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歳時記「大和川の里」

その日の日記

NO,22   溜 池

2011-05-29 11:13:38 | 日記・エッセイ・コラム

Photo今日は早朝から小雨となつている。
台風2号が本州に接近し、梅雨前線の活動が活発になつているからである。
久し振りの雨で恵みの雨となつている。
そんな事で久し振りに「晴耕雨読」となつた。

地区の田植は特殊の1人を除いて既に終了し、補植や初期除草剤の撒布も終了り、2回目の畦畔の草刈が始まった。
これからは草との戦いが又始る

佐渡の「車田植」(国指定重要無形民俗文化財「めぐり植え」・指定昭和54年2月3日)は27日、天皇陛下のお田植も終わり(24日)、山も里も緑色一色に染まっている。

Photo_2 当大和川の通称「開田」は丘陵地の里山を明治の初期に開墾し、30町歩の水田とした所である。
丘陵地であり水源はなく、隣村の旧西海村の海川の上流「魚止まり」と、支流の「不動川」から取水しているが、この計画は元禄の時代から村の岩﨑肝煎や他村の伊藤肝煎から計画がなされ、幾多の経過の中で実現した山腹用水である。
しかもこの水路と水源は旧西海村の粟倉や釜沢(集落)の土地を通るため、その水田にも共用され、「下流に流す」、更に旧西海村真光寺(集落)に40%を供給する協定が開発当時(明治42・1909年)からなされている。

こんな事で戦前は数年毎に旱魃が発生し、戦後の農業共済制度(農業災害補償法制定・昭和22年1947)が出来たが、水稲の掛金率がこの地域では一番高かつたり、用水費も又高い。
こうした旱魃対策としての溜池は明治時代に築造した「番坂の溜池」(5万分の1の地図では「タンゴの池」となつている)、昭和9年に完工した「水頭の溜池」、そして昭和19年春に完工した「小畑の溜池」と3ケ所をもうけ、「開田用水組合」を組織し運用し今に至っている。
524 個人の農家もこの丘陵地を開墾し天水田として耕作するも充分な水もなく多くの溜池を作っていた。
しかしながら長い歴史の中でそれらの溜池も老朽化し、漏水が始り管理に苦労しているものもある。
こうした溜池の築造の技術は当地区にはなく、旧磯部村籐崎の人や、山腹用水は越中・朝日村方面の人から指導を仰いだと聞いている。
「水頭」も「小畑」の溜池も築造には祖父が大きく係り、当大和川農業の100年の基盤を作ったものである。

写真の説明
1枚目は 「小畑の溜池」の桜
2枚目は 「小畑の溜池」に咲くアヤメ ・27日の撮影
3枚目は 黒姫山の雪形・24日の撮影


NO,21  新 緑

2011-05-16 16:05:20 | 日記・エッセイ・コラム

516 今日は5月16日(月)、晴天となり、2~3日続いた寒い西風は止み、暖かな日となつた。
田植もようやく終わり、初期除草剤も撒布し、一服している。

今日は「旅の日」だそうだ。
松尾芭蕉が元禄2(1689)年3月27日、陽暦の今日に東北地方の旅に出た日である。
寒くもなく暑くもなく真に旅に出かける格好の時期である。
野山は日一日毎に緑が増し、雨上がりには目に眩しささえ覚える。

この時期、里山には白色のアンニンゴ(ウワミズザクラ・バラ科)や紫色の藤(フジ属マメ科)が立ち木に絡みあつて方々に見かけられる。
この地方では下早川の「月不見の池」は「藤の名所」として戦前戦後の頃には富山方面からも観光客が団体で来て大変賑わつた事もあつた。
狭い池に数棟の宴会場が出来て、「新町の芸妓」をはべらして賑やかであつた。
Photo ボートも数はい浮かべ、酔つた客がボートから落ちるなどそうした兵共の夢の跡となつている。
池の周辺の山林と共に藤が多く自生し、その藤により月が見られない事から「月不見の池」となつたのである。
もう30年も40年も前から池には水が溜まらず、又藤も以前のように自生せず、すつかり静まりかえつている。

そんな事から数年前から、この「藤」を「街おこし」としてこの時期に新町の各家庭は1鉢を家の前に飾つてその出来栄えを競いあう「藤まつり」が始まった。
今年は寒かったのでまだ満開とはなつておらず審査が行われていないようだ。

516_2 黒姫山の雪形は、「帆かけ船」と「鳩」がはっきりと現れ出した。

写真の説明
1枚目 出品されている「藤」の鉢
2枚目 「月不見の池」
3枚目 今朝の黒姫山・中央に「帆かけ船」、左下に「鳩」の雪形がはっきりと見えるようになつた。


NO,20 田植盛り

2011-05-08 18:33:44 | 日記・エッセイ・コラム

56 今日は5月8日(日)、田植の最盛期であるが朝日のテッカリで早朝は快晴であつたが、7時半頃からにわかに雷鳴と共に雹が降り2時間程降雨となつた。

このように田植の最盛期で、代掻き作業の者、雨上がりに田植をする者も見えたが、今日は集落の事業である「森林公園高ノ峰プラトー」の「森林公園祭」であり、「森林公園を楽しむ」、「森林公園を食べる」と銘打つて行う計画となつていた。
この悪天候で急遽中止となつた。
55 田植の最盛期に何故行うのか、地域の施設であれば皆が参加出来る時期に出来ないのかと声を大にして叫んでいた。

田を耕作する農家は年毎にめっきり少数派となり、こうした農家の声も届かなくなつている。
かつての食糧増産の頃の国民学校時代や終戦後は「田植休み」とか「農繁期休み」があつたが、そんな時代も遠くなり、懐かしい思いがする。

「荒くれ」、「代掻き」、「田植」の作業を通じ、若い時代は勤めをしており、家業の農業を父や母の親のしていた作業の基本を習つていないから、定年退職後の稲作作業も、トラクターや田植機を購入しても、基本となる「草刈」の仕方や、水路の「江さらげ」もしないで通水となるので、土水路は浅くなつたり、狭くなつたりして直ぐにゴミが度々つまつている。

Photo 昨日は歩行型の4条田植機でコシヒカリを35a植えたが、今日は両肩が痛くなつている。
明日は4条の乗用田植機の試乗をし50a程出来ないかと思っている。
圃場にはツバメが飛び交うようになり、田植の最盛期であり、今年の五穀豊穣を念じながら勤める。
天皇陛下のお田植ももう直ぐだろう。

写真の説明
1枚目は 黒姫山の雪形、5月6日
2枚目は 我が田の代掻き 5月5日
3枚目は 広島・壬生の花田植の早乙女、もうこんな衣装の田植は見られない。



NO,19  荒くれ

2011-05-01 11:08:12 | 日記・エッセイ・コラム

51 今日から皐月5月、「目に青葉、山ホトトギス、初カツオ」は江戸時代の俳人山口素堂(享保年間1716年没)の句であり余りにも有名である。
昨日の午前10時頃から降り出した小雨は今日も時々降って来ている。
南風も育苗ハウスで育苗中は必ず数回吹きまくりハウスが持つて行かれるような状態になるが、この強風は今年は少ないと思つていたが、この風が昨日と早朝も時々吹いている。

昨日の夕方に今年初めて里山の入口の山崎地区でツバメが2羽低空で飛びかつていたが昨年よりもそうとう遅く見掛けた。
庭のボタンの開花も昨年よりも数日遅れ咲き出したり、梨の花やサクランボの花が咲いてようやく春本番が来た。
Photo 水田の水あわせの作業の「荒くれ」の最盛期で耕すと土から「ケラ」が出るのでカラスがこれを求めて数十羽も群がってどこからか飛来する。
数年前まではムク鳥であつたが今は一羽も田にはやつて来ていない。
そしてツバメの水面を飛びかう光景も今は見られない。

馬耕や馬による「荒くれ」や「代掻き」も耕運機を径てトラクターに変つてもう50年に近くなる。
S305 当時は当集落には10戸位の農家で10頭の馬がいて、1町歩(1ha)から多くて2町歩の水田を耕作していた。
私の家は1町2反5畝歩の自作農でその内山田と言う天水田は4反歩であつた。
農業高校在学中に馬耕も教えてもらい一人で作業が出来るようになり、麦田の刈取り後の馬耕も大変であつたが経験した。
「荒くれ」や「代掻き」は国民学校3年生であつたか4年生であったかに山田を祖父の手伝いで馬の「鼻取り」をした。
馬の首の下に長い竹を付けて馬の誘導をする仕事である。
水田を均平に代をかくので「天保銭のようにぐるぐると廻るように」と言われ、同じ所を廻らずに誘導するのが仕事であり、馬の方が長年やつているので私よりも知っていた。
同じ所を何回も廻るとよく叱られたものである。
こんな事から百姓の長男として百姓のイロハを教わるのである。

427 そんな事を思い出すと、今のトラクターの時代は小学生や中学生の時代からこの作業を体験させるような事は全くなくなつた。
定年退職後の新規就農でようやくその作業技術の修得である。
農協では今春から始めてトラクターと乗用田植機のリース事業を始めたがその利用者が少ないようである。

写真の説明
1枚目は もう数日で田植の出番となる育苗
2枚目は 牛による「荒くれ」、道具が違う。
3枚目は 牛による「代掻き」であり、昭和30年5月の上早川地区の貴重な写真で、「鼻取り」は女性、多分嫁さんだろうと思う。
4枚目は 黒姫山の雪形で、まだ「鳩」と「帆かけ船」が現れていない。(4月27日現在の写真)