なんてね…
【ホルスの言葉】
人間というのは厄介なものだ。人には自由意志が与えられているが、それには間違った選択をする自由というものまで含まれているからだ。
間違う自由、人に迷惑をかける自由、環境を汚す自由、動物を虐める自由、犯罪を犯す自由、全てが自由という素晴らしい営みの中に存在している。
【アダム・カドモンによって作られる未来世界のデッサン】(天瀬ひみか著)より再掲
個人の悪しき自由の行使を制限する何らかの強制的な力が無い限り、無政府状態と同じく無神状態は危険な混乱しか生み出さない。なぜなら人間の自由意志のほとんどの部分は、根源的な悪より派生してくるものだからだ。
無制限の自由は無制限の悪を生み出すということに異論を持つ人はいないだろう。しかし、国家が存在する限りは、悪に関わりのない個人の良き自由も悪しき自由と一緒くたに混ぜ合わされ、抗生権力による終わりなき圧殺を受け続ける。
もし人間が自らの悪しき自由意思を律することが出来ないのであれば(そして結論から言えば、それは出来ない訳であるが)、人間の悪しき自由を律する強制的な力としての神の真実のロゴスに基づく正義の法を万民の上に戴くしかない。
しかし、主としてアカシックの根源悪から派生してくるものに他ならない人間の自由意思は、ロゴスの法に従うことを嫌い、間違いなくその大部分を拒絶するだろう。
そうした人間の心性ゆえに、結局は、人間社会の法の強制力によってロゴスの法に人を従わせることは不可能であるため、天は私たちに自らの自由意思によってロゴスの法に従うことを自発的仕方で決意することを望まれているのである。
そしてそうした決断を行った人々によって作り出される共同体だけが、悪なき自由によって営まれる真に調和的で有機的な社会の創造を初めて可能にしてゆくだろう。
それでは、私たち人間は、一体どうすればロゴスの法に自発的に従えるようになるのだろうか?
それは私たちの魂が長い文明化の過程で失った自然の摂理(=本能)を自らに備えていた嘗ての始源の時代の私、すなわちアダム・カドモン(原始 人、原人)へと回帰し、そこにあったロゴスの法との接点を再び回復することによってのみ為される。
それは私たち自身がアダム・カドモンとなることで遂げられる「先祖帰り的復活」である。
ちなみに、アダム・カドモンという言葉の数はカバラでは239であり、これはコードロジーシステム(=アカシックレコード)におけるソーラーコー ド239に対応する。このコード239は “ネフェシュ・ハ・メシア” すなわち「極みの愛」、「救世主の動物(本能)」を象徴する。
つまり、239の数を持つアダム・カドモンは、ロゴスの法と唯一確かな絆で結ばれたロゴスの実子としての自然の摂理そのものたる私━━を現わす存在なのである。
【天地の法に反した自由への欲望は、悪魔ルシファーに由来するものである】(天瀬ひみか著)より再掲
(『フラワーオブライフ2』における)ドランヴァロ・メルキゼデクのようにルシファーの自由意志を推奨することは、この世で最も危険なことの一つです。
たとえば、天使は、神が選んでお与えになった自由しか所持していません(元来は、人も同じでした。神があの樹の実を食べるな、と命じれば疑わず従っていたのです)。よく言われるように、天使の名の語尾につくALがそのことを示しています。それゆえ、天使が自らに持つ自由は、人間に取ってみれば不自由そのものということになります。しかし、天使はそれで満足しています。それを不自由だと感じることすらありません。動物も自然も同じです。なぜなら、彼らにはその神的な不自由さゆえに一切の欠乏はなく、常に神の力と聖霊に満たされた完全なる存在だからです。よって、この三者の魂は等しく天使的存在と言える訳です。
しかし、ルシファーは、神が与えた自由ではなく自らが選ぶ自由を求め、神に向けて反旗を翻しました。それゆえトーラに記されたこの悪魔の名、それは「曙光をもたらす者」と読まれていますが、ニクダを変えれば直ちに「闇を広げる者」の意になるのです。
魔道書にあらわれるルシファー、それは縄と袋を持っています。これはあの悪魔が、「罠をかける者」であり、「盗む者」であることを示しています。(タロット0番の「愚者」の原型は、このルシファーです。)
何を罠にかけ、何を盗むのか? 無知なる人の魂を罠にかけ、魂を盗むのです。
私たちが求めてやまぬ光にもまた天使たちと同じく自由はありません、そもそもトーラに記されている通り、光は神の「命令」によって在らせられました。つまり、根源的に自由を持たないもの、それが光なのです。それとは異なり、闇は命令を受けてはいません。なぜなら、闇は神が生み出したものではなく、それは原初からあったものだからです。この闇は神の命令を受けていないため、自由です。それゆえ、そこから派生した闇の子=人間は神が与えたものではない自由意志を持っています。しかし、それは悪なのです。トーラに記されているように、光は神に祝福されました。しかし、闇が祝福されたという描写は無いのです。これは暗に、原初の時より闇が悪であったことを意味しています。
私たち光の道を歩む者は、こうした闇と、あれら闇の子たちに決して倣ってはいけません。神が与えた自由=不自由ではないルシファーが私たちにもたらした自由意志。これから離れ去ろうと決意するその意志の向く先に、私たちが原初に失ってしまったあの祝されし光があるのです。
【ホルスの言葉】
人間というのは厄介なものだ。人には自由意志が与えられているが、それには間違った選択をする自由というものまで含まれているからだ。
間違う自由、人に迷惑をかける自由、環境を汚す自由、動物を虐める自由、犯罪を犯す自由、全てが自由という素晴らしい営みの中に存在している。
【アダム・カドモンによって作られる未来世界のデッサン】(天瀬ひみか著)より再掲
個人の悪しき自由の行使を制限する何らかの強制的な力が無い限り、無政府状態と同じく無神状態は危険な混乱しか生み出さない。なぜなら人間の自由意志のほとんどの部分は、根源的な悪より派生してくるものだからだ。
無制限の自由は無制限の悪を生み出すということに異論を持つ人はいないだろう。しかし、国家が存在する限りは、悪に関わりのない個人の良き自由も悪しき自由と一緒くたに混ぜ合わされ、抗生権力による終わりなき圧殺を受け続ける。
もし人間が自らの悪しき自由意思を律することが出来ないのであれば(そして結論から言えば、それは出来ない訳であるが)、人間の悪しき自由を律する強制的な力としての神の真実のロゴスに基づく正義の法を万民の上に戴くしかない。
しかし、主としてアカシックの根源悪から派生してくるものに他ならない人間の自由意思は、ロゴスの法に従うことを嫌い、間違いなくその大部分を拒絶するだろう。
そうした人間の心性ゆえに、結局は、人間社会の法の強制力によってロゴスの法に人を従わせることは不可能であるため、天は私たちに自らの自由意思によってロゴスの法に従うことを自発的仕方で決意することを望まれているのである。
そしてそうした決断を行った人々によって作り出される共同体だけが、悪なき自由によって営まれる真に調和的で有機的な社会の創造を初めて可能にしてゆくだろう。
それでは、私たち人間は、一体どうすればロゴスの法に自発的に従えるようになるのだろうか?
それは私たちの魂が長い文明化の過程で失った自然の摂理(=本能)を自らに備えていた嘗ての始源の時代の私、すなわちアダム・カドモン(原始 人、原人)へと回帰し、そこにあったロゴスの法との接点を再び回復することによってのみ為される。
それは私たち自身がアダム・カドモンとなることで遂げられる「先祖帰り的復活」である。
ちなみに、アダム・カドモンという言葉の数はカバラでは239であり、これはコードロジーシステム(=アカシックレコード)におけるソーラーコー ド239に対応する。このコード239は “ネフェシュ・ハ・メシア” すなわち「極みの愛」、「救世主の動物(本能)」を象徴する。
つまり、239の数を持つアダム・カドモンは、ロゴスの法と唯一確かな絆で結ばれたロゴスの実子としての自然の摂理そのものたる私━━を現わす存在なのである。
【天地の法に反した自由への欲望は、悪魔ルシファーに由来するものである】(天瀬ひみか著)より再掲
(『フラワーオブライフ2』における)ドランヴァロ・メルキゼデクのようにルシファーの自由意志を推奨することは、この世で最も危険なことの一つです。
たとえば、天使は、神が選んでお与えになった自由しか所持していません(元来は、人も同じでした。神があの樹の実を食べるな、と命じれば疑わず従っていたのです)。よく言われるように、天使の名の語尾につくALがそのことを示しています。それゆえ、天使が自らに持つ自由は、人間に取ってみれば不自由そのものということになります。しかし、天使はそれで満足しています。それを不自由だと感じることすらありません。動物も自然も同じです。なぜなら、彼らにはその神的な不自由さゆえに一切の欠乏はなく、常に神の力と聖霊に満たされた完全なる存在だからです。よって、この三者の魂は等しく天使的存在と言える訳です。
しかし、ルシファーは、神が与えた自由ではなく自らが選ぶ自由を求め、神に向けて反旗を翻しました。それゆえトーラに記されたこの悪魔の名、それは「曙光をもたらす者」と読まれていますが、ニクダを変えれば直ちに「闇を広げる者」の意になるのです。
魔道書にあらわれるルシファー、それは縄と袋を持っています。これはあの悪魔が、「罠をかける者」であり、「盗む者」であることを示しています。(タロット0番の「愚者」の原型は、このルシファーです。)
何を罠にかけ、何を盗むのか? 無知なる人の魂を罠にかけ、魂を盗むのです。
私たちが求めてやまぬ光にもまた天使たちと同じく自由はありません、そもそもトーラに記されている通り、光は神の「命令」によって在らせられました。つまり、根源的に自由を持たないもの、それが光なのです。それとは異なり、闇は命令を受けてはいません。なぜなら、闇は神が生み出したものではなく、それは原初からあったものだからです。この闇は神の命令を受けていないため、自由です。それゆえ、そこから派生した闇の子=人間は神が与えたものではない自由意志を持っています。しかし、それは悪なのです。トーラに記されているように、光は神に祝福されました。しかし、闇が祝福されたという描写は無いのです。これは暗に、原初の時より闇が悪であったことを意味しています。
私たち光の道を歩む者は、こうした闇と、あれら闇の子たちに決して倣ってはいけません。神が与えた自由=不自由ではないルシファーが私たちにもたらした自由意志。これから離れ去ろうと決意するその意志の向く先に、私たちが原初に失ってしまったあの祝されし光があるのです。