チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

ボリス・ゴドゥノフ~日本人歌手による初演(1954年)

2015-05-26 18:07:00 | 日本初演

1954年11月6日、7日にオペラ「ボリス・ゴドゥノフ」の日本人歌手による初演が日比谷公会堂で行われました。



このプログラムの中の、音楽評論家・服部龍太郎氏(1900-1977)の文章によるとボリス・ゴドゥノフは「昭和2年(1927年)に帝劇へ来朝したロシア歌劇団によって上演されたことがある。そのときの主役ボリスはなんというロシア人であったか、もう記憶していないが、僧院の密室でピーメンが独白する部分がいかにも印象的であったことが、いまでも忘れられない。」(※1)

ということで、既に27年前に日本で初演されていたらしいですが、1954年は原信子さん(1893-1979)の訳詞による上演。原さんは大変苦労されたようですね。↓

上品な感じの文はミラノで歌手・松平里子の看病をした原信子と同じでした。


第9回文部省芸術祭公演ということで、入場無料!?イビキの嵐になりそうな気もしますが。。




指揮はグルリット、演奏は東京フィルハーモニー管弦楽団、演出はプリングスハイム、演出助手はジャック平野氏でした。

Manfred Gurlitt (1890-1973)

 

Klaus Pringsheim (1883-1972)

 

ジャック平野




以下、出演者です。
ボリス・ゴドゥノフ
石津憲一(藤原歌劇団、1924-2014)昨年12月31日に90歳でお亡くなりになりました。

 


フョードル
日高久子(グルリット夫人、1924-2008)

 


クセニヤ
鎌倉和子

 


乳母
永井智子(1908-1992)

 


ヴァシリー・シュイスキー/ミサイール
宮本正(1919-2014)宮本文昭の父、宮本笑里の祖父

 


和田家広

 


グリゴリー・オトレピエフ/白痴イヴァヌイチ
木下保(1903-1982)


荒井基裕

 


アンドレイ・シチェルカーロフ/ロヴィツキ
白川雅雄

 


ピーメン
下八川圭祐(1900-1980) 昭和音大創立者。

 


マリーナ・ムニーシェク
北澤栄(1908-1956)

 


ランゴーニ
宮本良平(藤原歌劇団、1916-1987)

 


ヴァルラーム
深澤巌

 


ニキーティチ/チェルニコフスキ
竹原正三(藤原歌劇団、1927-2006)

 


フルシチョフ
天野秋雄(1925-)

 


女主人
三枝喜美子(1921-2000)

 


侍従
村尾護郎(藤原歌劇団、1909-) アニメ「くもとちゅうりっぷ」のくもの声優としても有名なかたらしいです。

 

 



情報を補足していきます。

※1 『帝劇の五十年』(東宝株式会社昭和41年9月1日発行)の「主要興行年譜」によると、確かに1927年4月26日及び5月5日に「露西亜歌劇; モスコー、レニングラード両国立大歌劇場より選抜の一行」が何かしらの演目をやっています。


グラズノフ交響曲第4番日本初演(メッテル指揮新響1930年)

2015-03-14 22:56:03 | 日本初演

NHK交響楽団の機関誌『フィルハーモニー』1964年3月号に吉村一夫氏による「グラズノフをめぐって」という記事があり、その中でグラズノフの交響曲第4番の日本初演のことが書いてありました。指揮はエマヌエル・メッテル

Emmanuel Metter (1878–1941) Wikipediaコモンズより。



以下、その記事を引用します。
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  グラズノフといえば、N響と関連して想い出されるのは、1930年11月12日第77回定期演奏会で、当時の新交響楽団による作品48の本邦初演です。指揮は亡命ロシア人の指揮者、エマヌエル・メッテルでした。彼はロシア革命後、シヘルブラット、ケーニヒ等のいたハルピン交響楽団の指揮者で、ペトログラード音楽院でグラズノフに親しく師事した経歴の持ち主なので、グラズノフに対する敬愛から、その作品への傾倒振りは熱気を帯びた狂信的なものでした。

  当時の練習場は荏原にありましたが、その最初のタクトを振り下ろした時、彼は満面朱にそめて怒鳴りました。「コレ!オーケストラの音ですか?タダ騒ぎだけです。私、関西にいて、新響の評判タクサン聞いています。楽しみにしてきました。汽車沢山のりました。この音!心斎橋の騒ぎと同じです」。しばらく不気味な沈黙の時が続いて、今一度、タクトが振り下ろされ、とにかく第1日の練習が終わりましたが、大荒れの第1日でした。

  彼は来日して5年位で、日本語を文法、小学校読本と、系統的にマスターしたので、洒落や冗談すら日本語で見事にやってのけて、日本人をア然とさせる人でした。楽員が指揮棒を見ないと「私のコワイ顔見て下さい。ワタシ、エンマ逃げろ(エマヌエル)メッテルですが、アナタ達の美しい顔、ワタシに見せて下さい」というほどのものは、日常茶飯事でした。

  少しメッテルについて語り過ぎたようです。話をグラズノフに戻しましょう。新響の演奏会も無事終わった夜、メッテルは興奮に涙をたたえて銀座をブラつき、はるかパリに亡命している恩師グラズノフに長いお祝いの電報を打ち、新響によって、久し振りにオーケストラらしい音に接した喜びを語っていました。練習の際の悪口雑言は、練習の空気を引き締める指揮者としての駆け引きでもあるのです。

 メッテルの言葉によれば、「グラズノフは天から落ちた人」のように、底抜けの善人でした。50才を過ぎて、ペトログラード音楽院の院長の要職にある人が、突然に、18才の女子学生に恋をして、顔を赤らめて恋を打明けた逸話を、メッテルに身振りよろしく聞いたことがあります。

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グラズノフ直系の弟子に感激の涙を流させた85年前の新響の実力は相当なものだったんですね。

そしてグラズノフって悩みはなさそうだけど、やっぱりすごくイイ人だったんですね!ますます彼の交響曲が好きになってしまいます。