うきは拾遺集

    野鳥の声に目覚め、筑後川を眺めて暮らす。
   都鄙の風聞、日日の想念、楽興の喜び&九州ひと図鑑。

小泉八雲(1850-1904) 《『西方の風~九州ひと図鑑』(山﨑潔著)》より(7)

2019年12月05日 | コラム
         ラフカディオ・ハーンを捨て 〈日本ノ面影ヲ求メテ〉  

  明治時代の日本に暮らし、この国の人たちが見落としがちな古きよき文化や美質を見出して文章に残してくれた作家である。「いつの日か日本に行かれるなら、是非一度は縁日に足を運ばれるとよい」で始まるエッセー「虫の演奏家」は、帰化して小泉八雲となったラフカディオ・ハーンのうるわしい日本発見の一つである。『日本の心』(講談社学術文庫)に収められている。

 日本人には秋の風情である虫の音。西洋人一般には姿を見せないで”好き勝手に発せられる音„、つまり騒音以外の何物でもないらしい。「この虫たちが西洋文明での孔雀やナイチンゲール、カナリヤに引けを取らない地位が与えられてことを語って聞かせて、(西洋人に)わかってもらうのは骨がおれる」と告白し、「西洋ではすぐれた詩人だけが見抜くことが出来るその魅力を、日本人は庶民でも理解できる」と手放しなのである。

 ハーンが生涯で嫌い抜いたものは「キリスト教と近代化された西洋だった」(池田雅之著『ラフカディオ・ハーンの日本』)にしてもギリシャ生まれのイギリス人である彼がわしたち以上の繊細な感性で日本を見つめ、”日本の面影„に価値と美を見出してことばを尽くして礼賛できる不思議を思う。

 八雲はアメリカでの新聞記者生活を経て雑誌の取材で訪れ、そのまま日本に居ついた。旧制松江中学校(島根県松江市)の英語教師となって旧松江藩士の娘・節子と結婚した。松江時代に続く熊本は第五高等中学校に赴任した明治二十四年十一月から二十七年十月に英字新聞の記者として神戸に去るまでの間、四十一歳から四十四歳の三年間である。

 熊本城を仰ぐ手取本町に落ち着き、一年後にさほど遠くない西外坪井町の閑静な場所に引っ越して二年間を過ごしている。”火の国転地„の主な理由は一家を構えたことによる収入改善の要請、山陰の冬からの脱出だったが、古い日本の面影をしのぶという意味での失望は大きかった。

 気質として粗野に感じられるこの地の人たちのことばや独特の気候風土があり、予想に反して都市化、近代化が進む熊本の姿があった。街が焦土化した西南戦から十四年あまりという事情があり、神社仏閣も無残な姿から十分には復旧していなかった。アメリカ時代に親しんだカリブ海の温暖な気候、西インド諸島の南国的なのどかさを期待されても、肥後人は迷惑であっただろう。

 過大にすぎた熊本への期待と、人情・風土を含めた現実との行き違いだったと九州人のひとりとして解したい。八雲の率直、かつ辛辣な物言いを説明するのに直情的で誇張の癖がある独特の性向、日本での生活がほぼ五年になり、そのころになると来日する前の幻想が幻滅に変わっていたいたという指摘があることを記しておく。

 しかしながら、ハーンの紀行や随筆には随所に熊本や九州が盛り込まれた。来日第一作目の『日本の面影』の多くは熊本時代の執筆であり、『東洋の国から』は素材も執筆も熊本である。学校裏の小高い丘にあり、散歩の足でしばしば訪れた「石仏」に寄せた一文が印象深い。

 肥後平野と煙吐く阿蘇の火口丘を遠望したあと、苔むした石仏を前にする。<この仏の瞑想的な眼光は半眼に開ける瞼の間から学校と、その騒々しい生活を見下し、怒るに怒られぬ傷を受けた者が微笑するように微笑する。ただしこれは彫刻師が刻みだした表情ではない。苔と垢とにゆがめられた結果である・・・>。日本人であるわたしたちが共感するのは、歳月を刻んだ石仏への筆者のやさしい眼差しであろう。

 日常生活はそれなりに充実していたこともうかがえる。正月には家の門に注連縄を飾り、神棚に供物して純日本風のしきたりを楽しんだ。帰化の契機となる長男・一雄が生まれたのも熊本であった。節子夫人が近所の商店、農家や行商人たちと触れ合って感じたことを率直に伝えたことも八雲の偏見をほぐす意味で効果があったようだ。

 彼自身、友人への手紙に「九州に関してできる限りよいところを見つけようと思います」と書くようになる。「文学的な修業のためにはまたとない時期であった」という後年の回想を熊本時代の総括として記す。夏目漱石が四国の松山中学から第五高等学校(学制改革による校名変更)の英語教師となるのは八雲が去って一年半後のことである。                                   (2018年7月号掲載)