triskaidecagon

『triskaidecagon』は『13角形』

秀のブログです。主に写真。

補償金とかについて

2008年05月31日 03時40分37秒 | Weblog
もうよく考えてみたら、音楽も映像も嗜好品なんだから、補償金とか無しにして税金取っちゃえばいいんじゃない。
あの補償金とやらが権利者に行くとはとても思えないわ。
なにに取られるかわかんない金なんだったら、税金のほうがマシのような気がしてきたわ。
権利者に行くとかいう噂を聞いた事もあるけど、都市伝説だとしか思えない。

昨日jのことの補足

2008年05月20日 23時17分53秒 | Weblog
こういうところ、まで来ると、もう萌えとは違うような気もする。
相手と人格的な付き合いをしているもんね。

ちなみに上記のものは、最初はどうしようもない下ネタばっかりなんだけど、途中から壮絶な告白になってきて、最後のほうはものすごい異次元空間に迷い込んだ気持ちにさせられる内容だったりする。
おれはこの人たちの言ってることが正しいとはまったく思わないんだけど、基本的な主張の軸が揺らがないので反論のしようが無いという印象だ。
いやしかし凄いね。
不勉強なせいでろくに読んだ事は無いんだけど、人の話を聞く限り谷崎潤一郎の書く話ってこんな感じなんじゃなかったろうか、とか思ってしまったよ。

「萌え」という言葉について

2008年05月19日 22時41分26秒 | Weblog
AskJhonファンクラブのこの記事を読んで、いろいろとあまりにも酷かったので、俺なりにいろいろな事を考えてしまったりした。
俺は、説明の言葉を惜しむ人が嫌いだ。
その意味では、一知半解とは言え、自分の思ったことをできる限り伝えようとしているパネリストのほうに共感を覚えたりする。そもそも間違ってるし、「そのことで学位論文を書いた」とかいう中途半端なオーソライズをしている辺りには、片腹痛いとも感じるんだけど。
実のところ、「萌え」という言葉を、俺は自分自身の言葉として言ったことがない。根がお調子者なので、何かの弾みにポロと言ってる事はあるかもしれないけど、基本的には意識的に使わないようにしてきた言葉だ。
とはいえ、俺は隣人たちの言葉として、この言葉とはかなり長い付き合いをしてきたと思う。
ここでは、俺がこの言葉と出合った時の状況を記し、俺がこの言葉の広がりをどのように理解しているかを記し、最後に一言でまとめたいと思う。
自分のものになった言葉でないから、特に愛着があるわけでも無いので、実に簡単にまとめられるのだ。


最初にこの言葉を聞いた(聞いたというより見たのだけど)のは、まだ世の中に今ほど沢山のインターネットがなく、windowsもまだ一般的でなかった時。それでいて、コンピュータを利用したコミュニケーションがすでに存在していた時のことである。
俺はその時、ときメモの朝比奈さん (『ときめきメモリアル』というういまはもう有名だけど、当事は理解者の少なかったゲーム。朝比奈さんはそのゲームに十人以上いたのヒロインの一人) のことを聞かされていたように思う。
(当時はゲームの登場人物が声をだして喋ること自体が珍しくて、今でいうギャルゲーというくくりそのものが無く、良く知らない人間にとって最も近い概念はエロゲーだった。俺はこの当事、ときメモをプレイしたことがなく、ほぼエロゲに対する感覚と同じ印象を持ってこの話を聞いていた)
俺に対して、朝比奈さんへの思いを縷々述べていた彼は「朝比奈さんに萌える」というような発言をした。
俺は「燃える」の変換間違いでないかと聞き返したはずだ。
彼は「萌える」で間違いないと答えた。併せて「こっちの方が合ってる」と言っていたと思う。
俺は「ああそうだね」とかなんとか同意したように記憶している。
チャットだったのでものすごく圧縮された言葉で会話をしていたし、正確に言葉の意味を聞いたわけではないが、相手が言いたいことは完全に理解できていた。

このあたり執拗なぐらい詳しく書くが、当事すでに「燃える」「熱い」という言葉は、現在と同じ使い方で用いられていた。つまり「対象と接するにあたって強い高揚感を持つこと」である。また「燃える」の字義から、炎をあげているイメージも強く併せ持った言葉であり、いわゆるヒートアップするというのとあわせて、どちらかといえば猛々しく勇壮な対象に対して使われることの多い言葉であった。
また、当事のコンピュータ通信では、いまと同様、似た形の文字で書いたり、誤変換や同音異字の語などをあえて利用したり、隠語を多用したりというコミュニケーションがすでに存在していた。
この「燃える」という意味合いの言葉を、ときメモの朝比奈さんに向けたのではないかと最初は考えたわけである。相手の返答は「意味合い的には同様だが、字面はより適切なものを用いている」という意味合いであると理解している。
つまり「燃える」という言葉の持つ、対象に対して感じられる強い高揚感を彼自身が感じていることは確かだが、字面から引きずられているイメージであるところの猛々しさや勇壮な雰囲気などには見合わず、「萌える」という字面の持つイメージの方が対象により見合っている、という意味である。
エッチなゲーム(すくなくとも当事はそう思っていた。現在の俺はときメモをプレイしたことがあるので必ずしもエッチなゲームでないことは理解しているが、ときメモの朝比奈さんに熱く語るほどのなにものかがあったかというと、その点については疑問だと思っている)のヒロインに対して抱く感情が、猛々しく勇壮なものであるより「萌える」という言葉が引きずっているイメージに近いことはよく理解できた。
(念のため書いておくが、萌えるという言葉はいまほど一般的な言葉でなかったため、本来の意味である「木の芽や草の芽が出る様子」という意味合いもそれほど広くは知られていなかった。俺は読書好きだったのでたまたま知っていたが、「ほうえる?どういう意味?」「“もえる”と読む。もともとは木や草の芽が出る様子という意味。辞書に乗ってるよ」なんているやり取りはけっこう一般的に行われていた記憶がある)

萌えるという言葉の発生に関しては他所で多く議論されている事だと思うし、俺自身は自分で言い出した言葉でも無いから、きっとそっちが正しいのだと思う。俺自身は、最初その言葉に接したとき(たぶん、世の中的にはかなり早い時期だったろうと思う。というか、最速に近かったんじゃないだろうか)、ようするにFEP(いまでいうIMEとのことだと思えばだいたい間違いない)の変換の手軽さが生み出した言い回しであると感じたのは良く憶えている。


さてその後、この言葉はかなり広く出回り、拡散し消費され定着してきたと思う。
いまやこの言葉にまつわるいろいろな事柄について、意味合いのレベルで議論される事は、少なくとも日本国内であればまず無いだろう。
だからこそ、俺も誤解を恐れずに思ったことを言えるというものである。


萌えるという言葉が、字面のイメージにかなり引きずられているのは言うまでも無いことだと思う。たぶん、萌えという言い回しを俺が聞く事になった少し前ぐらいからその文字は女児の名前に使われるようにもなり始め、また絵本や童話を扱う雑誌の題名(MOE 1992創刊)にもなっていた。
「萌え」という言葉の持つ日本語の原則的なイメージは、この二例あたりからも伺える事だと思うが、やはり基本的には可愛らしいものだ。絵画的なイメージであえて述べるならば、桜の花が咲く少し前ぐらいの時期、野原では菜の花が蕾をつけ、あちこちで小さな黄緑色の草の芽が生えてきて、木々にも花を咲かせるため力を蓄えている、とかそういう感じのものだ。
つまりは、文字のイメージに引きずられて「可愛らしいものに対して感じられる高揚感」というイメージを保ち続けてきた。
いまでもある程度は保っているだろう。

つまり要諦は何かというと、「萌える」という言葉や、そこから派生している「萌え」という言葉は、対象を形容する言葉でなく、対象に対して自分が持つ熱意についての言葉であるという事だ。
「かわいい」物に対して「萌える」ことは充分に可能だ。というか普通のことであるといって良い。しかしながら「かわいい」という言葉は萌えという言葉が拡散していた当時において、基本的に若年女子、それはつまり当時においてコンピュータでのコミュニケーションを熱心に行っていた人たちを強烈に疎外していた(代表的な疎外の例は「キモイ」という発言などによる)集団なわけだが、その若年女子が占有していた言葉である。つまり、発言者のセグメントの違いである事は間違いないが、オタク男性層が若年女子の身柄にあこがれて可愛いものを追求したというわけでなく、可愛いものはごく普通に受け入れていたにも拘らず、その言葉を発する事ができなかったと言う方が正しいと思う。可愛いという言葉で何かを語ることは、どちらかといえば自傷行為に近かったのである。
(簡便に片付けてしまったが「かわいい」という言葉それ自体は、それはそれで複雑な広がりを持つ言葉なので、別の話になると思う。だいたい、いわゆる「萌え」の対象が「かわいい」の対象をすべて扱うのかといえば、そんなことはないのだし)
「かわいい」と「萌え」は、同じ現象を対象とする場合があるが、距離としては遠い言葉であると思う。フェミニズム的な議論において、「かわいい」ものと「萌える」ものが取り扱うものが重なる場合があること、男性においてその対象を追求する場合の態度などに関して興味深い取り扱いができるかもしれないとは思うが、ここではそのことについては触れない。

さて、だいぶ長くなってしまった。
こう述べてきて、現在の「萌え」という言葉が表している意味について、ものすごく簡単に、別に日本人でなくとも判るであろうやり方で言い換えておきたいと思う。
要するに「フェティシズム」のことだ。
いくばくかの人がボンデージファッションに感じるそれであり、マルクスが表現するところの資本主義者が商品に対して感じるそれである。
ようするにいわく言い難い、理由を表現しにくい愛着のことだ。
これらのフェティシズムが、どちらかといえば一般的な概念を対象にしているのに対して、「萌え」として語られる場合には個別のものを対象であるところが違うだろう。(ときメモの朝比奈さんが物かといえば、それはそれで微妙なところだけど、それはまた別の話)

まぁ、俺は自分の言葉でないので、こんな感じでばっさり把握している。
拡散を経て、当初は異様に狭かった対象が、いまでは何でも良くなってると思う。「京急新1000系萌え! シーメンスコンバータたんのドレミファモータ萌え!」とか言っても100%意味は通じるわけだし。
そういう、特化したフェティシズムであると思い、いくらかは字面の持っているイメージをも引きずっていてその言葉を発する事によって対象を可愛らしいものにとして扱わせる側面をやや持つ、というぐらいに考えておけば「萌え」という概念を捉え間違える事はないんじゃないですかね。

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以下は余談。
例えば、アイドルマスターというゲームのこういう映像を見ても、おれは萌えるというよりただ可愛いと思う。
が、「萌える」人たちに圧倒的に受け入れられてしまっているせいで、こういうものから逆に若年女子が疎外されてしまっているような状況でもあったりする。
学齢前の女の子とか小学生ぐらいの女の子とかがこういうのを一番好きなんじゃないかと思うんだけど、ゲーム自体がそもそも彼女たちをプロデュースする大人の男性を操るゲームだったりするので、たぶんそういう子供たちが遊んでもあんまり面白くないんじゃないかと思う。
大きなお友達を相手にしたほうが儲かるのは判るんだけど、こういうのがそういう小さな女の子たちの手に届かないと思うと、なんかちょっと哀しいよなぁ。

こういう可愛いものが好きなのは外国の女性も同じようで、こういうことをしていたりもするみたい。
楽しそうでなによりだと思います。
「萌え」とかそういう言葉に引っかからず、こうやって楽しく受け入れられれば、それがなによりじゃないかな。

あ、いちおう書いておきますけど、俺はこのゲームで遊んだこと無いですよ。
xbox360持ってないです。

ちょっとしたこと

2008年05月16日 23時05分43秒 | Weblog
『ふたり道三』という小説を読んでます。
もちろん斉藤道三の話。まぁ、歴史物ですな。
呼んでいてヘェと思ったことがあるのでメモっときます。

お安い宿泊施設のことを「きちんやど」という風に読んだりしますね。
あれは室町末期ぐらいからある言葉だそうで、この時期の宿っていうのは、いわゆる旅籠のようにあたりまえに食事がついているようなものではなくて、旅人は自前の食料を持って歩いて、宿では炊事場を借りて自炊をするのだそうな。で、その炊事場を借りるのと、部屋を借りるのがセットになっていたと言うことです。
でまぁ、台所を貸してくれるからキッチン付きの宿ということで、昔のことだからちょっと訛ってキチン宿って呼ぶようになったんだって。

……
という与太を思いついたんだけどどうだろう?

#書いてあった説明では、宿で食事が出ないところまでは同じで、薪なんかを宿で買うことになっていたので、“木賃”(薪代ですな)宿だそうで。

今日見たもの

2008年05月12日 20時22分47秒 | Weblog
まぁその辺を歩いていたときのこと。

「地球温暖化予防のため開放厳禁」という張り紙のある扉がありました。
まぁ、ひどく間違った発言ってわけじゃないですけど、たぶん、もっと有効なやりようがあると思います。
冷房の利用を控えるとか。