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雨の記号(rain symbol)

ミッドナイトライン26Ⅸ(ヨナ姉ちゃんの帽子)その⑧

 
 歩道も何もないごたごたした通りだ。食堂やアパート、溶接の光が飛びかう町工場などが無秩序に並ぶ。バンやトラック、乗用車などが建屋内から顔を出したり、建物に張り付くようになったりして路上駐車している。かと思えば、シャッターや壁にアートな絵が描かれていたりして妙にシャイな点景もあった。
 朝の狭い通りを人が行き交い、車が走りだしていた。
 走る僕に後ろからやってきた車がクラクションを鳴らした。あわててリヤカーの横に逃げ込んだ。
「そうやってむやみに走るんじゃない。あぶないじゃないか」
 通り過ぎる時、車の運転手は叱り付けるような声を僕に投げてよこした。
 車をやりすごした後、僕は疲れて動けなくなった。後ろを見やるとついてくる者はいない。とりあえずほっとなる。
 僕には大人の心がある。だから、自分の置かれた状況くらいわかる。世界一の治安を誇る日本でも子供に対しては悪魔の爪を研ぐ者がいる。見知らぬ土地で小さな子供が道にはぐれている。善意の人たちが動き出す前に、邪な輩がちょっかいをかけてくる可能性はあった。
 僕は全速力で人垣から脱け出した。逃げた。しかし、子供の身体や心を持たされていても、年のせいか息があがるのが早いようだ。
 しかし、いくら自分の気持ちに従えといわれても、今みたいな衝動に頼っていてはそんなに成果があがるとも思えない。草原の小動物だって時に身体や首を伸ばしてあたりの様子をうかがう。いつだって冷静さは必要だ。
 ここは年の功でじっくり行動を起こそう、と僕は気持ちを落ち着かせて辺りをうかがった。
 しかし、路地裏を思わせるひなびたこの場所はいったい何だ。世界の華やかなステージで活躍する彼女に会える手順が思い浮かばない。
 あやうく女の子にされかかったヨナの帽子をしげしげと見ながら、ピコはどうしてこんな場所に自分をおろしたのだろう、と考えた。しかしすぐ、いかん、と思い直した。大人のおじちゃんでは考えてばかりで果たせる夢も逃がしてしまうでしょう、だから子供に戻したんです、ともピコは言っていたのだ。
 そこで、自分の思うまま感じるまま動こう、と気持ちをあらためてあたりをうかがったら、その視野のじつに狭いこと。背の小さい子供ってこんなにも狭くてうっとうしい世界におかれているのだったか。これじゃ地面を這い蹲るアリと同じだ。誰かにいつ踏み潰されても不思議ではない。僕は運よく大人になれただけかもしれなかった。あまりの死角の多さに車通りを夢中で走っていた自分の愚かさにつくづく思い至った。
 そうして、やってきた若い男女の後ろをついてそろそろ歩き出したら、彼らは僕に幸運をもたらすような会話を始めているではないか。
「すぐ先の永登浦店での昼食会にヨナは姿を見せるそうだ。ネットでガイドが出てた」
「うそ~っ! 私、それぜんぜん知らなかった」
「行ってみる?」
「私はいい。イベントに出る彼女より、試合してる彼女の方が好きだから」
 僕は走り出した。二人連れを追い抜いた。彼らをちょっと振り返り、片目をつぶった。
「僕は両方の彼女が好きです。耳寄りな情報ありがとう」
「何だか、ひねたガキだな」
 後方で彼らの笑い出す声が耳の奥で気持ちよかった。
「こらこら、そんなに急ぐとあぶないよ」
 との声も追いかけてきたが気にならなかった。
 
 
 街中の道路はどこも混んでいた。目抜き通りはとりわけひどかった。
 早めに運転手を待機させ、ホテルを出た金 姸兒(キム・ヨナ)の車も途中で大混雑に遭遇した。クラクションなどが鳴り渡り、車は遅々として進まなくなった。
「どうしたのかしら」
 ヨナは手にしたサングラスを横においた。運転手の脇から首をのばした。前方の様子をうかがうようにした。
「事故でもあったのかしら」
「さて、事故なのか何なのか・・・しかし、ソウルの街中でこんなことはしょっちゅうです。車同士でもめていることもあります。それを気にしてたら、この街は走れません。時間はたっぷりあるし、目的地もすぐそこです。特に焦ることもありません。流れにまかせましょう」
「文来洞(ムルレドン)ってどういう街なの?」
「ヨナさんはこの街、初めてでしたっけ?」
「そうじゃなくて」ヨナは笑った。「ロッテのデパートや新世界デパートは立ち寄ったりしたし、安養川(アニャンチョン)の川べりを仕事で歩いたりもしましたよ。この辺を知らないっていうんじゃなくて、どこの街にも取り残された場所ってあるでしょう? こういう表通りなんかじゃなくて・・・この間、この街で育ったっていう人とお話をしたんです。そしたら、この街の路地裏は今、芸術家やその卵たちが集まってきて賑やかなんですってね」
「鉄鋼景気が底をついた時代を経験した街だからね。この街は滅びと産みの苦しみを味わって時代の様変わりを経験し続けている街なんです」
 運転手は淡々と応じた。
「鉄鋼景気が冷えこんで仕事がなくなり、下請けの町工場が減り、ここからどんどん人が流れ出していった頃が滅びの苦しさだったね。町工場がつぶれると商店が立ち行かなくなる。商店が店をたたむと町はさびれる。人はいなくなる。三十年も前の話になるかなあ・・・しかし、15、6年前から街は復興に向けて動きだした。交通の便がよくなって新しいビジネスが立ち上がった。活気が生まれ、表通りはきれいなビルも並んでごらんの通りだ。だけど、裏通りに入れば今も当時の面影を残す場所はいくつもあるよ。何なら時間も少しあるし、その辺を走って見ますか」
 ヨナは携帯で時刻を確認した。
「そうね。社会勉強にもなるし、ちょっと走っていただこうかしら」
 ヨナはサングラスをして、腕を組んだ。車は予定のコースを変えて走り出した。
 信号が変わるのを見てウインカーを出し、まさに車が曲がろうとした時、ヨナは何かに打たれたような声を発した。運転者はブレーキを踏んだ。後ろの車がクラクションを鳴らした。車は右折せずに前方につっきり、車を停車させた。
「どうしたんです?」
「急で悪いんだけど、方向をあっちに切り替えてくださいな。今、見覚えのある子が私の帽子をかぶって交差点を渡っていったんです」
 運転手はヨナに促された方角を見やった。
「帽子を誰かに盗られたんですか?」
「盗られたというより・・・説明すると長くなるわ。後で話すから、車を反対方向に走らせて、その子の後を追ってくださいな」
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