◆はじめに
今回は、私の熊本電気通信学園の先輩・大塚虎之助氏が著した「情報通信史 極秘電報に見る戦争と平和」の中の「沖縄の激戦」を紹介させていただき、沖縄戦で果たした通信の役割を見たいと思います。本著書は、九州逓友同窓会誌「相親」に9年間連載されたものを基にして上梓され、熊本日日新聞社の「熊日出版文化賞」を受賞(平成15年2月5日)したほか、当時の「日本図書館協会選定図書」にも選定された。
熊本日日新聞<平15.2.15>に選考委員の一人、熊本学園大学嵯峨一郎教授は、「近代日本史斬新に発掘」と題して、本書を「圧倒されるような労作」と次のように紹介されている。
「当り前のことだが、電報には宛先、発信人、日付が記されている。短い文章のうちに意をつくす必要があるから、あいまいな表現は禁物である。そして電報は、明治から太平洋戦争期まで、遠隔地を短時間でつなぐ最もだいじな通信手段でありつづけた。
こうした電報の特性に注目し、その切り口から日本の近代史を描いたのが本書である。どの項目でもいいから電文をじっくりよまれたらいい。驚くほど内容は具体的で臨場感にあふれている。とくに戦争の進め方をめぐって方針の対立が生じた場合、双方の電文から鋭い緊張感さえ伝わってくる。(中略)
また太平洋戦争では、米軍は日本の暗号電報をほぼ解読していた。しかも本書によれば、アメリカ海軍のベテラン通信員の能力たるや並ではなかった。日本側のモールス電信の打ち方の強弱、リズムを聞きわけ、送信者を特定することさえできたという。日本軍側もアメリカ通信員を捕虜にして攪乱情報を流すことはあったが、全体として情報の力量の差は歴然たるものであった。(以下略)」<>
◆沖縄の激戦
昭和19(1944)年10月10日午前6時50分、アメリカ軍機動部隊の戦艦機が奄美渡島以南の南西諸島を空襲し、沖縄本島を重点的に攻撃してきた。那覇市は5次にわたって集中攻撃を受け、銃爆撃と共に多数の焼夷弾が投下された。市内各所に火災が発生し市街の大部分は焼失した。
*沖縄逓信特攻隊
沖縄の電信局や郵便局従業員は、通信戦士として職場を守る心意気を綴った電報を熊本逓信局長宛に打電した。
昭和20年1月17日 八重山局発 (前略)当局員中、逓信隊30名ヲ組織し、最後マデ死守ノ決意ヲ誓フ
2月14日 鹿児島知名及ビ和泊局長発電報 (前略)状況ノ変化急ニシテ今暁空襲アルヤモ知レザルモ事務運行中、(中略)ココニ従業員の意志ヲモッテ上申ず、知名局長以下18名、和泊局長以下14名ハ最悪ニ至モ事業を死守シ運命ヲ決セントス、閣下ノゴ健闘ヲ祈ル
2月15日 、宮古島局長発電
南西諸島ニオケル情勢ハ極度ニ緊迫シ決戦場ト化スルヤモ計ラレズ(中略)従業員は頗ル冷静ニシテ最悪ノ場合ニオケル万全対策ヲ講ジ士気極メテ旺盛ナリ
3月25日 那覇局発電報
(前略)空爆、艦砲射撃猛烈ナリ最悪ノ事態ニ際シ一同士気旺盛、逓信特攻隊トナラン
3月26日 那覇局発
引続キ艦砲射撃、空襲ナルモ無線施設人員ニ被害ナシ、当地ハ立退キ命令アリタルモ踏ミ止マリ無線連絡ノ確保ヲ期ス(中略)現在ハ北方ニ数十隻ノ艦艇ヲ認ム
*アメリカ軍沖縄上陸と第32軍
4月1日午前4時26分、海軍の大和田通信隊司令は「本朝、沖縄上陸の公算きわめて大なり」と打電してきた。
この日、アメリカ軍はついに沖縄本島に上陸を開始した。午前8時、沖縄沖の輸送船60隻から水陸両用戦車多数が北飛行場方面に上陸を始めた。
沖縄本島の守備を担当する第32軍は、司令官牛島満中将、参謀長勇少将、作戦主任参謀八原博大佐で、総兵力は86,400人であった。そのほか、現地招集した17歳から45歳までの男子2万数千人を「防衛隊」として陣地構築や戦闘補充員として動員していた。
19年11月、レイテ決戦のために大本営は第32軍の最新鋭部隊である第9師団を台湾へ転出させた。第9師団は、牛島中将が最も期待をかけていた練達の9精鋭で、この転出により第32軍は3分の1の兵力を失い、沖縄防衛戦が悲惨な結果となった原因の一つとなった。
アメリカ軍上陸部隊は陸軍5箇師団、皆兵3箇師団の約18万人の大兵力で、この作戦のための遠征軍の全体数は艦船1,457隻、兵員数55万人を越えていた。
幅13キロにおよぶアメリカ軍上陸部隊の大軍に対して日本軍の陸上部隊も航空部隊も反撃することなく、守備軍の火器は完全に沈黙していた。沖縄本島上陸は無血で行われ、上陸1日にして北・中の主要飛行場もその日の内に占領されてしまった。
八原作戦参謀の「わが軍は一兵に至るまで地下に潜み、一発一弾も応射せず、戦機の熟するを待つ」との作戦案を長参謀長が承認し、牛島司令官が決済していた。
4月2日、歩兵第63旅団長は、賀谷支隊の戦闘を支援するため砲兵隊の射撃開始を要請したが、軍司令部は軍砲兵陣地が過早に暴露する不利を考慮して射撃を許可しなかった。上陸2日目には北飛行場からアメリカ軍の観測機が飛び始め、艦艇群の主力は逐次南下して、大山、城間,天久付近に対して猛烈な艦砲射撃を加えてきた。
アメリカ軍の無血上陸、飛行場の無抵抗での放棄は、大本営や台湾方面軍、連合艦隊を驚かせ、第32軍がはなはだ消極的で自己生存主義を採るのではないかと懸念し始めた。4月3日、第140方面軍、連合艦隊、第8飛行師団(台湾)などから、北・中飛行場に対する攻撃を要望する電報が相次いで第32軍に打電された。(以下電文略)
沖縄守備軍司令部は、琉球歴代の王城、首里城の地下30メートルの所を2キロにおよんで掘り抜いて構築した要塞内にあった。4月3日夜、各方面からの攻撃要望の圧力を受け、長参謀長は各参謀をこの司令部の参謀室に集め、軍の攻撃について研究会を開いた。
八原参謀は過去数ヵ月間心血を注いで構築した洞窟陣地を理由もなく捨てて出撃するのは自殺行為であると強硬に反対したが、会議の大勢は消極的ながら「攻撃」案を支持し、長参謀長は攻撃に多数の賛成が得られたとして攻撃に出ることに決定した。それでも八原参謀は「攻撃に出れば数日を経ないうちに全軍が壊滅させられる」と最後まで反対をした。牛島軍司令官は4月4日、「軍は7日夜を期して北方に向かい攻撃に転ずる」旨を大本営に報告し、第10方面軍、航空部隊などに通報して航空協力を要請した。
しかし、4日夜半に「4日1630那覇南方150キロに空母3、輸送船50の部隊を発見」との情報が航空部隊から軍司令部に入電した。この情報により第32軍司令部は、「腹背から挟撃される危険」をおそれ、軍の攻撃を一時延期することに決して関係方面に打電した。(以下電文略)
この電報に接した第10方面軍は、「攻撃中止」が全面的な作戦に及ぼす深刻な影響を危惧し、5日午後5時15分、安藤方面軍司令官の命により4月8日夜に攻撃を実行するよう諌山参謀長が発電した。(以下電文略)
第32軍は第10方面軍からの攻撃督促の依頼電報もあり、8日夜を期して攻撃を実施することに決して関係方面に打電した。そこへ連合艦隊から海上特攻隊が8日の早朝を期して沖縄海域のアメリカ軍艦船に”特攻”攻撃をかけるので、現地軍の総攻撃も8日早朝から決行してほしいと要請してきた。しかし現地軍は今更計画を変更することはできないと拒否した。(つづく)
◆出典
日本電信情報史 極秘電報に見る戦争と平和 大塚虎之助著/増田民男監修
熊本出版文化会館発行(2002年5月20日)
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