本日はこのFM/MW(中波)/SW(短波)対応の歴的な製品スリーバンド・ラジオが主人公です。デジタル世代に、われらアナログ時代のかっこよさを自慢したい・・・が本音です。
東京・新宿のユニークな商業施設「ビームス ジャパン」を紹介する数日前の新聞に中古ラジカセをずらり並べた陳列棚の写真がありました。思い出して、倉庫の中でほこりをかぶっていた老兵を無理やりお座敷の明るみに引き出したという次第です。
出自が知りたくて型式番号の「ICF - 6800」を頼りにほとんど期待しないままネット検索にかけてみたらたくさんの項目が出てきました。意外、驚き、うれしさの三拍子。多くは中古販売市場、オークション、修理情報ですが、求めていた製品情報もありました。これはありがたかった。
1977年と言いますから昭和52年、つまり40年前の発売でした。当時の定価は79,800円。要は8万円ということ、相当に高価です。中古市場ではこの定価以上の値がついているのもありました。
ラジオ放送は、大正14年(1925)の愛宕山・JOAKの初放送以来、中波中心でしたが、昭和39年になるとNHKが全国でFM放送を展開し、同時にステレオ放送が開始されました。FM新時代を見据えた製品だったのでしょう。民間FM局が東京、名古屋、大阪、福岡に開局するのはこのラジオが発売されて3年後のことです。
電波が遠くへ届く短波放送はNHKの国際放送を主目的に実用化されて、私が高校時代の昭和30年代の初めころには商業放送もあって株式市況や競馬が放送がされていた記憶がありますが、少年の関心は、もっぱらプロ野球の実況放送だったような気がします。テレビは夢の世界であり、実況中継などは夢のまた夢でした。ラジオ局が少ない地方では東京の短波放送にすがって必死にダイヤルを合わせた・・・幻想や記憶違いでないといいのですが。
老輩ラジオの、往時を懐かしむ独白を聞きましょう。
「新聞社の編集局と輪転工場が職場だった。プロ野球のナイトゲームを翌日の朝刊に載せるための運動部の一員さ。当時の新聞は前夜の締め切り時間が早くてね、午後10時を過ぎると、長引く野球の経過とにらめっこさ。発行本社の北九州から一番遠い鹿児島、宮崎地方に早朝3時ころまでに朝刊を届けるにはこの時間に締め切り、印刷に取り掛って刷り上げないと輸送時間が足りない。高速道路も整備されてなかったからね。」
「球場の記者からの原稿を待っていたら間に合わないだろう、そこで吾輩の出番さ。せめてインニング・スコアは最新の数字を打ち込みたいから上階の編集局運動部デスクの指示で地下フローの輪転機職場まで走るっていうわけよ。担当者が中継放送のスピーカーに耳を傾けて、いよいよ輪転機が廻り出す寸前に運動面のその箇所に新しい得点を刻み込むんだ。それでも試合が長引いて途中経過までしか入らないこともあってね、『お前の新聞はやめる』と何回叱られたことか」。
「仕事そのものがアナログだよね。しかし、それがまた「仕事している!」という実感があったね・・・。時代が変わり、情報通信技術が発達して新聞の制作方式も変わってお役御免となった。廃棄物処理されるのを見かねた編集局の記者で同僚だったこの人が引き取ってくれたというわけさ。お互いに老輩だよ。だれかいい人がいたら引き取ってもらいたいような、そんな考えでいるみたいだよ。オレはと言えば、外見はくたびれたようにも見えるがね、仕事そのものは楽だったから〝内臓〟は達者だよ。FM時代を見据えて設計されていて音質は自慢できる。」
東京・新宿のユニークな商業施設「ビームス ジャパン」を紹介する数日前の新聞に中古ラジカセをずらり並べた陳列棚の写真がありました。思い出して、倉庫の中でほこりをかぶっていた老兵を無理やりお座敷の明るみに引き出したという次第です。
出自が知りたくて型式番号の「ICF - 6800」を頼りにほとんど期待しないままネット検索にかけてみたらたくさんの項目が出てきました。意外、驚き、うれしさの三拍子。多くは中古販売市場、オークション、修理情報ですが、求めていた製品情報もありました。これはありがたかった。
1977年と言いますから昭和52年、つまり40年前の発売でした。当時の定価は79,800円。要は8万円ということ、相当に高価です。中古市場ではこの定価以上の値がついているのもありました。
ラジオ放送は、大正14年(1925)の愛宕山・JOAKの初放送以来、中波中心でしたが、昭和39年になるとNHKが全国でFM放送を展開し、同時にステレオ放送が開始されました。FM新時代を見据えた製品だったのでしょう。民間FM局が東京、名古屋、大阪、福岡に開局するのはこのラジオが発売されて3年後のことです。
電波が遠くへ届く短波放送はNHKの国際放送を主目的に実用化されて、私が高校時代の昭和30年代の初めころには商業放送もあって株式市況や競馬が放送がされていた記憶がありますが、少年の関心は、もっぱらプロ野球の実況放送だったような気がします。テレビは夢の世界であり、実況中継などは夢のまた夢でした。ラジオ局が少ない地方では東京の短波放送にすがって必死にダイヤルを合わせた・・・幻想や記憶違いでないといいのですが。
老輩ラジオの、往時を懐かしむ独白を聞きましょう。
「新聞社の編集局と輪転工場が職場だった。プロ野球のナイトゲームを翌日の朝刊に載せるための運動部の一員さ。当時の新聞は前夜の締め切り時間が早くてね、午後10時を過ぎると、長引く野球の経過とにらめっこさ。発行本社の北九州から一番遠い鹿児島、宮崎地方に早朝3時ころまでに朝刊を届けるにはこの時間に締め切り、印刷に取り掛って刷り上げないと輸送時間が足りない。高速道路も整備されてなかったからね。」
「球場の記者からの原稿を待っていたら間に合わないだろう、そこで吾輩の出番さ。せめてインニング・スコアは最新の数字を打ち込みたいから上階の編集局運動部デスクの指示で地下フローの輪転機職場まで走るっていうわけよ。担当者が中継放送のスピーカーに耳を傾けて、いよいよ輪転機が廻り出す寸前に運動面のその箇所に新しい得点を刻み込むんだ。それでも試合が長引いて途中経過までしか入らないこともあってね、『お前の新聞はやめる』と何回叱られたことか」。
「仕事そのものがアナログだよね。しかし、それがまた「仕事している!」という実感があったね・・・。時代が変わり、情報通信技術が発達して新聞の制作方式も変わってお役御免となった。廃棄物処理されるのを見かねた編集局の記者で同僚だったこの人が引き取ってくれたというわけさ。お互いに老輩だよ。だれかいい人がいたら引き取ってもらいたいような、そんな考えでいるみたいだよ。オレはと言えば、外見はくたびれたようにも見えるがね、仕事そのものは楽だったから〝内臓〟は達者だよ。FM時代を見据えて設計されていて音質は自慢できる。」