今日は早朝から小雨となつている。
台風2号が本州に接近し、梅雨前線の活動が活発になつているからである。
久し振りの雨で恵みの雨となつている。
そんな事で久し振りに「晴耕雨読」となつた。
地区の田植は特殊の1人を除いて既に終了し、補植や初期除草剤の撒布も終了り、2回目の畦畔の草刈が始まった。
これからは草との戦いが又始る 。
佐渡の「車田植」(国指定重要無形民俗文化財「めぐり植え」・指定昭和54年2月3日)は27日、天皇陛下のお田植も終わり(24日)、山も里も緑色一色に染まっている。
当大和川の通称「開田」は丘陵地の里山を明治の初期に開墾し、30町歩の水田とした所である。
丘陵地であり水源はなく、隣村の旧西海村の海川の上流「魚止まり」と、支流の「不動川」から取水しているが、この計画は元禄の時代から村の岩﨑肝煎や他村の伊藤肝煎から計画がなされ、幾多の経過の中で実現した山腹用水である。
しかもこの水路と水源は旧西海村の粟倉や釜沢(集落)の土地を通るため、その水田にも共用され、「下流に流す」、更に旧西海村真光寺(集落)に40%を供給する協定が開発当時(明治42・1909年)からなされている。
こんな事で戦前は数年毎に旱魃が発生し、戦後の農業共済制度(農業災害補償法制定・昭和22年1947)が出来たが、水稲の掛金率がこの地域では一番高かつたり、用水費も又高い。
こうした旱魃対策としての溜池は明治時代に築造した「番坂の溜池」(5万分の1の地図では「タンゴの池」となつている)、昭和9年に完工した「水頭の溜池」、そして昭和19年春に完工した「小畑の溜池」と3ケ所をもうけ、「開田用水組合」を組織し運用し今に至っている。 個人の農家もこの丘陵地を開墾し天水田として耕作するも充分な水もなく多くの溜池を作っていた。
しかしながら長い歴史の中でそれらの溜池も老朽化し、漏水が始り管理に苦労しているものもある。
こうした溜池の築造の技術は当地区にはなく、旧磯部村籐崎の人や、山腹用水は越中・朝日村方面の人から指導を仰いだと聞いている。
「水頭」も「小畑」の溜池も築造には祖父が大きく係り、当大和川農業の100年の基盤を作ったものである。
写真の説明
1枚目は 「小畑の溜池」の桜
2枚目は 「小畑の溜池」に咲くアヤメ ・27日の撮影
3枚目は 黒姫山の雪形・24日の撮影