外は冷たい雨が降っていたが映画館の中は暖かくて快適だった。『ニューシネマ・パラダイス』 のジュゼッペ・トルナトーレ監督の映画、"The Best Offer" 『鑑定士と顔のない依頼人』は若く美しい女性に裏切られた初老の男の物悲しくやるせない話だった。映画のエンドタイトルが流れ始めるとまだ暗がりの中を席を立ち始める人がいる。それにつられるように、ぱらぱらと人の波がが出口の方へ移動していく。
ほんのわずか何かが匂う。いやな匂いではない。それどころかその匂いをずっと嗅いでいたくなるほどだった。ゆるい傾斜の階段を後ろのほうから数人連なって降りてくる。その中の誰かから匂ってくる。どこか懐かしい匂いだ。
鮭は川で生まれ、春、雪解け水とともにオホーツクの海をめざしベーリング海とアラスカ湾を行き来しながら成長する。そして4年後、再び生まれた川に帰ってくる。海流や地磁気に助けられはするものの、頼りは生まれた川の匂いだ。
人の流れが途絶えるのを座席の前の通路で待っていたが、薄暗くて人の顔ははっきりと見えなかった。それでも匂いの在りかは、はっきりとわかった。香りを漂わせているその人は前髪を額に垂らして切り下げ、後髪を襟足辺りで真っ直ぐに切りそろえた髪型だった。肩からすっと伸びた首のおかっぱ頭は少女のように見えた。
霧の中に香料の入った酒精をぱっと散らしたような、このかすかに幸福感が満ちてくる匂いに覚えがあった。その人が近づくにつれ匂いが徐々に濃さを増してきて、息をするのも苦しくなってきた。目の前をおかっぱの影法師がふわふわと通り過ぎていく。薄闇の中で、髪は夜空に輝く満月のような色をしいていた。それは銀色よりも少し白っぽい色できれいな白髪だった。
気付けば、凛とした少女から、背中を丸め腰をかがめて出口に向かって歩いていく後姿の老女が、あの時のあの人であるはずがない。しかし、匂いは間違いなく同じだった。二度と会ってはならない人に再会したときのように、胸が切なさで痛んだ。薄暗い階段を今すぐに駆け下りていって「あの時の・・・」と、声をかけそうになるのを必死でこらえた。
人で混雑したマルチプレックスシアターの通路を足早に歩き、先を行く後姿を目で追った。突き当りを右に曲がり、明るく照らされたチケット売り場や売店が並ぶホールに出て、辺りを見回したが老女の姿はなかった。姿を見失ったというより、消えていなくなっていた。