死んでしまっても「生きている子孫」から お願い事されても・・・・・
死んでしまったら新しい世界になれるために大変なのに、もっと生きていたかったのに
死にたくなかったけど死んでしまったら、ご先祖様が迎えに来てくれるそうです。
しかし、生きているときにしっかりと思いやりの心で先祖供養していないと迎えに来てくれるご先祖に逢えないそうです。
さぁー 大変。
迷うことになります。
さまよってしまいます。 それなのに 生きている子孫から あれして これしてとお願いされたってそれどころじゃーない。
そんなことより 私に思いやりの供養してくれないかい!!!
魂だけになった故人の気持ちは生きているときと同じ・・・・
ちよっとー 頼むよ~ 死んだ人のことほっとかないでよー ついこの間まで 私もそっちにいたのよ。
あっ そうか・・・ 私も全然 亡くなった人のこと考えてなかった。 死んだら人はそれでおしまいだと思っていたんだ。
違うのね。
体から魂が抜けただけなのね。
コップの中の水がなくなっただけと同じなのね。その水は人に飲まれたら体の中に入るし、植木にあげたら土に染み渡るし、
そのうち 蒸発して気体になる。
在り方が変わるだけ・・・・
私は「ここにいる」 「いるのよー」といくら伝えたくても伝わらない。
そういうご先祖様が一人でもいなくなるようにしてあげましょう。
多い場合は霊線のつまりと称していろんな形でつたえてこられます。
詳しくは私のお気に入りブログで勉強してください。
私はいいと思うことはお伝えしたいだけ。
伝え方が不器用でも誤解があるかもしれないけど お金も集金もかからない、個人でできるの伊勢式で確実に自分自身の心の在り方が変わりました。
人の気持ちで自分を左右していたあの頃。
自信がなくて私なんていない方がいいんだと卑下していたあの頃。
まだまだ あります。
今でも 悩んだりしますが すべて「生きているが故」のこととして
以前のようにクヨクヨしなくなりました。
当たり前の日常がおくれるだけまだましです。
二年前のあの出来事や世界各地での出来事、自分にだっていつ降りかかるかわからないことだらけです。
自分には関係のないことだなんて少しも思いません。
自分があの状況になったら本当にどうしようと考えてます。
だから そうじゃない「今」に感謝するのみです。
みんなが 元気にいてくれることに感謝です。
老子が先祖供養を絶賛する
2012-12-02 11:07:43 | 老子の言葉
老子の言葉 第五十四章
(独自の超訳)
しっかりと建てられた家は倒れず、しっかりと管理された財産は失うことがありません。
この御蔭で子孫は、先祖代々長く先祖供養をすることが出来ます。
先祖供養を個人で実践しますと、その者の孝徳は現実のものと成ります。
もし先祖供養を一家全員で行いますと、その孝徳は溢れるほどのものに成ります。
もし先祖供養を住む村の全体で行いますと、その恩恵は長く継続するものと成ります。
もし先祖供養を国家で行いますと、その恩恵は豊かさをもたらします。
つまり先祖供養を天下社会の全体で行うことは、その恩恵が社会の隅々まで行き渡ることに成ります。
だから、私は他人が先祖供養を実践しているか否かを見て、その人間を判断します。
その家が先祖供養をしているか否かを見て、その家のことが分かります。
その村の全体が先祖供養をしているか否かを見て、その村のことが分かります。
その国が先祖供養をしているか否かを見て、その国のことが分かります。
天下社会の全体が先祖供養をしているか否かを見て、その社会全体のことが分かります
どうして私が天下社会のことに精通することが出来るかの秘密は、先祖を敬う気持ちが有るか否かを見れば、そのすべての事の成り行きが分かってしまうのです。
原文
「善建者不抜、善抱者不脱。子孫以祭祀不輟。
修之於身、其徳乃眞。修之於家、其徳乃餘。
修之於郷、其徳乃長。修之於邦、其徳乃豐。
修之於天下、其徳乃普。
故以身觀身、以家觀家、以郷觀郷、以邦觀邦、以天下觀天下。
吾何以知天下然哉。以此。」
(感想)
「“子孫”以“祭祀”不輟」=子孫が継続する祭祀=先祖供養、です。
驚くべきことに、老子が「先祖供養」の重要性を徹底的に書き表しています。
しかも、先祖供養の効果・恩恵・作用の大きさを、個人だけではなく国家を左右するほどの巨大なものであると明記しています。
その相手を知りたければ、先祖供養を自主的にする人間か否かを見れば分かる。
その町のことを知りたければ、多くの住民が先祖供養をしているか否かを見れば治安状態が分かる。
その国家のことを知りたければ、先祖供養の浸透具合を見れば富裕さも含めて、その国の未来まで知ることが出来る。
老子が、先祖供養の重要性を強調しています。
どうして老子は、先祖供養の実践を見れば、そのすべてが分かると言うのでしょうか?
それは、先祖供養=継続性への賛歌、「継続力を大切に出来るか否か」の問題なのです。
裕福に成るのも、幸福に成るのも、一日にしては成らないのです。
(1)そこには地味な継続力が有ることが必須条件なのです。
また、先祖供養とは、すでに亡くなった人間、忘れ去られた人間、供養しなくても他者から怒られない存在、・・・・つまり、「弱者への思いやり」の行為なのです。
弱者への思いやりが無い人間、町、国家が繁栄することは無いのです。
(2)先祖供養の継続は、「思いやりの心」が有るか否かを見る試金石なのです。
私がよく言うことに、
「結婚する場合、相手の親に対する態度を見れば、それは将来の自分に対する態度が分かる」
があります。
つまり、自分の親を大切にしない人間と結婚しますと、それは必ず将来の伴侶への態度に成るということです。
親孝行な相手と結婚しますと、自分も大切にされるということです。
先祖供養を宗教から切り離して、
「自分の家族は責任を持って自分で食わせる。自分の先祖は自分で供養する」
という生活の一部として先祖供養は存在するべきことなのです。
私は仕事上で多くの経営者を視て来ましたが、何代も安定して継続する会社のオーナーに共通することは、熱心な先祖供養の実践でした。
新興宗教では無くて、地域の伝統仏教にもとづいて、日々家族で先祖を供養する人たちが多かったです。
跡継ぎが集金宗教に熱中したり、先祖供養をしない経営者は、一時が良くても栄華が「継続せずに」没落して行きました。
宇宙の森羅万象を知る老子が、先祖供養を絶賛する意味は大きくて深いです。
釈尊は先祖供養を、その生きること自体が困難な「時代性のために」言いませんでした。
しかし、日本の仏教ほど先祖供養が中心で、一辺倒に熱心な先祖供養の仏教は世界にありません。
日本神道の祖霊信仰と仏教が融合して、日本独自の先祖供養仏教が花開きました。
日本が、世界の経済大国に成るほどの富裕さが得られた陰には、先祖供養の伝統がありました。
これは、上記で老子が、「先祖供養を実践する国家は、富裕に成る」と言っていることを証明したと私は思います。
今日も淡々と、自分の手で先祖供養をしたいと思います。
先祖供養=遺伝子へのケア、でもあります。
子孫繁栄、健康、色んな幸運、にダイレクトに影響しているのは間違い無いと私も日々体験しています。
しかし、自分のためにでは無くて、「先祖のために」供養したい気持ちが一番に大切なのです。
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生かして頂いて ありがとう御座位ます