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ほんのキビスガエシ

徒然なんなりと。

東野圭吾『マスカレード・イブ』

2014-08-30 22:40:03 | 日記
ホテルという舞台。
様々な人間が行き交い、様々なドラマが生まれ、かつ、それ自体がある意味閉じられた密室空間であるということ。
推理小説の舞台としてホテルは非常に相性が良い。

本作は、前作『マスカレード・ホテル』の前史を綴ったもの。
シリーズものとしては、今後の作品展開をどううするのか難しいと思う(過去ではなく、今後は未来を扱う?主役の刑事と「ホテルマン」(女性)の今後の接点を描いていくのは困難ではないか?)のだが、テレビ化や映画化はしやすい。
つまり、前作『マスカレード・ホテル』を出版し、即座にその前史である本作『マスカレード・イヴ』を出すのは、興業的な戦略が先行している、ということだろうと感じた。
(ドラマ化するなら、本作『マスカレード・イブ』の収録作品をそれぞれ2回にわたり放映し、最後に3回分程度を使って『マスカレード・ホテル』をすれば大体放送回数的にはぴったりではないかな?)

本作『マスカレード・イヴ』収録作品で個人的に一番好きな作品は「ルーキー登場」という作品。
まだ発刊して間もないのでネタバレするようなことは書きません。


※吐き気注意※「父も、母も、解剖した」

2014-08-24 19:09:53 | 日記
「父も、母も、解剖した」
斎藤茂太『いい言葉は、いい人生をつくる』

本書は医師であり、啓発本等の書物も多く書き記している斎藤茂太氏が、
自分がポジティブな姿勢で人生に臨めたのは「いい言葉」に沢山出会え、それをストックしてきたからだ、
として、「いい言葉」を自己エピソードとともに紹介する著書である。

引用文は本書の「いい言葉」とはあまり関係がないが、なかなか衝撃的な文章なので引用。
自分の肉親を解剖する気分というのはどういうものなのだろうか?
ちょっと想像しづらいが、この文章を読んで思い出したことがある。

マーヴィン・ハリス『ヒトはなぜヒトを食べたか』という本を、(もう15年くらい前かな?)読んだ時に考えたことを思い出した。
(今、その本が手元にないので、多少内容に語弊や誤りがあるかもしれない)
考えたのはこうである。
「カニバリズム(人食主義)は特殊か?人が人の肉を食らうのは気持ち悪いことか?悪か?変なことか?」。

現代の人食主義者の供述で共通しているのは“女性の大腿部あたりが特においしいらしい”、とかそんなことも書かれていたと思うのだけど、
ここではそういうことは別にどうでもよくて、、、

たとえば、
おじいちゃんが死にました、なので、明日はその肉片を血縁関係ある親族皆で食します、というのは、ある種とても“自然”のような気がする。
(実際にやれと言われると吐き気を催すのだが。。。)

先祖の精子・卵子から形成されてきた自己の体内に、その先祖の肉片(DNA)を取り込み、自分の血肉と化す。
人間の最期に関わる宗教的な儀式としては、埋葬や火葬よりも“自然”な気がしたものである。
死ぬ側としても、「ああ、私が死んだら子や孫の一部となるのだな」と考えた方が死への恐怖は緩和するのではないか、と想像する。
「ヒトはなぜヒトを食べたか」というより、「ヒトはなぜヒトを食べないのか」と考えたことを覚えている。


引用書物のいわんとすることからは大きく本筋を外れてしまった。
良い本なんだけどね。
斎藤茂太氏の著書は、ポジティブな気持ちを喚起するために私が一冊は手元に置いておきたいと考えている書のひとつだが、この文章は別に広告媒体でないのでそこは許して頂きたい。
あと、「今夜焼肉の予定だったけど、、、」という方にも謝罪したい。
(人肉と牛肉・豚肉等の間にどれほどの差があるかはしらないが、おおいに食してほしい。
人肉は現代日本では問題あると思うが鯨肉やイルカの肉、もしくは犬猫の肉も食すればよいと思う。)


最後に、私が“自然”という言葉にクォテーションを付けている点に留意されたい。
「こう考えた方が自然でしょう?」などという言説に騙されないでほしい、という意味を込めている。
何が“自然”なのか??
「あたりまえ」に“自然”な節理などない。現に私は人肉を食べられないだろうから。“自然”ではないのだ。

主張・立場1.人食主義の何がいけない?(現代日本では“やってはいけない行為”です)
主張・立場2.私は人肉は食べられない(だろう)。
主張・立場3.もちろん、鯨肉を食べることに反対はしない。捕鯨禁止云々については理論的根拠が乏しすぎる、と考えている。
(ちなみに、鯨の睾丸を食べたことがあるけど、私が食したものの中で一番不味かった。。また、愛犬家ではあるが、犬を食うことに反対もしない)

ただ、政治のレベルでいえば、理論的根拠と政治的な駆け引きには乖離があることは押さえておきたい。
たとえ理論的根拠に乏しくても押し切れるのがPOWER(権力)格差である。
POWERに押し切られれば従う他はない。


あっちいきこっちいき、書き散らかしだな。

アニメという表現形式の優れた点について

2014-08-17 21:15:58 | 日記
ブログという形式で綴る文章は、未来予測に向いていると思う。
以前も少し触れたが、私が死んでもこの文章は生き続ける。

未来の民よ、評価せよ。
以前は著作権というものが排除されるだろうと書いたことがある。

次はもっと身近な未来予測。
「アニオタ」という言葉は消滅するだろう。
これは、大衆へのアニメの膾炙度合いが上がることを指す。

「オタク」の枠だけにとどまらない勢いで人口膾炙する。
それでも“こだわり”を持つ人は出てくるだろうが、それは他の表現形態でも同じこと。


絵画、小説、演劇、映画、ドラマ、漫画、音楽、ダンス、その他表現一般の数々。
その中で今後の発展という点においてアニメの可能性というのはずば抜けて高い。
文化庁が云々と推進しているから日本の「文化」(?)として広まっているのではない。その表現形式自体が優れているからだ。
(「文化」というよりは「表現形式」と位置づけるべきだと思う。そして日本の専売特許でもない。
ディズニーアニメは少なくとも私の知るかぎりの昔から高いクオリティを持っていた、と思う。)

アニメの優れた点。
まず、人間の物理的形態を超越する。人体で表現できないことが表現できる。
小説よりも食いつきやすい。言語の縛りもない。
他の表現形態とも結びつきやすい。音楽はいうことなかれ、漫画のアニメ化は今に始まることではない。
アニメの中で字幕が大きな役割を果たすような見せ方も存在する。小説とアニメの間をとったような形態だ。

未来予想、というより現状把握といった方がよいかもしれない。

最後に、アニメの中の人物を好きになる、ファンになる、という行為は「キモい」か?
「アイドルだってうんこする」という言葉があるように、テレビの中のアイドルなり芸能人への評価は
結局幻想にすぎない。そんなことは昔から同じだ。
2次元?そんなのも昔から2次元だろうよ(笑)3D映画・テレビは最近の出来事。それまでずっと2次元だったろう。
(「2次元」ってのはそういうことじゃないって?ではどういうことだろう?いずれにせよ「幻想」「イメージ」の産物。)

勝手にキモ悪がっててもよいが、良作なアニメは多い。

では、声優は必要か??
初音ミクの登場でほとんど答えは出ているように思うのだが。

アウラ(オーラ)はすべからず消滅していく?

以上、観劇好きの未来予想。
(演劇のあの空気ってなんであんなにいいのかなぁ)



「戦争を廃止するのは望ましくない、平和は危険である」

2014-08-17 00:41:12 | 日記
「戦争を廃止するのは望ましくない、平和は危険である」
山形浩生「平和の危険性と戦争の効用」『新教養主義宣言』収録

山形浩生。頭はいいのは認めるがいつも上から目線でものいう人だ(笑)
天才のぼくが庶民の君たちに世界の成り立ちを考えるきっかけを与えてあげているのだ、そういうスタンス。
・・・主張についてはけっこう共感できるからか、別に不快感はないんだよね、個人的には。

本書は執筆されてからずいぶん時が経っているが、
本人が強気に、10年や20年くらいの時の経過ではこの本の価値は低下しない、とのべている通り、主張の骨子は古びていない。

中学生・高校生ぐらいの時にこういう本を読んでおくとよいのではないかと思う。
既存の常識を疑う姿勢ぐらいは身に付く。

本書は非常に知的好奇心を刺激する。
とりわけ、「平和」(戦争のない状態)ということが社会システムとしてあるべき社会のスタンスなのか?
という挑戦的なテーマを扱った論考は面白い。

それぐらいラディカルなことを考えることは若い人間には許されるからだ。

ただし、戦争が起こるのは必要性からではない。
結果として必要だという見解が想定出来うるとしても、「よし、社会の統合のために必要なシステムだからやろう」
という類のものではない。

そのあたり、山形氏は、社会というものが十全な管理がされているものだと考えている節があるように感じる。


ここでは、さしあたり、“なぜ皆さん平和は尊いと盲目的にお考えになられているのですか?”
ぐらいにとどめておきたい。
(無論、私は戦争は嫌だし、平和主義者だ。ここでは、常識の壁を突き破るラディカルな思考をしているかどうか、だけを問題にしている。その一例として平和は尊いですか?戦争は悪ですか?を一つの例としている。)

山形氏の書籍は一読の価値があると思う。




七月隆文『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』

2014-08-16 23:33:49 | 日記
「その箱、次に会ったとき一緒に開けよう」
七月隆文『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』


タイムマシンものではないが、時間の経過を“しかけ”として扱った小説。
“しかけ”はともかく恋愛描写が甘酸っぱすぎて若干恥ずかしくなる。

以下ネタバレ注意。











①熱烈な恋愛ぶりだけど、実質的に彼らが恋人として接する期間は
「40日間」(その段取りとか後始末を考慮するともっと短い)。
そこまで“運命的な2人”として取り扱うのは少々設定に無理がないかなぁ、と思う。

②愛美のの段取りとして、「おばさん」になってから「箱」を渡すというのは、設定として違和感を覚える。
愛美にとっては、2人が恋人として過ごした後の出来事だ。
20歳の時点での出会いでこれほど段取りよくしているのなら、もっと別の方法をとるのではないかな?
40日間という貴重な時間だし、時間が逆流している世界から来たことの証明として、
このような証明が必要なのかな?と感じる。
日記と髪の毛だけで十分では?

③高寿の一目惚れはともかく、愛美が5歳の時に30歳の男性に運命を感じるというのは、
無理がないかな?

④2人に子どもができていた、という設定の余地を残しておいて、
続編を書いても面白いかもしれない。



ライトな文体・内容で“しかけ”のある小説。