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ほんのキビスガエシ

徒然なんなりと。

社会科学

2014-02-06 22:17:53 | 日記
「ハガキそのものをいくら顕微鏡でみても、ハガキのハガキたるゆえんは解りませんね。」
(内田義彦『社会認識の歩み』)

社会科学とは何か、を最も端的に示した一文が引用した文章だと思う。

ハガキを顕微鏡で見たり、細かく砕いて遠心分離機にかけてみたり、液体に溶かしてみたりといったアプローチでは、ハガキの素材は特定できるかもしれない。
このアプローチは自然科学と呼ばれるものだ。
ただ、自然科学でのアプローチでは、長方形の紙きれが「ハガキ」として扱われていることのゆえんはわからない。

それに対して、社会科学とは、下記のようなアプローチである。
長方形の紙をハガキたるものとしているのは、郵便制度があり、それを支えているのは、ミクロでは「郵便を配達する人だとか、仕分けする人とか」であり、マクロ的には、郵便制度を支える物流システムが機能しているからであり、その物流システムは人類史の歴史を通した生産物(車しかり、道路しかり)によって支えられている。
そういう社会連関の中でハガキを捉えるからこそ、「ハガキのハガキたるゆえん」が理解できる。

だから、「社会科学」というと大げさだけど、みんなやっている認識のひとつだ。

ちなみに引用した本では、内田氏はこう語る。
「『社会科学』がなぜわれわれに縁遠いものになっているのか、どうすれば社会科学的認識がわれわれ一人一人のなかで育ってゆくか、その方法を考えたいというのが私の話の趣旨であります。」


さてさて、内田義彦の著書に出会って10年くらいたったかな。たまに読んでは本棚に戻し、また読み返しては戻しをちょっとずつ続け、少しは本が自分のものになってきたかな、という印象。

不完全なブログ(佐村河内守。誰?)

2014-02-05 21:52:03 | 日記
佐村河内守という作曲家(肩書はこれでいいのかな?)が別人に曲をつくらせていた、
とニュースになっている。

なんと、素朴か。。

ゴーストライターなんて昔からあらゆるところで活躍しているのに、
(米国の大統領のスピーチ原稿を書くことに正当性が与えられており、
作曲家の作品を別の人間が書くことに正当性を与えないのはなぜ?)
なぜこんなことがニュースになるのか?

答えのひとつは、すでに述べたように、正当性を与えられていないからだ。
社会(統制)にとってのNG行動だからだ。


この議題をもっと深く掘り下げるための切り口は色々あるが、
ここでは問題を一つに絞り、大胆に未来予測をしてみよう。
50年後の未来では、「50年前の人間はこんなことを問題にしていたそうだ」と面白がられるだろう。
(私が死んでもこのブログの文章は50年後も検索可能だろう。結果を笑えよ)

メディアの目覚ましい発達もあて、驚くほどソフト(無形のサービス)のやり取りに融通のきく世の中だ。
別に「誰が」作ったかなんて、サービスを享受する側の人間から言わせればどうでもいい。
もちろん、著作権を代表とする法的正当性による「利権」を握っている人間には大きな問題だ。
(だから、著作権の侵害をやたらめったら悪者にする広告をつくる)

そこで、“自由な市場”を謳い文句にする(純粋な)資本主義に葛藤が生じる。
「市場」とは法律と権力(ここで「法律」と「権力」を同列に並べるのは本当はだめだ。同列ではない。けどここではおいておく)
によって創られた空想上の産物だと皆が悟る。

著作権という資本主義体制にとって欠かせない要素のひとつを擁護するのか、サービス精神を擁護するのか選択に迫られる。
これは資本主義にとっては危うい。
何しろ、民衆が「『所有』とはそもそも何か?」と考えだすためのヒントを与える。
所有。所有・・・私的所有?
私的所有とはなんぞや?



・・・・・・閃きからタイプし始めたけど、問題が逸れて問題意識が多大きくなったので、一旦筆をおこう。整理して後日アップしよう。
(当ブログのルール‐書き改める際には、書き改める履歴を残す。データを消去しない。
学術肌の人間には“消したい過去の文章”がつきものだ。だけど、それを更新する際には、必ずマークを残す。)


未来予測としては、とりあえず、
「著作権」なるものはその存在意義を厳しく問われ直すだろう。
(では、著作権なしで文化は発達するか?)

筆者の意見。
著作権を大事にする様子を未来の人が現代を見るときに感じるのは、現代日本が北朝鮮を見る目と同じだ。
中にいる人間にはさも大事なように映る。「自由」を社会的正当性によって守る正義かのように映る。
でも、それを払い去ってしまえば、鳥籠に入れられていたことを悟る。

映画「ジャッジ!」

2014-02-03 00:33:11 | 日記
「逆風は、振り返れば追い風になる」
(映画「ジャッジ!」より)

よくまとまった映画でした。
伏線も活きていて、非常に楽しめた。
(以下ネタバレ注意)

その中で最も心に残った名言。
逆風は立つ角度を変えれば追い風になる。

もちろん、苦しい状況にあるのだから、それをプラスの精神状態に持っていく心の持ちようは難しい。
「『無茶』と書いて「チャンス」を読め」(映画中のセリフ)同様、難しい。
でも、私の中では、前向きな言葉としてひっかかった。教訓として活かしていきたい。


また、審査会の政治的やりとりの描写は、オリンピック誘致等様々な局面でおそらく実際に行われているであろう政治的かけひきを描いていて興味深かった。
(トヨタのCMが外されたやり取りなどは、“政治活動の外側にあるルールを決めるのは誰か”という重要なテーマと結びついており興味深い。ルール内での政治と、ルールを策定する権限をめぐる政治。この区分けは政治過程を分析する上で重要だ。)

ああ、ごちゃごちゃ書きましたが、結論的に気楽に楽しめる映画。
映画観ながら何度も声に出して笑ってしまいました。

ハッピーエンド?『容疑者Xの献身』

2013-10-14 21:35:04 | 日記
『容疑者Xの献身』東野圭吾

2005年から2006年にかけて文学界を席巻。
134回直木賞受賞作品。

私は原作は読んでません。映画を観てから原作を読む気になれなくて。

それを前提として、映画において、この作品の完成度は素晴らしい。
まず、殺害者が悪人でない設定の巧みさ。この初期設定をするかしないかが決定的に重要。殺害者を民衆が同情しなければならない。
そして、あっとおどろく計算通りのアリバイ工作。視聴者も舌を巻く。
さらに、容疑者Xの引き際。容疑者Xがまさにあっぱれな(まあ、殺人を犯しているのだけど)献身ぶりが最後にわかる物語。

だけど、容疑者Xの唯一の計算間違い。人間の心を読みそこなった。
自分が守ったつもりの人の心理を読み切れていなかった。
完全な計画の唯一の穴。それが致命傷になり、容疑者Xのアリバイ工作は全て瓦解する。
「なんで!?」と問いかけ、なし崩れる容疑者Xの狼狽ぶりからもわかる。
彼の完全計画の穴は、実は、自分が守ろうとしていた人の心理を彼がわからなかったことにある。皮肉なことに。


さて、この物語、ハッピーエンドかバッドエンドか?

私はハッピーエンドとみる。
容疑者Xの計画は崩れ、彼が守ろうとしてきた人も罪に問われ、彼の献身ぶりは無に帰す・・・かのように、一見見える。

だけど、容疑者Xが、彼が守ろうとした女性と結ばれる唯一の結末は、
彼の計画が破たんし、2人で刑期を終えることでしか訪れない。

不幸な中で、唯一救いのある結末はこうなるべき以外になかったのではなかろうか、と私は個人的に考える。


私の見解はさておき、近年まれにみる秀逸作。

文学、アート、芸術、文化への評価

2013-10-11 23:02:14 | 日記
村上春樹が今年こそノーベル文学賞を受賞するかと騒がれた。
近年のお決まりのような騒ぎだ。

私は村上春樹の作品を古くから好きだし、今でも彼の作品は愛読書としている。

しかしながら、彼が世界史に大きな名を残すほどのの文学者なのか?
と問われると、そうでもない気がする。


そもそも文学の世界にノーベル賞があるっていうのは違和感がある。
科学の発展に貢献した、というのとは違い、文学はどこまでいっても“趣味”の世界だ。
芸術やアートも同様、娯楽(よく言えば文化)の世界だ。

文学は進歩するか?
ある意味では進歩もする。
それは芸術の世界が、印象派から点描画へと発展していったことと似ている。
でも、それはその世界の人々の中だけのこと。

先鋭的な芸術を見せられても、一般の人はよくわからない。
ピカソの絵は絵画の歴史的経緯を知って、初めてその価値がわかる。(というのが持論です)

IPS細胞技術の貢献によって医学に進歩を与えるというのとは次元が決定的に違う。

そもそも文学を含めアートや芸術への評価というのは主観に左右される。
(主観に左右されるからこそ、アートなのだ)


ジェフリー・アーチャー(知らない方は是非一読を!)のスリルある描写と、東野圭吾の科学的な側面を持った好奇心と、カフカの奇人さと、トルストイの哲学性の高さと、シドニー・シェルダンのストーリーテラーぶりと村上春樹の薄暗闇感を、一元的にどのように評価するのか?



結論。
第一に、文学の評価を公的にすべきでない。
第二に、文学の評価はしょせん趣味である。

仮に受賞があっても、それは偶然の産物か、文学ではなく政治の世界のかけひきの話である。