23日に召集された通常国会冒頭でアベなんちゃらが行った施政方針演説の一番最後に、申し訳程度に憲法改正に関する文言が入っている。
国会が開かれる直前の自民党両院議員総会で「わが党は結党以来、憲法改正を党是として掲げ、議論を重ねてきた。私たちは政治家であり、それを実現していく大きな責任がある。いよいよ実現する時を迎えている。責任を果たしていこう」と目を血走らせて檄を飛ばしたアベなんちゃらにしてこの程度の中身しかないんである。
しかし重要なことは、演説の中で憲法改正について割いた分量でもなければ掛けた時間の長短でもない。
句読点を含めた、たったの18文字の中身が問題なのである。
「国の形、理想の姿を語るのは憲法です。」
アベなんちゃらの憲法観がここに集約されているのだ。
はっきり言って時代錯誤の憲法観と言わざるを得ない。
わが宰相の憲法に関する認識というものは、こんな程度のものだったのかと正直言って暗澹とする思いである。そういう人が血相を変えて改憲を叫んでいるのだ。
現在の日本国憲法を見ればわかることだが、少なくとも第三章の「国民の権利及び義務」に掲げられた31の条文のいずれもが、我々国民が等しく享受できる権利として明文化され、保証されているのだ。
例えば「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在および将来の国民に与えられる」と書かれた第11条のごとくにである。
誰から保証されているかと言えば、これは国家権力からであり、分かりやすく言えば政府から約束されているのである。
政府は憲法に書かれたとおり、我々国民に約束した事柄の実現に最大限の努力を払う義務があるのだ。
政府がわれわれ国民に約束した事柄を明文化したものが憲法であって、国の形や理想の姿を語るのは憲法とは呼ばない。
そういうものを作って眺めていたいのなら、党是に書き連ねて額に入れてソーサイ室の壁にでも飾っておけばいいのだ。
そもそも国の形や理想の姿なんてものは人それぞれ異なるはずである。それを一つの枠に押し込めようと言うこと自体が乱暴ではないか。
来し方を振り返ると、敗戦まで使われてきた明治憲法というのがアベなんちゃらが言うところに近い形の憲法だったのではあるまいか。
その大日本帝国憲法は様々な国民の権利を制限したものだったし、結果として国民を滅亡の淵にまで追いやったのである。第一、主権者は天皇であって、国民に主権はなかったのである。
その大いなる反省の上に立って制定されたのが現行の憲法なのだ。
この現代憲法の源流と言うのは「マグナ・カルタ」に遡ることが出来、絶対的だった王権の暴走を防ぎ、国民の権利を認めさせた初めての約束事として明文化されたものがマグナ・カルタなのである。
近代憲法を指して「権力を縛るもの」と表現されるのは、王様=権力の勝手な暴走を許さす、何よりも国民の権利を保障させる、という意味合いが込められているのだ。
繰り返すけれども、ボクが言いたいのは国民の側に立って、国民の権利を保障したものが憲法なのであって、国の形や国の理想の姿を描いたものを憲法とは呼ばないと言うことである。
施政方針演説で触れた憲法観は完全な間違いである。
アベなんちゃらは全く理解できていないようだ。そういう人物に憲法を語る資格は、そもそもないのだ。
江の島に渡る弁天橋から見た富士山。昨日は晴れていたけれど空気は冷え切っていて寒かった
山腹に降った雪の量が多かったのだろう、くすんで見えていた富士山だがこの朝は白く輝いて見えた=片瀬西浜
砂山に雪をかぶせればそれなりなんだろうが、素顔だと何とも… =片瀬西浜
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