◆沖縄戦に備えた通信対策
那覇郊外にあった真和志送信所および首里受信所は被害がすくなかったため、無線連絡の再開は早かった。那覇郵便局において行われた無線通信は、真和志送信所と那覇市郊外城岳の壕内で運用された。また同盟通信(報道通信)は首里受信所でおこなわれた。いっぽう島内の有線電信業務および電話交換業務は、牧志町に設けられた措置局内でおこなわれた。この通信運用計画は、非常体制の一環として10・10空襲以前の同年3月頃に立てられていた。またその頃米軍の上陸を想定した通信防衛対策をたてるため、熊本逓信局の技官を交え協議の結果、つぎのような対策工事が進められた。
①真和志無線送信所は、城岳の壕内に、首里無線受信所は首里石嶺町の伊江御殿山に、通信壕を肥後組の請負で構築する。
②送受信局舎周辺に爆風避け(軒高)を肥後組の請負により構築する。
③通信壕のほかに南風原村字宮平と首里石嶺の民家を借り、無線機器を分散保管する。
④送信所には鹿児島および福岡向けアンテナを局舎と城岳の中間位置に建設、本アンテナと切替えて使用できるようにし、壕内には500W短波送信機2台(その後1台は、球通信隊使用)50馬力発動発電機1台を設備する。
⑤受信所に鹿児島向けアンテナを壕の近くに建て500W短波送信機1台、受信機1台、発動発電機1台を設備する。
これらの対策工事は、10・10空襲の際、約80%進められ、翌年3月頃までに完成した。
また、電話交換業務についても10・10空襲以前に牧志町(現在のグランド・オリオン付近)にある約30坪の民家を借り受け、100回線の磁石式交換機を設置し、主として軍部および官公署の加入者を収容し、非常の場合の重要通信の確保に備えた。
こうして戦局が緊迫すると、もはや公衆報はほとんどなく、主として情報、新聞電報、気象報などの送受がおこなわれた。やがて米軍上陸の最悪事態におち入って従業員の一部は現地召集もしくは防衛隊への入隊となったが、これを補充するため県立第一、第二中学校5年生10人が配置され、共同生活をおくるようになった。
よごれた服をまとい、交代で炊事にあたり、飢えをしのぎつつも疎開先の妻子の安否をきづかうのであった。こうしているなかに、偵察機の飛来のための空襲警報は、頻繁に発せられ、落ち着きのない連日であったが、お互いの心を慰めあい、励まし合って「滅私奉公」「逓信報国」の念は、寸時も忘れ去ることはなかったといわれる。
やがて、沖縄本島における戦闘は激しさを加え、ついに通信施設は破壊され、5月下旬城岳壕内通信所は「砲撃はなはだし、通信を打ち切る」の最後の通信を発信して、本土をはじめ各所との通信を打ち切った。通信を停止した従業員は5月26日軍の指令にもとづき島尻の喜屋武、摩文仁の村に撤退した。
米軍は、守備隊や避難民の通過する道路に照準を合わせ砲撃していたとみえ、道路や十字路などは後退する人々が砲丸やその破片にあたって死傷し、那覇の国場あたりから東風村字富盛まで(約10キロメートル)死体が間断なくつづいていたといわれる。
逓信従業員はもちろんのこと、友軍将兵や避難民は、喜屋武、摩文仁、真壁の三村で食料、水を求めてさまよい、戦争のもたらした極限状況に遭遇し、米軍の砲爆撃にさらされた。
◆逓信従業員犠牲者に対する逓魂の塔
太平洋戦争終結の地沖縄は、すべてが廃墟に帰し、見るものはただ赤茶けた土肌だけであった。この大戦に沖縄県下の逓信従業員1500余名は電信電話の使命を再確認し奮闘したのであるが、惜しくも353人(うち女子41人=現職従業員)は逓信報国に身を挺し、その犠牲となって散華した。
戦後20年経過し、逓信従業員の犠牲者と、太平洋戦争各戦線において戦没した逓信出身者、合せて428人の英霊を祭るため「逓魂の塔」が建立された。
1965年(昭和40)6月23日のことで、摩文仁丘に、郵政省、日本電信電話公社など逓信関係各社の寄付金により竣工した。竣工日は、沖縄戦が実質的に終わった1945年(昭和20年)の6月23日に合わせたものある。※
※アメリカ施政権下の琉球政府は、沖縄戦が終結した日を記念日と定めていた。昭和47年の本土復帰後、沖縄県は、この日を「慰霊の日」と定め、糸満市摩文仁の平和記念公園のほか、県内各地に散在する慰霊塔の前で、毎年、沖縄戦の犠牲者を追悼し、不戦と恒久平和を誓う催しを開催しているのは、ご承知のとおりです。
沖縄県の戦争犠牲者の数:沖縄県援護課発表(1976年(昭和51)年3月
・日本人の犠牲者 188,136人・・・①沖縄県出身者122,228人(一般人94,000人、軍人・軍属28,228人)②他都道府県出身兵 65,908人・米国兵の犠牲者12,520人<付記増田>
◆出典 沖縄の電信電話事業史 1969年11月30日※
(編者兼発行人 琉球電信電話公社)
※沖縄の本土復帰は本書出版の2年半後、1972年(昭和47年)5月15日である。
那覇郊外にあった真和志送信所および首里受信所は被害がすくなかったため、無線連絡の再開は早かった。那覇郵便局において行われた無線通信は、真和志送信所と那覇市郊外城岳の壕内で運用された。また同盟通信(報道通信)は首里受信所でおこなわれた。いっぽう島内の有線電信業務および電話交換業務は、牧志町に設けられた措置局内でおこなわれた。この通信運用計画は、非常体制の一環として10・10空襲以前の同年3月頃に立てられていた。またその頃米軍の上陸を想定した通信防衛対策をたてるため、熊本逓信局の技官を交え協議の結果、つぎのような対策工事が進められた。
①真和志無線送信所は、城岳の壕内に、首里無線受信所は首里石嶺町の伊江御殿山に、通信壕を肥後組の請負で構築する。
②送受信局舎周辺に爆風避け(軒高)を肥後組の請負により構築する。
③通信壕のほかに南風原村字宮平と首里石嶺の民家を借り、無線機器を分散保管する。
④送信所には鹿児島および福岡向けアンテナを局舎と城岳の中間位置に建設、本アンテナと切替えて使用できるようにし、壕内には500W短波送信機2台(その後1台は、球通信隊使用)50馬力発動発電機1台を設備する。
⑤受信所に鹿児島向けアンテナを壕の近くに建て500W短波送信機1台、受信機1台、発動発電機1台を設備する。
これらの対策工事は、10・10空襲の際、約80%進められ、翌年3月頃までに完成した。
また、電話交換業務についても10・10空襲以前に牧志町(現在のグランド・オリオン付近)にある約30坪の民家を借り受け、100回線の磁石式交換機を設置し、主として軍部および官公署の加入者を収容し、非常の場合の重要通信の確保に備えた。
こうして戦局が緊迫すると、もはや公衆報はほとんどなく、主として情報、新聞電報、気象報などの送受がおこなわれた。やがて米軍上陸の最悪事態におち入って従業員の一部は現地召集もしくは防衛隊への入隊となったが、これを補充するため県立第一、第二中学校5年生10人が配置され、共同生活をおくるようになった。
よごれた服をまとい、交代で炊事にあたり、飢えをしのぎつつも疎開先の妻子の安否をきづかうのであった。こうしているなかに、偵察機の飛来のための空襲警報は、頻繁に発せられ、落ち着きのない連日であったが、お互いの心を慰めあい、励まし合って「滅私奉公」「逓信報国」の念は、寸時も忘れ去ることはなかったといわれる。
やがて、沖縄本島における戦闘は激しさを加え、ついに通信施設は破壊され、5月下旬城岳壕内通信所は「砲撃はなはだし、通信を打ち切る」の最後の通信を発信して、本土をはじめ各所との通信を打ち切った。通信を停止した従業員は5月26日軍の指令にもとづき島尻の喜屋武、摩文仁の村に撤退した。
米軍は、守備隊や避難民の通過する道路に照準を合わせ砲撃していたとみえ、道路や十字路などは後退する人々が砲丸やその破片にあたって死傷し、那覇の国場あたりから東風村字富盛まで(約10キロメートル)死体が間断なくつづいていたといわれる。
逓信従業員はもちろんのこと、友軍将兵や避難民は、喜屋武、摩文仁、真壁の三村で食料、水を求めてさまよい、戦争のもたらした極限状況に遭遇し、米軍の砲爆撃にさらされた。
◆逓信従業員犠牲者に対する逓魂の塔
太平洋戦争終結の地沖縄は、すべてが廃墟に帰し、見るものはただ赤茶けた土肌だけであった。この大戦に沖縄県下の逓信従業員1500余名は電信電話の使命を再確認し奮闘したのであるが、惜しくも353人(うち女子41人=現職従業員)は逓信報国に身を挺し、その犠牲となって散華した。
戦後20年経過し、逓信従業員の犠牲者と、太平洋戦争各戦線において戦没した逓信出身者、合せて428人の英霊を祭るため「逓魂の塔」が建立された。
1965年(昭和40)6月23日のことで、摩文仁丘に、郵政省、日本電信電話公社など逓信関係各社の寄付金により竣工した。竣工日は、沖縄戦が実質的に終わった1945年(昭和20年)の6月23日に合わせたものある。※
※アメリカ施政権下の琉球政府は、沖縄戦が終結した日を記念日と定めていた。昭和47年の本土復帰後、沖縄県は、この日を「慰霊の日」と定め、糸満市摩文仁の平和記念公園のほか、県内各地に散在する慰霊塔の前で、毎年、沖縄戦の犠牲者を追悼し、不戦と恒久平和を誓う催しを開催しているのは、ご承知のとおりです。
沖縄県の戦争犠牲者の数:沖縄県援護課発表(1976年(昭和51)年3月
・日本人の犠牲者 188,136人・・・①沖縄県出身者122,228人(一般人94,000人、軍人・軍属28,228人)②他都道府県出身兵 65,908人・米国兵の犠牲者12,520人<付記増田>
◆出典 沖縄の電信電話事業史 1969年11月30日※
(編者兼発行人 琉球電信電話公社)
※沖縄の本土復帰は本書出版の2年半後、1972年(昭和47年)5月15日である。
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