじゃたまらない」というので、母の実家の広島の千田町に疎開することになったんです。
 当時広島はまだそれほど空襲はなかったし、実家が広島の千田町にあるのでそこへ疎開したわけです。その当時、移動の遠距離切符は制限されてあまり自由に買えなかったんですが、父は軍部の関係ですから、優先的に切符を手配して、行くことができました。昭和一九年(一九四四年)の末でした。

                               

 私は広島の修道中学に転校しました。修道中学は今は修道高校ですが、やはり千田町にありました。

 当時すでに食糧事情が相当悪くて、雑炊が配給されていました。雑炊の券があって、広島大の学生が宝町の近辺の市場の周りにぐるーっと輪になって、鍋を持って並んでいました。
 私より六つ上の兄は陸軍士官学校を出て、当時見習士官で東京に残っていました。父も陸軍自動車学校にそのまま勤務していました。

 私は当時中学二年生、満で一三歳でした。最初の頃は少し勉強しましたが、あとはもう中学三年生になってからは学徒動員で、軍需工場で働かされました。霞町に陸軍の兵器支廠(ししょう)というところがあるんですね。一週間に一回学校へ行って授業して、あとは工場で無料奉仕です。授業料払って、無料奉仕でした。今広島大学附属病院のあるところです。

 そこで朝から晩まで弾薬の箱詰でした。六〇センチくらいの箱に詰めました。弾薬箱はものすごく重かった。だからそれを運ぶのは、重労働でした。モップを肩に当てないと、運べない。肩に食い込みますから。それが一番しんどい作業でしたね。楽なほうの部所は流れ作業で、ごろごろ流れてくる弾のプラスマイナスをつけて、量って送るというものでした。標準がプラスマイナスで、重たいのはプラスに入れて、錆びているところに塗料のコールタールを塗って。

 それを箱に詰めて、トラックに積んで宮島の包ケ浦というところへ運ぶんですよ。シンガポールでたくさん自動車を捕獲した、そのトラックで運びましたね。そういう車がみな作業をしていました。ここの部所は三カ月交代で、宮島の包ケ浦へその間、島流しみたいな格好になるんです。
 宇品から船でずーっと宮島まで行って、船着場から今度は山を三つ越えるんです。晩に着くので、真っ暗闇の山を三つ越えるんですね。

 そこの宿舎からさらに行って、海岸のちょっと奥に、キャンプを張っているところがあるんです。そこで火薬を詰めて弾薬を作るわけです。流れるとろとろとした火薬をこしらえて。弾薬は鉄の塊ですよね。火薬を溶かしてその中へ入れるわけです。信管は別に作ったのをはめるんです。弾は信管がないと爆発しませんからね。信管はまたちょっとでも触れると破裂しますから危険ですよね。あるいは絹の袋に、大豆やら小豆やらいろんな豆みたいな火薬を詰めるんです。その作業は広島の鈴ケ峰の女子高の生徒が、やはり住み込みで来てやっていました。宮島の包ケ浦で。

 それから海水浴場の洞窟に穴を掘って、そこにできあがったものを貯蔵していました。主に朝鮮人が掘りました。重労働を朝鮮人がやりました。穴の中に兵隊さんがわずかにいて、指示していました。動員学徒の私らが火薬を詰めてできあがった弾を、洞窟の中へどんどん入れるんですね。穴の中へ積み重ねるわけです。だから、海岸べりは火薬の色で真ッ黄色でした。火薬の粉にどうしても染まるんですね。

 火薬は指や空気からどうしても体内に入ります。でも砂糖湯を飲むとその毒が体外に出る、尿になって出るということで、一日一回砂糖湯を飲まされました。当時、砂糖がないので、これがおいしかったですよね。
 海水浴場ですから、当然宿舎はその辺にありません。山を二つ越したところに、杉ノ浦といって、海水浴場の小さいのがあったんです。そこに昔の旅館が三つあった。その一つのガタガタの古い旅館に住み込んで、朝起きて、大豆入りの小さいおむすびを三つ、たくあんを二切れを持って、山を二つ越えて仕事現場まで行きました。

 その当時憶えているのは、わらの草履、ワラジですね。あれを履いていったのを憶えています。靴が貴重だった。夏の間はそれを履いていったんです。

 その三つのむすびの小さい弁当なんですがね、腹が減ると一〇時の休憩のときに食べちゃうんですね。食べ盛りですからね。それで一二時にはもうはらぺこになっていました。その当時は朝晩大豆飯で、昼、そのむすびを食べたらもう晩まで食べられませんでしたからね。もう腹がへって。そのむすびの中に入ってるたくあんを、みんなでしげしげと見るんですよ。たくあんの厚さでうらやましがるわけです。
「おお、おまえのたくあん、ちょっと大きいなぁ」と言って。たくあんを卵焼きに見せかける。想像するわけ。「おお、おまえの卵焼きちょっとごっついなぁ」とね。たくあんでさえ満足に食べられないんですよ。もう朝から晩まで食べることしか頭にない。いつも腹が減ってるから、もう食べたい食べたいばっかり。みないっしょですよ。食べ盛りでね。

 一カ月に一回くらい広島市内へ返してくれました。包ケ浦から広島の三菱造船所のクレーンが見えるわけです。あれを見たら「ああ、広島に帰りたいな」と思う。三カ月の交代ですからね。もちろん学校の先生もついていくし、士官さんもいい人でしたがね。

そこの責任者は学徒出身の陸軍少尉で、同じ修道中学の先輩だったんです。先生はその指揮官の下になって働くことになったわけです。同じ学校の後輩が先輩の先生に指示を出すということに。だからその後輩の士官もなかなかよい人で、先生のいうことをやっぱりよく聞いていましたね。パリパリの軍人じゃなくて、学徒から出ていった分、貫禄を持つ兵隊と違って、いろいろやさしくしてくれましたよね。

 島から見ていると、広島にもだんだん空襲が始まって、アメリカの艦載機なんかが飛来するようになった。広島にはまだ本格的なB29の爆撃はありませんでした。当時は不思議だったんですが、あとで聞いたら、原爆を落とすためにそのままにしておいたということですがね。だから、飛んで来たのは戦闘機などの艦載機です。

 呉の方は軍港があって軍艦がいましたから、ちょっと離れていましたけど、宮島から呉の方が見えるわけです。戦闘機が呉の方へ飛んでくる。ゴオーッと。アメリカの戦闘機はきれいなもんですよ。見事に急降下、ウイーン、ザアアアーッと来るわけですね。
 遠くなんですけど、一応みんな防空壕に入らされるわけです。防空壕は、弾薬を詰めこんだ箱といっしょのところに入るんですね。気が気じゃないですよね。ここに爆弾を四、五発落とされたら宮島は吹っ飛んでしまうと言われていましたから。ここが弾薬の貯蔵庫だとはまだアメリカにはわかっていないからだいじょうぶだとは言っていましたけど。

 艦載機を避ける間、防空壕に入っているだけじゃなくて、その中で勉強させられました。担当が歴史の先生だったもので、「天皇の名前を初めから言え」といって順番にやらされるんですよ。「神武、綏靖(すいぜい)、安寧(あんねい)……」って。だからすぐ時間が過ぎましたがね。

 そんな生活を三カ月したらまた交代で、チェンジして広島の兵器支廠に移るわけです。たまたま三カ月して交代して広島へ帰って、そのとき原爆にあったわけですね。各クラスで十何人くらいずつ班になって分かれるんです。同じ場所にあまり大勢でいられない。広いですから、あちこちへ配属になるわけです。そこで兵隊と工員と学徒の三隊いっしょで作業するんです。学徒だからといっても作業は同じです。労働はいっしょでした。

 作業人数は、学徒が二クラスで五〇人くらいでした。私らの学校だけで五〇人で、女子高からまた五〇人くらい来ていました。兵隊が五〇人くらい、工員が五〇人くらいですか。それと重労働の朝鮮人の作業員。船着場からどんどん運んだりするのは朝鮮人でした。彼らはつらい仕事にもかかわらず、よく働きましたね。

 夏は暑くてたまりませんでしたね。流れ作業で、例の弾薬箱に弾薬を詰めてね。それに釘をパパパッと打つんですよ。これが目方にして三〇キロあるんです。まあ、重いですよ。ちょっと木陰でパーっと打って、途中で担ぐものと代わるわけです。トラックに積んで穴まで運ぶのに、重くて肩にぐーっと食い込みますから、肩へ毛布の小さいのを当てていました。そうしないと肩が擦りむけて血が出る。平らなのを斜めに担いで行くんですよね。火薬が入ってると結構重たいんですね。それを朝から晩までやらされるんですよ。

 私はもともと身体が小さいのに、その当時まだちゃんと成長していない体でしたからね。一三歳で骨格もしっかりしていなかったときですよね。そんな体ですから、ほんとうに三〇キロの弾薬箱は重くてきつかったです。おまけに腹ぺこ状態ですから。せめて食べるものでも食べられればよかったんですけど。

 広島へ帰っても同じ状態だったですね。楽な作業のところもありましたけど。車の整備とか無線の修理とか、そういう作業は同じ学校でもいろいろありましたがね。たまたま私なんかが作業したとき、同じクラスで今、絵で有名な平山郁夫がいました。彼も私らと同じクラスだったんですよ。あの人は原爆のとき渕崎の材木置き場の方にいたんです。あそこで被爆しているんですね。淵崎だと爆心から四キロくらいのところでしょうか。この辺りにも兵器支廠の材木置き場があったんです。私らもここへ交替で行ったりしました。
 彼の本を読むと、彼も戦後、原爆症で相当苦しんでおります。学校を休んだりして。今は元気になってますがね。必ずしも近いから遠いからといって被爆の度合いが比例するわけではないんですね……。

 霞町の兵器支廠へは家から歩いて通っていました。三〇分くらいでした。毎朝作業は八時から始まりますから、七時半には家を出ていました。
 戦争中は、学生は電車に乗ったらいけなかったんですよ。郊外電車だと認められていましたがね。それで足腰を鍛えさせたんですね。ここからみな歩いたんですよ。戦争前は全部歩かされたんです。

 軍の工場ではお弁当が出るんですよ。これが楽しみでね。そのころ家庭ではどこも雑炊ですよ。兵器支廠へ来たら、かたいコーリャン飯とか小豆飯ですよね。それでも雑炊よりははるかにいい。
 でも、兵隊と工員は学生より飯が多いんですよ。同じ作業をして学生はちょっと少ないんですよ。おかずはだいたい同じだったですね。おかずと言っても一品ですね。たいがい菜っ葉の煮たのとか、たまに肉が入って、肉じゃがとか大根の煮たのとか、そんなのに決まってました。それでもかたいご飯でよかったです。大豆飯でも白いご飯はちょっとで、大豆それからコーリャン、油カスですか、ああいうのが入ってね。ご飯は少ないですよね。それでも、お粥をするするっと飲むよりうまいですからね。それは楽しみでしたね。

 兵器支廠は広かったですよ。兵器支廠というのは建物全体が刑務所みたいなもので、周りがひじょうに高い塀で囲われているわけです。門があってそこに兵隊がいて、門を入るときは、兵隊に敬礼をして入るわけです。許可証がないと自由に外出できない。もちろん学生もね。

 周りがレンガの厚い壁の塀で、これは、爆発を起こしたとき、他へ少しでも被害が及ばないように、また逆に近くで火事や爆発が起きたとき、延焼しないようにという配慮で造られたんですね。これが原爆のときに、ひじょうに防壁として役立ったわけです。しかも近くに比治山という七〇メートルの山があるんですよ。この山がまた大きく原爆の爆風と熱を防いでくれた。これがあったから助かったとも言えるんですね。この山の陰になったから、この辺はみな助かった。段原というところは家の瓦が飛んだり家がゆがむ程度で助かった。煉瓦造りの建物の兵器支廠はガラスが壊れただけで助かったわけです。

 おまけに弾薬庫は土手のように盛り上げられた土、いわゆる掩体(えんたい)で囲まれていました。掩体の土の山を芝で固定しましてね。爆弾が破裂したとき爆風が少しでも緩和(かんわ)されて被害が少なく済むように、弾薬庫の囲いみたいなものを造っておいたんですね。外側の土手がそのまま今でも残っています。それらのおかげでわたしらは助かったわけです。
 当時の広島県庁は爆心に近い所だったので、壊滅してしまった。それで直後この壊れなかった兵器支廠の建物に移って活動したくらいです。新しい県庁ができるまで、ずーっとここでした。

                               

 八月六日の朝でした。いつも八時に出勤です。各班に分かれて、八時から朝礼をします。私らのところは二〇人くらいでした。弾薬庫の建物と建物の間にちょうど六メートルくらいの道路があるんです。弾薬を運ぶトラックが通ったりする道路です。そこの舗装道路に並んで、担当の者が来て朝礼するわけです。毎日同じような話をしていました。

 いつものように朝礼でいろいろな話を聞いて、八時一〇分でしたか、B29の音がしたわけです。ブルンブルンブルンといって、アメリカのB29の飛行機の音はものすごく重い低い音がするんですよ。日本の飛行機はブーンって甲高いんですね。アメリカの飛行機は音が低い。重みのある音なので、音だけでわかります。戦闘機も同じですね。

 その前に空襲警報があることはあったんですよ。それが解除になって、警戒警報も解除になった。解除になったらもう作業をしなくてはいけません。
 音が小さいので、高いところを飛んでいる。遠くの感じでしたね。それ以前も、偵察機がしょっちゅう来ていました。爆弾を落とさずに、偵察にしょっちゅう来てたんですよね。そんな感じでした。

 そのとき、偵察機が真上に来たとき、空襲警報が鳴ったんですよ。音がしても、朝礼の話を聞きながら「飛行機が来たなあ」と思っていたら、朝礼が終わったんです。それで、そのとき飛行機をぱっと見たんですよね。その日は晴天で、飛行機雲がきれいに尾をひいていました。高いところを飛ぶと飛行機は雲を引いてますよね。それがずっと尾をひいていました。B29は銀色でぴかぴか光ってきれいだなあと思って、ちょっと見た瞬間ですね。胴体からパッと落下傘みたいなのが開いたんですよ。「ああ、宣伝ビラかなにか落としたかなあ」と思いました。ちょっとの瞬間でした。

 一呼吸おいて、もうあたり全部、いわゆるプロパンガスというか、都市ガスのような炎ですね。それに写真のフラッシュをたいたような、黄色いようなオレンジ色のような色。白っぽい、ほとんど黄色いような色ですね。白黄色の色があたり一面にパアーっときました。そんな色がひろがったということは、そこに爆弾が来たんだと思った。

 そのとき音は全然ないんですよ。光だけですよ。そこにパッと伏せました。いつも爆弾の訓練を受けていましたからね。目と耳と鼻を両手で塞いで伏せる。いつもの調子でこうやって。そしたらその瞬間、一気に吹き飛ばされました。瞬間ですね。ピカッと光って、ドンと来る、ドンという破裂音で、いわゆるピカドンといいますね。でも私の場合はピカーッという光のあと、ザアーッと来たんです。
 兵器支廠は、爆心から二八〇〇メートルなんですね。それだけ離れていてもいきなり爆風でぶわっと飛ばされました。とりあえずバアーっと伏せった瞬間、グワァーっときて吹っ飛ばされた。パッと目をあけたら、あたり一面が暗闇でした。

 砂塵が飛ぶんですね、地面や家屋から木端微塵(こっぱみじん)になった砂煙がウワーッと飛んだもんで、真っ暗になる。そこら中、砂埃です。
 しかしすぐに明るくなったので、おもむろに目をあけてお互いの顔を見たら、顔がすすまみれで真っ黒ですね。砂塵で、ほんとにどろどろの顔をしておったですね。うわーこれはただ事じゃないなと。
 みんな一瞬で泥まみれですよ。もうひどい顔だった。でも、みんなうれしかったですよ。爆弾が落ちて、こりゃあもう死ぬぞと思ったのが、助かったんですから。これは完全に死んだと思ったのに、「助かった」という思いでした。みんな同じだったですよ。

 そのときはだれもが、光ったのが何なのかまったくわかりませんでした。
 それでみんなが「おお、おまえの顔黒いぞ。おまえも黒いぞ。そうか」と言い合いっこをしました。ガラスで怪我をした人がちょっといましたが、たいした傷ではありませんでしたね。でもやはりそれは、先ほど申し上げましたが、兵器支廠という特別な場所にいたからこそだったわけです。そこにいたから、それだけの傷ですんで、助かったわけですね。

 ぱっと見たら弾薬庫の扉が、ひん曲がっている。いつもは四、五人でガラガラガラーッと鉄を閉めて最後カタンと扉を閉める、その厚い鉄の扉が飴のように大きく曲がっているわけですよ。たまげたですよね。倉庫のガラクタも、粉々だったですね。
 原爆が落ちてから三〇分くらい兵器支廠の中におりました。もうそれで、ひどいことになってしまったので、作業どころではないですから、「学生は各自家へ帰れ」ということになったんですね。先生が「とにかく家へ帰れ」と。非常事態というので、帰宅することになったわけです。ピカッとした朝礼のときから、もう三〇分くらい経ってましたね。

 ところが、門を出たとたん、びっくりしましたね。兵器支廠の前の広い道があるんですが、そこを市街の方から火傷をした人がタッタッタッタッと、向こうからバァーッとこっちに向けてみな逃げて来るわけです。
 それがみなお化けみたいな格好で、すごいんですよ。それも一列や二列じゃないですよ。四列か五列になって道いっぱいに来る。みな無言。一言もものを言わん。かぁーっと顔や体が焼けて、服も焼けてボロボロになっているんですよ。顔が膨れ上がって、皮膚が落ちている人もいる。そばでよく見ないと男か女かよくわからんのです。髪はチリチリで、服がボロボロに焼けてしまっていますし。服が焼けた上に皮膚が焼けて、ただれて、水ぶくれでなしに、もう水ぶくれがとれてしまってるんです。下へ落ちて垂れてしまっている。手から垂れて。痛いといってみなこう手を前に突き出しているんです。
 これがたくさんの人で、もう無言の行列。だらだらだらだら動きが止まらずに、郊外へ郊外へと逃げて来る。中心地にいて、被爆して逃げてきた学生がいる。それを見たら、やはりものすごい。当時学生はみな帽子をかぶってますから、その帽子の線から下が焼けて、みな毛がないんですよ。帽子が焼けた上に思いっきり火傷しているんですね、顔やら首やら腕やら肩やら。そういう人がぞろぞろぞろぞろ。

 もうずーっと、ひっきりなしですよ。御幸橋(みゆきばし)に行くまでずーっと。霞町のこの辺は郊外に近いですよね。こっちへみんな逃げてくる。市街の中心に近いところにいた人たちはもう大火傷でしたから、そういう人たちがどんどん歩いて逃げてくる。宝町の辺もみな火傷しております。私らが兵器支廠の三〇分の間に、中心地で火傷した人がどんどん流れてきて、三〇分たったらちょうどこの辺に来ていたわけですよ。

 今になってわかるんですが、歩けるということは、まだ元気だということです。本当にひどい人は歩けませんから。怪我をして、歩ける人は中心地より一キロくらいのところにいた人。一キロくらいの人がみなどんどんどんどんこっちに来たわけですね。

 それで私らもびっくりしながら逃げて、御幸橋というところへ行ったんです。私は友達と二人で逃げたんですね。いつも朝、家に呼びに来た大下ヒロヒサという友達です。お父さんが小さい町工場を経営していたと思います。



        
           金崎 是 画集「天に焼かれる」スケッチより



 ここからずーっと南西へ、千田町の学校が自宅に近いもので、学校の方を目指して御幸橋のほうへ行ったんです。その手前に広島電鉄本社があって、その前の広い道を通って。
 とにかく御幸橋のすぐ西にある千田町の家を早く見たいので、御幸橋を渡ろうと思って行ったんです。

 そしたら、この橋を越したところは、もう両側がさかんに燃えていて、熱くて通れないんです。ぼうぼう燃えていて、とても通れない。見たら家の方角が燃えているので、もうこれはだめだと思って、一応またこの橋の欄干まで下がって、欄干の段々の下で一服していたんですね。そこで火が消えるのを待っていたんです。

 そこへ憲兵が二人馬に乗ってきまして、「そこの学生ちょっと来い」と呼ばれたんです。皆実町(みなみまち)へ連れて行かれて、まだ燃えていない家があって、「ここの空家から布団をどんどん運べ」と言うんです。よその家はみな逃げていないですから、焼け残った家から布団を出したんです。でもこんなことをしていたら、逃げられないと思って、憲兵が向こうの方へ行った隙を見て、また逃げ出したんですね。また橋の欄干へ戻ったんです。
 それが、一〇時くらいだったでしょうか。ここの橋のたもとで、焼けるのが下火になるのを待っとったですね。

 御幸橋の有名な写真がありますよね、セーラー服の女の子が背を向けている写真ですね。鉢巻をして罹災証明を書いて出しているシーン。あれは時刻的にもうちょっとあとだと思います。私がいたその時刻は、そんな余裕はなかったですから。午前中はもう大混乱でそれどころじゃなかった。罹災証明書どころの騒ぎじゃなかったんです。



         
      御幸橋西詰、被爆当日の写真複製(写真は中国新聞カメラマン故松重美人氏撮影)
                                     2005/1/25



 それに、ものすごくて、カメラマンさんもなかなか写せなかったでしょう。みんな逃げていくでしょ、それがすごい状態でしたから。私なんかまともに見れないです、気の毒で。もう、正視できないですよね。ただ火傷しただけならいいけど、裸同然ですからね。熱線でやられたうえに爆風で服がボロボロだし、そのボロボロの布が残っているのはまだいいほうで、ほとんど裸でしょ。男も女もわからないんですから。胸が皮膚ごと垂れとるから、乳もなにもわからん。男も胸の皮膚が焼け垂れてるからね。判別しにくい。頭の毛も女性でも焼けていますからね。髪もみんな焼けてるから、男か女かわからない。

 横川の近くにいた人にあとから聞いたんですが、熱線を浴びて頭の毛が燃えた。それを手で消そうとしたら、手を火傷した。手で頭の毛をこうやってね。自分の髪の毛で手を焼いた。こういう、髪の毛が燃えたり、チリチリになった人がもうずーっとね、続いている。ごろごろしとる。あんな写真なんてもんじゃないですからね。

 もう水ぶくれは当たり前なんですよ。顔は炭みたいな人がおった。目だけきょろきょろして。ああいう人を一人見たのが、ちょっと印象的でしたね。炭みたいに焦げたのが。実際に焦げていたのかどうかはわかりませんがね。
 それと火傷の汁ですね。火傷したら、リンパ液というんですか、体液というんですか、それがすごく出るわけですね。皮膚が取れちゃってますから、その肉の上を被うように出てくる。それが豚のロースみたいにみんな真っ白ですよ。豆やなんかつぶしたら、白い汁が出ますよね。ああいうふうに汁がたらたらたらたら垂れているわけです。そういう人はもう動けなくて、座ったままですよね。

 原爆資料館は矛盾しとる。何でもっと本当のことをあげんかね。写真は新聞社の人が遠慮して撮らんかったと思いますよ。私らも見れんかったからね。それで絵を描いてそれが残ってますね。
 でもあんなもんじゃないですよ。
 資料館の人は言いますよ。
「修学旅行で原爆資料館に来た女生徒が、あの前を通ったら、まともに見れない。横を向いて素通りする生徒が多い。だから、あれ以上ひどいほんとうの姿は出せない」と。
 しかしどうしてほんとうの姿を出さないのか。原爆の事実を出すことが、二度とあの悲惨なことを繰り返さない思いにつながるんじゃないのか。どうしてきれいごとに逃げるのか、わからないですよね。実際はあれより数倍もひどいんですよ。あの写真でさえも、まだそんな程度じゃないんです。当時の御幸橋のもっと凄惨なところは写さずに、軽いところを写しているんですよ。実際私は見れなかったですからね。

 御幸橋でずっと休息していましたが、ここにいたときは、橋や土手や道路は火傷した人がいっぱいいましたが、川の中、京橋川の中にはまだほとんど流されている人はいなかったですね。小さい消防艇が一隻来て、川の中から燃えている家屋に水をかけていたのは憶えていますね。

 御幸橋のたもとに三時間くらいいて、一時頃下火になったので、出発しました。もう一時ごろでした。もうその頃には、火勢も衰えて、渡れましたから、渡ったんです。とにかく自宅へ行こうと。
 渡って急いで自宅の方へ行くと、自宅はもう完全に燃えていました。燃えている盛りでした。あとで聞くとピカドンのそのときは壊れたんですが、燃えてはいなかった。あとから類焼したわけです。そのときが一番燃えている盛りだった。
 
 わあーと言ってただ走ったですよ。こう、タッタッタッタッと逃げるのと絶望感とで何が何だかわからなかったです。母や妹がどうなっているのかもうまったくわからずに……ただ走り抜けました。
 それから日赤病院の前を通って、私たちは、明治橋へ向かいました。私は草津に親戚があるので、そこへ行ってみようと思っていたんです。

 明治橋への途中に日赤病院があるんですね。家は南千田町の日本赤十字社のすぐそばなんです。母は当日朝は町内会で建物疎開で出て、ここの正面玄関の前で倒れた建物を片付けていたんですね。でもそんなこともよく考えずに、日赤の前を通りました。

 そのときは、日赤には負傷者が殺到している状態でしたね。もう日赤病院は完全にやられていて、建物はガタガタになっていましたが、燃えなかった。窓のガラスというガラスは全部割れていました。中の薬も何もみんなこなごなになっていたらしいですがね。建物そのものはやられていなかった。ここに負傷者が殺到したんですね。でも治療できないので、てんや、わんやで。もう負傷者もすごかったですけどね。内臓が飛び出しているのや、黒焦げの顔やら、もうすごくて、それらがゴロゴロしている。おまけに混乱で……

 うちの母親はこの近くで建物疎開していたんですが、もうそんなことを考えている余裕はなくて、その前を通り過ぎました。あとで知ったんですが、母はこの前で重症を負ったんです。でも日赤の病院には入れなくて、軍の車が来て近くの小学校の臨時病院に運び込まれていたんです。
 
 そんな近くにいたのに病院に入れなかったということは、中のメチャクチャさがよくわかりますよね。重症なのに、この中に入れないということはよほどなんでしょうね。それで人の話によると、ここからトラックが来て怪我人をみな乗せて行ったんですよ。私もトラックは見ましたが、でもそのときは母がそのトラックの中の一台で運ばれたなんてことはまったく知らずに、前を通り過ぎたわけです。

 日赤を通ってさらに行くと、元安川という川にかかっている明治橋があるんです。明治橋のたもとや土手には負傷者がいっぱいいました。この近くに水主町(かこまち)というところがあって、ここで一服して、そのとき川を見た。ここで初めて川をゆっくり見たわけですよね。


トラックには、まるで焼け残りの材木のようにまっ黒になった死体がいっぱいだった。



 そしたら、びっくりしましたね。死体が川にぎっしり。思わず立ち上がって明治橋の方へ川をさかのぼると、行けども行けども死体がこっちへこっちへと、ずーっと流れてくるわけです。水死者が多かった理由は、火傷した人は水が欲しいんですよね。動ける人はみな自分で川へ水を飲みに行くわけです。でも、当時はどういうわけか知りませんが、火傷したら水を飲ますなと言っていましたね、水を飲むと死ぬとか。あとから聞いたら、水を飲ませてもどうもない人もいるから一概には言えないですけどね。とにかくみんな水を欲しがって水を飲みに行くんですよ。

 あのときはまだだれも救助に来ませんよね。明治橋のたもとにいた負傷者たちも、タラタラ汁が火傷のところに垂れている人たちはみな、座ったままでにじり動くようにしながら、川へ行くんです。のどが乾くから。それで水を飲んで、流されて死ぬ人がほとんどなんです。
 どういうわけか水を飲んだらもうろうとしていって、ぼんやりすーっとなっていく。水を飲んでそんなふうになって、流されるんでしょうね。それでそのまま流されて、川に死体がいっぱい来る。ずーっと続いて。そこに三〇分くらいいたんですが、死体はずーっとだったですね。ただ水を飲みたい飲みたいで、川に入っていってそのまま流される。水を飲んだまま、流されて。そういう死体がぎっしり流れてきましたね。

 御幸橋のときは、それほど死体はなかったですよね。だから時間をおいてだんだん増えた。負傷者がみな水を飲んで、上流からも流されてきて、昼ころから死体がいっぱいになったんでしょうね。
 元安川にかかる明治橋をさらに渡っていくと、すぐに太田川へさしかかります。その土手のそばに、住吉神社というのがあります。広島のお祭をやる大きな神社です。この住吉神社を通ったとき、たまたま友達のお父さんと出くわしたわけです。そのお父さんが、しかも弁当を持ってたんですね。当時珍しくちゃんとした弁当を持っていた。それでその弁当を分けてくれたんですよ。その弁当を食べながら、ここで時間を過ごしたんですね。弁当がおいしかったですね。それが、三時ころになっていましたかね、もう。

 それから草津まで歩いて行きました。線路伝いにずーッと逃げていって、橋の壊れているところもありました。もう電車が黒焦げになったままでいたり。
 やっと草津の親類へ辿り着いて、ほっとしましたね。五キロ以上離れたあの辺でも、ガラスが所々割れていましたけどね。

 その晩はこの辺でもまだ爆撃や類焼が恐ろしいので、草津の山で一夜を明かしました。
その山の上から一晩中広島市が火の海で燃えているのが、見えました。いつまでも燃えていました。市全体が一晩中燃えていて。すごかったです。こんなことを言うのも変ですが、きれいなもんでしたね。

                                

 明くる日から、家族を捜しました。はじめは自分が助かっただけでものすごくうれしかったですよね。自分の命がね、やっぱり。それで今度は姉妹、母親がどんなかということばっかりが気になってきた。
 家族が無事かどうか、心配でしたね。前日の状況を見ていますから、家族がどの程度助かってるかどうか、不安でいっぱいでした。うちには、母親と姉と妹がいました。母も姉も妹も、その時点ではどうなっているのか、まったくわかりませんでした。

 姉とは四つ違いで、姉は当時、昔の高等女学校を出てすぐ広島市役所の防空課隊にある空襲の防空課に勤めていました。防空課員でした。学校を出たばかりでしたね。それで市役所の地下室にいたので助かりました。市役所の上の階にいた人たちはほとんど死んだんですよ。地下室にいたから助かったんですね。姉は当時一八歳でした。
 妹は小学校の五年でした。疎開せずに、親元にいさせたんですね。そのとき、妹は千田町の実家の台所にいて、それで助かったんです。原爆が落ちたとき、家はほとんど全壊みたいな形だったですけど、まったく傷なしで助かった。たまたま台所は柱がいっぱいありますから、それで助かったんでしょうね。

 それで明くる日から家族捜しに出かけました。
 朝、居候だから、水みたいな雑炊を二杯くらい食って出発しました。電車が走っていないんですよ。当然ですけどね。それでずーっと宮島線の線路をえっちらえっちら歩いて。市内まで相当距離もありますよね。一時間半では着かない。六キロ以上離れていますから。水がなきゃ、とても歩けません。真夏で暑い盛りですよ。カンカン照りでしたしね。でも、幸いあちこちで水道管が破裂していましたから、それを飲んではまた歩き続けました。

 昼飯も何も食べないまま、ずーっと広島中捜し続けましたね。
 はじめの一日目は自分の千田町の実家に行きました。日赤のところにね。電車の駅の辺りからもう地面が熱かったですね。焼け跡で、まだ燻っているような状態でしたから。

 それで家まで来た。昔の家ですから、石の門があるわけですね。白い石の門ですがね。その門のところに何か書いてある。うれしかったですね。門柱に、焼け跡の消し炭で、「姉、無事」と書いてあったわけです。「ああ、これでうちの姉は助かっているんじゃろう」と思った。ほんとうにうれしかったです。
 それでしばらくしたら近所の火傷した人が来て、その人は同じところにいてもそれほど火傷していなかったですがね。その人が言ったんです。
「お宅のお母さん、火傷をしたけど、助かった」と。
 これを聞いて、飛び上がるくらいうれしかった。これで「もう絶対、捜さなきゃ、捜し出さなきゃ」と思いましたね。
 その人がさらに言うには、「火傷がひどかったが、助かって、トラックでどこかへ運ばれていった。たぶん負傷者は学校を臨時病院にしてそこへ運ばれていったから、どこかの小学校に収容されているだろう」と。
 それで、ああ、あのときの日赤の負傷者たちを運んでいったトラックか、あの中に母もいたのか、と思ったわけです。それからもう一心不乱に母親を捜しましたね。

 その日は、夕方まで周りの小学校へ行って、母をたずね歩きました。当日はしかし、捜し出せませんでした。夜は空しくまた郊外の草津の親戚に戻ったわけです。
 その日から、学校まわりを始めました。広島中の学校という学校を一つ一つ訪ね歩きました。焼け跡の小学校に、収容されている怪我人の名前が載ってるんですよ。そこをずーっと見て回って、一週間同じことを繰り返しました。

 毎日毎日、往復だけで三時間以上をかけて歩いて、一日中捜し歩き続けましたね。草津は広島市の西南にあるんですけど、まったく逆方向にも足を延ばして、北東の郊外の学校にも行きました。足が棒になっても歩き続けました。

 爆心地域を物珍しげに歩いたこともあります。爆発の中心地ということを知らなかったんですよ。荒涼としていたその不思議さでね。もう瓦礫と、廃墟だけで、いっさいがなくなっていましたよね。別世界でした。だいたいこの辺に落ちたというのはわかるけれど、どこが中心地というのは知らなかったわけです。今考えると放射能がすごかったと思うんです。でも幸い今だになんともないです。怪我が軽い人でも死んでいる人が多いのは、残留放射能を浴びるからなんですね。怪我がない人のほうが市内をちょろちょろ動き回りますよね。そういう人はよけい放射能を浴びて亡くなることが多かったんです。

 爆心地域を通ったのは初めの一回くらいで、あとはずーっと南のコースで行きました。電車の鉄橋なんか、電車が通れないくらい落ちていました。だから鉄橋の上に仮の板を置いて、その上を歩くんです。
二、三日したら、川にロープをパッと投げて、みんなが手繰って、向こうの岸まで渡っていましたね。ターザンみたいに、みんながね。ちょっと大きなボートで渡し舟をやって。だんだん鉄橋の上に、電車は通れないですけど、人が通れるほどの急造の橋が渡されて……。昔この辺の橋はほとんど木造でしたが、木の橋はみんな熱と爆風にやられてました。

 たまたま運がよくて、軍の施設みたいなところがあってそこへ寄ってみたら、おむすびをこしらえているところがあったんですね。そこでおむすびをご馳走してもらったりしたこともありました。
 また、途中で軍のトラックが冷凍ミカンを投げてくれたりしましたね。「おーい、やるぞー」と言って兵隊が投げてくれるんですよ。あの当時、冷凍ミカンなんて知らなくて「こんな貴重なものがあるんかなあ」と思いました。それをもらって食べると、暑いですから、うまいんですよね。熱い体にシーンとしみて。生き返る思いがしました。

 夕方まで何も食べずに帰ったことが何度もあります。朝、水みたいな雑炊を飲んで、夕方日が暮れるまで捜して、また草津へ戻ってくるんですね。でも、腹が減ったとか、何も食べていないとか、そんなことはどうでもよかったですね。早く親を見つけたいという気持ちが、すべてでしたから。とにかく母を見つけたかった。腹が減ったとか、そんなことはどうでもよかった。腹が減ったら動けないなんて、そんなもんじゃないですよ。原爆で地面が剥き出しになった広島の市街を、郊外までも、ただ歩き続けましたね。

                           

 一週間経って、もうだめかな、もう見つからないかな、とあきらめたころですね。ほんとにもうだめかな、これで最後かな、と思ったときでした。原爆投下から一週間目の八月一二日です。
 大河小学校というのがあるんですよ。下大河駅の近くに。被服支廠のごく近くでした。この小学校に母の名を見つけたんです。

 もう夕方だったですね。大河小学校へ行ったら、母の名前が貼ってあった。まあ、うれしかったこと。火傷をした人はどんどん死んでいっていましたから、「ああ、まだ生きとったのか」と、天から光が射してくる気持ちでした。なんぼ火傷がひどくても生きとってくれたから、うれしかったですよね。

 こんな近いところならもっと早くに来るんだったのに、こんなところにいるとは思わずに遠くの方ばっかり捜していたんですね。遠くに生きとると、そればっかり頭にあって。疎開してまだあまり経っていないから、まだ広島市内のことがあまりわからなかったんですよね。広島へ来て、いきなり動員でしょ。広島の地理がわからなかったんですね。よく考えたら、段原に父の兄がいたんですよ。伯父さんですね。しかし、段原の辺も原爆の被害がひどいので、どうせもうだめだろうと思っていたんですね。

 兵隊が私を案内してくれました。校舎が臨時に改造されて病棟になっていました。その病棟の一つへ、母の名前が書いてあるそこへ、兵隊のあとをついて入っていったんです。
 中も外も、爆風でガラスはみな壊れてなくなっていました。机を全部後ろに片付けて、教室や廊下に藁(わら)ムシロが敷いてあって、みなその上に寝かされていました。母は一階の一つの教室の中にやはりムシロ一枚の上に横たわっていました。

 母親をパッと見つけたとき、変わり果てた姿に驚きました。母は、片腕を残してあと全部火傷でした。髪の毛も焼けてもう丸坊主でした。ひどかったですよ。収容されている患者の中で、いちばん火傷がひどかったです。見た瞬間、これは助からないと思いましたね。

 母親のそんな姿を見たら、もう泣けてくるんですよね。顔を見たら、もうぜんぜんうまく言えないよね。言葉にならない。火傷がひどくて、どこのだれだかもうわからない。それでも本人の意識はしっかりしとるんですね。それで「ヒロシ」と言って、「ああ、やっぱり母親だな」と思って。中学生になって泣いたことはもうずっとなかったけど、やっぱり泣くんですよね。そのときはもう母親と手を取り合って泣きましたよね。思いっきり。そしたら横にいた兵隊も、彼も原爆が落ちて、ものすごく悲惨な状態を何日も見てるんでしょうね、彼ももらい泣きして。

 でも、とにかくうれしかった。生きて会えたことがうれしかったです。
 すぐ姉や親戚なんかに知らせないといけないと思って、この段原の伯父の家に姉がいるということに、あとから気がついて、ここへ行ったんです。そしたらうちの姉や親戚がいたわけです。
 それで姉を連れてきて、看病をしてもらいました。そのあと、段原の伯父さん伯母さんが来る、ということで、一時賑やかになりました。

 私と姉で、母の治療に通いました。助からないのはもうわかっていましたが……
 火傷のところにウジがわいて。もういっぱいわくんですよ。そのウジをとるのがたいへんなんですね。顔にもウジがわいて。ハエが何回かとまるでしょ。そこに卵を産みつける。そうするとすぐにウジがわく。ですから、ハエがとまろうとすると、うちの姉が団扇(うちわ)ですーっと煽るんですよ。でもだめですよね。ウジがどんどんわいてくる。それを割り箸でつまんで取るんですよ。一つ一つ。体の表側は気がつくんですけど、後ろの方にハエがとまったのが気がつかない。ですから、頭や肩の裏側にウジがわくんですね。

 母親に聞いたんですよ。「何で、こんなによけい火傷がひどいんか」ってね。そしたら、「光ったとき何だろうと思って見た」というんです。それと、戦時中で飛行機から見えにくくするために黒い服を着てたんです。夏だから、黒い絣の着物をほどいて、作業するのに楽なモンペの上下をこしらえて、黒い絣(かすり)の服を着ていたんですね。黒いのを着ていたからよけい火傷がひどいんですよ。黒は熱線を吸収するのでね。ピカッと光った瞬間ちょっとそちらを向いた、ちょっと見たばっかりに……さらに黒い着物のために全身が焼かれたということなんです。

 母親のその姿を見ながら、つくづく、それまで母親の言うことを聞かずに逆らってばかりいたことを後悔しましたね。親孝行していなかったですから。特に母親にはわがままばっかりでしたから。
 そのころやっと家や母親のありがたさがわかってきたばかりでした。親元を離れて動員で包ケ浦の弾薬庫で働かされた三カ月の経験を通して、やっと親のありがたさがわかってきて、「ああ、こりゃ親孝行せにゃいけんなあ」と思い始めたばかりでした。

 私の家は父親は東京にいるし、兄貴も陸軍の学校へ行っているし、家には男の子といったら私一人だし、私が頼りにされているから、親孝行しないといけんなと思ったときに、原爆が落とされて、母は亡くなってしまったわけです。

 原爆が落とされた日の朝も、いつものように「いってらっしゃい」と言って玄関から送ってくれました。一週間後やっとその母を見つけたときには、もうその顔形の跡形もない状態になっていたので、よけい申し訳なかったですね。
 それまでに何人も大火傷した人やら、死体を見てますから、母親に会っても、生きていてくれたということだけで、最高に幸せでしたよね。まだあのまま会わずにずーっと過ごすということになったら、ほんとうに悔いが残ったでしょうね。なんぼ大火傷していても、生きていてくれて、生きて会えて、死に目に会えたということだけでよかった。満足しましたよね。

                             

 八月一四日でしたか、母がまだ生きていたときにね、父が東京から駆けつけました。兄もいっしょに。
 軍ですから、原爆が落ちたあとすぐ情報が入りますよね。広島市内がひどいというので、すぐ飛ぼうとした。それでも一週間以上動けなかった。鉄道がもう不通でしたからね。飛行機の手配がついてすぐ、岩国まで飛行機で来て、岩国から車で広島市に着いた。広島駅に下りたら、広島駅から宇品の海岸まで見えるというのでびっくりしたそうですね。

 母に会って、変わり果てた姿を見て、父も何かを感じたと思います。たぶんこれはもう助からないということを感じたでしょうね。
 明くる日、いきなり陸軍の兵器支廠へ行って、「車を貸せ」と言ったんですね。兵器支廠の廠長という一番えらい人がやっぱり大佐で、同じ軍人ですので、いきなり頼み込んだ。「車を貸せ」と。あとで「廠長を知っていたのか」と聞いたら、「いや知らん」と言っていましたけど、強引だったですね。
 でも、そしたら廠長が運転手付きで車を一日貸してくれたんですね。それで疎開先の家へ荷物を運んだり、食糧を運んだりしました。宇品に軍の倉庫である糧秣廠があるんですね。そこへ行くと食料があるわけです。そこに昔の部下がいるというので、私もいっしょに車に乗って宇品の糧秣廠へ行った。たくさん食料をもらって、お世話になっている段原の伯父さんのところに駆けつけて、それらを渡して、それでまた母親のところへ行ったんです。それが父と母の別れでしたね。

 それから父と私は小学校の病棟を出て、たまたま大河の駅のプラットホームにいたとき、天皇陛下の戦争終結の玉音放送を聞きました。そしたら父が「これはすぐ帰らないと」といってそのまま帰りましたね。東京へ帰って、残務整理をしなくちゃならんということで……。
 父はあとのことは、いっしょに来た兄にすべてを任せたわけです。あとは兄がいろいろやってくれました。

 姉がずーっと看病してあげていたんですが、その間治療といっても、いわゆるアカチンですかね。赤いヨードチンキみたいなのを塗ったりしていただけですよ。ほとんど治療じゃないですね。
 水とか食事とかは十分もらって、食料は一応確保されました。おかゆじゃなしに、おむすびをむすんでくれて、それが支給されてました。母なんかは寝たまま食べるから、おむすびは食べにくい。ですから、それをおかゆにして食べさせてましたね。

 鍋でおむすびを煮て、それをスプーンで、食べさせましたけど。当時は雑炊ばっかりでしたので、母が固い飯を食べていないから、子供心に親孝行のつもりで、少しでも固いご飯を食べさせてやろうと思って、固いおかゆにして食べさせたんです。そしたら母が、「こんな固いご飯、食べられんのよ」と苦しそうに言いました。かえって病人にはだめだったんだなあというのを憶えていますね。相手は病人だから雑炊みたいなほうが食べやすかったんですよね。

 唇も火傷をしていましたけど、ちゃんとしゃべりました。ものは言えたんです。意識はしっかりしていました。もちろんそんなにはっきりは言えないです。膨れ上がった唇でゆっくり「あうあうあう」としゃべるくらいです。口全体も火傷しているから、口をあまり動かせない。筋肉が張りますから。でもしゃべることは聞き取れました。あまりしゃべることもないしね。それでずーっと意識はしっかりしていました。

 昔からの常識で、火傷は体全体の三分の一の火傷をしたら助からんというのはわかっていましたからね。最後は注射をしていました。それで命をつないでいたんです。体中に注射を打つんですよ。筋肉があるところにね。腿へもお尻にも腕にも。でも、うちの姉に聞いたら、「もう肉がないから、いいから、注射は止めてくれ」と断ったと言っていました。

 大河小学校の病棟でも、他の学校の収容所でも、だんだん人が死んでいくでしょう。私たちも人の死体を焼くのをしょっちゅう手伝いました。ずいぶん死体を運んだり、焼いたりしました。
 だんだん人が少なくなると、あちこちの人をまとめていくわけです、治療したりするのにそのほうが便利ですから、移されてまとめられていくんです。それで母は、大河の小学校から二ヵ所変わりました。
 大河から九月の初めころ段原中学の二階の渡り廊下に引っ越しました。今の段原中学の二階に上がるときちょっと広い踊り場がありますよね。そこに二、三所帯が泊まっていました。あそこに泊まったのを憶えています。それからまた、今度は仁保(にほ)の小学校の方へ移されて、そこで死んだんです。

 火傷がひどかった割に母は長生きしました。どう見ても大河小学校の病棟のなかでいちばんひどかったですから。火傷の軽い人でも、たいがいみな一週間くらいで死にましたのでね。
 私はたまたま髪の毛は抜けなかったんですが、たいがいの人は抜けました。まず髪の毛が抜ける。それから血を吐く。斑点が出る。斑点が出たら、ほとんど助からなかったですね。からだに白血病独特の紫の斑点がでるんです。斑点が出た人はたいがい死にました。

 九月二三日でしたか、母は仁保小学校で亡くなりました。朝方でした。
 その頃はもう全体で火葬するのが一段落していた時期ですよね。母もその仁保小学校のグランドで火葬しました。

 ほかの死体といっしょに昼間焼くのはいやだったので、夕方まで待って、兄貴と二人で担架に載せて、グランドの隅に運びました。あの郊外には鉄道の枕木がたくさんあったので、それを積み上げて、死体をその上に載せて、ガソリンをかけて燃やしました。そのときはもう涙も何も出ませんでした。もうそれまでにいっぱい死体を焼くのを手伝ったりしていましたから。どこの学校でも死体を焼く煙が上がっていました。自分の母親を火葬するときになっても、どうもなかった。もうしょうがないと、あきらめがついていました。

 数時間して夜中に行ったらまだ半焼けだったので、またガソリンをかけて燃やしました。それで今度は燃えすぎて、お骨を捜すのに苦労することになりました。完全によく燃えてね。そのお骨を拾って空き缶に入れて、東京にいる父のところへ持って行きました。

 姉は被爆したとき、裸足で逃げています。どこで靴が脱げたかわからない。途中の空家で下駄箱から下駄を探してそれを履いて逃げたと。その姉が「被爆を語る会」に入って、喋っています。この間姉が「『語る会』のビデオに映っているから見に行け」と初めて言いました。「語る会」ができてからまた原爆のことを思い出したんでしょうかね。それまでずーっと何年も、終わってから何年も原爆のことを語らなかった。思い出したくなかったんですね。思い出すといろいろ苦しくなりますからね、母親のことや、むごいことを。

 幸い私はすぐ東京へ行きましたし、それからまもなく東京の原町田に住みましたから、原爆のことはきれいにシャットアウトできましたよね。またあとで、父が公職追放になって広島へいっしょに戻ってきましたが……。でも、姉は伯父のところに残ったので、広島の世界をそのまま生きましたよね。

 思い出したくないというのは、「語る会」に入った人たちもみな同じような気持ちでした。しゃべりたくないんです。ほんとうは。
 それから、うちの娘や孫なんかも原爆の話を聞きたがらない。聞くと自分の立場がわかりますからね。自分の体が心配になる。孫なんかそれを聞いて「おじいちゃん、うちのお母ちゃんは白血病にならんじゃろうか」と言うから、ああ、この子は原爆のことを人から聞いて知ってるんだな、と思いますよね。だからうちの娘とか孫なんかに、原爆のことを話したことはないです。娘も原爆のことを口にしようとしない。自分から口にしたことがないです。全然聞きたがらないですよ、もうはじめから。聞けば自分の立場というものがわかるから。

「語る会」の人もみな同じだろうと思います。みな家族は知らないでしょう、詳しいことは。自分の孫とかね。みんながみんなそうではないでしょうが、ほとんどがみなそうです。だから「語る会」に集まったら、いっせいにその当時のことが話せるわけですよ。それで私も参加しているんです。その当時の人の話がわかるわけですよね。それでみんな水を飲ましたらいけないというのが、あとから考えるとダメなこと、逆効果だったことがわかるわけです。

 体中を火傷して、バケツ一杯全部水を飲ませてもらって、それで吐いて、体の毒素を全部出した人はみな助かってるんですよ。吐き出さない人がみな死んでるんです。みんなほとんどの人は下痢をしています。下痢が激しいほうがいい。思いっきり飲んで吐いて下痢した人はみな助かっている。大火傷した人は。だから火傷以外にそういう毒素というか、放射能ですかね、それを水といっしょに体内から出した人が助かってるんです。軍や役所が言うように「水を飲んだら死ぬ」というのは当てにならなかったということですよね。

 ずっと不思議に思っていたことでもあるんですが、私自身も、原爆の光を見てますよね。母も同じように見て、あんなにひどい火傷をした。同じ光を浴びてどうしてこんなに差ができたんだろうと思うわけです。私も見たのに、母のように目もやられませんでしたし、大火傷もしませんでした。「語る会」で話してそれもわかってきましたよね。

 やはり当然ですが、母のところと私のところで距離があるんですね。日赤病院と兵器支廠で。一・二キロと二・八キロで。それと、着ているものもちがいましたし。
 それから、遮蔽物(しゃへいぶつ)の関係でも相当ちがいます。例えばこの辺で、母が被爆した日赤でも三人いましてね、ちょっと離れて並んでましてね。一人が大怪我で、重症。その次の人が軽い怪我。もう一人の三人目は全然怪我がない。何でかというと、直径二〇センチくらいの、人体くらいの太さの柱でも、原爆の光線がばっと光っても、その陰になるので火傷しないんです。原爆というのは、遮蔽物があったら、その陰で火傷しないんです。

 しかも不思議なことに、死ぬ順序はまったく逆になるんです。三人のうち、全然火傷しない人が早く死ぬ。火傷の一番ひどい人がいまだに生きている。二番目の人が死んでる。一番火傷のひどい人が生き残っている。これは放射線の関係なんですね。必ずそうとも言えませんが、そういうケースが多いんです。

 一応私の原爆手帳は被爆地点が三キロとしてあります。しかし正式には二八〇〇メートルですね。とにかく幸いだったのは、その前に比治山という山があったのでそれがみんな防いでくれたんですね。熱線も、爆風も、放射線も。この山と掩体(えんたい)という土手があったので助かったわけですね。偶然。

 犠牲者が多かったのは、放射線が大きな要因でもあります。原爆が落ちて、あくる日くらいから、近県の山口とか鳥取とか岡山から兵隊さんが応援に来たわけです。死体処理の手助けに。その人たちが一週間後に帰ってから、みな家で亡くなったんですよ。やっぱり爆心地ばかりで片付けさせられたからです。一週間くらいだったら、残留放射能がまだひどいんですよね。それを浴びて亡くなったんです。

 昨日も語りに来ていた人のなかに、爆心地から五〇〇メートルくらいで被爆した人がいました。地元の崇徳中学校から、二〇〇人くらい爆心地付近へ建物疎開の作業に来ていたんです。そのなかで三人だけ助かった。あとはそのときみな死んだんです。いま二人死んで、一人だけ生き残った人が昨日来てました。もうその人もよく見たら火傷だらけ。原爆が落ちて二、三年はケロイドといって、膨れ上がって見られなかったそうですよ。月日とともに自然にそれが治癒して、そばで見たら火傷の跡があるという程度で見られるようになりましたよね。
 顔でも近くで見るとわかりますよ。なんかおかしいなというような、しみになっているような。火傷の跡もそのくらいわからないようになってますね。その人も最後の一人です。当時崇徳中学校の二年生で建物疎開にそこへ行っていた人としてはね。中心地にいたからといって、みんながみんな死んだわけじゃないですね。

 今振り返るとね、やっぱりあまりに悲惨ですよ。二度とあんなことは繰り返してほしくない。絶対にね。それが何よりの、強い願いです。あんな地獄を二度とこの世界に引き起こしてはならないですよ。母の姿を思い返すたびに、そう思わずにはいられません。悲惨すぎます。地獄ですよ。これからの人たちに、ぜひこの思いを引き継いでほしいです。

(2002・11・9/広島市青少年センター会議室にて/聞き手■立川太郎/五十嵐勉)

    


原子爆弾爆発時の状況 第一集

2016-09-07 | 第一集

 1集 原子爆弾爆発時の状況

 

原子爆弾爆発時の状況      -「原子爆弾災害調査報告書」より-  




  ……当時は晴天無風に近い静穏であったが、突如中空で「火の玉」が爆発し、あたかも大量にマグネシウムを焚いたか閃光のような(あるいは炭素孤光か電車のスパークの如き)、白昼の太陽に直面さらに強烈で眩しい白熱的(人により紫という者あり)閃光が「ピカーッ」と光った。
市民の各人は皆自己の側近に爆発ないし焼夷弾が炸裂したかのごとく感じた。(第1図・第2図参照)

 次に火の玉を中心に円形に広がった火炎の前面は白色ないし赤白色の光幕の如く驚くべき速さをもって四方に走り、直径四キロメートルにわたりほとんど全市を笠で上から伏せたようにあるいは赤い朝顔の花を逆さに伏せたように蔽い包んで見えた(第3図)。

 次に4図に示すが如く黒煙が殆ど同時に市中央部の地上より立ち昇って高度数千メートルに及び全市を覆うたが、一方火の玉は焼失すると共に白い煙のような雲に化して高く昇った。

 その情況を遠望すると、白い雲を頂きにして、赤黒い雲を中にし、黄色を帯びた雲を側辺にめぐらして、五色の雲海があたかも松茸の生え出るように、または南瓜(カボチャ)の上へ上へと延び上がって行くような形をして左右に、モクモクと白黒黄ともつかぬ彩雲を渦巻きつつ入道雲に発達して第4図の示すごとき形態に成長した。

 一方火の走るに続いて煙が波状に拡がると見る間もなく、疎密波をなして爆風が襲いドーンと瞬間的に次から次へ破壊力を逞(たくま)しうした。

 こうして閃光に続いて爆風が通った後、しばらく経って黒い煙の条が幾本も市中から立ち昇って火災の発生を示し、第5図に示す如く大火災による巨大な塔条の積乱雲を終日発達せしめ、かつ黒雲(乱層雲)は爆発後二〇~三〇分から北北西方につぎつぎに移動して、その進行につれて
……顕著な驟雨(九時~一六時)現象を示した。火災は九時頃から大きくなり、一〇~一四時頃最も燃え続けたくらいで、六日午後はほとんど全市が火災の煙で包まれていた。

 当時の体験者について調べたところ下記の事実が判明した。すなわち爆心より二キロメートル以内の圏内にあっては、光ってすぐ建物土壁などが倒壊し、塵埃が黒煙のように四方に立って急に周囲が夕闇ないし日蝕程度の暗さになり、晴れて明るくなるまで五~三〇分くらいも要した。……
                      
                          
                                (資料提供/永田邦生)






                     江波山気象館蔵 宇田道隆氏 寄贈   
      
 
 
原図は江波山気象館で展示中(2016年現在は未確認です)  

「帰らぬ人々」 熊本泰子さんに聞く 第一集              

2016-09-07 | 第一集

 1集熊本証言



      帰らぬ人々             
                            --熊本泰子さんに聞く--       


熊本泰子さん
生年月日●大正一二年(一九二三年)二月○日生まれ(インタビュー時七九歳)
被爆当時●二二歳/主婦  当時自宅は宇品神田四丁目
被爆地●爆心より一キロ/雑魚場(ざこば)町(市役所横)



 私の父は広島県の師範学校を出て、小学校教員をし、さらに校長をしておりました。香川軍二と申します。
 被爆したとき、私は新婚ホヤホヤで、五〇日目でした。二二歳のときです。

 赤ん坊の頃は田中町に住んでおりまして、三歳のとき南竹屋町二一九ノ二へ転居し、千田小学校に通っておりました。父の勧めで、たまたま欠員があって、広島高等師範学校付属小学校に補欠試験を受けて転校しました。広島電鉄の裏にあたる所で、近かったので六年間歩いて通うことができました。クラスも先生も六年間変わらず、なごやかなものでした。
 小学校は昭和一〇年(一九三五年)に一二歳で卒業しまして、それから、広島市立高等女学校に五年間通いました。

 一七歳のとき、昭和一五年(一九四〇年)に卒業しまして、その後はいわゆる花嫁修業ですね。家にいて母から家庭料理や、裁縫、何でもできるように教えられました。母は、やかましく、きびしい人で、着物も自分で着るなら自分で仕立てなきゃという人でした。

 しだいに戦争が激しくなって、家事ばかりしておられなくなり、初めて仕事に就きました。高等検察庁という所です。昔の控訴院ですね。検事局思想係検事室という部署でした。
 それまで、女性はだれもそこで働いたことがなかったんですね。女性はおしゃべりだから、という理由です。女性禁止の職場だったんですが、男の人が戦争で出て行くようになって、人手が足りなくなって、私の時に初めて女子を採用したんです。なかなか控訴院への就職は厳しくて、よく採用されたなと思います。憲兵隊から家庭の調べもあったようでした。そちらの方が重要だったんでしょうね。試験は面接だけで、「明日からいらっしゃい」と言われました。

 控訴院は、雑魚場(ざこば)町の北の国泰寺町という場所にありました。白神神社の東隣に国泰寺という大きなお寺があり(現全日空ホテル)、そのまた東隣にあって、立派なお城のような建物でした。当時、検事長さんは柴碩文とおっしゃる方で御立派なお方でした。
              
 昭和一六年(一九四一年)の十二月一日から控訴院検事局思想係検事室で働いたわけです。そんなに広い部屋ではなかったけれど、そこで検事さんと書記さんと私の三人で仕事をしました。私はお茶を出したり原稿の清書をしたりしました。私が入って一週間して、大東亜戦争が始まったんですが、それから四年近くそこで働きました。自宅から徒歩で通っておりました。

 今振り返ってみますと、検挙などたくさんありました。思想犯やスパイなどの書類がありましたからね。有名なゾルゲ事件があったときでもあり、たくさんの関係書類を整理した記憶があります。共産党などのいろんな事件の書類がありましたし、新聞には出ない詳しいことがいっぱいありました。有名な方もいたと記憶しております。
 そういう事情で、ここの仕事のことは、一切外には、親にも話してはいけないと言われました。
 そんな訓練を厳しく受けていたので、その後もいらないことを言わずにすんで、よかったと思うこともあります。
 でも、検事さんが「青い目の人が来て、裁判する、支配する」って言っていました。結局そうなりましたよね。検事さんは原爆で亡くなりました。

 私は昭和二〇年(一九四五年)の六月に結婚することになって、ちょうど原爆が落ちた五〇日前にそこを辞めたのですが、八月六日の原爆で、控訴院にいた方はほとんど亡くなられたということです。電話の交換手や給仕をしていた女性も亡くなったと聞いております。運がよかったと思います。もし直前に結婚することにならなければ、そのままそこにいただろうと思います。

 主人とはお見合いをしての結婚でした。当時はお見合い結婚のほうが普通で、トラック一杯の女性に男性一人と言われるほど結婚難時代でした。
 私の家の前に住んでおられた方が転居して、その大きな家を借りてあとの空いた所を将校専門の下宿をなさっていた御夫婦がいらっしゃったんですね。その御夫婦のおすすめで「いい将校さんがいるからどうか」ということでした。相手は、和歌山県から陸軍の幹部候補生のテストに合格して、知らない広島の新しい暁部隊へ編入された青年将校さんでした。少尉でした。それでそこを宿にしていたわけです。

 今では何でもないことですが、他県人というので土地が離れているからみんな恐れまして、遠くの者に一人娘をやるのはどうだろうか、と親戚が反対しましたが、一度会ってみようということで、先に母が会ってくれたんです。そうしたら、なかなかいい青年だというので、父も「会わせてみるか」と言ってくれて、会ったらすぐに話が決まりました。
 結婚式は白神神社で執り行われましたが、戦時中のことでしたので、新婚旅行などはとてもできませんでした。六月一六日に結婚して一日くらい休暇があって、すぐ主人は暁部隊に復帰しました。
 結婚してから宇品に住居を持ちました。あの頃は空襲を恐れて田舎のある人々は家を空けて転居する人が多く、父母の南竹屋町の家の近くにも手頃な住宅がたくさんありましたが、一家が近くて便利なのはいいけれど、空襲にあったらみんな焼け出される心配があるから一寸離れた方がよいと思うと主人の意見が通って、宇品へ新居を持ったわけです。
 今の家よりちょっと北よりに、軍人さんにしか貸さない家があったんです。家主さんが軍の御用をされる材木屋さんで、その方が建てられたんですね。ちょうど空いていたので、そこに入りました。二階屋が二軒、あとは全部平屋でした。

 主人は月給を一一〇円くらいもらっていましたが、家賃は四五円でした。高かったのですが、何も買う物がなかったので、やっていけました。
 主人の配属されていた当時の暁部隊は、輸送部隊でした。南方へ物資を運んだりするのが主な任務でした。全国から人が集まってきていて、広島の人は少なかったそうです。

 本部が宇品にありました。この宇品地域の学校のほとんどは暁部隊が使っていました。翠町中学校は一〇〇〇人くらいの学校だったのですが、学童疎開で生徒がいなくて、暁部隊が校舎を使ったという記録が残っています。今の東洋工業もそうです。暁部隊は、原爆のあと、救援部隊として大活躍するのですが、当時はそんなことは夢にも思いませんでした。
 国鉄呉線に坂町という所があり、主人は、その頃、そこへ船で通うようになっていました。

 主人を送ってから、家事以外には、近所の方と配給物の仕分けの手伝いをしたりしていました。
 将校には、少尉でも、当番兵が付くんです。二等兵とか、上等兵とかの兵隊さんです。その兵隊さんたちが何でもよくしてくれました。掃除もしてくれるんです。「なんでもお手伝いしますよ」と言ってくれましたけど、今までそんなことをしてもらったことがなかったので、掃除や炊事は、いつも「けっこうです」と言っていました(笑)。何でも言ってくれということでしたけど、年齢が上なので頼みにくかったですね。
 庭に防空壕も掘りに来てくれたりしました。板囲いにして、しかも階段付きのものを作ってくれました。父と母と三人で暮していた頃と比べて、えらい高級な防空壕でした(笑)。

 夕方になると主人が帰ってきます。よく空襲警報が鳴りますので、今のようにゆっくりしていられません。電気に黒い布を被せて、その狭い明かりの下で主人は新聞を読んだりしていました。
 電気の覆い幕は昼間は上にあげていて、夜、電気をつけると下ろしました。あげていても、空襲警報が鳴ったらそれを降ろしました。

 一度うっかり下ろさないまま電気を点けて「しまった」と思ってすぐ消しましたが、ちょうど家の前を警防団の方が見廻っていたところだったので、大目玉でした。大きな声で「将校の家で何事だ!」と怒鳴られ、その上二つしかない電球の一つを持って帰られ、一週間位して謝りに行き、返していただいた記憶があります。こわかったことは忘れられません。

 当時、広島上空には敵の飛行機はあまり見えませんでした。私は家にいたせいかほとんど見たことはありませんでした。ただ、敵の飛行機がビラをたくさん撒(ま)いたそうです。宇品の方にはなく、中心の方に撒いたようです。市の中心の広島城の方は全部軍人さんで埋まっておりましたから、撒かれたとしても、すぐ集められてしまったのではないでしょうか。
 私が控訴院検事局に勤めていたときには、ビラを拾ったら必ず届けるようにと言われました。私が一枚見たビラは「みなさん早くしないとみんななくなりますよ」ということが書いてありました。カラー刷りで長い行列で一升ずつ米か何か袋へ入れてもらっている風景があったのが記憶にあります。葉書くらいの大きさの紙でした。

 被爆前日の八月五日は日曜日でした。その日は、若い将校さんや下士官の方と五人くらいでいっしょに食事をしようと言って、主人が呼んだのです。何も食べる物がないのでどうしようと思っていましたら、前日隊のほうから肉を少々持ってきてくれました。だけど冷蔵庫がないからどうしようか、と思ってベランダに吊るして夜寝たのを憶えています(笑)。
 日曜当日には、お昼に四、五人見えて、少しの肉を焼いて、ジャガイモで何かを作って食べました。

 そうして楽しんでおりましたら、夕方になって急に、隣組の招集がありまして、今から隣組の会議をするから出てくださいと呼び出しを受けました。それで、私はあとよろしくお願いしますと言って、出て行ったんです。主人たちをそのままにして「すみません」と言って。
 組長さんの家に行きましたら、「明日、うちの隣組が建物疎開に出るようになったから、どなたか出てください」ということでした。集まった人たちはみんなおばあさんや、子供を連れている人でした。それで、周りを見ながら、「私が行きましょう」と言って、建物疎開に行くことになったわけです。

 家に戻りましたら、主人が暗いところで座っていまして「何じゃったんかい」と聞いてきました。「明日、奉仕に建物疎開に行くことになりました」と答えました。兵隊さんたちはみんな帰っていました。
「わしも明日は防空当番で泊まりだから、帰りにお母さんの所に寄って、晩に泊まりに来てもらえ」と言ってくれました。「そうしましょう」ということで寝たんですが、なかなか寝つけませんでした。

                                

 八月六日当日の朝は、早く起きて、支度をしました。
 作業の服装はもんぺです。暑い時ですが、主人は、もんぺはとにかく長いのを着て行けと言いました。控訴院の検事さんも、東京空襲の経験から、「生地の厚い服装をしとらんと危ない」と言っていました。薄いと皮膚が火傷しやすいからです。それもあって、私は母の作ってくれた裏地のある木綿袷(もめんあわせ)のうわっぱりを着ていました。
 
 もんぺの下にもあの頃は人絹といっていましたが、化繊をはいていました。あとマスクですね。電車ではマスクをしないで、降りたらマスクをするんです。麦わら帽子もかぶり、その上からほっかぶりをしました。軍手もしていました。
 皮膚が直接出ない服装でしたから、暑かったですよ。うわっぱりも、襟が着物の襟のようになって横で結べるようになっていました。母が久留米絣(くるめがすり)のちぢみの裏の付いた物を縫ってくれたんです。もんぺもおばあさんが織ってくれた、厚手のものでした。あと地下足袋を履きました。
 その服装に、お弁当と水筒を持って、あと防空頭巾も肩にかけて家を出ました。

 六時半頃、みんなで集まりました。全部で四〇人くらいでしたね。
町内会長さんが「皆さん、怪我をせんように。警報が鳴ったらどこかに隠れて大事にしてください」と言われました。
 そのあと、宇品御幸から雑魚場(ざこば)町の建物疎開の現場へ向けて出発しました。雑魚場町は広島市役所の横です。宇品御幸から三キロくらいのところです。当時、全体の両数は少なかったですが、電車は走っていましたので、四〇人で電車に乗りました。満員電車でした。

 電車に乗ってずっと来ましたら、専売公社のところで、女学校の校長の宮川先生が乗ってこられて、「香川さん(旧姓)どこ行くの。怪我せんで行きなさいよ。僕はね、材木町に生徒が集まっているから、今からそこで朝礼をして、それから市役所(当時市役所の教育課は広島駅近辺に疎開していた)の方に行くから、まあ怪我せんようにまた会おうね」と言ってくださいました。
 私は鷹野橋で降りて、先生はさらに先で降りられたと思います。先生の行先の材木町というのは、今の平和公園の辺りで、爆心地帯です。そこへいらっしゃったということは、それが最後の別れになったということだと今でも思っています。



       
        現在の鷹野橋。 右、市役所方面。 左手前、宇品方面      2003/10


 また同じ電車の人々の中に、先日の夜に電気を点けて叱られ電球を取り上げられたおじさんの顔が見えました。その方は電話局へお勤めでした。電話局は爆心から五〇〇メートルのくらいの至近距離なのです。あの日に亡くなられました。そんなことはわからず、そのときは目が合わないようにしたのを憶えています。この世のお別れとも知らず……

 作業現場近くの停留所、鷹野橋で降りて、しばらくしたら、空襲警報が鳴りました。「陰にかくれなさい」と言われて、ある病院の軒下に隠れました。
 でも、しばらくしてすぐに警報が解除になりました。

 それから雑魚場町の市役所の東側の現場に着いて、作業の準備をして、大八車に荷物を預けました。宇品からこの大八車をずっと引いていった方がおりまして、この方は、廃材を持って帰ってお風呂の焚き木にしようと思っていたのです。持ち物の防空頭巾やお弁当や水筒を、この大八車に預けて、作業に取りかかったわけです。

 建物疎開の作業は、崩してある家屋の屋根の上に登った者が瓦を剥いで、下の者が流れ作業で手渡しして運んで、最後の者がその瓦を積んでいく、というものでした。私は手渡しの流れ作業に加わって、隣から来た瓦をまた隣の方に手渡しするのを始めました。
 二〇メートル先の屋根の瓦を剥いでいる人は、私より一つ年下の松本さんでした。弓道選手だった方で、私と同じに、二ヶ月前に結婚なさったばかりでした。半袖のブラウス姿が今もはっきり焼きついています。
 隣の方は全然知らない奥さんでしたが、同じ町内だからよろしくといわれました。御主人とお二人とかで、御主人は宇品の港の近くの運輸部にお勤めとか、優しい方だったと記憶しています。私より少しお年が上だったのではと思っております。

 原爆が落ちたのは、始めてから、ものの一〇分くらいでした。私が隣の奥さんから瓦を受け取るのに手を出した、その拍子に、ピカっときました。左上空でした。
 それは強烈な、なんとも言えない光でした。ただ電気が光るというのではなくて。どう形容したらいいのでしょうか。強烈で、よく眼が焼けなかったと思うくらいでした。色は鮮やかな橙のような色。赤のようにも見えた。きれいな色ですよ。その火の玉がパッと割れた。

 控訴院にいた時に、爆弾のときは、目と耳をふさぐようにと、よく言われていました。鼻はしょうがないけど、眼と耳の穴はふさがなきゃいけないと言われていたんですね。昔はそういうことは知識もありましたし、よく訓練もしていましたよね。
 ピカッと光ったとき、ほとんど反射的に指と耳たぶで耳の穴をふさいで伏せたんです。
その瞬間に、熱い、今まで味わったこともない熱風がドワッと来ました。熱風が体全体を煽ったようでした。耳をつんざくような大きな音といっしょでした。
 結んでかぶっていた手拭のほっかむりと麦藁帽子がいっしょにもぎとられる感じでフッと飛んでいってしまいました。ほんの一瞬です。伏せたおかげで体は助かった。ちょっと遅かったら飛ばされてましたね。

 私は袷(あわせ)でしたけど、表のちぢみの木綿の久留米絣だけは、帰ってみたら焼けて垂れ下がっておりました。襟があったおかげで、首は平気だった。とにかく体には何もなかったんです。手を出した拍子に光ったから、その熱線を浴びて、左手が骨が見えるくらいに火傷をしました。軍手をしていたけど、焼けたんです。右のてのひらが水ぶくれになりました。
 あとでたまたま会ってわかったことですが、隣の奥さんは、薄着でしたから、背中が全部焼けました。その方の家へ、その日の夕方ちょっと訪ねて行きましたが、背中一面が焼けて伏せて寝ておられ、「奥さんは大丈夫でしたか」と言われたのを記憶していますが、二、三日して亡くなられました。
 でもそのときはまだそんな傷のこともよく気がつかなくて、とにかくあまりの衝撃で、何が何だかわかりませんでした。

 その火の玉とドワッという爆風が、何秒だったか、何分だったか全然思い出せない。半分気を失っていたんでしょうね。はっと、我に返って、鼻は、耳は、とおそるおそる触ってみた。あった!東京の大空襲で耳も鼻ももぎとられてのっぺらぼうになったという話を何度も聞いていましたから、触ってみてみんな定位置にあるので、ほっと安心しました。

 周りを見ましたが、真っ暗で、もう立ち上がっていいのか、どうすればいいのかわからなかったので、そのままでいるしかありませんでした。
 しばらくしてから、起き上がって、立ってみました。次に一歩を踏み出しました。歩ける!これならだいじょうぶ、家に帰れる、と思いました。何より早く宇品へと思って、ぐるりと周囲を見廻しました。

 いままで、たくさんの人々が作業をしていたのに、寂として声もなく、だれもいません。別世界でした。腕時計は止まらず動いていましたが、時間の記憶がない。時間が途切れているようでした。
 なんだか真っ暗で、どうしたんだろう、目がどうかなってしまったのかと思いました。短い時間の中で頭の中をいろいろな思いが飛び交いました。
 いっしょに行った四〇人の他の方のことは、もうまったく記憶にありません。
 ものの一〇分も経ったでしょうか。しばらくしたら、すっと黒い幕が引き払われたようになって、少し薄明るくなっていました。今朝見たのと同じ太陽が、少しずつはっきりと見えるようになりました。
 私は生きていたのだ、五体満足で、と思いました。

 でも、何だかわからないが思いもよらない大空襲にあったことはまちがいないと感じました。いっしょにいた人たちをきょろきょろ探しましたが、まったく見つかりませんでした。預けた荷物も大八車も見当たりませんでした。結局全部すっ飛ばされたわけですね。これもあとでわかったことですが、若い奥さんが赤ん坊を背負って大八車の番をしていましたが、赤ちゃんはその場で亡くなって、奥さんも亡くなられたそうです。

 主人は、里の両親は……たぶん私だけがこんな目に遭っただけで、皆無事だろうとも思いました。自分のところだけが空襲を受けたと思ったんです。一刻も早くここから近くの南竹屋町の里へ逃げようと考え、とにかく広い所へ出ようと電車道をめざしました。
 電車道へ出てみたら帰る方向もわかるかと思って出てみたら、電車の道がなくて、向こうにあった大手町国民学校が燃えていて、どうにもならんと思って後帰りしたんです。
 途中、県立第一中学校の寄宿舎跡にすごく大きな酒樽が埋めてあって、防空用水として水がいっぱい備えてあったのですが、その中にたくさんの女の人が溢れるばかりに入っていました。「熱い、熱い」と言ってですね。

 それからやはり途中で、少女たちが「おかあちゃん、おかあちゃん。助けて」と泣いていました。四、五人の彼女たちが駆け寄ってきて、「お姉さん、どっちへ逃げたらいいの」と聞いてきました。「あんたらどっから来たの?」と言ったら、「私たちは安佐郡(今の安佐南区)から来た女子青年団で帰り道がわからないんです」「どっちへ帰ったらいいんかしら」と言うんです。
 怪我はしていないようでしたが、泣きながらそう言うので、私もどうかしてあげたいと思いましたが、私も逃げなければならないので、どうにもできませんでした。私はとっさに「こんなところにいたら危ない。あなたがたの家はあちらだから、電車道を通って向こうの紙屋町の方へ行きなさい」と言ってしまったんです。逆に爆心地の方を教えてしまったんですね。どこが爆心地かわからないままに。それで別れたんですが、きっと彼女たちは生きてはいないと思いますよ。今でも後悔しています。
 
 彼女たちと別れて市役所前へ出て、びっくりしました。電車の電線は垂れ下がって、真ん前の大手町国民学校は紅蓮(ぐれん)の炎を上げて燃えていました。とても熱くて立っておれず、またとって返して広大付属小北門の方へ出ました。その間、いくら歩いても、だれ一人宇品から来た人には会いませんでした。
 行き交う人はみんなぼろぼろになった衣服をかき合わせていました。髪は逆立ってぼうぼう。顔はだれだか見分けがつかないくらい真っ黒にすすけて、目ばかりぎらぎらして気味が悪かった。

 道路はほとんど瓦礫に覆われていて足の踏み場もないくらいでした。どの道路も瓦礫で道が狭くなっていました。
 大きな馬が道路の真ん中で仰向けにひっくり返って死んでいました。

 救援のトラックがいっぱい来ていました。
 広電の本社や発電所の近くの堀に沿って道があって、そこを行きましたが、どの道も瓦礫がすごかったです。幸い地下足袋を履いていたので、歩くのは楽でした。線路に沿って行けば早かったんですが、遠回りしたのと道の瓦礫で時間がかかりました。
 歩きながら、あまりの爆発のすごさをあらためて思い知りました。厚着をしていたのと、市役所の建物の陰のおかげで自分が助かったと思いましたね。

 長年通学路だった道なのに、こんなに変わり果てた姿になってと思いながら、富士見橋を渡り、進徳高女の正門に沿って角を曲がりました。その道路は本来六メートルの道幅があるはずでしたが、両側の家が皆見る影もなくつぶれ、瓦礫で真ん中が五〇センチほどがやっと歩けるくらいに狭くなっていました。まるで他国へ来たみたいでした。そこまで来たときは、もう実家もつぶれているだろうと諦めていました。

 でも、家は壊れていませんでした。まっすぐ建っていました。出入りもできました。
 何のお恵みかわかりませんが、不思議なんですよね。家は平屋で、隣は二階の大きな家でした。その二階がうちの門の前に倒れていたんです。ということは、その隣の大きな家が防壁になってくれて、助かったわけです。子供の頃からいて、おじいさんが東京に引っ越した時に父母がもらった家でした。母はその家の中にいて無事だったわけです。

「お父ちゃん、お母ちゃん」と呼んだら、母が出てきました。「お母ちゃん」と言ったら、「あんただれ?」と言うんです。もう、真っ黒に顔がすすけてましたからね。髪の毛も逆立っていましたから。「泰子よ」と言ったら、「あんたがどうしてここにおるの」とびっくりしたので、いきさつを話しました。「お父さんは?」と聞きました。お父さんは隣の家が建物疎開で、外で手伝っていた。そこで被爆したからひどかったです。薄着でしたから、火傷もたいへんでした。顔もふくれてしまって。下はズボンを履いていましたから大丈夫でした。

 まもなく家の裏通りから火の手が上がり、家に燃えひろがりました。家の前に防火水槽があったので、木製のバケツで必死で火を消そうとしました。防空訓練で鍛えていましたから、作業は速かったのですが、バケツに穴が開いていて、汲んでも汲んでも木目からザーザー漏って、効果が上がりません。気ばかり焦るうちに、倒壊した両隣から類焼して私たちに危険が迫ってきました。まだ未練のある父母を促して逃げることにしました。


 金崎 是 画集「天に焼かれる」スケッチより 
             

私の家は完全につぶれていた。妻や子どもたちはどこへ行ったのか・・・



 ちょうど前の家のつぶれた屋根の下から、「これをのけてください。助けてください」と声をしぼって叫んでいる人がいました。姿は見えませんが、最近大阪方面から疎開してきた独身の男の人で、その声には聞き覚えがありました。通りがかりの男の人たちが動かそうとしても、棟木や瓦の重みでびくともしません。とうとう助けることができず、気になりながらも逃げ出しました。後日その人は白骨で掘り出されたと聞いています。あの大阪弁がしばらく耳についていました。人間も薄情なものだ、自分もいざとなれば、と今になっても思います。

 私たちは、二升釜を防空幕で包んで背負って出ました。逃げる途中で何度も捨てなさいと注意を受けましたが、とうとうがんばりました。後日この釜が子供たちの産湯に役立ちました。
 父は歩けましたが、それでもスコップを杖代わりにして、ずっと持って歩いていきました。私は地下足袋を母に履かせ、私は靴下のままで逃げました。

 比治山橋の方が安全といわれていたので、そちらへ逃げましたが、橋の上は比治山方面へ逃れる人の波でした。両岸の家々は火を吹いて燃えています。
 そこまで来て、足の裏が焼けつくように熱く感じました。母に地下足袋を与えて足袋はだしだったことをすっかり忘れていました。熱かったですけども、仕方ありませんでした。気も張っていましたので、なんとかやりすごせました。

 橋を渡るとトラックが何台か待っていて、兵隊さんが負傷者を次々と収容していました。私たちを見て「あんたら、どこへ帰るんですか」と言いました。「宇品へ帰りたいんですけど、だいじょうぶでしょうか」と聞いたら、「宇品は大丈夫だ」と教えてくれました。「電車道を行くと、ガスタンクがあるから、危ない。桜土手の方へ廻って帰ればだいじょうぶ」と親切に言ってくれました。
 その間にも次々と負傷者がトラックに満載されて宇品方面へ去って行きました。その中で現在生きている人が何人いるだろうかと思います。あのとき私たちもその仲間になっていたら、戻ってくるのがずいぶん遅れただろうと思います。

 県立師範学校の辺りの皆実(みなみ)町で、ワラ草履ですか、ワラジですか、そんなのをたくさん持った老女の方が立っていました。私を見て、「あんた、どうしたんね。足袋はだしじゃないね。これをお履きなさい」と、ワラ草履を一足私に恵んでくださいました。ありがたかった。それでとても助かりました。今でも姿だけは思い出しますが、どなただったのか、わからないのがとても残念です。

 その頃から、それまで何ともないと言っていた父の体全体がぶくぶくと脹れてきて、顔などは特にひどく、風船に目鼻といった異常な状態になりました。今考えると火傷の火ぶくれのひどい状態で、右の耳たぶも後日焼けた跡が化膿してついにとぼれてなくなったくらいでした。前から熱線を受けたので、前全面、火傷でした。胸から腹部一面も大火傷でしたのに、父はかろうじて歩き続けました。とにかく励ましあいながら、父母と三人で、前になり、後ろになって、支え合いながら、気持ちだけで歩いたようなものです。

 皆実町からさらにしばらく歩いたら、遠くに宇品の我が家が見えたんです。家の辺りは何もなくて、麦畑でした。「ああ、家が建ってる」と思ってほっとしました。家に着いたのが十時だったのは憶えているので、二時間くらいかかったことになります。
 当時の住所は、宇品八丁目五三七―四でした。家に入ろうと思ったら、向こうが見えるくらいぱーぱーでした。ガラスも障子も、戸もすっかりなくなっていましたから。どこからでもお入りくださいというように。人間て、習慣で何でも考えてしまうんですね。それまでしっかり戸締りをして出かけたのが頭にあったので、荷物も鍵も吹き飛ばされてしまって鍵がない、家にどうやって入ろうかと、そんなことを心配していたんです。着いてみたら家の建具はいっさい吹き飛ばされて、どこからでも入れる状態でした。

 中を見たら、洋服ダンスはひっくり返っていますし、足踏みミシンも直角に向きを変えています。足の踏み場もないくらい、ガラスの破片でいっぱいでした。せっかく作ってあった防空壕も、役に立ちませんでした。隣の奥さんがいっぱい物を入れていました(笑)。空いていたので構いませんでしたけど。

 ほとんど時を同じくして、主人が帰ってきました。部下の方を二人連れて来ていました。「今から市役所方面へ探しに行こうと思った」と言いました。市役所方面の惨状を聞いて、私を探すつもりだったというのです。家で会えて逆にびっくりして、無事を喜び合いました。
 あっと言う間に家の中を兵隊さん方が清掃してくださり、建具のないすーすーした家というだけで、なんとか暮らせるようになりました。

 夕方になっても、市中の空は真っ赤に燃えていました。そんな空を仰ぎ見ていた五時ころ、秀子叔母さんが逃れて来ました。ほとんど無傷でした。この叔母が二〇日も経ないうちに帰らぬ人になろうとは、そのときはだれにもわかりませんでした。父や私のほうがまだ怪我がひどかったわけですから。放射能や有毒物質のガスをずいぶん吸っていたのだと思います。あの日は風が北西に吹いたそうですから、その辺の人は黒い雨に遭われたかもしれません。その中にもいろんなものが含まれていたようですね。私らは、真っ暗になったのは体験しましたが、雨には遭いませんでした。
 叔母には当時一四歳の修道中学へ通っていた長男がいました。彼は、私と同じ雑魚場町で建物疎開の作業をしていたのです。現場では会いませんでしたが、あとで聞いたらそうだったのです。
 彼が行方不明でした。叔母は彼を必死で探し続けました。

 当時学校はすべて被爆者の収容所であると同時に、死体焼場でした。それらの収容所を毎日毎日歩き回ったのですが、どこへ行っても見つからず、最後に西へいってみようと思って廿日市へ行ったら、知った方が宮島の近くの地御前(じごぜん)に中学生がいるよといって、とうとう見付けたんです。収容所となっていた学校の教室にいたそうです。母親の執念で探し続けてついに地御前国民学校で見つけ出したわけです。

 主人といっしょに、暁部隊に船を出してもらって息子を連れて帰りました。
 でも、それからまもなくその長男は亡くなりました。八月二二日でした。叔母もすでに高熱を発していて、毛髪がきれいに抜け、歯茎からたくさん出血しました。お腹が狂うように痛んで、大出血したあと、息子のあとを追うようにして二四日にとうとう亡くなりました。
 近所でも次々と亡くなっていて、翌日それらの死体焼却のためにしつらえてあった穴へ、従兄弟の死体も、叔母の死体も運び、火葬にしました。
 焼いて骨にしたところへ、叔父が和歌山から召集解除で帰ってきました。一日早ければと男泣きに泣いて悔やみました。
                            



宇品にある神田神社  社殿は30年くらい前に焼失 新しくなっています。(2016/9/7)


 
 八月一〇日頃に神田神社に救急所ができて、父は怪我をみてもらいました。
 でも容態がすぐれないので、一一日に母といっしょに二人で田舎へ行こうということになりました。宇品小学校の教頭の竹本先生がリヤカーで送ってくださって、高宮町というところで静養しました。十月に帰ってきましたが、そのときはもう耳が腐ってなくなっていました。焼けてちぢれてしまったんですね。耳の穴が、肉が盛り上がってふさがってしまうからというので、筆を切って竹の筒にヤスリをかけて入れていました。耳はよく聞こえているようでした。

 父の毛は抜けませんでした。私と違って、ふさふさしていました。
 八月二〇日ころ、まだ叔母の看病をしている時に、医者の学校を卒業した女医の卵の従姉妹が訪ねて来てくれました。主人はすでに終戦になっていましたが残務整理で軍隊の方に行っていましたから、私一人で、亡くなった従兄弟を看て、しかも叔母の看病していたので、とても疲れましてね。彼女が看病を代わってくれて、とても助かったのを覚えています。

 私は、当初はぴんぴんしていて叔母たちの世話をしたくらいでしたが、叔母と従兄弟を骨にしてから、急に熱が出て、顔が腫れました。腎臓の病気だろうかと心配しているうちに、熱が下がりました。それからクシで髪をといたら、ごそっと抜けました。そのときはぞっとしましたね。とうもろこしのヒゲを煎じて飲みました。
 あっというまに髪は薄くなりました。今でもこんなに薄いままです。後から生えた髪は細いんですね。ほっかぶりして歩きましたよ。
 結婚前だったらもっとショックだったでしょうね。だれも見向きもしてくれないでしょうから。母が「かわいそうに、何とかならんかね」といっていましたが、夫が「いいじゃないですか。私は何も気にしていません。お母さんが気にすることじゃない」と言ったら、それから言わないようになりました。

 左手の傷は、軍手をしていましたけど手を出した拍子に焼かれましたから、手の甲が骨が見えるくらい火傷しました。右のてのひらは水ぶくれになりました。どちらもなかなか治りませんでした。ほう酸軟膏というのをつけただけです。昔はあれしかなかったから。皮ができてもしばらくのあいだ、寒くなると紫の斑点になって、ちりちり痛むので往生しました。
 でも、いまはもうすっかり治っています。ちょっと斑点があるくらいです。今はどこも悪いところはありません。髪がずっと薄いままなのは、もうしかたありませんけど……。

 原爆の後、私は全然市内に出ませんでした。人を探したりすることもなかった。逆に中心地帯を歩き回った方たち、軍の人たちなどの方がまもなく死んだりして被害が大きかったそうですね。早く広島市中心から宇品へ帰ったのがよかったのかと思います。

 十月頃に主人が復員しました。暁部隊はずっと被爆者の救援に駆け回っていたのですが、それが一段落したので、やっと帰ってきました。もう軍隊はみな解除されていましたしね。
 一度主人の実家、和歌山の田舎に、空気のいいところに帰ろうということで、いっしょに帰ったんです。B29が上を飛んだのは知っていても、爆撃など受けたことはなく、まして原爆のすごさなんて想像の外の人たちです。まったくの田舎ですから、若いのに髪の薄い私を見て、気の毒にというより「何でこんな人もらったんだろうか」といわんばかりでした。その変な視線を感じてたいへんでしたよ。この間も、主人が「あの頃のおまえを見とったら、いつ広島に帰ると言い出さないかひやひやしとった」と言っていました(笑)。家族の人からも奇異な目で見られたのに、よくたえられたと思いますが、やっぱり主人がいてくれたおかげです。

 和歌山には十月から二月まで四カ月いました。そこできれいな空気を吸いながら、主人は鯖(さば)船の機関士兼漁師をしていました。

 そのあと、主人に京都から就職の話が持ち込まれました。京都で遠縁の者が農機具製造の府の指定工場を経営していましたので、そこの社長が来て、手伝ってくれないかという話でした。主人は今の大阪府立大学機械科を卒業していたんです。昔の高等工業ですね。それでいっしょに行って働くことになりました。
 京都にしばらくいて、トラック車庫の上が部屋でそこを借りて安心して住んでいました。その間に、予防はしていたのに疱瘡(ほうそう=天然痘)にかかり、一カ月入院しました。これも原爆の影響かもしれません。

                               

 退院してまもなく、父から手紙が来て、「家主が『あんたらに貸したんじゃない。熊本さんに貸したんだ。出ていってくれ』と言っているので、宇品の家にどうしても帰ってくれんと困る」と言ってきました。それで十一月に広島に帰りました。就職口を探して、広島電鉄の運転手を募集していたので、受けに行きましたら、履歴書の中学校卒業以降消してくれと言われて、それで就職できました。半年運転手をやりました。

 まだ復員してこない人が多かったので、車両課の係長になって、それからは割合に順調にいきました。その後、管理課長になりました。
 あの頃は組合騒動もあって、いろいろありました。しょっちゅうストライキをやっていましたね。
 その間、長男が昭和二二年(一九四七年)十一月七日に生まれ、次男が二五年五月二八日に生まれました。
 上の子は難産だったんですが、放射能の影響かどうかはわかりません。私の体が悪かったんでしょうか、一週間遅れました。下の子はお湯をわかすのが間に合わないくらいすぐに生まれました。大きいですよ。一九〇センチくらいで、中学校、高校の制服も別注で物入りでしたよ。上の子も一八〇センチくらいで体格はいいですが、小さいときは弱かったです。

 放射能の影響は、今のところは大丈夫なようです。長男は原爆二世の健康診断は受けるようにしているとのことです。別に異常はないようです。でも、生まれるのがちょっと遅れたから、学校の成績の方もちょっと心配しました。下の子はできないことがないくらい、何でもできる子でした。
 あと、長男がお嫁さんをもらうときに向こうがちょっと不安になったようです。
 主人もずっと元気でしたが、三年前の十一月一〇日に胃がんの手術をして、胃の三分の一を残して取りました。

 父も火傷が治ってからは、とても元気でした。あんなにひどい火傷を受けたのに、不思議なものだと思います。
 学校の先生を退職してから、市役所の原爆対策課に勤務していました。いわゆる原対課です。原爆手帳が出る前に、被爆者を調べたりしていました。原爆手帳を作ったりして、あれはみんなの役に立ったのではないかと思っています。

 父はそれと保護司の仕事もしていました。町内会長をやったり、いろいろしていましたね。
 平和公園の中に被爆者の慰霊碑ができて、石室の中に亡き方々の過去帳を収めることになったとき、その第一冊目を記入させていただきました。NHKからその様子を撮影に来られたことを憶えています。
 父は八〇歳で亡くなるまで健康でした。母もおかげさまで八八歳の長命を享受することができました。

 私どもも幾多の苦難を乗り越えて励まし合いながら、先日結婚五七年を迎えさせていただくことができました。これも多くの亡き方々のおかげと、御冥福を心からお祈り申し上げます。あのようなことが繰り返されることのない平和な世が続いていくことを、切に祈願いたします。
                                                

      (二〇〇二・一一・七/平岡清子さん宅にて/聞き手■立川太郎/五十嵐勉)



画集「天に焼かれる日」 金崎是

2016-09-07 | 第一集

1集 画集「天に焼かれる日」


    天に焼かれる日                        
               金崎 是   画集「天に焼かれる」スケッチより



隣街の小学校の校舎は入り切れないほどの負傷者で溢れていた





橋のたもとでは、顔の見分けがつかないほど焼けただれた人たちが

折り重なるように倒れていた


                         




全身焼けただれ、皮膚がボロきれのように垂れ下がり、目はつぶれ、 
両手を前にさし出して歩く人たちの姿は、「幽霊街道」そのものだった。



 
水を求めて死んでいった人々のなか、生き残った少女が 
「岩国の両親のもとに連れていってほしい」と懇願してきた


 





金崎 是    かねざきすなお

大正5年(1916年) 広島市福島町で出生
被爆後、生活擁護連盟を組織。活動の中心になる。
福島診療所建設に尽力。地区被爆者の会会長。
被団協副理事長。
地区文化推進協議会を結成し絵画教室を開く。
戦後一貫して解放運動に参加。

主な出版物
「金崎是画集」
原爆絵本「天に焼かれる」
未解放原爆被爆者の手記「壁」
市民学習シリーズ「いのちあるかぎり」


原爆の破壊力 第一集

2016-09-07 | 第一集

 1集「原爆の破壊力」

   原爆の破壊力

1.熱線
 核分裂によって生じた火球は、すさまじい光と熱を放ちながら爆発1秒後に最大半径205mまで膨張した。その中心は数百万度に達し、数十万気圧の圧力を生じた。
 直下の爆心地では、摂氏約3000度~4000度の温度が火球とともに3秒くらい続いたと考えられている。そこにいた人は、一瞬にして灰に近い状態になった。瓦も表面が融けたり、ガラスも融けたりした。
 爆心地から1km以内で屋外にいた人は、皮膚が焼き尽くされ、内臓までも熱障害を受け、ほとんどの人間が死んだ。
 2km以内の人で屋外にいた人も衣服と皮膚を焼かれ、髪はチリチリになって、大火傷を負った。特に黒い衣服を着ていた人は黒が光と熱を吸収するため、火傷がひどかった。
 爆心地から半径3.6km離れたところにいた人でさえ、火傷を負った。
 さらに爆発して30秒後には、広島市内はたちまち大火災となり、爆心地から2km以内はすべて燃え尽くした。

2.爆風
 爆発と同時に空気が急激に膨らみ、数十万気圧という大きな圧力が生まれた。この圧力が巨大な空気の壁となって、一瞬のうちに全方位にひろがった。これは音速(秒速340m/秒)よりも速いすさまじいエネルギーを持った衝撃波として市街を襲い、いっさいの建物を粉砕し、なぎ倒した。
 さらにこの衝撃波のあとを追って、音速以下の突風が吹いた。これは急激な爆発によって真空状態になった中心部へ、逆に空気が一気に流れ込んだ逆突風で、これによってさらに破壊を大きくした。
 これら二つを合わせたものが爆風の破壊力とされる。
爆心地から約2.3km離れた御幸橋でも、この衝撃波は秒速45mもあり、石で造られていた橋の欄干をも倒した。
 爆風で吹き飛ばされた人は、一瞬気を失って、気がついたら別なところにいたと言う人が多く、10m~20m、場合によっては数十メートルを一気に飛ばされた人もいる。
 爆風による二次被害も大きなものだった。粉々に割れたガラスは無数の細かな破片となり、凶器となって空中を飛んだ。広島赤十字原爆病院には、そのガラス破片のすさまじい跡が現在でも残されている。被爆当日ガラスが額に突き立ったまま歩いている人もいた。爆心地より3km以上離れた地点でも、建物のガラスは砕け、それによって負傷した人もいる。深く突き刺さったまま体の中に残り、後年になってそのガラスを取り除いた人も少なくない。
 また爆風で倒壊した家柱や壁の下敷きになり、逃げられないまま焔に焼かれていった人々も数え切れない。
 衝撃波は爆発30秒後に約11kmの地点にまで達した後に弱まったが、広島市街地は爆心地から半径3km以内にほぼすべて収まるので、衝撃波は実際には海の上、また北部では山にぶつかって衰えたことになる。

3.放射線による被害
 原爆と通常火薬との相違点は①爆発エネルギーが桁はずれに大きいこと(広島型原爆は通常のTNT火薬15000トン分)と、②放射線を発するということの二点だ。α線、β線、γ線、中性子が大量に放射され、生きものの体を貫いた。
 爆心地から約1km以内で直接放射線を浴びた人々や動物はほとんど死亡した。
放射線を受けた石や土、鉄などの金属は、放射能を帯びる。これらの放射能による二次放射能被害も大きかった。特に爆心地から1km以内は直接被爆していなくても、家族を探したり、救助活動をしたり、長時間その地域を歩いた人は残留放射能を浴びた。この放射能によって死亡した人も多かった。
 また放射能物質が積乱雲によって上空に運ばれ、市の北西地域に雨となって降り注いだが、これにも多量の放射能が含まれていた。いわゆる「黒い雨」である。この雨によって、市街から遠く離れた地域でも、放射能による被害が出た。
 放射能は遺伝子などにも大きな影響を与え、被爆者はガン発生率が高いとされている。
(資料提供/永田邦生・広島市原爆資料館)
           
黒い大粒の雨が降ってきた。

電柱は傾き、吹き飛ばされた立看板やいろいろなものの破片で道は埋まっている。

人の姿もなく、町は死んだようだ。  



            
やっとの思いで堤防まで辿りついた。
見ると、広島全市がものすごい火の中に包まれていた。

 


「暗闇の中から」 桑原千代子さんに聞く1  第一集

2016-09-07 | 第一集

被爆証言を遺そう!ヒロシマ青空の会 1集桑原証言 

    暗闇の中から
                      --桑原千代子さんに聞く--


 桑原千代子さん
生年月日●昭和六年(一九三一年)十月○日生まれ(インタビュー時七一歳)
 被爆当時●一三歳/第三国民学校二年生(現在の市立翠町(みどりまち)中学校)
      当時自宅は宇品御幸通り六丁目
  被爆地●爆心より八〇〇メートル/雑魚場(ざこば)町(市役所北)


 私は桑原千代子と申します。旧姓は山野千代子です。父は戦時中は軍の輸送船に乗っていました。御用船というんですか。兵隊さんの必要な物を、中国や南方へ運んだりしていたんですよ。日華事変当時からでしょうか。

  私の家は宇品御幸通り六丁目にありました。宇品は軍港で、陸軍の兵隊は多くそこから出て行きました。

  小学校四年生くらいのころでしょうかねえ。お父さんが、休暇で船から降りて宇品へ帰ってくるときは、チャイナ服やらいっぱい買ってきてくれるんですよ。で、そのときに、お父さんが話をしてくれたんですよ。当時は中国のことをシナと言っていたんです。「シナではね、日本の兵隊さんがひどいことしとる」って、よく言ってましたよ。
  お父さんが実際に見たそうです。「股裂き」いうてね。右足と左足を馬に結(ゆ)わえて、紐を付けてね。女の人をね。目隠しも何にもしとらんですよ。馬のお尻をぱーんと叩くと、馬は習性で必ず両方へひろがって別々に逃げる。右と左にひろがって。だから脚がばっと裂ける。股裂きですね。

  中国人の首を切り落としたりね。隊長がね、穴を掘らせて、中国人を穴に入れるんですよ。罪もない人を。首だけ地面から出てるんですよ。その首を刀で切り落として。やっぱり初めての人はとてもできませんよね、相手は目をぱっと開けて見てるんですからね。兵隊さんがためらっていると、「おまえが首を落とさないんなら、おまえの首を落とすぞ」と言われて、しかたなく落とすんですと。で、一人落とすとね、もう二人目、三人目からはね、快楽を覚えた、って。人の首を落とすのに。

  クーニャン(中国語で娘・少女)なんか纏足(てんそく)といって足を細くして歩く人もいる。そういう人を見つけたらね、ここをね、着剣でがーっと突いて……逃げられないでしょ。纏足の人は。足が細いから。

  だから「ほんとに日本の軍隊は中国で悪いことをしてる」って、父は言ってました。みんながみんなじゃないんでしょうけどね。罪もない人をねぇ。私はそんな話を聞いたりしたときには、子供でしょ、いやでねえ。たまらなかったですよ。お父さんが買ってきてくれた支那服や、こんなねぇ、支那靴を、全部焼いたですよ。「おばあちゃん、お母さん、焼こう。もうこんなのよう着ない、もう支那服の刺繍の入ったようなのね、私、着ないから、焼こう。かわいそうな、これ見たらお父さんの話を思い出す」言うてね。全部燃やしたですよ。

  戦争になったら、みんな動物になってしまいます。人間の感覚をなくします。ほんと、ね。
  父は終戦近くになって、船を降りて、職場が変わりました。最終的には清水建設に勤めました。船はどんどん沈められますしね。物資がなくなって、食糧難になっていきました。
  母は、食べるものがないから、闇のお米を買いに行ってくれて、私らを養ってくれました。タケノコ生活です。お父さんの着物やら、私のお正月の着物やら、掛軸やら……、神戸の人ですから三味線が三本も四本もあったんです。玄関に吊るされていました。お琴とかもね。それらもほとんどお米に変わったんです。

  お正月は、その当時はみんな正装してね、近所へお年始に歩いていたんですよ。お父さんが「お母さん、年始に回るからね、大島の着物出して」と言ったんです。そしたらお母さんが「とうの昔に、お腹へ入っちゃったよ」って。お父さん、びっくりしちゃって。そんなに食料や物のないときですからね、お金じゃ、お米を売ってくれないんですよ。だから全部田舎へ物を持っていって、物々交換です。庄原の奥とか。掛軸も何本も持っていきました。だから、すってんてん。ほんとうにタケノコ生活ですよ。あの頃は。

  そうして苦労して交換したお米でも、まともに持って帰れないんですよ。物資統制で、闇で買ってはいけないことになっていましたから。逃れるために衣服の下に巻きつけて運べるように袋を縫うんですよ。長い袋を作って、そこへ全部お米を入れて、体へ巻いて帰るんですよ。そこまで苦労して持って帰っても、広島駅で検査があるんです。せっかく持って帰っても、駅の検査で没収されたりしてね。汽車の中でも抜き打ち検査がある。『検査が来たよ』って言ったら、みんながパーッと脱いで、包んで窓から捨てるんですよ、線路へ。あとから取りに行くんですよ。でも、もうない。その辺の人がそれを見ていて、みんな持っていってしまう。そりゃあすごかったんですよ。うまく検査を逃れるときもある。でもお母さんが闇のお米を買い出しに行ってくれたから、私らはなんとか生き延びることができたんです。
  
  私の兄弟は三人で、私は一番下です。兄二人です。それぞれ二つ違いで、原爆の時は上の兄はもう旧制中学を出て被服廠へ勤めていました。私のすぐ上の兄は、宇品造船所へ行ってました。

  私は当時第三国民学校にいました。今の翠町(みどりまち)中学ですね。高等科二年生でしたけど、戦争が激しくなって、ほとんど学校へは行かずに、勤労奉仕でした。
  戦時中つねにどこへ行くにも日の丸弁当でしたよ。日本の旗は白地に赤でしょ、梅干の赤と御飯の白いところで、日の丸の模様になるので、日の丸弁当と言っていたわけです。御飯も現在のように白いお米だけでなくて、麦やダイコンの入った御飯でした。あと佃煮(つくだに)も何も入ってない。つねに日の丸弁当でしたよ。でも、「我慢しましょう」、「ほしがりません、(戦争に)勝つまでは」でね、そんな食糧難に耐えていたわけです。

  学校では、軍国教育を強いられてました。「兵隊さんは立派な人」ということで、「兵隊さんに逆らったりしてはいけない。兵隊さんに頼まれたことはどういうことがあっても協力しなさい」ということでした。そう学校で教えられていたんです。

  当時の記憶ですけどね、兵隊さんのことで、よく憶えていることがあります。物資が軍隊にもなくなっていたんですね。暁(あかつき)部隊は、あとで被爆者の救護で大活躍した部隊ですね。近所の宇品小学校に駐屯していたんです。宇品小学校はグラウンドが広かったので、半分暁部隊の兵舎で取られたんです。いまのグラウンドは取られてそのままなので、狭いですよね。塀がしてあって、学校の隣が暁部隊の兵舎だったんです。

  今でも忘れられないんですけど、そこの前を通って帰ろうとしたとき、兵隊さんが「お嬢ちゃん、お嬢ちゃん」と呼ぶんですね。近寄っていくと、小さなマッチ箱を出してきてね。「お嬢ちゃん、これ一杯、砂糖をお母さんからもらってきてもらえんか」と言うんです。たまげてね。で、帰って、「お母さん、兵隊さんが、『砂糖をほしい』言うてんだけど」と言ったら、お母さんが「かわいそうに、マッチ箱一杯くらいの砂糖を、どうすることもできんのか」ってお母さんがね、家にあったのを袋に入れてくれて、持ってってあげたんですよ。兵舎へ。そしたらすごく喜んで。涙流して喜んじゃって。

  それから一週間くらいして、その兵隊さんが私らに兵舎の中を見学させてくれたんですよ。入るときに、着剣した兵隊さんが二人両側に立っていました。衛兵ですね。その間を通してもらってね。初めて兵舎の中を見ましたよ。ベッドが一台ずつ並べてあるんです。ベッドの高さが土間からちょっとだけしかないんですよ。すごく低かった。枕元に自分の大事なものがなんかこう置いてあるだけで、あとは何にもないんですよ。毛布が一枚だけ敷いてある。枕みたいのがあって。そういうベッドがずーっと、真ん中が通路で両側へ足を向けて寝るようになっている。まあ、びっくりしたですよ。兵舎の簡素さには。

  宇品は軍港でしたから、すごく兵隊さんが多かったんです。校庭が暁部隊の兵舎に半分か、三分の一か取られて、すごく狭くなって。そういう思い出がありますね。物が少なくなって、軍隊も困ってきた時期ですよね。

  履物はみんな下駄です。靴なんかないです。昭和一六年とか、一七年の頃は……ズックはあるにはありましたが、切符制で。学校で運動靴の切符がもらえるんですよね。あの頃で、もう配給でしたね。切符で交換して手に入れる。でも配給のは、こうゴムのはみ出しボロがついて、接着してあるでしょ、このゴムが質が良くなくてすぐ破けるんですよ。だからお母さんに糸で縫ってもらってね。それでもあまり長くもたなかったですね。帳面なんかでも配給されたのを使ってました。使い切ってしまっても、切符をもらわないと文具店に買いに行けない。不便な時代でした。

  小学校の間ずっと切符をもらって買いに行っていたように記憶しています。鉛筆とか消しゴムなんかもみんな配給制で、ほとんど切符がないと買えなかったですね。

  運動会なんかでも、私たちみんな裸足でしたから。靴を履いてやってるときないですよ。みな裸足。だから大きな足洗場でみんなが水道で足を洗って、こう教室に入るんですよ。もう廊下がベトベトになりますよねぇ。人数が多いですから。小学校のときはね、靴のない生活でした。

  私たちの時代は英語を全然習っていませんからね。敵国の言葉、いうことで。全部、禁止でした。野球だって「ストライク」って言わなかったんです。「直球」ってやってたんですよ。あれ聞いただけでもがっかりしちゃって。これじゃあ、日本は戦争に負けるわって、思いましたですよ。

  昭和一九年(一九四四年)の冬頃から日本への空襲が激しくなって、昭和二〇年に入って東京も大阪も名古屋も、みんな焼夷弾で燃やされて、たいへんなことになってきたでしょ。日本中の都市が一つ一つ空襲されていって。

 大都市の人たちは空襲を避けて田舎へ疎開しましたよね。特に子供たちは。でも、どういうわけか、広島は空襲を受けなかった。大規模な空襲はなかったんです。「どうしてだろう」って、みんな不思議がっていましたけどね。

  でも、空襲警報はあって、私たちも空襲に対して訓練されてましたし、家にはみんな防空壕が造られましたよね。大きな家にはどこも防空壕がありました。
  戦時下で、空襲を警戒しながら、軍需生産を手伝って、あとちょっと勉強するという生活でしたね。
  学校はまともに授業なんかやっていられません。ほとんど工場への手伝いや戦時作業の手伝いで、余った時間で、ほんのちょっと授業らしいものをやるだけです。十二、三歳以上はみんな狩り出されていました。

  第三国民学校もね、戦時体制で、上級生はみんな工場へ手伝いに行かされました。
  服装もね、いつ空襲に遭ってもいいように、いつも外出時には救急袋と防空頭巾をぶら下げて歩いてましたですよ。下はモンペでね。防空頭巾は三角の布製。救急袋というのは、お母さんの帯を解いて帯芯で縫った袋でしたね。救急袋の中にはお弁当と、水筒の代わりのものが入っていました。普通水筒は外なんですが、私は水筒はなかったので、サイダービンで小さいのを入れていたんですよ。お父さんにコルクの口を作ってもらって。それで、タオルで巻いてました。歩くのにこぼれたらこまるでしょう。それを入れてました。あと、三角巾を一枚、怪我をしたときに手当をするようにですね。そして、チリ紙とハンカチとタオルと。

  救急袋といっても、薬は入っていませんでした。要するに避難袋ですね。いつでも逃げ出せるように、という程度のものでした。薬を入れるような、豊富な時代じゃないですからね。救急袋じゃない、とも言えましたね。カバンとは言わずに救急袋って言ってました。

  あと、防空頭巾を肩から胴へ斜めにかけて歩くわけです。それが外出の格好でしたね、両方を斜めにかけて。防空頭巾は、空襲警報が発令されたら、すぐかぶって防空壕へ。街へ出ていてもすぐ防空壕へ避難するために、必ず防空頭巾を持っていってました。
  防空頭巾は綿が入ってるんです。綿が入っていて、こう肩までずーっと下がっていて。ごついですよ。それをお母さんに作ってもらって。かすりの着物を解いてね。真夏でも、これを持って出るんです。長い紐がついてね。斜めにかけられるようになってましてね。救急袋と防空頭巾を十字に右と左へかけてね。だから走るときはいつも救急袋を押さえて走ってましたよね。ガタガタ動いたら走れませんから、押さえるように持って。

  もちろん履き物は下駄で、お母さんの松の下駄を履いて。走ると、カタカタガチャガチャという感じですね。どこへ行くにも徒歩で、一時間、二時間のところはそんな格好で平気で歩いていました。

  戦局は逼迫(ひっぱく)していて、学童も上級生はみな工場に動員されていました。爆撃を恐れて、あちこちでその準備が進められていました。その夏は建物疎開と言って、空襲に遭ったとき、重要な建物に延焼しないように、例えば市役所の周りの建物などは、みな取り壊されつつありました。
  このあたりの宇品の町には缶詰工場があった関係で、「この周りを建物疎開しなさい」という命令が出て疎開をしたんだそうです。だから缶詰工場の周りは相当建物が壊されたんですよ。缶詰工場が爆撃で狙われるから。ところが実際は缶詰工場は、爆撃が近いという予想をしてね、この缶詰をどこかへ隠した、移動させていたんです。実際には建物疎開はする必要はなかったんですね。

  子供の頃の思い出ですが、この前にどぶ川が流れてましたよね。それが赤く染まってね。牛がね、モー、モーって泣いてね。殺されるときに。「ああ、今日は牛が殺されるよーっ」て言ったらそれを見に行くんですよね、子供でしたから。家が宇品小学校の近くでしたからね、そしたらいっぱい赤い血がびゅーっと流れてね。臭いもきつかったです。牛も最期の水を飲まされて。それから箱の中へ。入らんのですよ。牛が。モー、モー言って。

  私はその夏、専売局に動員されて煙草工場で働いていました。専売局の「ほまれ」いう戦地へ送られる煙草を作りに行ってたんです。機械で巻かれた煙草が流れ作業で来る。それを袋に詰める作業をしていたんです。私たちの作業は二〇本入りの袋へね、ぱっと握って、こう七、六、七本ずつ列に組み合わせて二〇本入れる仕事をしていたんですよ。それがなかなか二〇本取るのが、上手にいかない。苦労しましたけどね。でももうしまいには慣れてね。子供ですから早いですよ。ちょっとやって。

それで第一県女とか第二県女のお姉さんたちが袋へね、袋の口へ糊をつける作業があるんです。ばーっと折って糊付けて、ぴたーっと。それで次の工程へ送るようにして。私たちはお姉さんたちが休んだときにさせられるんですよ。みんな来てるときには「ほまれ」という煙草を、すこし大きい紙箱に詰めて、それをまた大きな箱に入れておくんです。それを朝から夕方までやっていました。

  その間に、週に何回か、昼から二時間くらい授業があるんですよ。勉強をさせてくれるんです。一時間か二時間、二時間くらいだったと思うんですけど、保育所で。子供たちをこっちの部屋に集めてそこを開けてもらって、黒板を出して。だから、勉強を全然しないままで作業だけをしていたということはなかったです。毎日じゃないんですよ。一週間に何回か、二時間くらいは勉強させてもらっていました。

  八月五日までは、専売局へその作業をしに行っていました。ずっと行く予定だったんですが、たまたま八月六日と七日は、私たちの学校は雑魚場町へ建物疎開に参加ということになったんです。市役所の周りの建物は、市役所に燃え移らないようにということで、強制的に取り壊された。その建物疎開の後片付けに、私たちの学校が参加したわけです。

  私の家は宇品ですからね。宇品御幸(みゆき)通り六丁目、番地はなかったんです。六丁目でよかった。そこに両親と兄二人と私、一家五人で暮らしていました。
  その日は上の兄は廿日市の方へ行っていました。下の兄はいつものように、宇品造船所へ行ってました。


「暗闇の中から」 桑原千代子さんに聞く2  第一集

2016-09-07 | 第一集

いつもは私も煙草工場へ行くんですが、その前日の五日に、明日は雑魚場町に行くようにと言われたんです。「六日と七日は町へ建物疎開に行きますよ。だから参加してください。八時に雑魚場町に集合ですよ」ということで。

                               

  八月六日の朝はすごくいい天気で、雲もほとんどなくて、暑くなりそうでした。
  でも、私は当日下痢してましたから、出て行くのがおっくうでね。「お母さん、今日はお腹痛いし、下痢しているから、行きたくない」って言ったんです。そしたらお母さんが「何言いよる。千代ちゃん、今日は隣組からもようけ(たくさん)、おばさんたちが作業に雑魚場町へ行くんだから、だめよ、そんなに言ったら。『打ちてし、止まん』でしょ」って言うんです。お母さん、大きな声でね、「千代ちゃん、打ちてし、止まん。ほしがりません、勝つまでは。お腹痛いくらいで負けたらだめよ」って。「はーい」って、しぶしぶ出たのを憶えています。「あーあ」って思ってね。

  お母さんが「正露丸飲んでいきなさい」って正露丸を飲まされて、それから、梅酢を盃一杯飲まされて、出たんです。トイレへ行きたかったので、「お母さん、ちょっと下痢しそうだから、お便所行っておこうか」って、トイレへも行って。実際お便所行っとかんとね、仕事しよるときに困るんです。作業するときお便所に行かれんでしょ。

  で、暑いからお父さんの麦わら帽子をかぶって、右と左に救急袋と防空頭巾をぶら下げて。救急袋の中には、アルミの弁当箱を入れて出たんです。当時はああいうアルミの弁当箱しかありませんでしたからね。弁当箱の中身は、少しのお米に、あとは大麦と大根でした。昔は馬や牛が食べていた大麦という麦があったんです。飼料や焼酎にするのに使っていた。その大麦をいっぺん炊いて、それからお米の中に入れて炊くんですよ。そうしないとうまく炊けませんから。量が少ないのを補うために、それに大根をきざんでいっしょに入れる。その大根が入っているから、ご飯がべとべとして食べられないんですよね。でもそんなご飯でも毎日は食べられませんでしたから、それでもありがたかった。

  で、母はそういう上に梅干を二つ入れてくれたんですよ。わざわざ入れてくれて。私は「一つでいい」って言ったら、「暑いときだからご飯が腐るでしょ」と言って二つ入れてくれたんです。炎天下にお弁当を置いたままでも、梅干の塩分で腐りにくくなるわけですね。

  服装は、丸襟の白い制服です。木綿の。長袖です。当時は夏と春と区別されているほど物が豊富じゃありませんからね。半袖もなくて、夏は長袖を幾重にも折ってめくり上げていました。夏はみんなそうしていましたね。
 下はモンペです。モンペはカスリの着物をお母さんに解いてもらって、作ってもらったものです。足首にゴムが入ってますよね。前身頃(まえみごろ)と後身頃(うしろみごろ)をこう紐で結ぶようになってたんです。それから、股へマチが入ってたんですよ。それで作業するとき体が動きやすくなる。
  
  前みごろをこう後ろで結んで、後ろみごろをこう前で紐で結んで。脇は開いていて袴みたいな感じで。だからお百姓さんの野良仕事のがありますよね、あれと似たようなもんです。麦わら帽子をかぶって下駄を履いて出たわけです。

  家を出たのは七時かなり前だったと思います。私たちは電車に乗れなかったですから、どこへ行くにも歩け歩けで、歩いて参加していました。学校の遠い人とか、体の弱い人は「車」という字が書かれたバッジを付けるんですよ。名札の上に。それがあると電車に乗れるんですよ。学生とか学童は、もう全員歩けだったわけです。

  よその学校はどうだったか知りませんけど。とにかく私たちは学校が近かったですし、どこへも歩いて参加してました。だから、雑魚場町まで、ずいぶん時間がかかりましたよ。宇品御幸から雑魚場町の建物疎開の現場まで、一時間二〇分ぐらい……子供の足ですからね。
  現場に着いたのが、八時ちょっと前だったと思います。先生が、「八時になったら作業にかかりますよ」って言われたのでね。

  家がもう全部倒れているところへ集合でしたからね。家がつぶしてある。強制的に倒されるでしょ。建物疎開ですから。倒した家の後片付けをするんですね。みんなで。

  私たちの学校からは二〇〇人くらい行っていたと思います。でも現場にはもっとたくさんいました。
  あとで知ったことですけど、あの日は全市で八千人建物疎開に出ているんです。作業はあそこだけじゃなくて、いま平和公園やあそこらの方を含めて全部で八千人ほど出ていたと言うんです。そのうち六千人が被爆して亡くなってるんですよ。二千人が助かった。それは広島市の資料に出ています。
  よそのいろんな学校からも来てますから、雑魚場町には、もっとたくさんの学生や大人がいました。
  それで「前へ出て並んでください」と言われて並び始めたんです。先生が「この班はここ、この班はここ」って決めるのが普通ですから、そうしようとしていたときだったと思います。
  そうしているときに、警戒警報が鳴ったんです。で、先生が「警戒警報ですよー。そこへじっとしとってください」と言われて、私らは大きな楠の下へ、避難したんです。二〇人足らずでしたか。みんなが「千代ちゃん、そこは暑いよ。ここにおいで、涼しいよ」って言われてはじめて、私は木の下に私がいちばん遅れて入ったんです。そこは風が涼しかったですよ。そこへしゃがんでました。
  
  でもまた先生が「警戒警報解除になりましたよー」と言われたんです。警戒警報が解除されて。「みんな前へ出て並んでください。作業にかかりますよー」って。
  そのときにまだ楠の下に残った者が、食べ物悪い時でしょ、だから「お腹が痛いよー、体がだるいよー、先生、帰らしてくれないかね」ってグジュグジュ言いながら、十人足らずが残っていたんです。その中に私もいて。

  そのときは麦わら帽子はまだかぶっていました。タオルは首へぶら下げてました。暑いですからね。ハンカチで拭くほどの余裕はないですから、タオルで拭きよったですよ。防空頭巾と救急袋を横へ下げてね。着けたまま座りこんどったんですよ。防空頭巾と救急袋はそのまま身につけていました。外してここに置いて休もうか、なんて、そんなのんびりした時代じゃないんですよ。それらはもう、つねに着けていました。

  そのときに、一人の子がね、「あ、飛行機が飛んでるよ」って言ったんです。私はお腹が痛いから、下にかがんでいたんですけど、みんながね、「ああ、ほんとだ。でも日の丸が見えんよー」と言うんですよ。そのときにはもう警戒警報が解除になってるでしょ。だから、敵の飛行機はもういない。日本の飛行機かと思ったんですよ。日本の飛行機は翼に赤い丸がありますからね。でも、「日の丸が見えーん」て言って、「千代ちゃん、見てごらん」と言うから、はじめて見たんです。四〇センチか五〇センチか、小さくしか見えないんですけど、長い長ーい飛行機雲を引いてるんですよ。西から東へ向かって、こう、飛んでいた。
 (※編集部注/原爆投下機B29エノラ・ゲイは広島市の東方向から侵入して投下後一五五度の右急降下旋回で爆発を逃れている。この時点ではすでに原爆は機体を離れ、エノラ・ゲイは離脱飛行中。そのため西から東へ飛んでいるように見えた)
 「でも警戒警報解除になったでしょ」って言ったら、子供ですからねぇ、「ああ、そうよねぇ」と言って、そこの木の下におった者みんなが、ふーって息をつきながら、あらためて目で飛行機を追ったんですよ。
  そのときドーンと。
  私はピカッと光ったのは見てないんです。ピカッとは見えませんでした。楠の木陰だったから、ピカッと光ったのが見えなかったと思うんですよ。私、ずーっと飛行機を見ていたんですから。
  いきなりドーンという音がして、私は気を失ったんです。

  気がついたときには、すごーく大きなほら穴へ吹き飛ばされていた。真っ暗でした。
  今考えたら、雑魚場町というと大きなお屋敷の多い街でしたから、そんなお屋敷は全部床の下に防空壕を掘っていたんですよ。空襲警報になったら、家族がそこへ逃げこむように。で、家を吹き飛ばされて、穴だけがポコッて空いていたと思うんですね。そこへ吹き飛ばされて、埋められてしまったということじゃないでしょうか。どうしてあそこへ、あの穴の中へ吹き飛ばされていったか、今でも全然わかりません。気を失ってるんですから。すごい爆風で何もかもいっぺんに吹き飛ばされたんでしょうね。

  気がついたときは、真っ暗でした。全然光がなかったですよ。背中の上に、瓦礫がいっぱい溜まっていて、動こうにも動けない。瓦礫とか、壁土とか、石とか、瓦とかが載って埋まってしまってね。顔だけがようやく動いたんですよ。あと手が少し動いて。真っ暗でしたからね。何も見えなかった。必死になって助けを求めたんですが、顔、体は動かなくて、首だけ動いたんです。あと右手がちょっとだけ動いて。首だけ動くから首を思いきり空へ向けてね、伸ばして、「助けてえ、助けてえ」と、ほんとうに声が出なくなるくらい叫んだんです。でも、だれ一人来てくれない。

  首を動かすとね、頭の髪といっしょに、頭の皮とおでこの皮が、こうぶら下がったんです。焼けて。こっち側だけ。で、頭の皮がぶら下がるんですよね。「おかしいな」と思って。痛くもかゆくもないんですよ。
  痛さは全然感じない。で、右手がちょっと動くから、上へ上げて。で、また体を動かすと、こう下がるんですよ。顔の前へぶら下がった、何かぽーっと爆風で飛んできて、それがペタっと顔へくっついている思ったんですよ。だから手で上げても痛くなかったんですよ。ふつうなら痛いでしょ、怪我して自分の頭からそれを手で上げたら。でも全然痛くないから、顔へ何かくっついているんだな、とそのときは思っていたんです。

  なんとかして、この暗がりから逃げ出したい、と思って、体を動かしたら、右手は少し動いたんですよ。左手は全然動かない。動くほうの右手で必死に手の周りのものから取り除き始めました。もう、時間もわかりません。小さな板切れとか、壁土とか、瓦とかね、一生懸命こうやって、のけて。もう、必死の思いでやっと穴から這い出しました。

  でも、穴から這い出しても、町は真っ暗でした。どっちに向いて行ったらいいか、全然わからない。今考えたら、同じところをぐるぐる回りよったように思うんですよ。真っ暗ななかを。もう、歩けなくなって、そこへ倒れ込んで気を失ってしまったんです。だーれもいない。たった一人でした。寂しいとも思いませんでした。とにかく、私の頭の中は「明るいところへ行きたい、明るいところへ行きたい」という思いだけでした。あの楠の下へ行けば、みんながまだ待っている、私一人が飛ばされたくらいに思っていたんです。

  爆心地から一キロ以内は真っ暗だったって言いますからね。だから、暗闇の中を明りを求めてあっちへ逃げたり、こっちへ逃げたりしたんですよ。だけど結局、出てからまもなくして、体が動かなくなった。それで地べたへ座り込んで、そのまま気を失って寝たように思うんですよ。

  それから、時間も全然わかりませんけども、ガヤガヤガヤガヤ人の声に気がついて、目を開けたんです。そしたら、三人向こうの薄暗いところから、こっちへ向かって歩いてくる人影が見えたんです。初めて見る人影でしょう。すっごくうれしくてね。目を皿のようにしてじーっと見てたんです。そしたら、三人の中の一人が寄って来て、「千代ちゃん、生きとったんね」と言ったんです。

  そして「はぁー、どうしたん、千代ちゃーん。そんなに怪我をして」って言ってくれたんです。言われて初めて気がついた。手を火傷していることも気がつかなかったんですよ。もう服もボロボロになってますし。下駄もどこへ飛んだやらわからないしね。カスリのもんぺも焼けて破れてね。だから、少々怪我してても「痛ーい」なんて、全然ないです。そのときにそれを聞いて初めて自分が怪我をしているということに気がついたんです。それまで必死で何もわからなかった。そのとき初めて手を見たら、皮膚がぶら下がっとったんですね。もう逃げるのが一生懸命、明るいところへ行きたいというのが一生懸命でね、ほんと、全然気がつかなかった。左半分熱線で焼かれて火傷していたなんてことも全然わかりませんでした。

  長袖のところが助かった。白い長袖が被っていたところは火傷していないんです。半分ほどめくり上げていたところが熱線で焼かれた。だから折り上げていた腕の部分にケロイドが残った。ここ全部焼いたんですよ。戦後もこれがどうしても取れなかった。これが昔の名残りです。

  私は左から光線を浴びたように思うんです。全部、左側を焼いているんです。顔も、手も。首もまだ跡があります。いまでもずーっとシミみたいになってます。黒くね。いま化粧してるから、ちょっとわからないかもしれませんけど。白いものに被われていたところは、光を弾くせいか火傷がない。黒いものを身につけていた部分は、逆に光を吸収して火傷がひどいんです。裸のところはもちろんね。それで衣服は焼けたのと爆風でボロボロになる。一瞬のうちです。

  もう全部が吹き飛ばされていっぺんになくなってしまう。そのときになっても、何がどうなったんだかわかりませんでした。何メートルくらい飛ばされたか、何もかも吹き飛ばされたことも、全然わかりませんでした。
  で、友達の黒川さんは「どしたん、千代ちゃん、たいへんだったね」と言うて、私の腰を、モンペと制服とが重なってるところを持って起こしてくれた。上のほうはボロボロでしたから、腰のところがいちばん布があるので、腰を持って起こしてくれたんです。

  助けられて、ワアーッと私は泣いたんです。初めて見る人影で、しかもそれが友達だったでしょ。だからすっごく大きな声で泣きましたよ。うれしかった。ワーッと泣いた。今考えたら、あんな声がどっから出たんだろうか、と思うくらい大きな声で。
  いちばんうれしかったのは、黒川さんが「千代ちゃん生きとったんね」って声をかけてくれたときです。助かったと思ったですよね。あの暗いところに閉じ込められていたときには涙も何にも出なかった。でも、顔を見て初めて泣けた。「生きとった」と言われたときに初めて涙が出ましたよ。

  でも、タカちゃんを見てびっくりしました。
  三人の中に私の友達のタカちゃんがいたんです。漆原(うるしはら)孝子さんという人です。でも、最初はタカちゃんて全然わからなかった。ほんとにびっくりしました。眼がすごく膨れているんですよね、唇が剥けて膨れて。顔全体がぶわっと膨れ上がっているんですよ。皮膚がぶら下がって、体全体が膨れているんですよね、で、あまりにもひどく変わり果てているからね、私、タカちゃんというのがわからなかったんですよ。お化けのように、手をこんなに胸のところへ上げて。あの人は八日くらいに亡くなったんじゃないかな。やはり専売公社に勤めていらしたお母さんの話では、矢賀の方で亡くなられて……。
  
  あの心臓の高さにまで手を上げて逃げるというのは楽なんです。皮膚がこんなに垂れて、くっつかないようにして。手を振って逃げられません。やっぱりこうなりますね。自然と。やはり心臓の高さへ。痛いし……こうして逃げるのが一番楽だったですよ。

  で、その人が孝子さんいうことがわかって、いちばんひどい怪我のタカちゃんを真ん中において四人が横一列に並んで、歩き出しました。明るい方を求めてまた逃げ出したんです。とにかくほとんど真っ暗ですから。他の人は暗くてあまりよくわかりませんでしたけど、私と同じくらいの怪我のような感じでした。
  寄ってきた三人のうち、黒川さんがいちばん元気がよかった。あの人はこう手を前に突き出してはいなかったですよ。
  黒川さんという人とタカちゃんと、もう一人は名前がわかりません。とにかくこの四人で逃げたわけですね。

  私は頭と腕の皮膚をぶら下げたまま逃げたんです。
  私たちがここで何時間過ごしたかわからないんですが、あっちへ行ったりこっちへ行ったりしながら。同じ所をぐるぐるめぐっていたんでしょうね。途中一度かすかに明りが射してきたんですよ。ぽーっと。ネズミ色の明りが。こんな金色の明るい色じゃないんですよ。やっぱり原爆が落とされていろいろと粉塵が、チリがね、ゴミがね、空気中に舞っていますからね。
  でも、やっと針で突いたくらいのネズミ色の光がすーっと射してきて。で、三人のうちの誰かが「あそこへ行きゃ、明るいところへ出られるよーっ」て叫んだんです。で、そっちへ向かって逃げていったんです。宇品へとにかく帰ろうということでね。電車通りへ出て、電車道をずーっと歩いて帰ったら、宇品へ帰れるよ、と思ってね。

  でも、結局また出られなかった。ぼーっとはしているんですけど、だめだった。また暗がりをさまよった。全然見当がつかない。どっちへ行っても明るいところへ出られないから、頭がまたぼーっとしてきたときに、黒川さんが「もういい、千代ちゃん、もうお家へ帰れないんなら、もういいっ」ってごろーっと地べたへ横になっちゃったんですよ。私たちもねぇ、黒川さんがいちばん元気で最も頼りにしていた人でしょ。その黒川さんが土の上へ寝てしまったんですよ。だから私たちも真っ暗な土の上へ寝転がってしまったんです。四人が道端へいわしを並べたように。どうやっても明るいところへ出られないので、絶望してしまってね。

  そこでまた気を失ったのか、よくわからない、どれくらい時間が経ったかわからないですが、四人の中の一人が、「明りが射してきたーっ」と言ったんです。指差した方向を見ると、針で突いたほどの明りがすーっと射してたんですよ。それで、「あそこへ行こう、あそこへ行ったら明るいところへ出られるよ」って言って歩いていったのが、鷹野橋のところだったわけです。
 (※編集部注/鷹野橋は昔は川があったが、当時すでに埋め立てられていて、川はなく、一つの地名となっている場所)
  鷹野橋に出たとき、いっせいにわーっと手で顔を被ったんです。今まで暗いところにいたでしょ。それが今度明りが射しているところへ出たからすごくまぶしくて、一瞬うわーっとそこへうずくまってしまったんですよ。

  家が倒れていてね、トンネルの入口のようになったところから、光が射していたんです。周りは真っ暗でね。とても不思議な光景でした。なんであそこはあんなにトンネルの入口のように丸くなっていたんだろうかって、いまでも不思議に思うんですけど。

  とにかくまぶしくてしばらく何も見られなかった。その場で顔を押さえて、うずくまってしまったんです。そして、すぐに眼が慣れてきて、しばらくして顔を上げたら、びっくりしましたね。
  もう、ぞろぞろぞろぞろお化けみたいな人がつながっていて。もうみんな皮膚が垂れ下がって、顔が膨れて、髪がチリチリに焼けて、服もボロボロで裸になって、焼け爛れて歩いている。みんな手を前に出してぞろぞろぞろぞろ逃げてるでしょ……お化けの群れですよ。もう地獄ですね。人がゴロゴロ転がっている。

  広島の原爆資料館に被爆者の人形がありますよね。自分の皮膚をぶら下げている姿のが。でもあのときの被爆者っていうのは、あんな人形のようにきれいな顔じゃないですよ。頭の髪も熱線で焼かれてみんなジリジリになってしまう。焼かれない人も爆風と埃と土ですさまじくなっている。あの人形は被爆者のほんとうの姿ではない。

  あの皮膚をぶら下げたのを作ってもらうのにも、何年かかったと思います? 何回も何回も市役所へ交渉に行って、行くたびに担当者が、「あれ以上ひどくできないから」と言って。でもそれはほんとうの被爆者の姿ではない、いうことで、新しく資料館ができたときに初めてこう皮膚が下がっているのをつけてくれた。で、お母さんと子供だったのが、また一人子供が増えていた、三人なってますけど、あれ、嘘ですよ。あれはまだほんとうの被爆者の姿ではない。

  私たちもよく見たらそんなですよ。初めてそこでそのとき友達の姿がまともに見えたわけですよね。そのときはお互いにあまりにやっぱりひどい怪我をしているので、そのときにまた驚いたと同時に、ああやっぱり私と同じように吹き飛ばされたんだなとあらためて思ったんです。黒川さんも、タカちゃんもね。でもタカちゃんはすごくひどかったですからね。あらためてすごい顔になっていると思いましたね。でも歩いてくる人がみんなタカちゃんみたいな人なんです。

  おじいさんが、この鷹野橋の電停のちょっと先に、担架に載せられて放り出されている。そこまでだれかに助けてもらって連れて逃げてもらったんでしょうね。担架に載せられたまま置き去りにされているわけですよ。


 


             金崎 是  画集「天に焼かれる」スケッチより

             

赤い斑点、ミイラのようになって・・・ 原爆は果てしもなく命を奪っていく 


  で、私は、「あ、おじいさんがいる」ってぱっと見たときに、私とおじいさんの眼がぱっちり合ったんですよ。そしたら、手をおもむろに合わせてね、「ナンマンダブ、ナンマンダブ」って、大きな声で言われるんですよね。助けてくれ、運んでくれという意味ですよね。焼けた手をこんなにしてね。眼は開いているんですよ。私らの方を見てナンマンダブって……。でも、私らも自分の体一つを引き摺って歩くのが精一杯だから、助けてあげることできないですよね。おじいさんの前を通るときはこうして横を向いたんですよ。

 日赤病院の方を向いて。こっちの方に日赤病院があると思って。助けられないということと、確かこっちに日赤病院があると思って、そっちから助けに来てくれればとも思いながら。日赤の方を向いたら、そっちはそっちで、兵隊さんが馬の手綱を持ったまま倒れてるんですよ。馬も倒れてるんです。で、友達が「あ、兵隊さんが死んでる、馬が死んでる」って言うんですよ。でも、かわいそうだな、とも思いませんでした。だって、いっぱい人が転がってるんですもん。どっちを向いても、もうそんな人や死体や負傷した人が転がっている。もうこの世ではなかったです。ぞろぞろぞろぞろ皮膚の垂れた、焼け爛れた人が歩いていて。

  私たちは宇品へ帰ろうとしていたんですが、その方向へ帰る人が少なかった。そちらは暗かったし、人があんまりいなかったんですよ。で、心細いので、人の多い方へ逃げよう、いうことになったんです。人の流れに乗っていく格好で、元安川の方へ行って明治橋へ出ていったわけです。

  私らが明治橋の方へ逃げていったときでした。私らの前に、お母さんが赤ちゃんをおぶっていたんです。おぶっている紐がボロボロで、いまにも切れて落ちそうでした。それなのに手を後ろへやって、子供を揺するんですよ。お母さんの背中から、赤ちゃんの首が下へほとんど落ちそうになってぶら下がっている。それを揺するんですね。黒川さんが、「千代ちゃん、赤ちゃんの首が落ちるーっ」「赤ちゃんの首が千切れるよーっ」って言うんですよ。でも私も、半分は神経がどうかなってたと思うんですよね。落ちるかな、千切れるかな、くらいにしか思わないで、ぼーっとそのお母さんの後ろをぼんやりして歩いていたんです。

  そしたら黒川さんが、たーっと走っていって、お母さんの前へ行って、「おばちゃーん、そんなにしたら、赤ちゃんの首がちぎれるよーっ、落ちるよーっ」って言ったんですよ。
  そのときに、そのお母さんが初めて後ろを振り向いた。そしたら、もうびっくり。赤鬼のお面みたい。真っ赤なんですよ、顔が。血が流れていて。板切れがおでこに突き立っている。それを抜くわけでもなしね。血が流れたまんま。わーっと私はそこへ立ち止まってしまって。もう、私らも予想しない顔でしょ、びっくりして。

 「おばあちゃんところへ帰ろうね、お家へ帰ろうね」と言いながら逃げているんですよ。しばらく立ち尽くしていたら、そのお母さんは突然くるっと向きを変えて、暗がりの方へ向かって逃げていくんです。私たちが出てきた雑魚場町の方へ向けて。逆の方向へ。
  黒川さんが「おばちゃん、そっちへ行ったら、人はだれもいないよ。町は真っ暗よ、真っ暗だよ」って叫んだんですよ。でも、見る見る暗がりの中へ遠ざかっていって、見えなくなったです。もう気が狂っていたんでしょうね。

  で、私は「宇品へ帰ろう」ってみんなに言って、明治橋を渡って、この川筋をずっと歩いていきました。そこを渡って、それから南へ下がったんですよ。あと南大橋というのがあって、今の日赤病院の後ろですね、今は大きなコンクリートの四車線くらいの大きな橋になってますけどね、そこへ出たんですよ。当時は小さな木の橋だったんです。川筋をずーっと歩いて南大橋の袂(たもと)へ来たわけですよ。迂回して宇品へ帰ろうと思っていたわけです。

  そうすると、兵隊さんが、ばーっと足を広げて立っていて、橋を渡してもらえないんですよ。小さな木の橋を。私たちはここを渡って町へ出ないと電車通りに出られないですから、必死になって渡ろうとした。でも兵隊さんが、「おまえらーっ」って言うからびっくりして立ってたら、足を広げて、「橋の真ん中、見てみいーっ」て大きな声で叫んでるんですよ。橋の真ん中を見ますとね、爆風で橋が大きく傾いてるんですよ。そして橋の途中から煙が出てるんです。「今にも燃えて落ちるから、渡ったらいけん」と言って。
  
  そのときはこの橋を渡らないと宇品に帰れないとひたすら思っていたんですね。あとから考えるとそこからでなくとも行けたんですね。広島は川の街で橋がたくさんあるんですから。でも、子供ですからね、そこまで考える余裕がないんですよ。で、私はとにかく必死で、兵隊さんが足を広げて止めている股の下をくぐって渡ってしまったんです。他の人がどんなふうに渡ったか、まったく知りません。とにかく爆風で傾いて燃えている橋を、息もしなくて必死で渡りましたよ。落ちたら死ぬでしょ。もう、ほんと。あんときの気持ちはどういう気持ちだったんだろうか。自分でもわかりませんが、とにかく息もしていなかった思いますよ。もう、必死で渡りました。

  私が一番最初に。向こう岸の日赤病院の方の袂に辿り着いて。それで橋を渡ったらもうとたんに動けなくなったんですよ。助かった思う気持ちといっしょで。で、そこにずーっと座ってたんです。
  そしたら次々と友達が渡ってきて。最後にタカちゃんが渡ってきました。


「暗闇の中から」 桑原千代子さんに聞く3  第一集

2016-09-07 | 第一集


  
  タカちゃんは、私の顔を見てすぐ「千代ちゃん、水が飲みたい」って言ったんです。それで、あたりを見回したんですが、もう全部壊れてるんです。爆心地から一・二キロでしたからね。で、日赤のほうも家ががちゃがちゃでしたよ。みんなもうめちゃくちゃに壊れている。鷹野橋のほうも。
  黒川さんが「千代ちゃん、水探しに行こう」と、私の服を引っ張ってね。ぺっちゃんこになった瓦礫の町へ水を探しに出たんです。

  どこにも水はないですよ、家が全部ひしゃげちゃっているんですから。でも、黒川さんが言うんです、「そこの横道通ってごらん」と。昔は細い道路の横に共同水道と言って、水道があったんですよ。「共同水道があるかわからんけん、横道入ってごらん」と黒川さんが言うので、横道へ入って行ったんです。そしたらつぶされた二階の窓からタオルをかぶった女の人が、手を合わせて「お願いです」と言ってきたんです。「この柱の下に五歳になる私の男の子が下敷きになってます。助けてください」って。だーれも来ませんでしたよ。
  
  そのときに私らの後ろをおじいさんが逃げてたんです。そのおじいさん、こうやって上を見てね、「あんたなぁー」って叫んだんです。「あんたなぁー、わしらどうしてあげることもできんけん、兵隊さんに助けてもらいんさい。救援隊に助けてもらいんさい」って。そしたらそのお母さんが、なお手を合わせて、一生懸命下を覗き込むようにしてね、つぶれた二階から「お願いです、いま助けてください。子供が死んでしまいます。死んでしまいます」と言って。でも、私らもどうしてあげることもできないから、そういう声を聞きながらも通り過ぎたですよ。

  で、探しても水がないからタカちゃんのところへ帰ろうとしたんです。でも帰る途中、板が濡れてたんですよ。「あ、板が濡れてるっ。この板を退けてみよう、水道が出るよ」ということで、必死になって、板を退けたり、柱を退けたりしましたね。水道じゃなかったです、水道管が破裂して、シューッと水が出ていた。水が見つかって、うれしかったから、すぐタカちゃんところへ帰って「タカちゃん、お水があったよ」って腰を持って起こして、そこへ連れてったんです。

  でも、そしたらタカちゃんがその水を飲まないんですよ。ぼーっと見てるだけ。それで、私らもみんな水を飲みたかったですからね。それで「タカちゃん、早く飲んで、飲んで」ってやいやい言いますと、はじめてタカちゃんが「飲めない」と言ったんです。今ならわかるんですよ。顔全体が膨らんで唇もブワッと膨らんでいるのを、シューッと出ているところへくっつけて飲めと言うのが無理なのは。自分で自分の口を広げられないんです。でも、そのときはわからない。早く飲ませてあげたい、私らも飲みたい一心でね、やいやいやいやい「飲め、飲め」とせかしたら「飲めないー」って、涙を流したんですよ。

  で、そこらを探して、ハンゴウの蓋(ふた)のねじれたのがあったのを持って来て、それに溜めて飲ませたんです。二回ほどこう唇をひろげて飲ませたんですよ。指で唇をひろげて。タカちゃんの唇をこう開けたときのねえ、唇の感触、いまでも私の指先に残ってますよ。「タカちゃん、まだいる?」って言ったら頷くので、三回目を汲んで飲ませようとしたときです。

  兵隊さんが血相を変えて走ってきて、私が持っていたハンゴウの蓋を叩き落としたんです。そして「おまえはーっ」て言うんですよ。私はもう恐くてどうしようかと思って、直立不動でした。「おまえはーっ。水飲んだら死ぬるぞーっ。おまえらも水飲んだらいけんっ」と言われたんですよ。私はもう二回飲ましてるでしょ。目の前が真っ暗になって。何にも見えなくなったような気がしてぼーっと立ってたんです。

  そしたら肩をぽーんと叩かれて、「この子は日赤病院へ連れていくから、家族の人に連絡してあげてくれ」って言われてはじめてタカちゃんが担架に載せられているのがわかったんです。
  四人だった友達がいつのまにか六人になってましてね、南大橋を渡ってきて増えていたんです。みんなが担架に近づいて「タカちゃん、タカちゃん」と言いますとね、目をつぶったままで、「お母ちゃんに連絡してね。日赤にいるから」と言って運ばれて。

  それで、私らもタカちゃんの担架の後ろをついて歩いていったんです。担架に載せられて兵隊さんが日赤へ連れていくから言われたときに、私たちも日赤へ行こう、手当をしてもらえるよということで……電車通りへも出られるからと思って担架の後ろを歩いていったんですけど、私ら怪我をしてるでしょ、足の裏も怪我をしているし、もう体も怪我をしているし。でも先を行く兵隊さんのほうは靴を履いてますしね、完全武装でしょ、ですから速いですよね、歩くのが。もう、見る見る先へ行ってしまって見失って。でもここを真っ直ぐ行ったら日赤病院へ出られるよ、ということで、日赤まで行ったんです。


 

 

             

              広島日赤病院前のモニュメント
             爆風でゆがんだ窓枠と当時の建物の一部を保存しています。

                        (2015年秋、病院の増改築によりモニュメントは撤去されました)


 


 日赤病院には被爆した人たちが、うずくまってました。今でも日赤病院には被爆当時の門柱があるんですが、そこの門柱へ、五人いたうちの一人の友達がばーっと体を預けて、動かなくなったんですよ。私が「帰ろーっ」って言っても、もう動かない。

  黒川さんが「あと七つ電車の停留所を歩けばね、宇品に帰れるよーっ」って言ったんですが、やはりその友達はもう動けないからと言うので、そこへうずくまってしまったわけですよ。その人は海岸の方の人でした。船を住まいにしている人で、家がお船だったんですよ。ですから、海岸までいっしょに帰れるからと思って、私はなんとかしていっしょに帰ろうとして「帰ろうーっ」って後ろへ回って、腰を持って起こそうとしたんです。
  
  でもそのときに、中学生が倒れていたんです。そこの門柱の裏に。その中学生は腸が出てるんですよ、腹が裂けて。腸の色がピンクのような、紫がかっているようなきれいな色でした。うーんとうなってまして、生きてました。死んだかどうかわかりませんけどね。それを見たときに、私は、ああ、私らくらいの怪我ではとてもとても診てもらうことはできないといっそう強く思いましたね。

  ですから「宇品に帰ろうーっ」と強く言ったんです。でもその友達はもう動きませんでした。それでしかたなく、「お母さんに連絡してあげるからねーっ。動いたらだめよーっ」と言って、友達を門柱に置き去りにして、四人がそこを離れたわけです。
      
  それから私たちは日赤病院から御幸(みゆき)橋へ向かいました。途中に貯金局があったんですよ。貯金局の前まで行ったときに、四人いた友達の一人がまた動かなくなっちゃったんです。貯金局は大正時代に建てられたすごく立派な煉瓦造りの本局で、原爆を受けてもびくともしていなかった。地下室へすごく多くの被爆した人が避難したわけなんです。


 

          
          

       右 広島日赤病院 左奥のマンションの場所に貯金局があった 2004/2                                            

                                                


 そこの前まで行くと、またもう一人の友達が動けなくなって、座り込んでしまった。その友達は、体中にガラスがいっぱい立ってたんです。南大橋を渡ったとき、仲間に加わった一人です。名前はわかりません。でも、宇品に帰るのは確実だったんです。みんな宇品に帰る人でしたからね。貯金局でまた一人動かなくなって、そこへ置き去りにしたんです。でも、私らもどうしても連れて帰ってあげることできなかったです。自分の体力もないので……

 御幸橋へ向かう途中、戦時中ですから横筋に防火用のコンクリートの水槽が置いてあったんですね。残った一人が、それを見たら、走り出したんです。防火用水のところへ行ってね。水槽の中へ足を掛けて入るだけの元気がないから、頭から突っ込もうとするんですよ。でももう二人の男の人が水槽の中に入ってたんです。顔をぺたーっとくっつけて。ですから中はちょっとしか空いてないんですよね。入れないので水をかけようと言うんで、黒川さんと二人で水をかけたんです。

  そのときに私のこの手がその男の、戦闘帽をかぶっている男の人に当たったんですよ。その人は戦闘帽から下がズルズルになっているんですよね、耳も焼けて。その顔に手が当たるんですよ、水をこう掬(すくう)からね。顔へ当たったり、肩へ当たったり、頭へ当たったりするんですよ。
  でも、その男の人は全然顔を上げない。すでに死んでいたということですよね。水槽につかったまま。

  で、その友達を水槽から引き摺り離して、御幸橋まで来たんです。そこにはもうずらーっと右と左に被爆した人がしゃがんでいました。もういっぱいいましたよ。
  御幸橋を渡ろうと、橋の半ばまで来たとき、突然足首をつかまれたんです。女の人ががーっと私の足首をつかまえた。「わーっ」とびっくりして、立ち止まって下を見たら、「お願いです」って言う。その女の人、タカちゃんよりもまだひどいんですよ。被爆してるのが。もう焼け爛れて、顔がずるずるになっている。すごい力で私の足首をつかんで離さない。


金崎 是  画集「天に焼かれる」スケッチより

    

いたるところから、傷ついた人たちの呻き声や水を求める声が聞こえてくる。

子供を抱えた母親がぼう然としている。


 人は必ず、何か頼むときはみんな自然にこうやって手を合わすんですね。「お願いです」と言って。「宇品港まで、連れて逃げてください。私は江田島の人間です。宇品港まで行けば連絡船が出てますから」と言うんです。「助けてください。お願いです。宇品港まで連れて逃げてください」と。

  でも、私も一生懸命でしょ。自分一人が生き延びるだけで精一杯。必死ですから、私も。だから「どうしてあげることもできんから、兵隊さんに助けてもらってね」と言うしかない。「ごめんねーっ」と言って、足首を握られていた手の指を一本ずつ引き剥がして。気持ち悪いと思わなかったですよ、一本ずつそのすごい力の指を引き剥がして、その手から逃れたんです。一本一本「ごめんねーっ」と言って。そのときの指を一本ずつ剥がす感触をまだ憶えてますよ。まだ私の中に残っています。

  それから歩いていたら、人のいない方から声が聞こえてくるんです。「お母ちゃん助けて、お父ちゃん助けて」「先生、助けて」とか、どっからともなく声がする。足元に転がっている人たちじゃない。おっかしいな、どこから聞こえるのかなと思ったら、はじめてそのときに見たんですよ。橋から外をね。広い川ですから、たくさんの人が海へ流されていくんですよ。いっぱい人が流されている。その人たちのだれかが声を出しているんですね。「お母さん、助けて。お父さん助けて」とか言いながら手を上げてね。どんどんどんどん流されていく。あっちこっちから聞こえてくる。でも、それを見ても、聞いても、私はかわいそうだなーとか、そういう感じはなかったです。ああ、人が流されている、海へ流されていく、そのくらいです。

  もう死んでいる人も流されていたと思います。流されている人はいっぱいというほどでもないんですけどね。そのときはまだそんなにぎっしりとというほどじゃなかったですよ。
  あとで聞いた話では、全部海へ流されて、それで満潮になったらまた帰ってきたそうですけど、死体が。

  そのとき気がついたらね、友達がどんどんどんどん川の中へ入っていったの。防火用水で水を飲んだ友達が。私と黒川さん二人はこの御幸橋の上から、必死で「流されるよ。流されるよーっ」って叫んだんですよ。川の中へ入っていく。

  橋の袂に階段があるんですよ。川面に降りていく。階段には水が来ているんです。満潮だったのか。その階段にはたくさんの人がねえ、もう自分の体の熱さに耐え切れなくなってこうしてしゃがんでるわけなんですよ。川に浸かって。で、そういう人たちを分けて中へ入っていくんですよ。先を歩いていた私と黒川さんは、御幸橋の上から「流されるよ、流されるよーっ」って叫んだんですよ。黒川さんが「流されるよーっ」「流されるよーっ」って必死で言ったら、胸の辺りへ手をやって、何度も示すんですよ。胸までね、ここまでいいということだったんでしょうけど、胸まで入ったら、波が来たら完全に流されますよ、体力がないから。


 

 
   

  御幸橋 下流から                      2003/9/28


 

 で、黒川さんも、私も後戻りして川の中へ入ったんですよ。右と左の手を持って、引き摺り上げたんです。うんもすんもないんですよ。「あんたらは、私らは、ここまで帰ったのに」って、黒川さんが怒るんですよね。「あと四つ停留所を歩けば帰れるのに」って。でもぼーっとしているんです。それで強引に、いっしょに連れて帰ったんです。

  もうどこもかしこもすごい状態で、家はみんな壊れているし、どうなっちゃったんだろうという感じでしたね。私ももう体力が尽きていて、もっとすさまじいのを見てきていましたから、あまり気にかけている余裕はなかったですが。とにかく家にたどり着くことだけで頭が一杯でした。
  帰る途中、宇品の十丁目というところがあるんです。十丁目がタカちゃんの家だったんですよ。で、寄ったんですけどね、家の人はもう、だれもいませんでした。八月六日の日は、広島は軍港だから、夜爆撃でやられるいうことで、皆避難してくださいと、町内からの警告があったみたいでね。だから置き去りにして帰った友達には全然連絡してあげることができなかった。

  で、私は六丁目ですから、電車通りを通ってバス通りを通って家まで帰ったんです。家まで帰ったときに、近所の山崎のおばちゃんが、いっぱいワラジを持って、小間物屋してましたからね、街からどんどんどんどん避難してくる人たちにワラジを配ってたんです。私を見て、「どうしたん、千代ちゃん血が出よるじゃない」と驚いて言いました。三人が初めて家の前でワラジをもらったんです。

  山崎のおばちゃんに「おばちゃん、いま何時」って時間を聞いたら「七時よ」と言いました。まだ明るかったですよ。あの時代、腕時計なんかしてませんから、時間なんて人に聞かないとわからない。「千代ちゃん、七時よ」と聞いて、「え?」と驚いた。それほど明るくてね。「やー、もうこんな時間」と思ったくらいです。

  二人の友達は、家が宇品港の方でしたからそこで別れました。「もし、家に帰ってだれもいなかったらおいで」って別れたんですが、その後会うことがありませんでした。今日まで。生きているのか、死んでいるのか、それもわかりません。

  家に帰ってみると、メチャメチャになってるんですね。爆風で、ガラスも全部割れて。壁も崩れ、瓦が落ちて傾いているんですよ。でも、「もういいや、家まで帰ったんだから、死んでもいいや」と思いました。
  戦時中はどの家もバケツへ水を汲んで置いたんですね。その水があった。バケツを持ち上げて飲むだけの力はないですから、馬みたいに腰をかがめて口を寄せてぐーっと飲んだんです。
  そのときに、私が一番はじめに思ったのは、「この水を飲んだら死ぬ」と思ったんです。兵隊さんがそう言ってましたからね。でも、実際水を見るとね、我慢できないんです。水を飲みたくなって。「飲んで死ぬんなら、もう死んでもいい」と思ったですよ。「家に帰ったんだから。もう、いい」って。それでさらにもういっぺん水を飲んだ。

  そうすると、五秒もしないうちにバーッと吐き出した。胃液のような、汚物がいっせいにバーッと出たんですよ。そうするとまた喉がカラカラになるんですよ。で、また飲んで。五、六回そういう状態を繰り返して。水の中に座り込んでたんですよね。
  あとから聞いた話では、しっかり水を飲んで、汚物をしっかり吐き出した者が助かっているんですね。水が飲みたい、でも「水を飲んだら死ぬ、水を飲んだらいけん」と言って、みんな我慢してね、無傷の人がみんな死んでいった。だから私は「もう死んでもいいや」と思って水を飲んで、よかったと思ってます。命拾いをした。

  そしたらお母さんが頭に包帯を巻いて手をこんなにして吊って、「千代子が」、「千代子が」って叫びながら帰ってくるのが見えたんです。で、私はうれしくてね、「お母さーん」って言ったら、お母さんが「千代ちゃん、ごめんね。あんたのこと忘れとって」って。自分が手当をしてもらってはじめて「ああ、千代子は今日雑魚場へ勤労奉仕に行っとる」いうのを思い出したそうなんです。だからお母さんは死ぬまで言ってましたよ。「人間、ほんとに極限に達すると自分のことしか考えない。私はいい経験をした」って。お母さんいつもそう言ってましたよ。

  お母さんは、宇品で手当をしてもらっていたんです。
  明るかった。もう七時を過ぎていて。でもやっと家に帰ったと思いました。それまで一二時間も、一三時間もかかってるんですよ。

  八月六日のその晩、丹那の山がありますよね。広島市の東南にあるんですが、そこへ避難してくれ、いうことで、それでみんな丹那へ逃げたんですよ。私は乳母車に乗せられてそこへ行きました。隣の韓国の人で、村田武という人がいて、その人をタケちゃんと呼んでいたんですが、その人といっしょに運ばれたんです。

  その人は朝鮮人でした。当時は朝鮮名を使いませんでしたからね。そのタケちゃんと二人、乳母車に乗せられて、丹那の山に避難したんですよ。昔の乳母車は大きいんです。籐(とう)で編んだ乳母車でした。八時頃家を出たんです。山の上に着いたのが九時くらいだったように思います。

  丹那の山にはいまでも神社があります。そこに避難したときに広島市内が一望に見えました。横川から西広島までみんな見えました。えんじ色の野火が燃えているようにずーっと燃えていましたよ。自分の町が燃えているのにね、悲しいなと思いませんでした。
  ほんとにもう、資料館の模型といっしょです。木が二、三本あって、ビルの焼け残ったのがいくつか建っていて、全部もう西広島まで見えました。
  もう夜でしたけど、街全体がね、ぼーっと明るく燃えて。ずーっと燃えてましたよ。山の上から見ていました。

  兵隊さんが、白いおむすびを配ってくれました。みんなに配布してくれたんですよ。白い御飯のおむすびを食べるのは何年ぶりかでした。五年も六年も白米の御飯を食べていませんでしたから、うれしかったです。私はタケちゃんと二人、燃えている市街を見ながらおにぎりを食べました。タケちゃんが、「千代ちゃん、おいしいねぇ」って言って、「うん」と私も頷いて、食べたんです。
  お母さんが来て「まだお腹いっぱいじゃないでしょ」と言ったんです。親にそう言われたら、「うん」と言いますよね。そしたらお母さん、自分が食べるのを二つに割って、私とタケちゃんにくれたんですよ。それをまた食べながら、燃える広島の町を眺めていました。

  山の上ですから、ただ避難しただけで寝るところも何も用意してないです。一晩中ほとんど横にもならずにずっと見てました。明るく燃えるのを。神社のあたりにみんな座ってましたけどね。

  七日の日に私たちは山を下りて、宇品からお母さんの里へ行ったんです。瀬戸内海に能美島(のうみじま)という少し大きな島があるんです。そこへ避難したんですね。お母さんの親がいましたから。でもお兄さんしかいなかったんですけどね。
   それからずっとそこに敗戦までいました。八月一五日に帰ってきました。

                               

  帰ってきてから、しばらく元気だったんですよ。でも、九月に入って、三日でしたか、体に変なものが出てきた。ごそっと、髪が抜けて。櫛で梳かすたびに。ぞっとしましたよ。そして斑点が出てきた。「お母さん髪が抜ける、紫の斑点が出たよ」って。当時、皮膚に紫の斑点が出たら助からないということでしたからね。私、ぞーっとして。

  そしてそのあと歯を磨いていたときに、ばーっと血が出たんです。歯ブラシしてたら、どーっと血が出て。で、それからもうびっくりして「お母さん、血が出るーっ」と言って倒れたんですよ。お母さんが「はあー、寝ときんさい」と布団敷いてくれて寝とったんですけど、その晩くらいから高熱が出て、ご飯も何も食べれなくなってね。

  でもお医者さんがいないんですよね。で、結局外科の先生が来てくれたんです。藤波先生という外科の先生でした。でも「わしの手に負えん」と言って、それで、陸軍の宇品分院に入院したんです。大和人絹の工場が急遽陸軍病院の宇品分院になっていたんです。現在はマツダになっていますけど。兄が被服廠へ勤めているし、従姉妹が看護婦だったので、入れてもらえたんですね。確か九月一〇日くらいだったと思うんですよ。入院したのは。お兄さんに言って、陸軍病院へ連れていってもらいました。

  病室もね。窓も何にもないんですよ。原爆の爆風でガラスがみんな割れているから。天井からも雨が降って漏るので、いっぱいバケツが置いてあって。そんな病院でした。
  その病院で、髪の毛が全部抜けました。何もなくなってしまって。歯茎からまだ血が出てね。お母さんは私にずーっと付き添いで、私を毎日抱いて寝てくれたんですよねぇ。もうほんとうに、あたたかく、包むように寝てくれました。きっと原爆に遭ったとき、私のことを忘れてしまったことをすまないと思ってたんでしょうね。ずーっと抱きしめて寝てくれました。「死んじゃダメよ」と言って、ほんとうに思いのこもったあたたかさでした。

  そのおかげでね、私は命を取り留めました。
  回りは全部兵隊さんでした。毎晩毎晩兵隊さんが見に来ました。入院している中に女一人、私一人ですから、珍しそうにずーっとしげしげと見ているんですね。「よう寝とるの、私の娘もこんなかなー」という感じで。
  でもそういう人が必ず亡くなっているんですよ。バタバタバタバタ担架で運ばれていく。兵隊さんを運んであっちの室に連れていくんです。窓がないからみんな見えるんですよ。私の病室にいた兵隊さんも亡くなったんですね。で、元気になってそこへ行ってみたんですよ。十一月頃。そしたらそこは、死体置場だったんです。

  兵隊さんがたくさん死んで、そこへ運ばれていたんです。死体置場は雨が漏るので、死体がロウみたいになってる。雨が当たって皮膚がロウのようになってるんですよ。兵隊さんの死体の顔に布がかぶされて、だれだれ何等兵って書いてあるんです。白い布に書いて顔へかけとるんですよ。だから、兵隊さんを焼くときには布を取ってね、だれが死んだかわかるように。

  死体がいっぱいありました。次々に死んでいくんです。戦争は終っているのに、不思議でしたね。みんな放射能で死んだと思うんですよ。すごく大きな穴を掘ってね。もう一人二人じゃないですから、兵隊さんをみんな入れて油をかけていっしょに焼くんですから。その臭いがね、もーう、臭かったですよ。毎日のようにね。

  私ね、もう敗戦から今日までいちばん私の心に残っているのはあの人を焼く臭いですね。それと、川で「助けて、助けて」と言う声。あれだけはもう、忘れることができないですね。
  死体を焼く臭いは、あの頃もう広島のいたるところに漂っていた。学校の校庭と言わず、広場、草っぱらと言わず、幼稚園と言わず、広いところは全部人を焼いているんですよ。棺桶なんかもう間に合いませんから、箪笥の引き出しに人を入れて燃やしたりしたんです。

  宇品のこのあたりでもたくさん人を焼いています。そのせいかと思うんですけど、戦後、物がないとき、食糧難のときに、広いところはみんな畑にしたんですね。各隣組で配給があってね。おイモがすっごくよくできたんです。コウケイ4号とか、なんとかいうおイモが。とっても大きなのがたくさんできたんです。私は子供ですし、人にあまり言わなかったんですけども、結局あれはたくさん人を焼いてるでしょ。だからいい肥料だったんじゃないかって思ってるんです。とにかくものすごくよくできた。ナスビでもすごくよくできた。でもそのおかげでみんな助かったんですよ。ここらの人は。ここはほとんど草っ原でしたからね。

  死体を焼くときにね。お天気のいい日はダーッと大きな穴の中へ入れて、油をかけて、燃やすんですよ。窓も何にもないところでしょう。風の向きによってものすごく臭ってくるんです。ほんとね、悩まされました。強烈で。
  ものすごく強い臭いなんですよ。コノシロという魚知ってます?銀色の、薄い、骨の多い、骨切りして焼いて食べたらおいしい……そうそう、アジの薄べったいような魚です。あの魚を焼く臭いと、人間を焼く臭いがまったく同じです。だから私は、いまだにコノシロという魚、戦後五七年も経っているけど、一ぺんも食べたことない。
  とにかくものすごく人を焼きましたね。兵隊さんたちを。戦争が終ってかなり経ってからも、バタバタ死んでいった。

  私はだんだんよくなって、白血球が二八〇〇くらいのとき退院させてもらいました。帰ってきたとき、蜜柑がとてもおいしくなってましたから、十二月の初めくらいじゃなかったかな。三カ月入院していたということですね。
  顔と、腕と、首、後頭部と足にね、皮が焼けて、ケロイドにもなって、それもひとまずはよくなってました。完全ではないですけどね。その後も病院には通い続けました。あとからも入退院を繰り返しました。

  髪の毛はまだほとんど生えていないんですよ。どのくらいかかったか、私ももう、入退院繰り返してましたからね、学校も行けなくなったりね。よくわからないですけどね、だいぶかかったと思いますよ。
  坊主頭といいますけど、ほんとうに毛がないんです。ごく薄く生えてきても産毛でね。顔もだったですけど、丸坊主だったので、学校へ行くのに恥ずかしくてね。第三国民学校へまた通って。
  国民学校に戻ったときも、ほとんど丸坊主でね。マヨネーズのキューピーちゃんがあるでしょ。あれと同じです。頭のてっぺんに、うぶ毛がこう、やわらかいうぶ毛が立つんですよ。その頃みんなネッカチーフを被ってましたから、丸坊主の女の子がたくさんいたんですね。

  恥ずかしいから、みんなネッカチーフを被っていくんですよ。そしたら途中で意地の悪い子がおってねぇ。そのネッカチーフを取られるんですよ。いたずらガキにはいい標的でね。私たちは恥ずかしいから頭からこうして被るしか隠す手がないんですよね。で、こうやって隠してね、みんなやってたら、やっぱりね、いたずらの子たちにそれでも取られて、からかわれるんですよ。

  でもね、昔はね、いい子がいました。あるとき、「千代ちゃん、ごめんの」って言うんですよ。私が黙っていたら、その男の子が「いたずらしたこと、帰ってからお父さんに言うなよ、お母さんに言うなよ」と言うんです、それで、「言わん」て私が言ったらね、「明日から、わしが連れてってやるけん」て。護衛してくれたんです。護衛付きになって。あとほかの意地悪の男の子がね、来て、こう取ろうとすると、「かー、こらーっ」ってやると、ぱーっと散りますよね、男の子がね。あの子ガキ大将でも、みんなをああやって守っていたんじゃないか、と思いますね。いまみたいに子供が陰湿ではなかったですね。学校行く間は、その子に助けてもらいましたよ。

  いまだにその子がね、宇品にいるんですけどね、ちょっとこの間体調こわして入院しちゃったいうからね、じゃあちょっと行ってこようと言って。「お世話になって、命の恩人ですけん」と言って、見舞いに行ったんですけどね。

  すぐに卒業だけはして、あとは実践女学校に入ったんですが、あそこは体の調子が悪くなって、まともに行けませんでした。もうほんとうに歩けなくなって、病院への入退院が多かったので、卒業もしてません。卒業式の写真も何もないです。実践女学校へはもうほとんど出られませんでした。

  髪が生えるのにずいぶんかかりました。で、毛が生えたら、産毛でやわらかいから、ネッカチーフを被っているとそこのところが、全部ぴゅーっと型がついてね、くるっとこんなになるんですよ。結んでたら。
  全体に伸びても髪の量が少なかったですね。一応こう髪を伸ばされるだけ、髪が長くなりましたからね。被爆前はね、髪はすごく多かったんですがね。やっぱり毛根が焼けたんですかね、頭の中の毛根が。あんまり濃くはなりませんでした。三〇歳くらいになったときにはまともになりましたよ。まあまあ人並みにはなりました……。

  火傷にはその後も苦しみました。腕のここは、こうひっついてたんですがね。皮膚が伸びるからこんなに大きくなって。で、つらいんですよ。今でも。かゆいんです。こう、かくでしょ。一本一本筋がね。傷がついて。暑いときには汗が出るでしょ。やっぱりかゆいでしょ。だから辛いです。これが昔の皮です。
  首にもあります。顔が半分火傷したんですがね。わからないでしょ、もう。ここに大きかった傷がちょっと残っているんです。傷がちょっとありますね。
  顔のここは皮が焼けたんですよね。で、いまだに、笑いますとね、引きつれる感じはあります。ずーっとこういうふうに黒いシミみたいになって。とれないですね、これは。毎晩パックしてるんですけど。で、首と顔と。で、足のほうもあったんですけどね、あれはきれいに治りました。やっぱりね、この腕もこんなに肉が盛り上がっていたんですよ。ここがね。ずっと肉が盛ってね。下まであったんですよ。ぶつぶつがあると思うんですけどね。でも、やっぱり減りましたよ。だから、すごいね、人間の生命力は。毎晩一生懸命こすって……毎日毎日ね、お風呂入って擦って。まあ、いまは、あまりわからなくなりましたけどね。

  半袖は着れないし、顔は黒くなって、まあ、精神的にも辛かったですよね、やっぱり。みんな泣いたですよ、もう。私ら、青春時代はほんま半袖が着られなくてねえ。会社でも、制服が着れなくて。顔もちょっと、いまでこそだいぶもう薄くなったですけどね、黒くなってましたからね。青春時代はつらかったです。これはほんまに私の気持ちです。

                                

  昭和二五年に専売公社に入って、それからずっと五四歳で病気のため退職するまで働きました。
  結婚してからも共稼ぎで。主人と知り合ったのも専売公社です。結婚は昭和四〇年(一九六五年)、六月九日、お父さんの誕生日。戦後二〇年経ってからでした。主人のほうが若いんですよ。昭和一〇年生まれ。私が六年。四歳年下です。いつも、今になっても、もめるんですよ。一つ年が多い、少ないって。ハハハ……。

  まもなく赤ちゃんが生まれて。私は家族にも子供にも恵まれました。
  共稼ぎで、四三日目にもう託児所へ預けて働きに出ました。私はずーっと子供に寂しい思いをさしてきました。小さいときから。託児所へ預けて、保育園へ預けて。ですから今、子供孝行しているつもりです。今は孫もできて、親じゃなくて、友達みたいですよね。いっしょに主人と飲んだり、平和運動に行ったり、ハハッ……友達ですよ。佳典(長女の夫)さんとも友達だし。

 私はいつも母のことを言うときは胸がいっぱいになって涙が出るんですけども、母は一九年前肺ガンで亡くなったんですよ。そのときは私はまだ専売公社へ行ってました。で、朝四時に起きて母のお弁当を作って、主人のお弁当を作って、そういう生活を一〇カ月やったんです。それで、私は無理をして糖尿病になったんです。会社で倒れてしまって。気がついたら診療所に寝ていたんですよね。

  病院で母が死ぬときに、「胸が苦しい」と言ったんですよ。肺ガンですからね。いつも氷を食べて。もう、氷しか食べなかったんですけども。
  胸が苦しいというから、こう寝巻を広げて、胸をさすったんですよ。母のおっぱいがありますよね。手に当たるんです。私は母のおっぱいを、こう、いい年してね、握り締めたんですよ。

  そのときに感じたことは、ああ、お母さんのおっぱいってあったかいなと思ったことです。やさしいね、なつかしいなと思いました。私は小学校へ行っていたころも、ずっと母といっしょに寝てたんですよ。なつかしいな、って思って、もう涙がぼろぼろぼろぼろ出てきました。お母さんの乳首が当たるのを感じながらね。足が出ているのを見てね、母の足がこう曲がっているんですね。それを見ながらおできのことを思い出したんです。おできがずーっとできて治らなくて、六年間苦しんだんですよ。で、おできが治ったとき、足が曲がってしまってね。

  考えてみたら私の体の中の放射能や毒がね、全部母の中へ入ったのかなと思ってね。お母さん、陸軍病院で毎晩抱いて寝てくれたでしょ。あれでお母さんの体の中へ入ったんかな、核の毒が、放射能がね、みんな入ったんかな、と思ったりしながらね。

  そんときに母がベッドからこう手を伸ばして、私の頭をさすって、「今日の千代ちゃん、おかしいね」と言うんですよ。ものがよく言えないんです、もう。県病院の主治医の先生が今晩か、明日の朝ですよ、って言われていましたから。で、黙っていたら、はめていた指輪をね、外して私に持たせてくれたんです。で、「これはね、千代ちゃん。お父さんがね、御用船、船に乗っているときに支那からね、買ってきてくれたヒスイだからね」と言うんですよ。ヒスイはお守りだからあげるよ、と言ってね、私の手に握らせてくれたんですよ。でも、私、ありがとうとも何にも言えないんです。もう言ったら、わーっと涙が出そうになって。

  で、指輪を持ってずーっと母の胸で、泣いていますと、母が最後に言った言葉が「千代ちゃん、ピカ(原爆)のときはごめんね」って言ったんですよ。「あなたのことを忘れて」って。
  あのときには泣いたです。やっぱり母があのとき「ごめんね」と言ったらね、やっぱりこたえますよ。

  だから、学校なんかの講演で生徒さんたちにいろいろ話させてもらう機会があるんですけどね。そのとき、言うんです。原爆で亡くなった人も、苦しんで苦しんで亡くなっているけれども、生き残っている者もまだ胸にも背中にも苦しみを背負っている。友達が亡くなり、知った者が亡くなってね、悲しみも苦しみもみんな増えていくのよ。だからね、戦争はもう無差別殺人だからね、二度と起こしたらだめよ、って言うんです。あなたたちにできる、平和への努力をしてください、ってね。

  そうは言っても、なかなかむずかしいと思うんだけど、「あなたたちにできる平和への努力というのは、人の痛さがわかる、思いやりのある、心のやさしい人になることだ」って。「それがあなたたちにできる平和への努力だと、桑原さんは思いますよ」って私は言うんですけどね。「帰ったら必ずこの原爆の話を家族の人みんなにして、戦争について、平和について、いろいろと考えてみてください」ということをお願いして、いつも結ぶんですけどね。

  私、いつも言うんですよ。「戦争は人間が起こすけれども、その戦争を止めさせることができるのも私たち人間ですよ」って。「平和っていうのは向こうから歩いても来ないし、先生からももらえない。親からももらうもんじゃない。自分の手でつかみ取って作り上げてください。つかみ取るには、さっき言ったように、人への思いやりのある、あたたかみのある、人の痛さがわかるやさしい子になってそれをずーっと継続してください。三日坊主で終わったらだめよ」って。

 私は今、両眼が原爆白内障で、左眼がもう見えなくなってレンズを入れてもらったんですよ。今度もうこちらがだめで、右だけどこっちが0・2で、こっちが0・1よく見えて0・2くらい。来年年明けたら手術しましょうね、言われるんですけど、手術してもあまりよく見えるようにならないんですよね。0・3までしか見えないんですよ。
  そんなだったらしたくないなぁ、思うんですけどね。まあ、手術して、少しでもよくなるんなら、しようかなぁ、まあ原爆病院の先生が「桑原さん、来年春には思い切って手術しようよ」って言われるんですがね、保留にして帰ってきているんですよ。

  今振り返ってみて、私はいろんな人にめぐり逢えてよかったと思っています。会社でもほんとうにいい仲間にめぐり逢えてずっと支えてもらってね。うれしいときもいっぱいありましたし。私の人生は、私の傷(いたみ)を受け止めてくれる主人にめぐり逢えたことも幸せだったと思います。
  ……私は、一〇〇歳まで生きようかな思うんですけど……

 私は主人に言ったんですよ。「もし死んだらね、あの世へ行ったら、お父さん、隣に席を取っといてね、私また行くから」と。そしたらどう言ったと思います。「いやいつもいつも怒られてるから、今度は若い子の隣に座るよ」って。「まあ、そう言わんといて」って。ハハハ……

(二〇〇二・一一・八/桑原さん宅にて/聞き手■立川太郎・五十嵐勉)

 詩

残された命を捧げたい
                 桑原千代子
                               

 一九四五年八月六日 八時十五分のこと
広島で被爆しました
爆心地より八〇〇メートル
 ドーンという音で飛ばされ
逃げまわり
悲しさも恐ろしさも感じない一三歳でした

 インスリンを朝夕 注射
 腕のケロイドが大きくて
半袖は着られなかった青春時代-

 初産では
神に祈りました
「オギャー」の声に全身で喜びを感じ
 とめどなく涙が流れました
生まれた娘 また生まれた娘
 娘たちが育つほどに
 あの日のことを話しました
目を輝かし 食い入るように聞く子らに
 また涙が流れました

被爆者援護法の実現を
戦争をしないと国に証明させることを
家族や仲間の協力で求め続けます

 わたしは語り部
 証言に残された 命を捧げたい

 
                                   

             (一九九一年十二月一八日「全たばこ新聞」掲載)

                                         

 

 

 


「爆発直後の闇」 第一集

2016-09-07 | 第一集

1集「爆発直後の闇」



爆発直後の闇--なぜ真っ暗になったのか
                                   五十嵐勉

 今回、特に桑原千代子さんの証言では、爆発直後に「真っ暗になった」という部分がある。また他の原爆証言の記録にも、しばしば「暗闇に包まれた」という叙述が出てくる。これはどういう理由によるものか、「原子爆弾災害調査報告集」を踏まえて推察してみたい。

 たんに粉塵だけであれほど真っ暗になるものか、なぜ数十分もの間、光がまったく遮られるほどの状態に置かれたのか、これは原爆のすさまじさを知る一つの材料になるはずである。屋内にいた人だけが闇に包まれただけでなく、桑原千代子さんのように、屋外にいた人もすっぽりと闇に包まれたことを考えると、この暗闇現象にはもっと複雑で激烈なメカニズムが隠されていそうだ。

 爆心上空の原爆爆発点では、「摂氏数百万度の高熱が発し、圧力数十万気圧の火の玉が作られた」とある。
 続いて「そこから爆風(衝撃波と突風)、熱線(赤外線と可視光線)、および初期放射線(ガンマ線と中性子)が放射された」(資料はすべて広島市立宇品中学校教諭永田邦生先生提供による)

 まず起こったことは、火の玉の発生によって火球から熱線が出て、あらゆるものが一瞬にして焼却されたことだ。地上でも爆心近くは数千度に上った。瓦やガラスが融けたことを考えると、まちがってはいないだろう。熱線がいっさいを焼き焦がした。ただそれは一瞬だった。「火球は一〇秒間輝きを続けた」とあるが、実際に火球は1、2秒で、あとは急速にその高熱は衰えたはずである。したがってその一瞬に数千度の熱によっていっさいが焼却されたと考えていい。

 直接の熱線を浴びた有機物はほとんど焼けた。木も草も家屋も、塀も、およそ普通に燃えるものはすべてその表面は熱線にさらされて黒焦げになり、しかも高熱のためにボロボロになっている。
 見落とされがちなのものが二つある。それは第一に空中の塵である。埃やチリ屑など細かなものが空中には無数に遊泳しているが、これも一瞬のうちに焼け焦げたと思われる。

 ちなみに、エノラ・ゲイなどアメリカの爆撃はレーダーによる爆撃が厳重に禁止されていた。必ず肉眼での目視爆撃だった。長い天候記録を調べた上で、そのためにわざわざ晴天の日が選ばれていた。肉眼による目視爆撃という点には、アメリカ軍は徹底的にこだわっている。
 これはなぜかというと、目視爆撃のほうが正確であるためだが、それ以上に重要なことは、雲があるとそのために熱線や放射能などが雲の粒子によって妨げられ、効果が半減する可能性があるからである。熱線や突風を、雲が吸収してしまうことによって、効果が薄れる。まして地上が雨であった場合、雲の粒子ばかりでなくその水滴によって原爆の効果は大きく損なわれる。また爆発の観測にも、不具合をきたす。

 だから、世界最初の原爆の爆撃はどうしても晴れている日を選ばなければならなかった。つまりこれは、目視爆撃のために晴れている日が選ばれたのではなく、原爆の効果を最大限上げるために晴れた日が選ばれたということを示している。結果として目視爆撃でなければならず、レーダー爆撃がそのために禁止されていたというわけである。
 だから、空中の塵が熱線によって焼かれる現象とそのデータは、アメリカでもすでに実験で得ていたはずである。黒焦げになった塵というものも無視できない暗闇の要素ではあろう。

 もう一つは、広島市立宇品中学校の永田邦生先生が指摘するように、焼け焦げたものの中には生きものの皮膚も人間の衣服もあるということだ。
 被爆者は被害のひどい人ほど、ほとんど丸裸になっていた。衣服はどこへ行ってしまったのか。衣服はまず第一段階として瞬間の高熱を浴びて、一瞬にして黒焦げでボロボロになってしまった。しかもそれは衣服を越えて特に黒い色の部分は熱を集め、透過して皮膚を焼いた。その皮膚もまた黒焦げになってボロボロになった。当然髪も一部は黒焦げになった。

 第二段階としてそこへ瞬間風速数百メートルの突風が押し寄せてそれらの黒焦げの有機物を吹き払った。だからあとに残ったものはそれらボロボロに焦げたものをさらわれた姿だった。裸、あるいは皮膚を失った肉の露出部が残ったと見られる。もちろん突風によって体には、逆に土や焦げたものがいっせいに自分にぶつかってもきたわけだから、それらを浴びて顔は汚れ、土埃や焦げたものでめちゃくちゃな姿になってしまったと思われる。爆風で、一部組織が損なわれた皮膚ももっていかれただろう。そのちぎれて残った皮膚が体から垂れていた人がたくさんいた。

 衝撃波のすさまじさは、ほとんど直下の原爆ドームを見ればわかるが、あの圧力で土を打てば土がえぐれるほどだろうし、すさまじい土煙が立つのは容易に想像できる。土や家屋や破壊物やコンクリートや瓦の敗残物がいっせいに吹き上がって、外延に飛ばされただろう。
 またこの衝撃波は一度だけでなく二度襲っている。最初は爆発で数十万気圧で外側へ拡がるが、あまりの急激さに内部が真空状態になるので、その真空空間に向けて今度は周りからどっと空気が流れ込むため、それもかなりな突風になる。ほんの数秒間のうちのその二度の突風によって人々は丸裸にされたことになる。

 周りからいっせいに流れ込んだ空気には、当然いろいろな焼却物と灰塵類、土も埃も破壊建築物も、いっさいが含まれている。逆流現象が地上五八〇mの爆発地点をめざして起こった。無機物はそれほど色は変えていないが、有機物は黒焦げになって流れこんでいる。木や草や空中の塵埃や生きものの皮膚、衣料品や人間の皮膚や髪の焼け焦げたものいっさいが吸収されて集中した。熱を帯びたそれらはさらに中心部から上昇して巨大な笠を形成しながらキノコ雲の下部を造成していった。キノコ雲の下方の黒さは、焼却物の黒さが混じっているもので、たんに土や残骸によるものではない。焼却物であるからこそ、比重が軽く、上へ昇ってきたと見るべきだろう。

 これらのものが一気に上空へ昇り、一種のドームを作った。すでに直下は発火して燃え上がっている。その熱によって一部は積乱雲を作りながら上昇し続けた。この黒焦げのものを含んだ半径一キロほどのドームが地上の爆心地帯から上空へかけて形成されたために、光が遮られて地上は闇に包まれたことになる。これがほとんど数十秒間に起こったことだ。

 キノコ雲の頂上は爆発後八分あまりで約九〇〇〇mの高さに達した。
 おりから南東より風が吹いていたために、上昇した積乱雲は時間とともに北西方向へ流され、やがて冷えた空気と接して雨となって地上に降り注いだ。これが「黒い雨」である。この黒い雨の中には、有機物の焦げたものが含まれており、人体の皮膚の焼けたもの、髪の焼けたもの、そして衣服の焼けたものも当然含まれている。またこの黒い雨には放射能を帯びた物質も多量に含まれている。

 原爆によってできた数十分間の暗闇は、原爆のすさまじい威力と現実を象徴している。一瞬にして人間が丸裸になったその現実こそが、暗闇のドームを形成していったと言えるだろう。焼けた皮膚や衣服もごく一部混入しながら光を遮っていたとも言える。
 恐るべき破壊の力を、想像してもらいたい。

                                                                                                                     

 


「青い炎」  平岡清子さんに聞く 第一集

2016-09-07 | 第一集

 1集平岡証言




  青い炎  --平岡清子さんに聞く--  


   

平岡清子さん
生年月日●大正一三年(一九二四年)四月○日生まれ(インタビュー時七八歳)
被爆当時●二一歳/軍需工場勤務。当時自宅は桐ノ木町九三二の一
被爆地●爆心より北方向一・七キロ/三篠(みささ)本町・大橋製作所(当時軍需工場)


 私は平岡清子と申します。大正一三年、広島市の金屋町で生まれました。広島駅のすぐ南、現在の松川町の隣の町です。
 家業は家具製造業でした。箪笥とか、食器戸棚とか、下駄箱とかを作っておりました。
私は長女で、妹が二人、弟が四人いましたが、弟三人は戦争前に亡くなっております。私が子供のときです。男の子は結局四人亡くなって、平成一四年(二〇〇二年)現在、いまは女性ばかり三人残っています。
 上の妹は四つちがいです。三女の下の妹とは七つ年が離れていて、末の弟は昭和一八年生まれなので、二〇歳離れています。

 私が一〇歳のとき、桐ノ木町に移りました。九三二の一番地でした。現在はその町名はなくなって、松川町という所になっています。比治山神社のすぐ隣でした。そこに家具の工場も移しました。十数人の職人や見習いが働くようになりました。

 小学校は段原小学校に通いました。高等小学校を卒業し、中学を一六歳で卒業してから、貯金局に就職しました。貯金局は千田町にありました。それが昭和一五年頃で、三年ほど勤めました。その間にアメリカとの戦争が始まりました。貯金局のときは、サマータイムと言って、夏は半ドンでしたね。午前中勤務で午後は休み。明るいときに帰ってましたね。

 戦時色がいっそう深まった昭和一九年(一九四三年)頃、父が病気になって、半身が不自由になってしまいました。それで別府温泉に療養に行ったりしましたので、私がついて行かなければならなくなって、貯金局を退職しました。
 でも、療養のかいもなく父は、敗色の濃くなった、昭和一九年十二月に亡くなりました。四四歳ではなかったかと思います。

 父が亡くなって、家具工場は閉鎖せざるを得ませんでした。母の女手では切り盛りはできませんでしたし、何よりも戦争で家具の職人さんたちが兵隊に取られて、男手がなくなっていったからです。兵隊でなくとも、軍の輸送船に乗ったり、呉工廠の工場に取られていったりしました。

 子供四人残されて、母はたいへんだったと思います。大黒柱を失って、途方に暮れたはずです。でも、幸い、工場を売り払ったりして、三万円くらいを父が残しておいてくれたので、それで、食いつなぎました。この頃は、家が八千円とか、一万円とかで買えた時代ですから、三万円は大金でした。 母は食料も配給だけではとうてい足りないので、買い出しに田舎の方へ行ったりしていました。

 父が亡くなったあと、もう日本もあちこち空襲でたいへんなことになっていたので、私も遊んでいるわけにはいかないから、三篠(みささ)本町の大橋製作所という軍需工場に勤めました。広島駅より北の方、横川駅の近くです。爆心からは一・七キロくらいのところです。機械で大きなブリキみたいなのをプレスしていたのを憶えています。酸素吸入器、酸素ボンベですか、よくわかりませんけど、そんなものもありましたね。私はブリキの型抜きの作業をしていました。

 工場は朝八時からで、桐ノ木町の家からは一時間以上かかりますので、六時に起きて七時前には出ていました。市電で、途中十日市で乗り換えて横川で降りて、あとは歩いて行きました。
 休みは日曜だけでした。休めないときもありましたけど。
 昭和二〇年、一九四五年のとき、私は二一歳でした。
 軍需工場でも給料はもらっていたと思いますけど、被爆のときから行ってないから、どうなったか全然わからないんですよ。もう、工場がなくなってから行ったことがありませんから。あとの分はもらってないですよね。ピカにあってその後は。給料は一〇円くらいじゃなかったかと思います。女の子は給料は少なかった。私もその給料を家に入れていました。妹もね。

 工場の規模は、あんまり大きいことはなかったですね。バラックみたいな建物で、それほど広くはありませんでした。学校の一つの教室よりは大きくて教室二つ分以上はあったように思いますけど。一階だけでした。プレスの機械が何台もありましたから、狭く感じたと思います。働いている人も一〇人前後でした。下請けの工場でしたね。

                              

 被爆当日の八月六日、いつもどおりまったく変わらずに出勤して、作業を始めてまもなくでした。
 建物の中にいて、ピカーッと雷のような凄い光を感じました。いきなり地鳴りのするような音がして、目の前が真っ暗になって、何がなんだかわからなくなりました。どれくらい経ったか……だいぶ経っていたのかもしれませんね。気がついてみたら、柱や板の下敷きになっていて、真っ暗でした。 

 いま振り返ってみると、そこに作業台があったんですね、高くて頑丈なのがね。だから建物が倒れてもそこにできた隙間で、助かった。軽い怪我くらいで、火傷もしなくて済んだわけですね。
 それで、きょろきょろしたら、一筋の光が見えたんです。隙間から明かりが見えました。
 で、そこから這い出して、外へ出てみた。外に出てもはじめはしばらく薄曇りのような感じで、暗くて何もはっきりわからなかったけど、だんだん見えてきて……そしたら、今まであった家が全部なくなっていてね。大変なことになっていたんです。本当に瓦礫の山になっていました。砂埃と瓦礫の山だけになっていた。工場もつぶれていました。あとで聞いたところによれば工場の外にいた人は大火傷をされ、ほとんど亡くなられたそうです。

 何が起きて、どうなったのかさっぱりわからなかった。
 みんな下敷きになって、他にもだれか這い出して来たと思うんだけど、だれが這い出したのか、ぜんぜんわからんのです。その後で長束(ながつか)の田舎の方へだれかといっしょに逃げたんですけどね。気が動転していて、仲間のことももうわからなかったです。

 外へ出てしばらくしたら、人がいっぱい歩いてきて……。
 火傷をした人とか皮膚が垂れたような人とか、みんな裸同然ですよね。衣服が焼けとるから。みんな大火傷で、髪はぼうぼうでね。髪が逆立ってるんですよね。髪がぜんぶ立ち上がって。真っ黒い顔をして、水で膨れ上がったような身体をしてるんですね。

 みんな手を前に出してね。手や腕から皮膚が垂れてるんですよ。焼けて。だから、みんな手を前に出して歩いていました。みんな裸同然。ものすごい熱線だったんでしょうね、いっぺんに皮膚が焼けてああなったんだから。胸のほうはみんな赤いような色だったね。肩のあたりから剥がれて、胸のあたりでも皮膚がぶら下がっていましたからね。
 みんな前へ手を突き出して、まっすぐ垂らして、歩いていました。手の皮が指の先まで来て垂れ下がっている。爪が伸びたような感じでぶら下がってました。手を下げたらひっつくと思うのか、手を前に幽霊のように突き出してね。そんな人ばかり。街の方から流れてきてね。みんな黙々と、田舎の方へ歩いて行くんです。
 裸同然で、着ているものがみんな焼けて、何も着けていないというか、ボロがぶら下がったような。でも、被害が軽い人は、下着とか、何か一つつけてたね。それでも、背中や手の方はみんな裸でした。

 その人たちの流れについていくような形で、北の方角へ、田舎の方へ行列して歩いていったんです。私らは、それについて歩いていったんですね。だれと行ったのか、記憶にありません。何で長束の方へ行ったのか、だれか知り合いがいたのか、流れについていったのか……今考えてもよくわからないんです。
 人が行くから、その後について、ぞろぞろと歩いて行く……とにかく、みんな何か目的があるような感じで、田舎の方へ行くんですね。あれは不思議でしたね。みんな同じ方へ、田舎の方へ流れて行きましたね。
 みんな黙ったまま……途中で、「耳が痛いけん、見て下さい」と言うので、そこを見たら、耳がぶらさがってたりね。

 でも、どうして長束のほうへ行ったのか……工場の人がだれか知り合いでもいたのか……。そのときには工場の人と歩いたとは思うんだけど、だれとだったか名前が思い出せん。長束というのはちょっと田舎の方、安佐郡、今の安佐南区だと思います。

 途中でしばらく休ませてもらいました。そしたら、畑も熱線で焼けとったんです。全部が焼けていたのではなしに、あるところは焼けて、あるところは焼けていない。筋のように焼けているところと焼けていないところがあった。だから、放射線のところは焼けないで熱線のところだけ焼けていたんじゃないかと思うんですね。不思議に思って見ていたことを憶えています。熱線と放射線と、また熱線という感じで、畑が交互に焼けていました。

 それからまた途中でどこかの家へ寄って休んだことは憶えています。ここに行ったときは、一〇時くらいにはなっていたかもわかりません。この普通の家にしばらく休んでいたとき、家族のことが心配になってきたんです。

 で、結局は戻ろうと決心して、道を引き返したんですね。街の方へ。
 みんな田舎の方へ逃げる中で私だけ街に向かって歩いていったんです。途中で「街の方へ行っても火事で焼けよるけん、行かれやせんで」と何人もの人に言われましたけど、線路づたいに帰りました。今の可部(かべ)線を通って家の方へ帰りました。人が言っていたように、まだ火がくすぶっている熱い中を、歩いて帰りました。みんなに「そっちへ行ってもだめ、だめ」と言われながらとにかく一人で家まで帰りました。
 
 途中はもう家が倒れて、焼けて、ひどいものでした。いっさいが倒されて焼けていました。別世界でした。街の中心街では、もう人はだれもいなくて、廃墟でした。火傷や怪我をした人も見ませんでした。火事の熱で熱かったですけど、夢中で家まで帰りました。

 やっと家に辿り着いたのはもう四時過ぎていたんではないでしょうか。とにかくまだ明るいうちに家に着きました。付近一帯もみんな燃えていて、残り火がくすぶっていましたし、そういうところをそれまでずっと歩いてきましたから、自分の家も当然もう焼けているとばかり思っていました。ところが、神社のすぐそばの自分の家は、倒壊していましたけど、焼けてはいなかった。その周りだけまだ燃えていなかったんですね。うれしかったですね。幸運でした。それよりもさらに幸運だったのは、家には母と、お祖母さんが帰って来てそこにいたんです。たまたま帰ってきていたんですね。まだ二歳の弟も連れていました。弟や母なんかは、あまり怪我はなかったんですね。ほんとうに幸運でした。

 上の妹の絹代はその日、貯金局に働きに行っていました。いったん帰ってきたんですが、私とはすれちがいだったようで、そのまま重傷を負った下の妹の方へ行ってしまったんですね。帰ってきたとき、絹代は、「比治山神社の一番背の高い杉の木のてっぺんから火がつき、燃えだしたのを見た」と言っています。比治山神社はすぐ家の近くです。「生の木が燃えるのが不思議だった」と言っています(資料によると爆発時の地表面温度三〇〇〇~四〇〇〇度)。

 たまたま母もそれを見たそうです。爆弾の熱線の影響か、どうもしないのに火がついたんですね。母もそれは不思議だったと言っています。
 下の妹はまだ第一高等小学校の生徒だったので、建物疎開に出ていました。作業中にもろに背中に熱線を浴びて、大火傷を負って、いったんは家に帰ってきたんですが、重傷ということで、トラックで飯室(いむろ)の国民学校に運び込まれたんです。絹代は下の妹があまりにひどいのでつきっきりで看病することになったわけです。

 そのうちまた火が移って来るだろうし、比治山への避難命令も出ていたので、私たち四人は比治山へ避難することにしたわけです。


    
 
 比治山神社と比治山。神社の横から山へ登る道があります。

手摺の見える辺りが御便殿前の広場です。 
                                          2005/2/13


 比治山の御便殿の方へ登りましたが、そのときはまだ明るかったです。
 そこには火傷した人とかが、もういっぱいでね。道路に倒れてころがっている人もいるし、動けなくて、へたばって道端に座りこんだりしている人もいたりでね。みんな熱いから、水がほしくて、救助に動き回っていた兵隊さんたちに、「兵隊さん水、水」って言うんだけども、だれも水をあげなかったですね。兵隊さんたちはたくさんいて、みんな水筒をぶら下げてたけど、水を飲ますと死ぬという話があったので、あげなかった。みんな「水、下さい」って言うんだけどね。後で考えたら、熱い中で、水を一滴でも飲ましてあげたら、なんぼか喉が潤ってよかっただろうなと思います。それを思うと残念でね。水をあげられなかったのを思うと、涙が出ますね。

 比治山は山が二つあって真ん中がくびれているんです。そのくびれたところに吊り橋があって、その下に、いっぱい火傷した人がいましたね。へたりこんでね。
 その夜は防空壕で寝ました。夜、呻き声が聞こえて、朝になると、二、三人亡くなっていました。

                                

 七日の朝になると、見渡すかぎり焼け野原でした。焼け跡を家族・知人を探す人がたくさんいました。
 水主町(かこまち)にあった県庁が全滅してから、県庁の本部は比治山の多聞院へ移って、そこが救護本部になって、司令塔の役割を果たしたんです。そのうちに食べ物を配給しなくてはいけないって言うんで、あそこへ食べ物の物資を集中させた。それでみんながあそこへ集まりだして、人が殺到するようになったんですね。それから県庁の本部は東洋工業の方へ移動したんです。

 二晩ほど比治山の防空壕に寝ました。家のところへ戻ってみたら、やはりみんな燃えてしまっていました。避難したすぐあとに、家はやはり焼けてしまったと思います。
 町の方では、焼跡を掘り返す人がたくさんいました。

 川には死体がたくさん浮いていました。被爆の翌日、もう、いっぱい浮いとったですよ。翌日も、その次の日も、京橋川などで、兵隊さんが死体を引き上げているのを何度も見ました。長い棒にトタン板を貼ったような担架で、それを水のきわまで差し込んで、水膨れしたのを手では上げられないので、トビのようなもので引っかけて担架へ載せて一カ所に持ってきて、薪を集めて油をかけて焼いていました。
 昼は燃えるのが見えないけど、夜になると残り火で、あっちでもこっちでも焼いたんだなというのがわかるんです。
 段原大畑町の停留所があるでしょう、あそこの食料営団があるところではたくさん死体を焼いていました。家が比較的近くだったので、よく見かけたんです。

 川原の広いところは、ほとんど死体でした。いたるところで焼いていましたね。
 原爆が落とされたあの日は、川の中がいっぱいで入れなかったそうです。多くの火傷した人が川に逃げたり、火事で燃えて空気が熱いので、さらにたくさんの人が川へ逃げた。下の妹もそのとき入ろうとしたけれど、川の中が人でいっぱいで入れなかったと言っていました。その死体が翌日や翌々日に引き上げられて、川原で焼かれたんですね。

 二晩くらい防空壕の中で過ごしたんですが、その間に、以前父の家具工場で働いていた弟子が駆けつけてくれたんです。彼は当時、呉の工廠に勤めていたんですが、六日に原爆が落ちて、工廠のほうから「広島が大変なことになってるから帰れ」と言われて、戻ってきたんです。偶然ですが、彼は八月一五日に兵隊として召集されていました。一五日に軍隊へ入るよう命令が来ていた。どちらにしても工廠を離れなければならないところへ原爆で広島市内がメチャメチャだというので、早く工廠を離れさせてもらって、私たちのところへ駆けつけてくれたんです。

 その男手でずいぶん助かりましたね。彼と、母と、隣り組の人といっしょに比治山神社の境内にバラックを建てました。神社の石垣を利用して、拾ってきたトタン板なんかを掛けて、前だけ使えるようにしたんです。焼け跡から残った畳なんかも拾ってきて、二、三枚敷きました。

 彼は召集を受けていたので、一五日に軍に出て行きましたけど、その日が終戦でした。ですから、軍装をして出ていって広島城の南の西練兵場に整列して、太陽のカンカン照りつける下でずっと立っていたけれど、天皇の言葉で、そのまま終戦になってしまった。一時間か、二時間の兵役ですよね。「帰れ」と言われてすぐ帰って来ましたね(笑)。
 男手があったから、バラックも建てられたし、とても助かりましたね。お母さんは買い出しや何かで忙しかったけれど、何とかなったんです。その彼と、二年後に結婚したわけです。顔もよい人だったし。

 配給物資をもらって、そのバラックで暮らしましたね。配給といっても、油を搾ったあとの大豆カスとか、コウリャンとかですね。カボチャがよく配られましたね。それを炊いてどろどろにしてカボチャぜんざいにしたのをよく食べました。お砂糖を入れて、メリケン粉なんかでお団子をつくって食べました。それから、何かが入った真っ黒い団子を配給してもらいました。今ではとても食べれませんけどね。ほんと真っ黒い団子だったんですよ。それでも食べないと生きていけませんからね。

 その間、下の妹は背中の大火傷でたいへんでした。母が二歳の弟がいて、動けないので、代わりに上の妹の絹代に看護を頼んだんですね。絹代はずっと妹の面倒を見続けました。
                          
 絹代は貯金局で働いていました。原爆が落ちたとき、爆風で飛ばされて知らないうちに机の下に入っていたので、幸い、怪我はほとんどなかった。窓際にいた人はガラスの破片がいっぱい体に刺さって、もう手がつけられなかったそうです。だから、同じ場所にいてもちょっとの差でぜんぜん違うんですね。紙一重で生き死にが分かれてしまうんです。
 家へ帰る途中、石臼を縄で担いでいる人や、枕を抱いて逃げる人などに会ったそうです。石臼一つでは何の役にも立たないだろうにと思ったそうです。みんな気が動転してきっとおかしくなっているんですね。

                              

 大火傷をした下の妹は、六年生のときから毎月勤労奉仕に出ていました。昭和二〇年に入って学校はもう授業がほとんどなかったので、三ツ星製菓でビスケットを箱に詰める作業をしていたそうです。自分より背が高いくらいの紙の袋を別の部屋へ運んで、毎日箱詰めしていたと言ってました。それは傷夷軍人さんが食べるためのビスケットだそうです。

 喜んでいたのは、お菓子のない時代でしたから、ビスケットの粉みたいになって崩れたのをみんなに分けてくれたそうで、帰りに、袋はないから「みんなハンカチ出しなさい」と言ってクズを分けてくれるのが嬉しくて、行きよった、と言うてました。焼いたのを大きな袋で運ぶときに、重たくって、ここで袋を落としたらクズが増えるな、って思ったらしいけど、そんなことはせんかったと言ってました。
 中学生になってからは建物疎開に狩り出されることが多くなりました。その日も建物疎開に狩り出されたわけです。
 爆心から東南方向一・六キロの昭和町で建物疎開の作業中でした。類焼を防ぐため重要な建物の周囲に空き地をつくるわけです。そのために家を壊す。瓦だけ下ろして、柱を下から何センチかのところで切って、綱で引っ張って倒すんです。それで建物から瓦を下ろして、一カ所に並べて集めるんです。倒すのは男の仕事でしたけれども、瓦は女子もやりましたので、妹はがんばって瓦を下ろすのをやっていた。

 横着な人は、くたびれたと言って家のそばに休んでたりしたけど、妹は一生懸命やりよったから、原爆が落ちたとき、まともに背中から閃光をあびて大火傷をしたわけです。
 そのとき同時に、吹き飛ばされて、大火傷して気がついて周りを見てもだれもいなかった。背中は全部火傷で、首のほうも、頭の後ろも、足のほうも、肘のあたりも、腕も手の裏も、要するに背側一面すべてでした。立っていたんでしょうかね。あのときは薄着をしていたようで、もう一枚着ていたらよかったんでしょうけど。袖付のところに一センチくらいバイアスがついてるんだけど、そこだけは焼けてないんです。

 だから、もう一枚着てたらまだ火傷が軽かったと思いますけどね。暑いから薄着をしていたんだと思います。全体が焼けてましたからね。今でも皮膚の色が違うのは残っています。
 カバンがなくなって、どこへ行ってしまったのかと探したら、木の上に飛ばされて引っかかっている。とても取れないからあきらめて帰ったと言ってました。

 先ほども言いましたが、みんなは熱いから川の方へ逃げた。妹も川へ入ろうとしたけど満員で入られんかったと言ってました。川に入られんかったのがよかったのか、入った人はみんな力つきて流されました。明くる日はいっぱい死体が浮いてましたね。
 背中一面の大火傷でよく歩けたと思います。もう必死だったんでしょうね。

 あとで聞いた話では、家の近くまで逃げてきたところで、近所のおばさんに会い「早く帰らんとお母さんが探しとるよ」と言われ、気がついたとき、家は通り過ぎていたそうです。やはりその時点でも、家は倒れていたけど、焼けていなかったんですね。あまりに変わってしまっていたのと、気が動転していたのとで、通り過ぎてしまったと思います。

 妹は、家に帰ってすぐに重傷者としてトラックで運ばれました。トラックで今の飯室(いむろ)の小学校に連れて行かれたわけです。それに上の妹の絹代もついていったんです。そのときは私はどちらにも会いませんでした。
 当時どこへいっても救護所になった小学校はいっぱいで、廊下にムシロを敷いて寝かされていました。
 絹代がつきっきりで看病してました。背中が一面火傷なものですから、仰向けに寝られない。ずっとうつ伏せです。痛みも尋常じゃなかったと思いますよ。
 絹代は食事や治療以外も、ずっと団扇(うちわ)煽いでいたそうです。そうじゃないとハエがたかるんですよ、傷口に。ハエがたかるとウジがわいて取りきれなくなるので、ずっと団扇で煽ぎ続けたんです。膿(うみ)がずいぶん出て。それでよけいにハエが飛んでくる。かなり煽いでいても、ウジがわいて……

 当時、救護所と言っても、薬なんか何もないんです。ですから、母が必死で買い出しに行っては、キュウリとかトマトとかジャガイモとかをすりおろしてつけていました。薬がないから、代わりに新鮮な野菜を背中へ塗っていたわけですが、逆にそれがよかったのかもしれません。妹は命を取りとめました。
 何日か経って終戦になったら、飯室の学校の救護所も閉鎖になって、たばこの専売局が代わりの病院になっていたので、そこへ移されました。そこにだいぶいました。絹代はやはりずっとつきっきりで、そこに寝泊りして看護していました。その年の末まで専売局にいましたね。私も専売公社の方へも食物を持って通いました。
 あの傷で、よく助かったと思いますね。何がよかったのか知りませんけど、とにかく命を取りとめました。
 退院してからは、交通機関がまだなかったので、母が乳母車を探してきてそれに乗って皆実町の専売局の病院まで治療に通いました。完治したのは八カ月後のこと、翌年の四月頃でした。

                              

 毎日毎日、死体があちこちでたくさん焼かれました。八月六日から数日は川から上げた死体や、家が倒れてその下敷きになったまま死んでいった人たちなどの死体が主で、もう、あっちこっちで焼いていました。
 瓦礫や家柱なんかの下に入った人は見つからないこともありますから、あとになって拾い出して焼いたりしたのかなと思いますけど。建物の下で、出られなくてそのまま焼かれてしまった人もいたでしょう。

 段原小学校でも、瓦礫の下から手だけ出てて「助けて」と言っていたけど、助け出せんかった、という話も読んだことがあります。手を引っぱったんだけど、火がそこまで迫っていて逃げたという体験を読んだことがありますよ。


            金崎 是   画集「天に焼かれる」スケッチより
           
           
                  焼け跡で食糧や使えるものを探す



 で、その人が名前だけ聞いたら「古本」という名前だったと言って、そのとき助け出せなくて申し訳なくて、それでしっかり憶えていたので、やっと最近になって段原小学校へ行って、こういうことがあったんだけど何か証明になるものはないかと尋ねたら、校舎で亡くなった人の中に同じ名前があったと書いてました。
「この人を、よう助け出せなんだ。申し訳ない」と思ったそうですよ。手をもいでから、ひっぱり出せばよかったと書いてあったけど、そんなことできんでしょう。見つからない死体があとからたくさん出てきたのをみると、だいぶ長いこと焼いていたのかなと思います。見えるところはすぐに処理しますけどね。

 昼間はね、家族を捜す人がうろうろして、焼け跡を掘り返して、死体を掘り起こしたり、焼け残ったものを探していたりする光景をよく目にしましたね。
 でも、そのあとも、いっぱい死ぬ人が出てきて、死体を焼くのは続きましたね。放射線で死ぬ人たちが多くなってきたということでしょうね。妹のように外傷はひどいけど、かろうじて助かった人もいれば、外傷はほとんどないのに、死んでいった人もとても多いんです。原爆はそれが怖いですよね。そちらのほうが多いような印象もあります。

 川原や小学校のちょっと広いところでよく死体を焼いていました。
 死体の焼き跡で、夜になると青い炎が立っていました。リンが燃えるのか、何なのか、夜になるとそういうのがあちこちで見えました。燃えるあとか、くすぶったあとなのか、骨の中のリンが燃えるのか……青白いような、火の玉みたいにね。昼は見えませんでしたけど、夜になると見えるんです。青いのがね。ポッポッという感じでね。普通に死体を焼いて出る炎とはまた別でしたね。夜に死体なんか焼きませんでしょうからね。
 的場町の共同便所がある辺りでも、ずいぶん死体が焼かれましたよね。あの辺りでも、よく夜は、青白い炎が燃えていました。戦後、川縁に、町内会の慰霊碑が建てられましたよね。大きな石碑で。
 あっちでも、こっちでもという感じで青い火が見えましたね。比治山から見ても、あちこち青白いのが燃えていました。

 焼け跡へお風呂に入りに行ったときもよく見ましたね。お風呂なんかで焼け残ったのがあるでしょう、昔の五右衛門風呂みたいなやつですけど。焼け跡にそのまま転がっているんですね。比治山から少し降りたところにも一つあったので、それを使えるようにしてよくお風呂を浴びに行ったんですね。水を入れて周りの倒れた家の柱や板切れみたいなのを燃やして沸かして。明るいと隠れることができないから暗くなったらね。そのときにも、炎が燃えているのを見ましたね。

 大畑町の共同便所のところも、駅前橋という広島駅のところも、夜は青い炎が燃えていましたね。当時広島駅へ親族を訪ねて来た人が、「広島全体で夜、青白い炎が燃えていた。ずーっとはるか一面に、すごい数だった」と言ってましたね。
 それが何日も何日も続きました。一ヶ月くらいは続いていたように思います。戦争が終わってもずっと、だいぶ長く見たように記憶しています。

                             

 死体というか、骨の話ですけど、宇品港から船で二〇分くらいのところに似島(にのしま)という島があるんですね。きれいな島で、「安芸の小富士」というくらい姿のいい島なんです。富士山とそっくりでね。今は養老院や養護学校ができているので、私はよく似島へ慰霊に行きます。似島に中学を建てるときに地面を掘ったら、いっぱい骨が出てきたと言うんです。塚ができている所は、骨がたくさん出てきた所です。そのあとに慰霊碑が立てられました。横穴がたくさん掘ってあって、そこもすごかった。

 似島は昔、兵隊さんの体を身体検査していた所です。日露戦争のころには大陸から帰ってくる人のためにすでに検疫所ができていたそうです。日華事変のころも、私らは、帰ってきた人を電車道で迎えて旗を振った。返ってくる傷痍(しょうい)軍人や看護婦さんをそこで検疫したんですね。病気を持ってないかとかね。怪我をした人や病人は特に。昔からそこにあった検疫所が、原爆のとき、収容所になったわけです。

 あのとき、ここら宇品の村も、ぜんぶ収容所に変わった。最終的にはみんなここへ集まってきたんですね。救護部隊になった暁部隊がずいぶん活躍したんですよね。ちょうど出発する列車のところへ、たまたま列車が到着して「この線路のあたりはたいへんなことになっているぞ」ということで、救援列車を段原のここまで出したわけです。途中で倒れた人をどんどん乗せて行った。二編成あった列車で、みんなを運ぶことができたんです。

 ですから、集められてきたこの辺は大混乱だったんです。暁部隊の福田さんが言われるには、みんな「水くれ、水くれ」って言うんだけど、水をあげてはいかん、ということで似島へどんどん運んだんですよ。暁部隊が負傷者、重傷者を運びますよね。あちこちの小学校へ。


       
          市内の至る所で軍人達が死体を集め、油をかけて焼いていた



 暁部隊の救護所もあったんでしょうかね。小学校も緊急救護所になりましたからね。で、特に宇品の辺りに運ばれたのが多かったので、それらに収容しきれない者、重傷者を似島へ運んだのもあるんじゃないでしょうか。
 満杯になって収容するところがないから似島へ移したと思います。特に重傷者を送り込んだんでしょうかね。暁部隊の一部が、そこへ送り込まれたそうです。
 あそこで死んだ人がたくさんいるんですよ。悪臭がして、だれにも看てもらえないから、あそこへ転がされるという感じでね。
 だんだん死体を踏んづけては奥へやるわけですよ。暁部隊だった熊本さんの御主人は実際にそこへ行かされてだいぶそれをやったらしいですよ。御主人が直接それをお話しなされたということです。

 戦後かなり経って、中学校のところに骨がいっぱい出てきましてね。ずいぶん後になってから、お骨を平和公園のほうへ納めたんですよ。引き取り手がある人は、引き取られましたけど、ほとんどがわかりませんですよね。中学のそばに慰霊塔ができてますよ。

                               

 死体を焼くのと、夜の青白い炎はずいぶん続きました。いつまでも死体を焼く煙が立ち昇っていたように記憶しています。
 あの年はあとから大きな台風が来たんですね。九月一七日に、枕崎台風という大きな台風に襲われて。風が吹いて、トタンが飛んでも何が飛んでも布団をかぶって寝ていたのはよく憶えてます。逃げ場なんかないから、どうしようもなくその場にいました。ただ、そのときは比治山神社の中からは少し移って、岸田さんの大きな家があって、高い塀で囲われていたので、そのすこし奥まった所に塀を利用して建てていました。

 台風もなんとかしのいで、妹もかろうじて命を取りとめて、とにかく生き延びることができました。
そんなバラックの生活で十二月までそこで暮らしていたわけですが、でも、今振り返ってみると、よくあれで十二月までおったもんです。

 ここの宇品御幸二丁目の家を買ったのは、十二月で、それからここへ移ってきたわけです。当時、ここには島の人が住んでいました。その頃、進駐軍がやってきて女子供は連れていかれるとか、そんな噂が広がったもので、その人が「島に帰る」と言ってここを売ろうとした。それを私らが買って、入ったんです。私らはそんな噂を気にしていられませんのでね。バラックにいて、寒くて。

 当時八千円で、ここを買いました。父の残していてくれたものが役立ちました。瓦を少し直したのと、登記やら何やらで千円くらいかかったので、ちょうど一万円かかったんです。あの当時は八千円くらいで買えたんですね。今思えばもっと土地の広いところを買えばよかったと思うんですけど、ここが一番傷んでなかったものですから、ここを買った。
 前も隣りも空いていて、そちらのほうが土地も広かったんですけど、ここは屋根だけ直せばすぐに住めたので、バラックに住んでいた私たちにとっては魅力でしたから、建物が整っているほうに飛びついたわけです。大八車で荷物を運びました。

 それで年末から移り住んで、新たな生活を始めました。やっと落ち着いた感じでした。専売局の救護病院にいた妹たち二人にも戻ってきてもらって、家族全員で暮らすことができたわけです。
 ここへ来てからも母は闇米をよく買いに行きよったです。配給だけでは少なくて、十分な食糧ではないので、汽車で田舎の方へ買いに行って、あのころは物々交換だったから着物なんかを持って行って交換で手に入れてきました。せっかく得ても、取り締まりの警察にひっかかるから、窓から投げ捨てる人がいたり、自分のでも自分のものじゃないと言ってしらをきったりすることもあったんです。

 とにかく混乱の中で、必死で生活しましたね。生きるために、みんながんばりました。私もその後結婚したりして、新しい生活に入っていきました。
 妹は、帰ってきても、背中の火傷でまだずっとうつ伏せのままでした。翌年もうつ伏せの生活でした。被爆して何カ月も、明くる年も寝ていて学校に行かれなかった。でも少しずつ、よくなっていきました。春にはやっと仰向けに寝られるようになったと記憶しています。

 妹は長い間伏せていたので、手足が動かなくなっていて、一時はこのままずっともう動かせなくなるのではないかと、皆で心配しました。それで、火傷のほうがよくなるにつれて、今で言うリハビリでしょうか、動かす練習を一生懸命やりました。
 かなりよくなったので、学校に復帰するということで、段原中学から市立女学校に転入しました。それで、火傷のひどいところを包帯して、母が乳母車に乗せて学校に連れて行きました。

 妹はその後も回復していって、数年後にはやっと普通の生活ができるようになりました。でも火傷をした痕は残りましたね。膨れ上がって紫になったり、ケロイドで、皮膚が平らじゃないから、ひどいところは皮がつったようになって、見られんようだったです。今でも、色は違います。

                               

 学校を出てから、勤めに出たけれど、事務服も夏には半袖になるでしょう、それが嫌でね。肌が見えるでしょう。いくら回復しても、そういう心理的な苦しみは、大きいものがありましたよね。だから頼み込んで「私だけ長袖を作ってもらった」と言っていました。夏でも長袖の事務服を着てね。

 火傷のひどい人は、今でも話すのはいやで、思い出すと身体がむずむずすると言って、絶対に話さない。妹にも、話してと言うんだけど、「だれにも話さん、話してもどうにもならんじゃろ」と言ってね。だから、ほんとうにひどい火傷を負った人、つらい体験を持った人は、話したくないんですよね。

 私はそんなでもないからわからないけど、本当につらい思いをしたんだと思いますよ。治ってからでも、傷が人目につくのがいやだったでしょうしね。でも顔じゃなかったからまだよかったんですがね。手の甲も、肘のほうもデコボコしとったですよ。今でもケロイドは残っていますしね。皮膚の色が変わっているからあんまり目立たないけど、紫とか、赤とか変色したまま、引きつってね。
 今でも元気ですけど、身体が弱いんです。無理はできない。「私が先に死ぬだろうね」ってよく言っています。そう言いながら、お互いにここまで生きてきましたけどね。

 今の子供たちは、原爆の恐ろしさ、悲惨さを知りません。現代の暮らしはほんとうに便利になって、食べ物もスーパーに行けば何でも買えますし、衣類も、電気製品でも、車でも、欲しいものはお金さえ出せば、何でも手に入る時代です。物が溢れていて、使い捨てのこんな時代は、あまりに恵まれていて、子供たちは物のありがたさもわからないし、苦労も知りません。戦争という事実さえ軽い気持ちで受け止めて、テレビゲームのような感覚で、他人事として見ています。

 原爆の怖さ、悲惨さも、今、伝えておかないと、このままでは消えてなくなりそうな気がしています。現代の戦争は、もし起これば、私たちが体験したことよりももっと悲惨になります。戦争と、原爆をしっかり受け止めて、平和の意味と価値を考え、それを守る道を探していってほしいと思います。
                                  
     (二〇〇二・一一・八/平岡清子さん宅にて/聞き手■立川太郎/五十嵐勉)



編集後記 第一集

2016-09-06 | 第一集
被爆証言を遺そう!1集編集後記

●●編集後記・・・・ヒロシマ青空の会  

                         



●逃げるのがやっとだった原爆投下の日
            --被爆者の声を未来に--                           

立川太郎(69歳/元広島電鉄電車運転士)

 広島の電車の運転をしながら、私はたくさんの被爆者に接してきた。まぶたが赤剥けになった娘さん、板にコロを付けてもらって座ったまま移動することしかできない女性、両手の手首ともなくなった男の人が、胸ポケットから運賃を取り出してくれと言われた時のこと。どれもこれも私は忘れることができない。
 こうした人たちを電車の中で多く見てきた私は、今回、あらためて被爆者の生々しいお話を聞かせてもらった。当時、一三~二二歳だったこれらの方々は、負傷した体でよくここまで生きて来られたものだと驚嘆した。

 太陽が照りつける真夏の朝、一瞬にして真っ暗くなり、何メートルも吹っ飛ばされていて着ていたものはボロボロ。しばらくして、かすかに明るくなった方向をめざし逃げようとしたがだれもいない。何と心細かったことか。これが学徒動員された少年少女の姿だったのだ。
 だれもが自分の所だけがやられたと思い、母の待つ我が家へと心は急ぐが方向さえわからない。途中、「水をください」「連れて行ってください」「助けてください」と家の下敷きになって弱々しくうめく声がしても、迫り来る火を避けて逃げるのがやっとだった被爆者。その「置き去りにした」という思いは、今も罪悪感にさいなまれ、心の傷となっている。
 ましてや、納得のいかないまま死を待つしかなった人々の無念さは、推し量ることさえできない。幾日もかかって、やっと探しあてた父母兄妹を、満足な治療ができずに亡くし、拾い集めて来た燃えかすの木々で、自ら荼毘(だび)にふさなければならなかった幼い姿がそこにはあった。

 こうした証言は決して過去の出来事としての話にすぎないものではない。ミサイルや原子力潜水艦、無人爆撃機が配備されている今日、いつまた核兵器が使われ、ヒロシマの惨禍が繰り返されるかわからない状況にある。その恐ろしさから逃れる道を求めることは現世界の最重要な課題となっている。
 証言に立ち会わせてもらった私は、辛い体験をよく話してくださったことに心から感謝と敬意を表したい。
 また、被爆絵を描かれた高齢の金崎是氏のご厚意、さらに丁寧にご紹介くださった土井克彦氏、小西正則氏のご厚意にも、深くお礼を申し上げたい。
 証言者が、「おだやかで、平和な世の中になるように」と結ばれたことを、心して受け継ぎたいと思う。



●原爆体験の継承を
 --若い世代の魂に--
 

    谷川陽子(48歳/主婦)

 ボランティアで被爆体験の録音テープを書き起こし、次世代に伝えていこうという、この取り組みが産声を上げたのは二〇〇三年の原爆記念日前日でした。二度とあってはならない悲惨な体験を、若い世代や子供たちと共有することは、大きな平和活動の核を得ることになるはずです。今現在の戦禍の国の人々のことを他人ごとにしない、能動的な平和教育はヒロシマの次世代にとって不可欠だと思います。

 これまでにも被爆体験記はたくさん出版されています。しかし、高齢になった祖父母世代の被爆者の中には六〇年近くの沈黙を破り、今話しておかなければ……と、口を開き始めた方々も多くいます。身近な人たちの閉ざされてきた被爆体験を、今こそ若い世代の魂に刻みつけておくことが大切だと思います。
 継承の意味に共感し、今のうちに話しておきたいと思われた方は、ぜひ青空の会へご連絡下さい。
 呼びかけに応えてくださった方々の尊い志を糧に、この小さな継承の輪が少しずつ広がって、国境のない大きな青空として世界中の人々の心に届くことを願っています。


●過去を知ることでこれからの未来を


   三宅ゆうこ(23歳/学童保育指導員)


 新聞のオリコミ広告で被爆体験のテープ起こしのボランティアを募集していることを知り、それがきっかけでボランティアに参加させていただきました。被爆体験を聞くことで今は亡き祖父母の生きた時代の一端を少しでも知ることができれば……私の中にその思いを残すことができればという思いからの参加でした。
 過去を知ることでこれからの未来を考えていくことが、今必要なのだと思います。
 一見平和で豊かに見えるこの時代を私は生きています。だけど、日々の生活の中で豊かさの中に潜む貧しさを感じずにはいられません。平和に見える「今」の日本は本当に平和といえるのでしょうか。
 過去に起きた悲しい現実と向き合い、私なりに平和について考え、それを少しでも未来へとつないでいけたら……そう思います。


●子供たちにも原爆を伝えたい

      木本英子(30代/主婦)


 私は、小学生の娘を持つ母親です。広島に生まれて育ち、現在も広島で生活しています。
 原爆のことについては、学生時代に平和学習で学んだり、平和公園にある原爆資料館を見学したことがあるものの、広島で過去に起こった悲惨な出来事ということしかあまりよく知りませんでした。
 今回青空の会に参加して、被爆者の方の実際の体験談に接することができました。そして、原爆が落ちた後の街の状況や人々の様子、その後の生活のたいへんさを知ることができました。戦争や原爆が、人々をどんなに苦しめるのかを強く感じました。
 この貴重な体験談を通して、原爆を過去のものにしないで子どもたちにも伝えていき、そして、戦争や原爆について話し合ってみたいと思います。


●広島から発せられる生の声

     渡辺道代(41歳/主婦)

 私は、転勤族で二年半前に広島に来ました。それまで一五カ所ほど全国各地を回りましたが、原爆について詳しく知る機会はあまりありませんでした。広島では、どの書店でも原爆の本が目に入り、学校では平和教育があります。新聞やテレビのローカルニュースでも頻繁に原爆の話題が取り上げられます。カルチャーショックを受けました。
 知識が入り始めると、私だけではなく、他県の多くの人が原爆についてあまり知らないのではないかと思うようになりました。原爆が落とされたという事実は、だれもが知っているのに、それによる惨状がこれほどひどいとは理解していないのです。関心がないわけではなく、今まで、知る手段や強く引きつけられるきっかけがなかったのです。
 同じ日本の中でも広島と他県では、かなり温度差があると言えます。今、世界情勢はたいへん不安定です。日本全体に、世界に、原爆による惨状を知ってほしいと思いました。

 夫のアメリカ赴任で私たち家族は数年間アメリカに暮らしたことがあります。戦地に行く兵隊に応援の缶詰を送り、兵隊がそのお礼に小学校を訪問するアメリカ。逆に被爆者が被爆体験を語りに学校を訪れる広島。私の息子たちは、この両方を経験しました。三才からアメリカで育った彼らは、戦争に疑問を持ちながらも兵隊の話を素直に聞いていました。そして、一一才になって、広島で原爆について学ぶと、戦争、原爆はいけないと結論を出したのです。被爆都市から直接発信された情報ほど強烈なものはありません。

 そのようなことを思っていた頃です。この本の発行の手伝いをするお話をいただきました。被爆者の方々の貴重な体験談を後世に残す本。まさしく広島から発せられる生の声です。この活動に少しでも関わることができたことを心から感謝します。そして、世界中の青空が戦争で汚れることがないよう、願ってやみません。



●谷川さんと立川さんの情熱


  五十嵐勉(54歳/作家/東京在住)

 今回、被爆者の声を後世に残す活動に、東京から特別参加させていただいた。
 谷川さんは、私が編集していたアジアウェーブの広島ボランティアとして、アジアの人々の生活と文化を伝える雑誌活動に積極的に参加していただいた。炎天下でも、雨の日でも、広島市の様々な場所にアジアを伝える雑誌をしっかり配布してくださった。その強固な情熱はいったいどこから来るのだろうと、つねづね不思議に思っていた。九八年八月六日に広島を訪れ、原爆の慰霊式典に参加させていただいたとき初めてお会いしたが、そのとき戦争と原爆とへの真剣な怒りに接して、その情熱の根拠を知った気がした。

 私としては、あれほど力を尽くしていただいたことに、報いないままでいることは心残りだった。
 何か自分としてお返しできることはと考えていたとき、被爆者の声を後の世に残す活動に参加できることになった。紆余(うよ)曲折を経たが、こうして真に残さなければならない痛切な体験を後世に伝える活動に参加できることをありがたく、光栄に感じている。
 またその過程で立川さんと知り合い、被爆者の高齢化に伴い、貴重な証言が埋もれたまま消えていくことを危惧する真情に触れて、共感を覚えた。被爆当時のまま残っている建物も案内していただくことをとおして、立川さんの思いを強く感じた。

 立川さんのお世話で、今回被爆体験をお聞きすることのできた方々に心から感謝したい。これをお話ししていただくまでの半世紀以上の間にどれほど大きな痛みと苦悩があったか、それを乗り越えての尊い語りであることを深く受け止めたい。

 今回お聞きした被曝者の凄惨な体験をとおして強く迫って来るのは、地獄そのものの様相であると同時に、生きようとする人間の強い意志である。胸を打つのは、必死に生きることをめざすその思いである。どんなに悲惨な状況にあっても、どんなに死に呑み込まれていく絶望的な状況であっても、親が子を愛し、子が親を愛し、夫婦が愛し合う、その生きる意志と人間の姿の中に、死を超える大きな力が伝わってくる。その力こそが、原爆の破壊力を超える人間の建設の力であることをあらためて感じる。そしてそこにこそ、原爆をはじめとする核兵器の破壊力を超え、戦争を避ける一つの道があることを確信する。

 広島・長崎の痛みを、人類の遺産として、未来へつなげていかなければならない。それを祈りの軸として、未来への道をなお踏み出していかなければならない。文明の悲劇を避ける道はそこにこそ敷かれているはずである。



●●被爆者の声を未来に残していく活動に参加していただけませんか
 被爆者から話を聞き取り、録音テープを書き起こし印刷物にまとめ、次世代に伝えていこうという取り組みを、実施・協力して下さる方を募集しています。
 被爆者の方々にお願いし、お話を録音させていただく作業や、文字に置き換える活字化・データ化作業、さらに編集や校正や確認の作業をしていきます。
 根気のいる作業ですが、被爆者と膝を交えて話を聞くことは、直接の実感が得られ、体裁が整えられたVTRや本になった文章とはちがった手応えが得られるはずです。

         (お断り 現在、会は解散し、活動は行っていません。2016年9月6日)
 
                             

 

 

被爆証言を遺そう!お知らせと第一集配布先

2016-09-06 | 第一集

被爆証言を遺そう!お知らせと第一集配布先

                


ノー・モア・ヒロシマの声を未来へ

59回目の原爆忌を前に、原爆被爆者証言集『遺言「ノー・モア・ヒロシ マ」-未来のために残したい記憶-』第1集を出版することができました。
 
広島、 長崎以外の地域の方にも関心を持っていただけるよう、全国の都道府県立図書 館などに送っています。書架に見当たらない場合は、ぜひリクエストをしてく ださるようお願いします。
  
60年近くの時を経て、今ようやく自らの辛い過去を振り返り、次の世代 のために残しておかなければ…と語られた被爆者の方々の貴重な言葉を、五十嵐勉氏がインタビューし、市民の協力でまとめたものです。   
重い内容ですが、一人でも多くの方の胸の奥に、証言者の方々の記憶が届 き、それが継承されてゆくことを願っています。

                                                             代表 渡辺道代      2003.8.6

 

 


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