水曜日の話 ” Cinema Paradiso ” Smell Something -4

2017年09月27日 | 水曜日の話

 

 外は冷たい雨が降っていたが映画館の中は暖かくて快適だった。『ニューシネマ・パラダイス』 のジュゼッペ・トルナトーレ監督の映画、"The Best Offer" 『鑑定士と顔のない依頼人』は若く美しい女性に裏切られた初老の男の物悲しくやるせない話だった。映画のエンドタイトルが流れ始めるとまだ暗がりの中を席を立ち始める人がいる。それにつられるように、ぱらぱらと人の波がが出口の方へ移動していく。

ほんのわずか何かが匂う。いやな匂いではない。それどころかその匂いをずっと嗅いでいたくなるほどだった。ゆるい傾斜の階段を後ろのほうから数人連なって降りてくる。その中の誰かから匂ってくる。どこか懐かしい匂いだ。

 鮭は川で生まれ、春、雪解け水とともにオホーツクの海をめざしベーリング海とアラスカ湾を行き来しながら成長する。そして4年後、再び生まれた川に帰ってくる。海流や地磁気に助けられはするものの、頼りは生まれた川の匂いだ。

 人の流れが途絶えるのを座席の前の通路で待っていたが、薄暗くて人の顔ははっきりと見えなかった。それでも匂いの在りかは、はっきりとわかった。香りを漂わせているその人は前髪を額に垂らして切り下げ、後髪を襟足辺りで真っ直ぐに切りそろえた髪型だった。肩からすっと伸びた首のおかっぱ頭は少女のように見えた。

霧の中に香料の入った酒精をぱっと散らしたような、このかすかに幸福感が満ちてくる匂いに覚えがあった。その人が近づくにつれ匂いが徐々に濃さを増してきて、息をするのも苦しくなってきた。目の前をおかっぱの影法師がふわふわと通り過ぎていく。薄闇の中で、髪は夜空に輝く満月のような色をしいていた。それは銀色よりも少し白っぽい色できれいな白髪だった。

気付けば、凛とした少女から、背中を丸め腰をかがめて出口に向かって歩いていく後姿の老女が、あの時のあの人であるはずがない。しかし、匂いは間違いなく同じだった。二度と会ってはならない人に再会したときのように、胸が切なさで痛んだ。薄暗い階段を今すぐに駆け下りていって「あの時の・・・」と、声をかけそうになるのを必死でこらえた。

 人で混雑したマルチプレックスシアターの通路を足早に歩き、先を行く後姿を目で追った。突き当りを右に曲がり、明るく照らされたチケット売り場や売店が並ぶホールに出て、辺りを見回したが老女の姿はなかった。姿を見失ったというより、消えていなくなっていた。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水曜日の話 ” 恋唄 ” Smell Something -3

2017年09月20日 | 水曜日の話

 

 

 行きは木津川市まで川沿いを走り、帰りは泉大橋を渡りすぐに左へ曲がって町に出る。その町を貫いている古道を北に向かって進む。山背古道は木津川とほぼ平行にはしっている。古い町並みや畑や山を通る古道は、道巾が狭く自転車で走るには不向きだった。道沿いには神社やお寺も多く、ウォーキングやハイキングには良いコースだ。曲がりくねった道はところどころ一般道と交差しているので、何度も迷ってしまった。山背古道のゴールの城陽駅から久津川駅に行き、そこから府道を西に進むといつも走っている木津川の土手に出て家に帰れるはずだった。

 交差点で信号が青に変わるのを待っていた人は、キャラメル色のチェスターコートを羽織りチェック柄のマフラーをしていた。彼女に道を尋ねたのは辺りに誰もいなかったからだ。道を尋ねるとその女性は無言でゆっくりと後ろの方を振り向いた。駅は彼女の視線の先にあるのだろうと想像できたが、その声のないスローモーションのような動きに戸惑い呆気にとられてしまった。

 振り返った方角に久津川の駅はあるのかともう一度問い返すと、やはり同じようにゆっくりと後ろを振り向くだけだった。礼を言うと、いいえとでも言いたげに首をわずかに左右に振り、少しだけ口角を上げて微笑み水度神社の方へ歩いていった。無言だったのは話したくなかったのか、それとも何らかの理由で話せなかったのか。何度考えても分からなかった。ただ、彼女に会ったときからなんとも言えないいい匂いがしていた。

 花や葉や果実を水蒸気で蒸留すると植物性の香料が精製できる。それにアルコールや精製水と混ぜ合わせると、とてもいい香りになる。彼女のまわりにふわふわと漂っていた匂いは植物が発する爽やかな香りではなかった。花や草木のようにさらっとした匂いというよりも、どこか不快と心地よさとの狭間で微妙に漂う魅惑的な香りだった。それは動物性のジャコウの生殖腺分泌物のようで、その人の肌から発散する香りは官能的でどこか懐かしい匂いがした。夜行性の蛾のオスが暗闇の中で遠くはなれたメスを見つけるように、匂いの中にわずかに人を引き付けるフェロモンも含んでいたのだろうか。

 結局、教えてもらった方角に行ってみたが駅は見当たらなかった。太陽は西に傾き始め辺りはもう薄暗い。後10キロほどのところで雨がぽつぽつと降り始め、次第に雨脚は強くなってきた。河川敷には雨宿りする場所はどこにもなかった。左膝が痛み始め、全身冷たい雨でずぶ濡れになった。家に着くと寒さと疲労で熱まで出始めた。風呂に入り布団の中に潜り込んで、今日の事をあれこれと思い出していた。しばらくすると、疲れと風邪薬のせいか意識が途切れ途切れになり、翌日の昼近くまで昏々と眠ってしまった。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水曜日の話 ” 元気です ” Smell Something -2

2017年09月13日 | 水曜日の話

 

 とにかく山背古道を走ってみることにした。いろいろ考えても仕方がない。だめなら途中から引き返せばいいのだ。旅程の一部を自転車で走らずに、公共交通機関を利用して移動することを "輪行" という。その際の目安になる自転車の平均スピードは10キロメーターらしい。普通でも、20キロ前後のスピードで走ることはそんなに難しいことではないので、余裕をみろということだろう。

山背古道は "輪行" ではなく、家から自走する。自分の足だけが頼りだ。時速10キロはゆっくりしたスピードに思えるが、信号もあれば休憩もとらなければならない。だから、それくらいの速さを目安にすることにする。9時間ほどのちょっとした自転車旅だ。朝早く出発すれば夕方には家に帰り着く。

 熱い紅茶に蜂蜜を少々入れた水筒を自転車のボトルスタンドにセットし、飴を数個ウエストポーチに入れて家を出た。早朝の河川敷をまず、京都方面に向かって走る。もう、河川敷には散歩する人やジョギングする人がいる。冬の朝は手袋をはめた手先と、足の指は冷たいが、しばらくペダルをこいでいると身体は徐々に温まってきて気持ちがいい。

 河川敷のグランドを過ぎて、ゆるいカーブを左へ曲がり、すぐに右に曲がると、少し下り坂になり何キロも続く直線の道になる。両側は葉っぱを落とした木々が背の高い垣根のようにずっと続いている。河川敷は、川に沿って木々が多く、自然が豊かで、そこに棲む野鳥はもちろん、昆虫や名前の知らない虫やいろんな植物も多い。自転車で走っていると、見るのは鳥や小さな虫たちだけではない。時々、茶色い毛のイタチもよく見る。

 15キロほど走ると、川の両側から山が迫ってきた。一般の車両を制限している車止めを越えると、陽が昇ってきて道の向こうの空に、白い雲がいくつか浮かんでいた。青い空の下をずっと続く道の先で、身体つきの細い犬が枯れ草をかき分けて出てきた。あたりをの様子を注意深く伺うと、顔をゆっくりとこちらに向け、気だるそうにこちらを一瞥すると、道をとことこと横断していった。

耳をピンと立て、黒い鼻先の横には長いひげが数本生えている。身体全体が白っぽく、目は細く鋭い。垂れた尻尾は太く、大きな筆のようだった。夜、この辺りの山道を車で走っていると、ヘッドライトの灯りを反射し目をきらきらと光らせている狸に遭うことがある。山深くなると猪や鹿もいる。警戒心を漂わせ、道を渡っていったのは痩せた犬ではなく、里に下りてきた狐なのだろうと思った。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする