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メモリー&ダイアリー

団塊世代の昨日と今日の出来事

“建築確認取り消し” 提訴へ

2010年06月23日 | 仕事一途
 “建築確認取り消し”から10日経った昨日、NHKが正午から、その後の展開を伝えた。
 『「施設の強度不足」賠償請求へ』のニュースである。

 当初の報道によると、『強度不足は屋上を支える梁に入れた鉄筋の本数が不足したために生じた』とのことだった。
 だから、『市は、建設会社に不備のある部分を速やかに改善するように指導した』、とあった。
 事件の概要は、原因の推測も交えて前回の“建築確認取り消し”で書いた。

 ところが、昨日は、『施主の医療法人が、当該施設の設計、検査、施工に携わった3社に対して、約20億円の損害賠償を求める訴えを起こすことを決めた』と報道していた。

 20億円と言えば、新たに建て直す金額であろう。
 現施設の解体費用、開業延期による営業補償等も含まれているはずである。

 強度不足に該当する部分は、全体から見れば比較的軽微であると思われた。市も不備のある部分の補修を指導したくらいだった。

 それが、建て直しである。
 施主の医療法人が、“高齢者の入居施設であるのにイメージを損なわれた”、と考えたことも大きく作用したに違いない。
 それに、『市が設計や工事に関する書類を調べた際に、不明瞭な点が多数見付かったこともわかっています』という報道もあることから、嫌気が差してのことかも知れない。

 どの程度の“不明瞭な点”が判明したのかは分からないが、補修で済むものならば、裁判所も『建て直せ』とは言わないはずだ。受忍出来るならば、無駄を最小限に抑える判決になるだろう。

 建築基準法とその関連法規は、複雑怪奇と言って良い。
 設計する立場からは、「法規を全てクリアする設計図の作成は、至難の業である」と言いたくもなるし、検査機関に下駄を預けたくもなる。
 しかし、設計図の修正忘れは初歩的ミスだ。

 検査機関が、構造計算書と図面の照合を怠ったということは、普段の審査がおざなりであったということだ。耐震偽装事件の教訓が生かされていない。
 ただ、構造設計図は、ある意味、機械的に描かれる(実際にパソコンを使う)図面だから、間違いなどあるはずがないと決めて掛かることもあるだろう。これが落とし穴になった。
 私は検査機関の立場で審査したことがあったが、面倒ではあっても、計算書と図面の照合はきちんとやった。

 施工会社にとっては、設計図通りに建物を完成させることが重要である。
 図面を鉄筋屋さんに預け、鉄筋の本数は任せてしまうのが普通だ。

 設計、検査、施工の3社の担当者が、現場に集い、組み立てられた鉄筋の本数を設計図の本数と照合して ОK となる。たとえ、計算書の本数と違っていても・・・

 責任の所在は3社3様にあるはずだが、裁判所の判断は果たしてどうなるのだろう。

 訴えた医療法人は、「開業に向けて1日も早く施設を建て直すためにも、裁判を通じて業者の責任を問いたい」とのこと。
 話し合いが不調に終わった末の提訴だろうが、期待するほどに早くは決着しないと思うのだが・・・


建築確認取り消し

2010年06月13日 | 仕事一途
 昨日のNHKTVの昼から夕刻にかけてのローカルニュース。
 『市内に開業する予定の介護老人保健施設について、市は、建物の一部の鉄筋が不足し耐震強度を満たしていないことがわかったとして、この施設の建築確認を取り消しました』

 外部の指摘を受けて市が調査を行ったところ、屋上を支える梁の鉄筋の本数不足が判明した。定められた耐震強度を満たさない建物は認められない。そこで市は、昨日付けで建築確認の取り消しという行政処分を課した。

 05年に起こった『耐震偽装問題』は、建物の耐震構造設計を担当した設計者が、自身の能力不足故に構造計算書を故意に偽装した事件だった。
 この度は、構造計算によって必要とされた鉄筋の本数が、設計図に正確に反映されなかったということである。
 原因は、設計途中での設計変更にあった。
 間取りの変更等で設計を一部変更した際、構造計算をやり直し構造計算書は作り変えたが、構造図面の修正を忘れてしまったのだ。

 テレビに映し出されたこの施設は、ほぼ完成している。ミスを犯したのは構造設計者だけではないことになる。

 設計から現在に至るまでに、問題の“鉄筋不足”に関係した組織とその担当過程を羅列してみる。
  A,設計事務所
   A-1,設計図書の作成:構造計算書と図面の作成(構造設計事務所が担当?) 
   A-2,建築確認申請←設計図書の管理(管理建築士によるチェック)
   A-3,現場監理:現場での配筋施工状況の検査
  B,民間検査機関
   B-1,建築確認申請書の審査→建築確認
   B-2,現場検査:現場での配筋施工状況の検査
  C,施工会社
   C-1,設計図・建築確認図書の確認→施工図の作成
   C-2,現場管理:現場での配筋施工状況の自主検査

 上記のそれぞれの過程において、原則通りの業務を遂行していれば、鉄筋不足を見付けることは可能だった。しかし、出来なかった。それは何故か?
  A-1)構造設計担当者のケアレスミス。耐震設計偽装事件以後は責任を負うことになっている。
  A-2)業務担当者及び管理建築士が、計算書と図面の照合を怠ったまま、建築確認を申請した。
      構造設計者任せにする(なってしまう)ことがほとんどである。
      管理建築士は、設計業務の最終的な責任を負う。
  A-3)現場監理担当者が計算書と図面を照合することはない、と言って良い。
      配筋施工状況と図面が一致すれば、間違ったままに工事は進捗することになる。
  B-1)審査担当者が、計算書と図面を照合することは大原則、基本中の基本である。
      大原則が守られず、ミスを見逃したまま、建築確認を降ろしてしまった。
      (業界では、「建築確認が降りた」「建築確認を降ろして貰う」と言い習わしている。)
  B-2)現場検査担当者が図面を鵜呑みにすることは、極めて一般的なことである。
      図面と配筋施工図・配筋施工状況が一致しさえすれば、工事は進行する。
  C-1)現場の工事責任者は、出来るだけ図面に忠実に施工することを原則としている。
      審査によって訂正された箇所には留意しても、その他については図面を信じるものだ。
  C-2)配筋の施工担当者は、図面通りにさえなっていれば良しとする。

 こうして書いてみると、民間検査機関による建築確認申請の審査結果が、重要な地位を占めていることが分かる。多くの関係者が頼りにしているのである。
 
 ミスを見逃した民間検査機関は公に認められた組織である。担当者は準公務員でもある。責任は大きい。何らかの行政処分は免れないだろう。

 当該施設は、補強工事を施して定められた耐震強度を満たさなくてはならない。開業予定はずれ込むことになる。
 そうすると、補強工事費と工事遅延による補償費用が生じることになる。

 かっての耐震設計偽装事件の折には、建築確認審査を行った特定行政庁は金銭的な責任は負わなかった。その他の事項で建築確認に間違いがあっても同様である。しかし、この度の検査機関は民間である。
 設計図、建築確認図書に、建築基準法及び関連法規に関する全事項を網羅することは出来ないし、施工する側に関係法規を満足する建物を建てる義務・責任があるとされている。
 設計事務所も設計に瑕疵は避けられないとして、賠償責任保険制度が整備された。
 関係者の間ではどのような解決策が考えられるのだろうか? 

 明るみになった発端は、“外部の指摘”である。大変に興味深いが、公になることはないだろう。



  *またまた、長くなった。この癖は何とかしなくては。

詐欺に遭った話:後編

2010年06月07日 | 仕事一途
 *頭の片隅に長く居座ったまま、折に触れて「何とかしろよ」と囁き続ける『詐欺に遭った話:前編』。
  投稿を滞らせる一因にもなったこの記事の後始末をしておこう。


 農地転用の件は地主の翻意で頓挫したが、そんなことで諦めるH氏ではなかった。「何とかするよ」と言う彼の一言で、手続は棚上げにしておいて業務は進行した。

 事業主体の代表者に就く予定だという元乳業経営者にも会い、計画の概要、事業収支を説明した。だが、1週間後に貰ったのは、余り前向きな回答ではなかった。
 しかし、なおも断念しないH氏に、一縷の望みを託し続けることになる。

 何度か、委託契約書に押印するという話はあった。
 「用意してくれ」「事業主体の設立までもう少しだ」「2、3日待ってくれ」「先方の都合が悪い、来週電話する」
 設計料の一部についての請求書も書いたが、手渡すまでもなく、宙ぶらりん状態に置かれた。
 振り回されながらも辛抱するしかなかった。

 着手して2ヶ月半、設備との調整は後回しにして、意匠図と構造計算書・図面の一応の作成を終えた。

 他方、敷地造成の許可を得るべく、開発行為の打合せのため、町にも赴いた。
 町の担当者から、近隣住民の『施設建設反対の要望書』を見せられた時には、行く末を危ぶんだ。

 その間にも、別の建設業者2社が訪ねて来た。最後のY建設が、取分け熱心だった。請われるままに、原図まで渡した。

 H氏とどんな話になっていたのか不明だったが、Y建設から「設備を交えての打合せをしたい」との連絡が入った。筋違いな話ではあるが、行ってみるしかない。
 少し大きな住宅風の社屋2階には、電力系の大手設備会社と温浴設備業者も集っていた。設備会社3、4人の中に、高校同期の顔があった。
 Y建設の担当が、「昨日、名刺を頼りにH氏を訪ねてみたが、会えなかった。どうにも所在がはっきりしない」。彼らも疑わしく思ってはいたのだ。
 これでは具体的な打合せに入る気も失せる。確認が取れるまで延期する、ということで散会した。

 着手から4ヶ月近く。そろそろ決着しなければならない。
 H氏に事業主体の設立状況を尋ね、合わせて設計料も請求した。

 半月余り、散々にはぐらかされた末に連絡が途絶えた。

 全て終わった。
 H氏は最初から騙す積りだったのだろうか? そうではなかった、とは思うのだが。
 施設が完成すれば、建設関係業者から紹介料が入る。当社もお礼を差し上げただろう。その後も事業に関わりが持てる。

 しかし、地主の翻意に遭ったり、元乳業経営者から色好い返事を貰えなかった時点以降、彼は別の思惑で動き始めたようだ。
 少なくとも建設業者5社に声を掛けている。紹介料の手付金を要求したに違いない。そのために、設計図が使われたのだ。
 後から実際に確認して分かったことだが、温浴施設運営を目的とした法人(有限会社)の登記がなされていた。社員はH氏とM町議の2人。もっともらしく、お膳立てをした訳である。登記簿の確認は後日のことだったので、登記の日付にまで思いが至らなかったのが、今となっては残念だ。
 H氏は、どちらに転んでもよいように当初から両面作戦を考えていたのだろう。
 結果的に当社は無駄な仕事をし、彼の思惑に加担させられてしまった。

 “絵に描いた餅”になった図面は、設計料に代わってはくれない。
 出て行っただけの経費は、相当な額に登った。
 その上、敷地測量に要した費用40万円は、肩代わりしたままに終わった!
 手伝って貰った構造事務所には別件をお願いしたが、多くを償うことが出来なかった。

 建設業者に実害はあったのだろうか? 気にはなったが、確かめはしなかった。

 どうにも気が済まなくて、事の一部始終をしたためた封書をM町議に送付したが、予期したように、無しのつぶてだった。
 皮肉なことに、現在、このような記事が書けるのは、М町議宛用に記した“一部始終”がワープロのFDに残っているからなのだ。

 失ったもの、手に出来なかったものは多かった。
 得たものは、遣り切れない悔恨とS建設が持って来た御中元の《缶ビール1箱》だった。 

アスベストの問題(下)

2010年05月26日 | 仕事一途
 75年にアスベストの吹付が禁止された。
 それに先立つ71年には製造現場での環境整備が義務付けられていた。公害の一つ、大気汚染の防止対策の一環であったようだ。しかし、程度の差はあっても粉塵を撒き散らすことには変わりない工事現場での規制は対象外だった。また、室内に暴露していれば、落下等によって飛散し、活動空間が汚染される恐れも考えられるが、これも野放しのままに置かれた。規制したくても、高度成長に水を差すようなことは出来なかったのだろう。
 そこへ、73年の第1次オイルショックが起こる。年末には、石油消費を抑えるべく総需要抑制策が打ち出された。この機を捉えてかのような、遅れ馳せながらのアスベスト吹付の禁止は、業界よりの政策を続けていためなのか、と少々穿った見方をしてみたくなる。

 建築基準法や関連法規の改正は、時代の要請や構造解析・製造技術の革新に伴い、また、地震や火災等の災害発生の度に頻繁に行われる。改正の都度、法規集は古いものを処分し、新しいものに買い換えて来た。
 そうした中で、1冊だけ残っているのが、『詳解 建築基準法』。設計事務所に努め初めて間もない頃、先輩に倣い求めたものだ。昭和48年6月5日発行、建設省住宅局監修、737頁、1900円。初任給6万円の身にはかなりの高額。表紙は厚く、箱入りだったように思う。今も手元にあるのは、本自体の立派さと、大改正後の発行であったせいか、条文内容の成り立ち・根拠にまで言及した解説が気に入ったためである。
 同書の《耐火構造一覧表》には、確かに、鉄骨造の柱・梁の被覆材料として【吹付石綿】の記載がある。

 飛散の恐れがあるアスベストはなくなったが、スレート類やボード等の内外装材には原料として使用され続けることになる。
 ただ、磨耗による汚染の防止対策をアピールして、床材のビニール床タイル等は、早々にノンアスベスト製品が出回った。

 アスベスト吹付は、ロックウール吹付に取って代わった。こちらは直訳で『岩綿』である。
 しかし、このロックウール、全面的には安心出来ない。10年余り、アスベストの混入があったというのだ。私自身はアスベスト吹付には関与していないと思っていたが、そうではなかった。特に校舎4、5棟の実験室等で室内に暴露させてしまったのが気を重くさせる。
 60年代に入ってから増え続けたアスベストの輸入量は、74年にピークを迎える。規制開始の75年以降でも極端な減少は見られず、増減を繰り返しながらも輸入量は維持されていた。完全な代替ではなかった証拠のようでもある。

 昭和が終わる頃に、学校等の公共建築物で使用されたアスベストが社会問題化した。
 当市でも、アスベスト吹付の施工状況の調査と、その撤去工事を進めて来たことが資料から読み取れる。規制が厳格化される度に調査と対策に追われている様子も見える。
 神戸・淡路大震災では、被害建物からの飛散がかなりあったということだから、天井裏ではあっても放置しておくことは出来ない。考えるだに、面倒な工事だと分かる。
 公共の建物ではアスベストの撤去が進みつつあるが、民間では多くが手付かずのはずだから、解体時まで待たなければならない。それも、そう遠い先のことでもないだろう。撤去工事を手掛ける専門業者(一例)は、飛散防止・無害化技術を進歩させながら待機している。

 04年、代わりの材料が見付かったのか、アスベストの大幅な使用制限規制が施行される。
 軌を一にするかのように、翌年にはメーカー従業員の健康被害が実態が報道された。被害者数は59社で557人、この内451人が死亡とのデータもある。長い潜伏期間の封印が切れつつあるようだ。
 工場での作業従事者に留まらず、家族や近隣住民にも病気の発生は見られる。今のところ、ごく少数ではあるが、車両工場の従業員や建築現場で指導・検査に携わった自治体職員が労災の認定を受けた事例もある。今後は、様々の業種・場所で被害発生の報告があるだろう。

 健康被害者を救済する法律も制定されたが、被害者からすれば救済に与る道は険しい。国に対する10数件の損害賠償訴訟が、それを物語っている。
 水俣病は被害発生から60年近くを経て一定の解決を得たが、アスベストによる健康被害は、規模において水俣病を遙に凌ぐ恐れがあると言われている。
 為政者には心して対処して頂きたいと思う。

 ところで、代替建材は大丈夫なのだろうか。
 耐火性能を偽って認定を取得し、その建材が数万棟の住宅に使用された事件があった。
 火災時に有毒ガスを発生する新建材が取り沙汰されたこともあった。
 シックハウス症候群が大問題となり、建材の接着剤や塗料等が見直されたり、換気設備の設置が義務付けられた。余談だが、シックカー症候群なるものの存在を知って、思い当たる節があった。

 人間の営みは、“正”と“負”のどちら側に多く傾いているのだろうか。
 時と場所によって、個人によって、その間を揺らぎながら進んでいるのだろうが、現在はどちら? そして、行き着く先は?


  *自分の能力の及ばないことを書くのは、もうやめよう。疲れた。

アスベストの問題(上)

2010年05月25日 | 仕事一途
 先週、アスベスト(石綿)による健康被害と国の対策に関する訴訟の判決が、大阪地裁で出された。

 『国が権限を行使しなかったため、石綿粉塵の抑制が進まず被害の拡大を招いた』

 国は、アスベストに起因する健康被害発生の危険性と対策の必要性を1960年(昭和35年)までには認識しながら、71年(昭和46年)に至る間、局所排気装置等の設置義務付けを怠った。その結果、工場で石綿の製造に携わり健康を害した従業員に対し、国の責任を認めて賠償を命じた。

 賠償対象は、工場でアスベストの暴露(職業暴露)に晒され、それを吸入した従業員に限られた。アスベストにまみれた衣服や大気中に舞う粉塵(環境暴露)吸入が原因と考えられる家族、近隣住民には認められなかった。肝炎訴訟や先に和解なった水俣病と同様な判決である。この種の健康被害には、いつの場合も因果関係と被害の程度を特定する困難さが付きまとう。

 アスベストとは、繊維状に変形した天然の鉱物(蛇紋石、角閃石)のことだとある。ギリシア語で『消化出来ない』を意味するらしい。
 『石綿(せきめん、いしわた)』とも呼称される。鉱物を解した後の形状に由来するのだろうが、言い得て妙である。

 アスベスト(石綿)の特徴・特質等。
 ・アスベストの繊維1本は毛髪の5000分の1程度の細さである。
 ・耐久性、耐熱性、耐薬品性、絶縁性等の特性に大変優れている。
 ・安価である。
 ・繊維を肺に吸入すると約20~40年の潜伏期間を経た後に病気を引き起こす確率が高い。
 ・病気にはじん肺、肺癌や中皮腫(胸膜の腫傷化)がある。

 次にアスベストの使用例。
 ・建築物、船舶、鉄道車両の断熱材、防音材、吸音材
 ・電気製品の絶縁材料
 ・自動車や鉄道車両のブレーキパッド、クラッチ板
 ・配管等ののガスケット、シーリング材、パッキング
 ・モルタルやアスファルト舗装のひび割れ防止用等の各種混和材

 建築資材、建築材の原料としてのアスベストの用途は多い。多かったと言うべきか。
 ・吹付石綿:柱、梁、床の構造材として使用される鋼材の耐火被覆材
 ・石綿スレート類:工場等の壁や屋根に多く使用される外装材
 ・石綿ケイ酸カルシウム板等:壁や天井に使用される内装材
 ・ビニル床タイル:床の仕上材

 アスベストの使用等に関する法的規制の経過。
 ・1975年(昭和50年):吹付石綿の禁止
 ・1995年(平成 7年):有害性の高いアスベストの製造禁止
 ・2004年(平成16年):石綿を重量比で1%以上含む製品の出荷の原則禁止
 ・2006年(平成18年):石綿を重量比で0.1%以上含む製品の出荷の原則禁止

 アスベストの製造や除去に関する法律の整備
 ・1989年(平成 元年):工場、事業所からの排出発生を規制⇒大気汚染防止法の改正
 ・1996年(平成 8年):吹付石綿を施した建物の解体の届出と作業規制⇒産業廃棄物処理法の改正

 アスベストはそれが持つ特性から、建築資材及び建材の原材料としても様々に活用されて来た。
 建築物の大型化、高層化には鉄骨が欠かせない。しかし、鉄は万一の火災には弱い。火災時の高温を遮るための被覆材としてアスベストが吹付けられた。耐火性能と作業性に優れ、しかも軽量、安価であったことが、高度成長に伴う建築ラッシュを支えた。
 コンクリートの壁や天井に、断熱材、吸音材としても使用された。
 多くの場合、それらは天井裏に隠されるが、天井を張らない大空間や機械室等の用途に供する室では、吹付部分が室内に暴露されることになる。

主のいない建物

2010年05月04日 | 仕事一途
 去年、県のHPにアクセスした折、《県立生涯学習センター》の所在地が変わっているのに気が付いた。移転先は、私も通った大学工学部キャンパス跡地にある《情報プラザ》内だった。
 以前は、駅北口(新幹線口)から北側へ700m位のところにあった。『県立生涯学習センター』という看板を掲げた独立した建物と共に存在していたのだ。
 同センターのHPによると、開所は昭和57年7月で、27年間近くをその建物で運営していたが、昨年4月から業務場所を変えたとあった。

 移転に伴い、残された建物のその後が、大変気になっていた。卒業後に努めていた設計事務所で、私が担当した建物だったからだ。現在、身近にある資料では昭和56年の設計業務になっているが、建物の使用開始時期から考えると、前年度から計画・基本設計に取り掛かっていたようだ。当初は《県立社会教育センター》と称していた。

 県の委託を受けた設計業務だったが、設計には随分と力が入った。
 プランや外観の意匠には相当こだわった。所管する県営繕課の担当者や課長とかなりやりあったものだ。当時の課長は口を出すのに定評のある方だったが、担当が心配するほど、負けずに応戦した。懐かしい思い出だ。

 そういうこともあってか、手元に設計図の製本が残っている。最初の設計事務所で書いた設計図は、これ以外には今は目にすることが出来ない。

 敷地面積は4,460㎡。建物は、鉄筋コンクリート造の地上4階建て、延べ床面積は4,150㎡。
 1階は、展示スペースを兼ねた広いロビーに事務室、小さなレストラン。2階は、大研修室に諸団体用の事務室や図書資料室。3、4階は研修室、実習室、視聴覚室、教材製作室等。
 
 意匠図はA1版サイズで80枚。当時のことだから、全て鉛筆の手書きである。
 私が書いたのは、配置図、平面図、立面図、矩形詳細図、部分詳細図3枚、それに面積表や日影図等の法規チェック図面。室名は判子を押し、数字は型板を使用している。書込み文字は手書きだが、これが大の苦手だった。その証拠に不揃いな字が並んでいる。
 他の図面は5、6人の所員が手伝ってくれた。図面を見ると、それぞれに字が違っているのが分かる。県の担当が設計原図を見て、「これは手書きだったんですか、判子かと思っていた」と言った程の字の上手な所員もいた。この所員は年長の方だったが、仕上表や建具表等の字の多い図面を担当して貰った。
 手書きの設計図を眺めると、これだけの図面をよく書けたものだ、と改めて感心してしまう。

 先日、回り道をして、立ち寄ってみた。
 建物はこの1年余り、使用されていなかった。バリカーの鎖が敷地に入ることをも拒んでいた。
 20数年の時を経て、ケヤキやクヌギ等の樹木も大きくなり、新緑の若葉が生い茂っている。幹に蔦類が巻き付いているのが、主のいないことを物語ってもいた。
 樹木に埋もれて、1階のロビーは薄暗い。レストランの中には何も見えない。身震いするほどに怖くさえ感じられた。
 掲示板のガラス越しに、移転先を書いた2枚の紙が、ごく最近張り出されたかのように見えた。道路際の《県立生涯学習センター》の大きな看板が妙に空々しかった。








 IT関連の進展に施設が追いついていかなかったのだろうか。確かに、設計段階で現在のような状況を想定したことはなかった。
 財政悪化による経費節減の余波だろうか。HPには、機能特化、移転先との総務課共有化の記載があった。
 耐震設計上の問題があったのだろうか。短柱処理や壁厚を考慮したはずだが、やはり新基準には及ばないかもしれない。

 いずれにせよ、この建物は初期の目的を終えたのだ。この先、どうなるのだろうか。
 最初に設計担当したと言って良い建物がすぐ近くにあったのだが、5年前に解体されている。
 そのこともあって、この建物の行く末が思い遣られるのである。

地場ディベロッパーの経営破綻

2009年01月22日 | 仕事一途
 昨日、分譲マンション事業の地場最大手ディベロッパー《章栄不動産》が経営破綻し、民事再生法の適用を申請した。

 この会社とは浅からざる縁があった。
 平成4年9月、共同経営の設計事務所を設立した際の最初の売上げが、章栄不動産(当時は「章栄商事」)が事業主である分譲マンション2棟の工事監理業務だったのだ。そして、章栄にとっても、分譲マンション事業に参入した始めての物件でもあったのである。私の相方が、その前に所属していた設計事務所で設計を担当し、工事監理業務を譲り受けて来たもので、現場にも彼が出向いて行った。
 民事再生法適用申請を報じる記事によれば、章栄はその2棟を皮切りに、現在までに184棟、約1万700戸を分譲したとある。
 しかし、残念なことに、我々の事務所は残りの182棟には関係しなかった。分譲マンションだけでなく、同社が手掛ける賃貸マンションや戸建分譲にも関わりが持てなかった。
 受注減で事務所の経営がうまく行かなくなった折、そのことを相方に質したことがあった。工事監理上でトラブルがあったのではないかと疑ったからだ。他の物件でそれらしきことがあれば、そう思わざるを得なかったのだ。
 彼の返答は、「ある設計事務所がコスト削減出来る工法を売り込んだから」ということだった。その事務所が、ある時期、多くの分譲マンションの設計を受注していたのは事実だったが、何か釈然とはしなかった。

 この度の章栄に先立って、昨年の8月だったか、アーバンコーポレーションが経営破綻している。
 アーバンの分譲マンション事業の最初の1棟にも関わった。そして、同社との付き合いもその1棟が最初で最後の物件になってしまった。我々の不手際が原因だったが、その経緯は以前、投稿記事に書いた。

 3年前の耐震偽装が顕在化した頃、やはり地場ディベロッパーの日本ブレストが、耐震偽装とは関係なかったはずだが、倒産した。
 社名がまだブレストだった時、同社が事業主となった分譲マンションの2棟目を担当した。それ以降も数棟の設計監理に携わった。
 しかし、提出した企画がなかなか実現しないうちに、当方が先にお手上げ状態になってしまった。“手堅い”というイメージがあっただけに、行き詰ったと聞いて少し意外に思ったものだ。

 同時期に分譲マンション事業を起こし、当地で地歩を固め、東京を初めてとして各地に展開して行った3つのディベロッパーが、相次いで破綻してしまったのは残念なことである。
 アーバンとブレストの創業者は、共に大京で営業成績を競い合って来たライバルだったと聞いたことがある。彼らが同じように当地で会社を起こしたというのも興味深かった。アーバンの当初の役員は当地の大学の出身者ということだったが。

 アーバンと章栄の社長を、タイル工場見学という名目で岐阜県まで引っ張り出したことがあった。
 ブレストの社長には接待ゴルフに同道してもらったこともあった。
 それらのことは、今となっては、私が覚えているだけのことに違いないだろうと思う。

詐欺に遭った話:前編

2007年09月17日 | 仕事一途
 NHKの連続ドラマ『どんど晴れ』も最後の山場を迎えている。外資による詐欺同然の乗っ取りという難局に際し、家族が協力して闘っているのだ。
 視聴者にはそれと分かっているから、何故詐欺なんかに引っかかってしまうのか、と不思議でならない。
 確かに第三者的に冷静かつ欲得なしの状態にあれば、詐欺の被害に遭うことはないはずだ。しかし、“魚心あれば水心”で、自分の思いに沿う話や利益に繋がる話には引き摺り込まれてしまい、結果的に後で泣きを見ることになる。

 もう10年も前のことになるだろうか、共同で事務所を経営していた頃の話である。

 ちょうど仕事のない折のことだった。
 それまで一度として面識がなかったH氏が事務所を訪ねて来た。事務所の業務経歴を参考にしての来所で、温浴施設の設計を委託したいという。確かに2つの施設の実績はあった。

 翌日には建設場所を案内された。
 その建設場所は、県内のどちらかと言えば西北部に位置する町にあった。4町合併後の現在でもなお“町”だから、人口の少ない小さな町だった。設定された敷地は、高速道のICがすぐ近くにある田んぼの一画を占めていた。
 H氏自身は建設コンサルタントという名の仲介者であって、事業主体は近在の会社経営者の集まりだということだった。
 推進役だというМ町議にも会った。町長に近いと紹介された。それに中堅の建設業者の営業とも顔を会わせた。初っ端から業者とは、何かきな臭かった。

 事業計画は漠然としていた。普通に考えれば、そんな“過疎地”で成り立つ事業ではない。効能の良い温泉でもあれば集客も期待出来るが、当てのない温泉掘削に掛ける費用はなかった。
 事業収支から考えると実現性に疑問があった。それだけに設計業務としての取組みには余り気が乗らかったが、仕事は欲しかった。後は事業主体の意思が頼りだった。
 しかし、事業主体は明確ではない。町長に繋がるというМ町議の存在が担保だと言えなくもなかった。

 作成した2、3の計画案の中から、事業規模を出来るだけコンパクトにした案を基にして計画に取り掛かった。
 まず、敷地の形状、面積を確定しなければならない。H氏にその旨を伝えると、当方に任すから段取りしてくれという。業者に依頼し測量して貰った。

 H氏来社から2ヶ月余りして、農地転用の申請をすることになった。田んぼを宅地にしなければならないのだ。
 書類を作成し、H氏同道で地主を訪ねて押印をお願いする。そして、提出のために役場に行くと、担当者が「地主が農転申請を取り止めたいと言って来た」という。H氏が「再度お願いに行く」ということで、その日の提出は断念した。
 この時、地元の小さな建設業者に引き合わされた。

 懸念したことが現実になりそうだった。しかし、ここまで来たら諦め切れない。H氏の根回しに望みを託し、図面作成を続けて行くことにした。
 そうこうしている内にも、新たにまた別の建設業者が訪ねて来た。H氏に手渡した図面がその業者のところにも行ったのだ。私の知らないところで、彼は動いているようだった。

   *今日の誕生日の花: ツユクサ (花言葉:尊敬 懐かしい関係)
      《NHKラジオ深夜便 誕生日の花》カレンダーより

“万能製図機械”が《機械遺産》に

2007年08月07日 | 仕事一途
 今日7日は、『機械の日』である。
 昨年、日本機械学会によって制定されたばかりだから、馴染みは薄い。8月7日は七夕の中歴にあたり、“たなばた”は神に捧げる御衣を織った織機<棚機(タナバタ)>に由来するのだそうだ。経緯・趣旨は「制定宣言」に詳しく紹介されている。

 その日本機械学会が、創立110周年を記念して《機械遺産》の認定制度を設けた。歴史に残る機械を次世代に伝えることを目的としている。
 ウェブ記事によると、『機械の日』にまず第1陣の25件が《機械遺産》として認定表彰されるという。

 リストには、歴史的にも用途的にも、そして大小も様々な“機械”が載っている。
 “初代新幹線”や国産旅客機“YS-11”、国産初の“ブルドーザー”、それに幕末の“万年自鳴機(万年時計)”もある。 マツダの“ロータリーエンジン”にホンダは“CVCCエンジン”と“カブ号”。

 初めて目にするような“機械”もある中に、我が設計業界に多大な貢献をもたらした“機械”がリストアップされていた。“万能製図機械MUTOH:ドラフター MH-1”である。
 メーカーのサイトでは、この型番を探し出すことが出来なかった。最初の機種だろうから無理からぬことだが、恐らく、アームタイプのドラフターのはずだ。




 このドラフターが出現する前は、T定規で図面を描いていた。
 T定規の交差部を製図版の左縁に合わせ、左手でしっかり抑えて横線を引く。縦線や斜線は、T定規の水平部に三角定規か自在定規を添えて引く。この場合は2つの定規を左手1本で上手に固定しなければならない。
 いずれにしても思い通りの線を引くことは、なかなかに苦労を伴うことだったのだ。

 その苦労から開放させてくれたのが、このドラフターである。正に画期的な“機械”だった。
 握り部分を手で掴み、製図版上の何処に持って行こうが常に水平・垂直は維持された。どのような角度の斜線であっても自在に引くことが出来たのである。

 しかし、私自身は、このアームタイプのドラフターにはお世話になったことがない。
 学生時代はT定規を使った。もちろん、ドラフターを持っていた者もいるにはいたが、製図に余り重きを置かないカリキュラムだったので、どうでも良かったのだ。お金がなければ、無理することはない。
 最初に勤めた事務所では、平行定規で図面を描いた。これはT定規の改良版と言えるが、これは以外に重宝だった。それに場所を取らないという利点もあった。何しろ、狭い部屋に人が多すぎたから、値段の安さも相まってちょうど良かったのだ。

 11年経ってからは、次の勤め先がトラックタイプのドラフターを用意してくれた。
 自営の折には、ペダルで製図版が上下する油圧式の製図台等を含めて1式に20万円も支払い、2式を揃えた。当時のカタログが、今もあって懐かしい。
 結局、ドラフターには15年間も付き合うことになった。

 現在は、CADソフトを利用してキーボードとマウスで図面が描ける。図面はプリンターが打ち出してくれる。変われば変わるものである。これ程の変わりようも珍しいのではないだろうか。

 しかし、変わらないこともある。建築士の製図試験がそれだ。受験要領によると、T定規や平行定規の世界である。
 日頃の設計業務ではパソコンに向かっていながら、試験に備えては平行定規の練習。
 この乖離、余りに滑稽過ぎて“落ち”の書きようがない。

     *今日の誕生日の花: カノコユリ (富と誇り 威厳)
        《NHKラジオ深夜便 誕生日の花》カレンダーより

 <追記>
 この稿をアップした後、日本機械学会が《機械遺産》のリストを発表した。それによって、“ドラフター MH-1”の詳細を知ることが出来た。
 1953年誕生ということは、勤め始める20年近くも前のことだ。余り目にしなかったのは、私の廻りが少し時勢に遅れていた(?)ということなのだろう。
 学生時分の製図室の設備も貧弱過ぎた。授業料が安かったから仕方ない。

被爆建物の保存に携わる:後編

2007年08月05日 | 仕事一途
 保存については次のように考えた。当然、私個人の考えで進められたものではない。
 地下室には手を加えない。ただし、老朽化対策はしなくてはならないから、1階の床を支えるために、鉄骨の柱と梁を設ける。
 1階については、補修や新たに設けられた仕上材等を撤去する。展示空間とするためには、風雨を防ぎつつ管理する必要がある。それで、材質は異なっているが、アーチ状の建具を復元設置する。
 保存部分と展示品を区別するために、敢えて異質な展示用ボックスを置く。

 常駐ではなかったが、要所での現場監理には足を運んだ。

 解体は慎重に行われた。テレビなどの取材もあった。
 保存部分の上は2層分を撤去しなければならない。縦方向の切り離しと共に、カッターで切断しながら、特に入念に進められた。
 錆びていない鉄筋は当たり前のことだが、目にする度にそれには妙に感心させられた。反面、無理からぬこととは思ったが、コンクリート打設技術の未熟さも垣間見えた。
 地下室部分は新たに防水を施すことも必要だった。そのために周囲を掘削すると、60年前のアスファルトが軟らかいままで現れたりした。
 外壁の補修モルタルの剥がしは手作業だったから、相当な時間を要した。
 私自身もハンマーで壁を叩いたこともあった。ほんの些細なことだったが、腰を痛めた上にぎっくり腰を患う羽目になったことを思い出す。

 新校舎の設計についての所管課の注文は、「目立たない建物にするように」だった。平和公園と原爆ドームのすぐ近くに位置しているための配慮である。
 旧校舎のデザインを少しだけ拝借した。横目地、縦長の開口部、窓の奥行きなどである。
 アーチ状の窓は到底無理だ。当時の佇まいには及ばないのが、少し残念でもあった。

 偶然が重なって、被爆建物の保存に関わるという得難い経験をさせて貰った。
 設計事務所としては、設計だけに傾注すれば良かったが、市の関係部署は調整等が大変だったと思う。何しろ、非常にデリケートなことなのだ。最終的には市上層部の決済によった。

 保存部分は『平和資料館』として、現在も役立てられているようだ。嬉しい限りである。




 平和公園から対岸を見ると、校庭を取巻く夾竹桃が、20年の間に随分と背を高くしているのが分かる。
 校舎の1、2階は、樹木に埋もれてしまっていて、とても4階建てには見えない程だ。
 目立たないようにということだったが、それなりに存在感があって心地良い。

   *今日の誕生日に花: クサキョウチクトウ (花言葉:同意)
      《NHKラジオ深夜便 誕生日の花》カレンダーより

被爆建物の保存に携わる:前編

2007年08月04日 | 仕事一途
 今からちょうど20年前、平和記念公園のすぐ近くにある小学校校舎の建替え工事に携わっていた。古い校舎を解体撤去し、新しい校舎を建てようとしていた訳である。夏のこの時分には、既に設計は終わっており、現場段階だったはずだが、業務日誌を収め過ごしていてはっきり分からない。

 その古い校舎は、昭和初年に鉄筋コンクリート造で建てられていた。60年の耐久年数を迎え、老朽化に伴う建替えとなったのだ。60年を経ているということは、被爆建物だということでもある。

 校舎は爆心地から400mに位置した。
 200m余り東には原爆ドームがある。間には川と公園などがあるだけだから互いに良く見える関係にあった。

 3階建てのその校舎は、被爆の痕跡などは見られない程に補修されていた。
 写真で見る被爆前の校舎は、なかなかの雰囲気を有していた。1階のアーチ状の窓が60年の時を感じさせなかった。
 被爆直後の写真からは、これまで良く使用したものだと感心させられもした。
 校舎は爆風の圧力を横から受けたので、構造躯体は使用に耐え得ると判断されたのだろう。L型をなしていて正面を爆風に晒された別棟の校舎は、損傷がひどく、6年後には解体されていた。

 与えられた業務内容では、その校舎の“一部保存”が決まっていた。校舎等の配置などからは、使用しない建物を残しておく余裕がない。
 “どこをどのように保存するか”が仕事だった。

 校舎は内外共に補修の上、仕上が施されていた。唯一手付かずの状態で残っていたのが、倉庫として使用されていただけの地下室である。
 この地下室、被爆前は脱靴室だった。あの時、たまたまそこにいて1人の児童が助かったということを聞いた。脱靴室の位置は、校舎の西の端にあって、爆心からは遠い方になる。それが幸いしたものと思われる。
 その少女が脱出した後、火が入ったのだろう、内部は煤で黒ずんでいたり、黒焦げの木枠などが確認出来た。階段の手摺や開口部の鉄部にも火災の跡が残っていた。
 そこで、この地下室と1階を保存部分とすることになった。新校舎等の配置にも適していた。
 地下室は現状のままでおき、1階に展示空間を設けるという方針で設計を進めた。

 ここでまず、建物の状態、実際の保存状況等をサイトを引用させて頂き、紹介しておこう。私自身の手元には何もないのである。
 同校同窓会事務局の制作・運営になる“平和資料館のページ”と“同窓会のページ”は、戦前・戦後の様子、被爆時の状況、展示内容等を知ることが出来る。
 『広島の原爆遺跡と碑』の“本川小学校”には、興味深い記事と写真が載っている。
 『arch-hiroshima 広島の建築』は、偶然にも同校の卒業生作成のサイトで、その中の“広島市立本川小学校平和資料館”は、建物に重点をおいて書かれている。保存部分の内部写真が懐かしかった。

     *今日の誕生日に花: サルスベリ (花言葉:雄弁 潔白)
        《NHKラジオ深夜便 誕生日の花》カレンダーより

市役所が水浸し

2007年07月04日 | 仕事一途
 一昨日、『下関市役所が水浸し』というニュースがテレビで流れた。
 屋内が水浸しになったなどということを、建築に携わる者としてはほっては置けない。
 ニュースで報じられた内容は次の通り。正確ではないかも知れない。その後、ニュースの度に注意していたのだが、続報を見ることが出来なかったからだ。

 九州北部・山口地方が、2日未明に局地的に強い雨に見舞われた。
 そのため、下関市役所が水浸しになった。以下はその状況。
 1、2階のフロアに1㎝程度の水が溜まった。
 天井から水が漏れて、机上のパソコンや書類が水を被ってしまった。
 2基のエレベータが動かなくなった。

 新聞社のウェブサイトの記事で、被害状況等を確認する。要約は次の通り。
『雨水管が壊れて雨水が室内に流入。本庁舎5~7階の北側と配管が集中する1階が水浸しになった。
 7階は雨水管が通る数部屋の床が水浸しになり、机上の備品や書類が水を被った。
 屋上の雨水を地上に排水する真鍮製雨水管(直径15㎝)の接合部分1箇所から水があふれ出し、階段などをつたって下の階に流れたらしい。
 下関市では午前3~4時に36㎜の1時間雨量を記録した』

 比較的詳しいと思われるブログからの引用。
『市管財課によると、屋上から雨水を流す排水管が庁舎内に通っており、大量の雨が流れ込んであふれたらしい。庁舎は1955年の建設。排水管は直径7.5㎝』

 建物が建物であるための最重要課題の1つが“雨露を凌ぐ”ことである。
 雨を防ぐために建物には屋根を設ける。屋根には、降る雨の処理が不可欠となる。
 住宅に見られるような勾配屋根ならば、軒樋を巡らし適当に竪樋を取り付ける。
 ビルでは平坦な陸屋根になっていて、必要な数のドレインと竪樋を設置する。

 本当は取り付けたくないが、そうは出来ないこの竪樋が、大いに曲者である。デザイン上、これほど邪魔なものはないからだ。
 竪樋を外壁に沿わすのが普通であるが、その場合、竪樋の位置、材質には神経を使う。建物の外観を損なわないようにすることは大変なのだ。
 だから、デザインや形状に拘れば、竪樋を建物内部に設けることになる。

 得られた情報から、私なりに水浸しの原因を考えた。
 この市役所庁舎では、事情は不明だが、屋上にドレインを設置、それに竪樋を接続して建物の内部を貫通させていた。これは構造上の問題と言える。
 竪樋の最下部が少し詰まったかして排水能力に支障をきたし、一時的な豪雨に対処し切れなかった。時間雨量は36㎜は大した量ではない。もっと短時間に集中したのだろう。流れなくなった雨水は竪樋に一杯になり、排水管の接続部分から溢れ出した。それが天井裏を伝い、至る所で落下した。
 竪樋の維持管理が徹底していなかったということが直接の原因だと思う。

 「雨水管が壊れた」というのは的を得ていないようだ。
 雨水管の直径15㎝も嘘っぽい。大き過ぎる。
 エレベータの最下階には深さ1m余りのピットがあり、これが水没するとエレベータ自体の下部にも漏水して故障する。良くあることだ。

 屋内に竪樋を通すという設計は、普通はしない。敢えてそうした建物があったことを思い出して、図面を引っ張り出してみた。

 県立の生涯学習・研修施設。
 4階部分の陸屋根:形状は長方形(50m×17m)、面積は850㎡
  雨水管は直径7.5㎝、片側4本ずつで計8本。1本当り110㎡を負担。
 2階部分の陸屋根:形状は長方形(28m×15m)、面積は420㎡
  雨水管は直径10㎝、片側2本。1本当り210㎡を負担。

 設計時に参考にするカタログの「給排水設備基準」には、管径と許容最大屋根面積の関係が載せてある。
 直径7.5㎝では197㎡、直径10㎝では425㎡となっている。いずれも1時間雨量100㎜の場合を想定したものである。
 当地での最大雨量は、1時間が80㎜、10分間が26㎜。

 1時間雨量に対しては、必要数の2倍以上を設置していることになるが、過剰とは言えないだろう。何しろ、雨漏りは最も恥ずべきことだから。

  *今日の誕生日の花: ノカンゾウ (花言葉:苦しみからの解放)
     《NHKラジオ深夜便 誕生日の花》カレンダーより

グループホーム顛末記:後編

2007年05月11日 | 仕事一途
 借入利息等の条件が良かったから、公庫から借入出来れば何よりだった。しかし、良い回答が貰えなかった。
 公庫には、外装工事等の借入金が残っていたが、担保能力は充分にあったはずだ。
 グループホームは、利用者数9人までで1ユニットを構成する。1ユニット9人に対して、自治体は介護保険から年間2600万円程度を給付しなければならない。だから、財政が逼迫している当市としては、施設の設置に消極的になり、公庫に融資の抑制を頼んでいるのではないかと疑ってもみた。

 民間金融機関とは、かって借入金の利率で揉めたことがあったとのことだった。
 そのことが思わしい返事が貰えない一因かと思ったりもした。

 融資の件はうまく行かなかったが、彼の意欲は益々盛んだった。
 設備の設計にも取り掛かろうとした。
 その段階では概算にしかならなかったが、彼はリフォーム業者に工事費の見積を依頼した。

 電気設備と機械設備の設計者には、建物の現況を調査の上、私を介さずに設計業務料の見積を出して貰った。
 その直後、設備設計の見積が高いと、彼から電話があった。
 設備設計者に確認したところ、そう高い金額ではない。しかし、私に提示されている私自身の業務料と比較すると、やはり高い。引き受けた私が悪いのだが。それに、話し合って同額にしたと言っていたが、このことはまずかった。

 融資の目処も立たない。
 設備設計者に対して難色を示された。
 リフォーム業者が関わって来たが、業者は自分なりの思惑で取り入ろうとするだろう。
 彼との付合いも4ヶ月余りになって、私も疲れた。

 後のことが心残りだったが、以上のような理由で、私は手を引くことにした。
 気まずい別れだった。

 とても業務料だと言える金額ではなかったが、暮と最後に頂いた。
 どちらも私が要求した訳ではなかった。彼が、私の労に報いてくれたものだと思った。

 施設が完成して1年余りになるはずだが、正確なことは分からない。昨年4月より、全施設が地域密着型サービスの範疇で“地域グループホーム”という形態に指定替えになったらしいからだ。
 まだ、1ユニットであるが、もう1ユニット、増設されるだろう。
 1階はデイサービス施設になるだろう。
 それが夢だったし、彼の持つエネルギーは尋常ではないはずだから、きっと実現するだろうと思う。

 このグループホーム、3年の間に、当市内では50施設から90施設に、また、ユニットは78からほぼ倍の154に増えた。施設間の競争が激しくなったということである。
 昨年の1月には、長崎の施設で火災が発生し、7人が亡くなった。管理面・防災面の規制は益々厳しくなるに違いない。
 高齢者の増加とともに、介護保険制度も度々見直しされるだろう。
 これらを乗り越えて、彼の施設が発展するように願っている。

 彼には元気を貰った。
 近い内に訪ねてみたいと思っている。

     *今日の誕生日の花: カキツバタ (幸福が来る)
        《NHKラジオ深夜便 誕生日の花》カレンダーより

グループホーム顛末記:中編

2007年05月10日 | 仕事一途
 終戦の頃、雷管か何かの暴発によって、彼は4、5歳で多くの視力を失ったという。
 それでも頑張って自転車にも乗ったそうである。
 盲学校でマッサージの技術を身に付け、繁華街近くに店を持った。夜遅くまで患者があり、随分と繁盛したということだった。
 10数年後、親の援助もあって、生まれ育った現在地にビルを建てた。30数年前のことである。

 建物は、1階が店と住まい、それにテナント部分があり、2~4階が賃貸住宅となっている。3年前にはテナント部分は空いていたが。
 彼の話によると、設計者任せにはしないで、自分が設計したと言えるほどにいろいろと知恵を出したのだそうだ。

 彼と話をする度に、様々な苦労とそれを如何にして乗り越えて来たかということを聞かされた。
 マッサージ師としての技量、同業者の統率、家作と不動産の管理、点字指導のボランティア等々。
 障害者用のソフトがあり、時間をかけながらもパソコンで文章も書いていた。
 視覚障害というハンディを背負いながらも、懸命な努力で克服して来たそれまでの人生に、彼は強い自負を持っていた。それが、時として強い個性となって言動に表れていた。
 現在の自分は世間からの様々の恩恵によるものであるから、それに対してお礼がしたい。それがグループホームだというのである。

 反対にその折の私は、自業自得とは言え、相当に落ち込んでいた。
 彼の思いの実現を手助けすることで、私自身が何か得るものがあるのではないかと思った。

 収支を計算して事業計画書を作り、国民生活金融公庫には2度、融資の申請をした。
 公庫に断られると、2つの民間金融機関に融資をお願いした。
 税理士とも打合せをして、融資への助言を貰った。
 その間に、打合せをしながら図面を作成した。意匠図は建築確認を申請し得る位の図面が出来ていた。
 他の施設の設置状況を調べ、施設利用料等の比較表も作った。
 勤務体制・勤務形態等の運営に関する事項を検討した。
 事業者は法人でなければならないので、休眠状態にあった不動産管理会社を現状に合わせるべく登記内容を変更した。
 県庁に行って、所管部署と施設設置についての打合せをした。
 事業者指定を受けるべく提出する指定申請書の準備もした。
 施設の見学にも行った。
 公庫や金融機関、法務局、県庁等へは、往復すれば4、50㎞の道を、彼と同行した。

 彼のマッサージ師としての腕には、ある種のカリスマ性があったようである。
 2人の患者が、彼の思いに応えて、2つ返事で各々数百万円を貸してくれたのだ。少し遠方だったが、同行した私の目の前でお金が手渡されたのには少々驚いた。

 しかし、金融機関の方は思うようにはならなかった。

  *今日の誕生日の花: カーネーション (花言葉:あなたを熱愛する)
     《NHKラジオ深夜便 誕生日の花》カレンダーより

グループホーム顛末記:前編

2007年05月09日 | 仕事一途
 一昨日、新たな仕事の参考になるであろうという現場を見てみたいと、当市の西部方面へ車を走らせた。
 その途上に、気に掛かっている建物があり、途中から細い路地に入った。
 以前にも通り掛かったことがあったが、いつのことだったろうか。

 車を止めずに、かの建物の前をゆっくりと通り過ぎた。
 その時、思わず、あっと声を上げた。
 4階建ての建物の裏側にエレベータが設けてある。ということは、“グループホーム”が出来た、ということなのだ。

 3年と少し前まで、私はその建物に関わっていた。それも、前年の夏以降のことだから、7、8ヶ月の付合いだった。

 知合いの大手ゼネコンの元営業マンからの電話で、グループホームの設計に携わることになった。仕事としてはとても割が合わない話だったが、事情もあって、とにかく引き受けた。それがその建物である。

 築30年余りになる4階建てで賃貸の共同住宅は、間取りも時代遅れ、設備機器は交換の必要があるし、配管はその都度修理しながら、というような建物だった。本格的に改修するのであれば、この際、グループホームを設置しようということであった。
 グループホームを勧めたのは元営業マンだったが、それが建物の所有者をして、使命感ともいうべき強い思いにしたのである。

 ここで“グループホーム”とは、認知症高齢者たちが専門スタッフ等の支援を受け、一般の住宅等において地域社会に溶け込みながら、少人数で生活する社会的介護の施設をいう。

 所有者は鍼灸マッサージ師だが、気難しい人だから、という理由で合わせて貰えなかった。元営業マンには、彼なりの思惑があったようだ。
 元の設計図から現況図面起こし、彼との打合せで計画図を作成した。
 当時、3階には入居者がなく、その階をグループホームに改修する対象として計画した。

 計画図は出来たが、そこから先に進まない。
 改修工事のための融資が降りないということだった。

 現況図や計画図を作成したままで放って置く手はない。
 11月に入って、元営業マンを介さずに、マッサージ師を訪ねた。
 2人の間を繋いだのは、かって医療機器の販売営業に関わった人だったが、その人に連れて行って貰った。

 訪ねたその日は、融資をお願いするために、これから国民生活金融公庫に行くというところだった。
 私は同行することにした。

 それ以来、私は、マッサージ師の目となり、足となった。
 今から思えば、この日が大変な日々の始まりになったのである。

     *今日の誕生日の花: キリ (花言葉:高尚)
        《NHKラジオ深夜便 誕生日の花》カレンダーより

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