よく、「生前この芸術家は評価されなくて貧乏し、死んでから人気が出て・・・」なんて話を聞く。
まっとうだと思う。
私が学術研究の道を歩もうとした際、師は言った。
「学問で食っていこうなんて意気込みで学問をやってはいけない」。
師の言葉を理解せぬまま私は学問を投げた。
で、最近(7~8年ぐらい経過)になってようやく意味がわかり出した。
職人として、人生を賭するほどの業として、
なんのために学問をするのか。
なんのために絵画を描くのか。
なんのために音楽を作曲するのか。
なんのために・・・その他諸々。
大衆が安易に受け入れてしまうような問題意識や創造力ではダメなのだ。
(もちろん、上記述べたような、非常にストイックな観点からして、“ダメ”なのである。儲けるために書く、作曲する、という行為もある)
売れてしまうような作品は、身を立てるための手段でしかない。そんなものをこしらえているようじゃ、肩書として“なんらかの作家”であるだけだ。誰も切り開いたことのない感覚・思考の地平へ足を踏み入れることは、世間から、ひんしゅくこそ買い、受け入れられるものではない。
私の問題意識は、美的感覚は(…その他諸々は)、現代の一般ピーポー(people)などに理解できるものではないのだ!と。それぐらいの覚悟を持って業の挑んでほしい!
という師のこだわりだったのだと思う。
師はそれを地で貫いてた(いる)人物で大変頭がさがる。
追記。
どうでもよいが“こだわり”とか“てきとう”はひらがなと漢字では語感が全然違うよね。
「拘り」は、いかにも頑なさがアダになっているイメージを受けるし、
「適当」は、なせる限りの最適な対応をするという、とても難しくて軽々しく使っちゃいけない感じがする。