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歳時記「大和川の里」

その日の日記

NO,35  報恩講

2014-10-22 16:09:08 | 日記・エッセイ・コラム

Photo 今日10月22日(水)朝から休まず一日中小雨である。
今年は本年は春からお寺の世話役の一年の期間となり配り物等を配布している。
昨日は早朝の小雨の降る前に大至急で13戸の檀家に「同朋新聞」10月号とお寺の寺報を配布した。
「同朋新聞」は真宗大谷派東本願寺が毎月出している。
12ページであるが書かれている内容は難しく一般の人は祖父や祖母の方が若い衆が勤めに出ていられる家であれば若い衆は読んでいないのではないだろうか。
編集者の内容の狙いはこの読む人の学歴をどこに中心を置いているのだろうか。

Photo_2 お寺の宗教感について一般的にいわゆる寓話としていわゆる子供の頃から信州・善光寺の「牛につれられ善光寺」の善光寺に近く住んでいながらお寺をお参りをしていない。
越前・福井の寺の若い嫁の宗教心に嫉妬を焼いてお婆さんが鬼の面をつけて脅した「嫁おどしの肉つきの面」で嫁と一緒にお寺へ行き改心した話である。
何れも2人のお婆さん、年寄りであるが現在のこの「同盟新聞」は読まれているだろPhoto_3 うか。

家の西性寺さんには今月の10月29日(水)は報恩講であるから大勢の人の参拝を願つている。
この報恩講は宗祖親鸞聖人の命日(弘長2(1262)11月28日・90歳)であり、特に聖人750回御遠忌讃迎記念に力を入れている。
本来はこのように11月28日頃になると雪が降り出す荒れ模様の季節であり、参拝者の年寄りを考えて昔から当お寺は1ケ月を早くしている。
梶屋敷・田伏の子供達は「雪が降りやゴマンさん」(御満座のこと)と言つていた事が子供の時に聞いていたものである。
越中・富山は真宗王国、この頃になると荒れる、「荒れは鰤おこし」、この時節でもある。

高田別院と言う、真宗大谷派高田別院である、秋になると高校に通学していた頃に「おたや」と言う法要があつた。
稲の刈り取りの最盛期の頃であるが、3日間であるが多くの人が近郷の農家から参拝に来ていた。
通学の途中にあるお寺であるがその法要を見るとは思わず見た事は級友からも声がかかる事がなかつた。
「おたや」とは何んであつたのかは知らなかった。
稲刈りの多忙の最中に参拝するそれが高田の人達の信仰心が高かつたのである。
この高田の仲町に瞽女(ゴゼ)の住む家がある、早春から西頸城を始めとし中頸城、東頸城えと廻り信州善光寺平、松本平方面までも旅をしていた。
その中でただ「おたや」には必ず帰り参拝していた。
Photo_4 これが高田瞽女の宗教心であり、旅を毎年行う旅人であり、この旅で倒れをしなく健康で回れる事に感謝をしているのである。
盲目は仏の願いである。

米 「絵日記ごぜを訪ねて」斎藤真一著(日本放送出版協会) 高田瞽女 杉本キクイ6人の家族であるという資料がある。

写真の説明
1枚目は 「おこさん袋」と言う主に米の1升と2升を入れていた。
2枚目は 横町・西性寺家の菩提寺である。
3枚目は 親鸞聖人の像、郷津の浜陸上の地に立つ。
4枚目は 瞽女の旅姿である。


NO、34  焼山

2014-10-21 11:33:22 | 日記・エッセイ・コラム

Photo今日は10月21日(火)朝からくもり時々小雨である。
最近は噴火した御嶽山以来山について関心が急に高まつている。
深田久弥(1906・3~1971・3)よつて昭和3年1月の「小説新潮」の「わが愛する山々」によつて雨飾山(1963)が百名山によつて有名となり、頚城三山と言う焼山(2400)、妙高山(2454)、火打山(2462)も百名山に入っている。
深田は昭和16(1941)年に入つて38歳の秋の10月に下早川・新町をバスで通り笹倉温泉に宿泊して焼山に登山をしたと言う記録がある。

Photo_2 焼山は昭和39(1974)年7月28日に噴火により国立千葉大学生・園芸学部の学生3人が高山植物調査の為に遭難している。
それ以来登山には禁止されていたが、いつの頃からか指導者が居れば良いとされた。
昭和に入り噴火は何回もあるが、昭和24(1949)年2月5日の朝に突然噴火し、火山灰は風に流され東は200km離れているが茨城・筑波山(877)まで火山灰が降つたと言われている。

11192 私達が中学2年生で全校生徒が梶屋敷の浜の畑からそれを見たことがあつた。
戦前、戦後はこうした有名な山があるから、白馬岳(2932)や雨飾山(1963)、焼山は学校行事で元の中学校や女学校の生徒は登山が行われていた。
私が小学校1年の蓮華温泉の湯治の際に女学校生徒と同席し白馬岳の途中であつたように、学校行事となつていた。
しかし戦後になつてからわそうした学校行事の登山はまったくなくなつたようである。
私達は中学校も高校時代にも無く登山はなくなり焼山には登る事がなかつた。
青年団の時代に入りようやく県教委の登山者指導者講習が白馬岳で行われ参加した。
近年はようやく郷里の山を知り、山を誇れるようにと上早川は鉾ケ岳、根知は雨飾山、小滝は明星山(1188)は公民館行事として行われるようになつた。

御嶽山の噴火で多くの登山者が死亡して以来、登山者向けの安全対策が強化されるよう要望されているが当然であるが、安全の登山の機会を失うようになつてはならない。
特に世界ジオパークとは皆んなで考えなければならない。
洞爺湖有珠山、当市糸魚川、山陰海岸、島原半島、室戸、隱岐、阿蘇の7ケ所が世界ジオパーク ネツトワークに認定されており、これが観光が根幹であるとされているが、これは地球活動に関する自然遺産を保護し、それを教育や科学の普及とされ、これが地域づくりに一層の力を入れなければならない。
丁度良い機会となつた。

写真の説明
1枚目は 笹倉温泉である
2枚目は 焼山が昭和49年7月の噴火の際の写真である
3枚目は 早川・鉾ケ岳である。


NO,33  秋たけなわ

2014-10-17 16:56:31 | 日記・エッセイ・コラム

1014 昨日は晴れを迎え里芋掘りや、花の手入れのアジサイやジンブキ(うるい)の手入れを行なつた。
朝夕は寒くなり、畑の仕事も遅くなると「秋の日はつるべ落とし」である。
地元の秋祭りは11月であり、祭りの行事もなくその準備も特別にはない。
今日の17日(金)は午前は雨を時々降っていたが昼過ぎには晴れとなつた。

この時季の秋の花は色々と咲いているが、もう少し大菊はまだである。
108 山野草の中に家に色々と多くあり、彼岸花は早く終わつているが、ホトトギス(ユリ科)、シユウカイドウ(シユウカイドウ科)、シユウメイギク(キンポウ科)、ツワブキ(キク科)などが咲いている。

今年の夏の海は天候が悪く海水浴が残念であつた。
こと当大和川の海岸は浜がなく、急な岸となり深くなつている。
この海岸を埋める事をなんとかならないか、テトラポツトや沖防波堤を入れるような要望は何年も前から行って来た。
ようやく今年の6月より「海岸養浜工事」と言う事業が始まった。
こんな事は始めてであるが、これは珍らしいものでどこかにもあるのだろうか。
1013 砂を運搬するトラツクは姫川港の砂を掘つたものを大変の大量を運搬するのである。

国道第8号の東バイパス工事も来年3月14日(土)に北陸新幹線の開通日であり、これに合わせて通行がされているが本当に出来るだろうか。
竹ケ花の海川にかかる陸橋と国道8号線をまたぐ橋もようやく出来ている。
こんな工事は大工事でありたいしたものである。

1041枚目の写真は家の前の柿の木が赤く実つている。
2枚目は「やましのほととぎす」である
3枚目は養浜でテトラポツトに砂を入れ埋め立てるので
あるが、一昨日には大波でだいぶ採られている。
4枚目はバイパス立陸橋である。


NO、32  寒露のころ

2014-10-14 15:41:22 | 日記・エッセイ・コラム

101011 今日は10月14日(火)雨が19号の台風くずれで時々降っている。
9月
にブログを一回投稿以来忘れたか、辞めたように1ケ月の間わ過ぎた、本当に1ケ月を過ごす事は早いものである。
8日(水)は寒露(かんろ)であり、急に朝夕は冷気が増し散歩は堪えるようになつた。
農作物や草木の葉も冷えいるが、農作物の収穫の米は全て終わり豊作に喜こんでいる。
野菜は大根や白菜、野沢菜などはまだであるが、里芋やサツマイモは掘り起こしているがイノシシなどの獣なども収穫を手伝つてくれて残念である。
十五夜の月は「芋名月」、「豆名月」そして「栗名月」とも呼ぶが今年はこれも多く採れ1011 た。
里芋は大根、コンニヤク、厚焼き、昆布、玉子などの煮付け
の時期となつて何食も大鍋で食している。
栗も今年も多く採れ、枝を振つて拾い、栗ご飯は何回も作つてくれた。

この時季スポーツ、文化であり、地区の運動会があつたが年寄りは見る事も出来ない。
文化の方は音楽会、演奏会、短歌や人形教室(衣装人形、押し絵、羽子板、まり、など)相馬御風の顕彰、書道等の枚挙にいとまない。

11日(土)には市展第10回がビーチホールまがたまで
行われ、絵画(33点)、彫刻・工芸(3点)、書道(32点)、写真(49点)、和紙絵(21点)、陶芸(20点)等が出品されている。
31011 家内が書道に出品し始めての入賞であり喜んでいただろうが顔には見えなかった。
こうした学習は若い頃の生涯一生でありこうした研鑽で、絵画の「街道の大松」は大工さんの知り合いで2点の出品であり、若い頃からの学習である。
同じ絵画の倉又、小田島さんも今回は入賞してないが今後も頑張るのだろう。

家内の書「宋之問詩」である。

1011_2 この絵が「街道の大松」で田伏の「ゴンばい大松」なのである。
残念ながら約40年前頃に伐さいされているものである。


iNO,31  二百十日

2014-09-04 16:42:45 | 日記・エッセイ・コラム

Photo 今日は9月4日(木)、朝から南風が吹いて快晴であつたが昼過ぎから曇り、小雨となって来た。
9月1日は二百十日で11日は二百二十日で台風の特異日とされ注意が必要とされている。
この日は地域では西海谷・御前山の雲台寺の秋祭りであつたり、根知谷・山寺の「おててこ舞い」である。
昔はこの里には賑やかであり青年の時代の頃には浜辺の青年でなく「おててこ舞い」よりも御前山であつた。
ところが昭和30年頃に「おててこ舞い」と言う「山寺の延年の舞」(国指定文化財・昭和55年2月1日)の方が年毎に賑やかになつて来る。
その御前山集落や市野々、余所、余川の青年はその反面で秋の農作業を早めて東横方面に車のタイヤ臨時工に始める事になつていつたし、これが定職となり一家が離村となつていつた。
又農協にいた青年は賃金が安く証券会社が条件も
良いと富山市方面に出たがそれPhoto_2 も2~3年で条件が悪くなつたりして村に帰るようなこともあつた。
こんな話は各地の農村にはこんなような話があつた。
当時魚沼地方で「出稼ぎの歌」が歌われていた。
県の青年は「青年問題研究集会」に集まつた人が多くなり議論が行われた。
薮神青年は「サンヨ サンヨ」の「浦佐昆沙門堂裸押合大祭」を行い出稼ぎから帰り盛大に集まるようになつた。
こうして地域づくり、村おこしが始まるのであつた。

私の地域の今年の盆は15日も16日も雨が降り年一回の盆踊りは出来ず、27日は諏Photo_3 訪神社の盆踊りも出来ずであつた。
23日は「処暑」(しよしよ)二十四節気の涼風も吹き暑さがおさまるといわれる、そして8日は「白露」(はくろ)で大気が冷え始め朝夕の風にもいくらか肌寒さを感じさせる。
この1~3日は八尾「おわら風の盆」が盛大であつた。
稲も豊作黄金の花が咲く。
盆踊りがないと盆踊り歌がわかる人が段々となくなつている。
こうして大和川の「盆踊り唄」を記載してみた。

大和川 大村なれど
踊る若い衆はこればかり
若い衆やおしこめかいこめ踊れ
あき間の風は毒だ
二百十日の風さえ吹かにや
稲にや黄金の花が咲く
今年は豊作穂に穂が下がる
枡はとり除け箕ではかる
若い衆や盆だらこそ踊れ
秋の八月誰が踊る
若い衆の白手拭は

藍の惜しみか身の伊達か
若い衆を踊らしよ為に
派手な浴衣を染め置いた
若い衆や精を出して踊れ
唄は袂に千もある
唄の数千までいらぬ
唄を三つ持ちや夜を明かす
若い衆やでつかい事しよまいか
小豆五斗煮で団子しょまいか

根知の根小屋の棚戸の川原
抱いて寝ごろの石ばかり
根知の大神堂の吾作の娘
目許ばかりで五両がもの
御前山 在郷だと仰言つる
開張ある時は場でござる
見て来たか富山の町を
二階造りの白壁を
夜が明けたそな
天の川原も西、東
Photo_4 一の谷敦盛様は
弓を片手に矢を腰に
若い衆や網かけまいか
沖に小鯖が三つ飛んだ
若い衆や残り多いれけど
これで終いましよあなかしこ

写真の説明
1枚目 「おわら風の盆」のポスター
2枚目 御前山の観音堂
3枚目 「おててこ舞い」の「鉾の舞い」
4枚目 水保の神楽の「弓の舞え」

8月は1回しか投稿が出来なかった、今月もようやく1回出来たが大変である。
7月に治療以来副作用と言う聴力低下、視力低下、白内障を心配しているのである。。