日本の政治に大きく関わって居ると思われる戊辰戦争。
会津藩のその怨念の深さはどこから来るのか、
だんだん分かってきたのは、勝てば官軍と言われるように勝ったものの都合に書き換えられていく歴史、会津もその例に漏れずかなり隠蔽されて居る。
「恩讐を超えて」を描き始めてから、二本松少年隊を調べ始めたなかで敵対した長州藩や彦根藩の戦死した侍をきちんと弔っていたことを知り、いくらか救われた気がした。
そして長州藩の山口県へ、、
長州藩と繋いでくれた知人は、長州藩の方でも会津藩のお侍を救っているし、お互い何とか分かり合えればいいね、と言うような話をしていた。
先日、思い立ち会津へ、
コンビニに寄ってフと書棚を見ると、これは、、、と世紀の発見(笑)に近い本に出会った。
そのタイトルも「会津藩ー幾人の涙は石に注ぐとも、その名は世世に朽じとぞ思うー松平容保」今も会津は残照の中にある、新しい視点から史実を見直すことによって、未来の会津を考えていきたい、とあり、
帯封には「多くの辛酸を舐めつつ生きねばならなかった、悲劇の先人たちに寄せる会津人の想いは熱い、、、」とあります。
初版は1999年四月、A4のかなり中身の濃い書物故帰宅後ゆっくり、と思いいつものように飯盛山に向かう。今回は二度ほどお邪魔した伝承館に寄って、隣に設けてある軽食屋の一杯百円の甘酒を注文、おもむろに、この本のことを切り出して見た。
歳の頃七十代前後と思われる女性の方は、経営者の奥様だった。
その本が史実に忠実かどうか知りたかったので、その旨をお聞きして見た。
歴史書も、多くは聴き語りのようなものが多いと聞いていたこともあり、奥様の反応を知りたかった。
可もなく不可もなくということの様で、代わりに小冊子を持って来られた。
表紙を見ると、平成十年(1998)四月発行となっている。
その小雑誌のタイトルは山口を旅する、
パネルデスカッション「会津と長州の恩讐」鈴木慈雄とあった。
この方はどなたかとお聞きするとご主人だと言う。
内容は、全国の歴史研究会に取り上げられられたことから始まり、
山口では広範囲の活動が展開された様子、そして福島民友が明治維新130年(当時)
を記念して会津、薩摩、萩の高校剣士を招待しての交流試合があり
その時、薩長とのこだわりを持つお年寄りから、電話があったと言言います。
こだわりとはなんであろうか?百三十年を経た今、日本人として世界に向かって二十一世紀を生きる若い人たちに希望を与えられないであろうか。
お互いの歴史を重く受け止め明日への展望を開くことが、後世に生きる者の責務ではなかろうか?とありました。
この方の心意気が伝わり、お会いしたい旨を伝えると十五年ほど前に亡くなられている。
家に帰って会津藩を開く、
何か見た様な挿絵、、それは伝承館で見たイラストと同じ人が書いたのでは、と、発行元を見ると、なんと同じ発行元ではないか、、。これでこの歴史書が史実に近いと言う確信を得た。
やっぱり必要なものは、手に入る様になっているのだ、、。
会津の怨念の深さはどこから来るのか、、
そのことが書かれているはず、、と探す。
ありました。
それは巷でいうより、もっと凄惨な、人権破壊に等しい、、
実情が描かれていた。
何故これほどまでに、過酷な状況をあたえたのか、私だって読んでいるうちフツフツと湧いてくるものがある。
そこには武士道精神の情けの微塵もない仕打ちである。
疑問は、何故、薩長が執拗に東北勢を北海道まで追い詰め
全滅を図らねければならなかったのか。
それは、日本を植民地に都虎視眈々と狙っていた勢力抜きには
語れないし、会津藩の怨念は消えないだろうと思う。
2022 11/19