うきは拾遺集

    野鳥の声に目覚め、筑後川を眺めて暮らす。
   都鄙の風聞、日日の想念、楽興の喜び&九州ひと図鑑。

ソニー ICF- 6800

2016年08月29日 | 随想
 本日はこのFM/MW(中波)/SW(短波)対応の歴的な製品スリーバンド・ラジオが主人公です。デジタル世代に、われらアナログ時代のかっこよさを自慢したい・・・が本音です。

 

 東京・新宿のユニークな商業施設「ビームス ジャパン」を紹介する数日前の新聞に中古ラジカセをずらり並べた陳列棚の写真がありました。思い出して、倉庫の中でほこりをかぶっていた老兵を無理やりお座敷の明るみに引き出したという次第です。

 出自が知りたくて型式番号の「ICF - 6800」を頼りにほとんど期待しないままネット検索にかけてみたらたくさんの項目が出てきました。意外、驚き、うれしさの三拍子。多くは中古販売市場、オークション、修理情報ですが、求めていた製品情報もありました。これはありがたかった。

 1977年と言いますから昭和52年、つまり40年前の発売でした。当時の定価は79,800円。要は8万円ということ、相当に高価です。中古市場ではこの定価以上の値がついているのもありました。

 ラジオ放送は、大正14年(1925)の愛宕山・JOAKの初放送以来、中波中心でしたが、昭和39年になるとNHKが全国でFM放送を展開し、同時にステレオ放送が開始されました。FM新時代を見据えた製品だったのでしょう。民間FM局が東京、名古屋、大阪、福岡に開局するのはこのラジオが発売されて3年後のことです。

 電波が遠くへ届く短波放送はNHKの国際放送を主目的に実用化されて、私が高校時代の昭和30年代の初めころには商業放送もあって株式市況や競馬が放送がされていた記憶がありますが、少年の関心は、もっぱらプロ野球の実況放送だったような気がします。テレビは夢の世界であり、実況中継などは夢のまた夢でした。ラジオ局が少ない地方では東京の短波放送にすがって必死にダイヤルを合わせた・・・幻想や記憶違いでないといいのですが。

 老輩ラジオの、往時を懐かしむ独白を聞きましょう。
 「新聞社の編集局と輪転工場が職場だった。プロ野球のナイトゲームを翌日の朝刊に載せるための運動部の一員さ。当時の新聞は前夜の締め切り時間が早くてね、午後10時を過ぎると、長引く野球の経過とにらめっこさ。発行本社の北九州から一番遠い鹿児島、宮崎地方に早朝3時ころまでに朝刊を届けるにはこの時間に締め切り、印刷に取り掛って刷り上げないと輸送時間が足りない。高速道路も整備されてなかったからね。」

 「球場の記者からの原稿を待っていたら間に合わないだろう、そこで吾輩の出番さ。せめてインニング・スコアは最新の数字を打ち込みたいから上階の編集局運動部デスクの指示で地下フローの輪転機職場まで走るっていうわけよ。担当者が中継放送のスピーカーに耳を傾けて、いよいよ輪転機が廻り出す寸前に運動面のその箇所に新しい得点を刻み込むんだ。それでも試合が長引いて途中経過までしか入らないこともあってね、『お前の新聞はやめる』と何回叱られたことか」。

 「仕事そのものがアナログだよね。しかし、それがまた「仕事している!」という実感があったね・・・。時代が変わり、情報通信技術が発達して新聞の制作方式も変わってお役御免となった。廃棄物処理されるのを見かねた編集局の記者で同僚だったこの人が引き取ってくれたというわけさ。お互いに老輩だよ。だれかいい人がいたら引き取ってもらいたいような、そんな考えでいるみたいだよ。オレはと言えば、外見はくたびれたようにも見えるがね、仕事そのものは楽だったから〝内臓〟は達者だよ。FM時代を見据えて設計されていて音質は自慢できる。」

青木繁「海の幸」を送る

2016年08月27日 | 随想
 

 青木繁、坂本繁二郎のふるさと、久留米市で親しまれた石橋美術館があす8月28日を限りに60年の歴史に幕を閉じます。この美術館の目玉、常設展示されていた青木の「海の幸」「わだつみのいろこの宮」も見納めと、25日(木)の昼下がりかつて共に働いた昔の仲間たちと見学しました。





 「石橋美術館物語」は、60年の集大成を意識した渾身の企画展。青木、坂本、古賀春江ら地元出身の画家たちのほか、黒田清輝、藤島武ニ、安井曾太郎やルノワール、セザンヌ、ピカソの名画119点がそろう多彩、重厚な展示作品に約2時間、圧倒されるばかりでした。休館中の東京・ブリヂストン美術館の応援出展のお陰ですが、結局はこの美術館に集約されることを思えば、〝祭りのあと〟の寂しさも併せ来て複雑な心持ちになりました。



 美術館、文化ホール、庭園を含む石橋文化センターは、当地出身のブリヂストンの創業者である石橋正二郎氏の寄贈になるものですから感謝の「ありがとう」の言葉はあってもいまさら愚痴を言えるものではないのですが・・・。

 「これからもよろしく」とわざわざごあいさつして下さった女性副館長の森山氏は久留米市立となるこの美術館を引き継がれることになります。目玉作品を引き上げられた施設の運営を思い、心ひそかに「がんばれ」とエールを送りました。

シラサギの街頭デモ

2016年08月26日 | 随想


 わが里、三春地区の古賀という集落を背景に車の中から、慌てながらの一写です。25日の午前、所用で走っていた里道の前に群れをなして舞い降りました。倍ほどの数の‟群像„でしたが、車の気配に気づいて一部飛び去ったあとの、群団の中でも度胸千両の面々です。

 シラサギは、サギ科に属する鳥の総称でその名の鳥は存在せず、ダイサギ、コサギなどの分類がされているそうです。姿・形からコサギでしょうか。素人の全くの推測です。小ぶりで白さが際立つ優雅な姿が印象的でした。 サギは清涼な水や環境より人里に近いところに生息して、ものおじしない大胆さが特徴だそうです。川や田んぼの魚や両生類を獲物にし、農作業の人を追いかけて水田のカエルなども獲物にします。人間慣れして、食欲も鳥類では相当な健啖家と想像します。

 画面は畑の景色ですが、周辺の田んぼは今、たっぷりと水をたたえて緑の濃度を深めてしなやかな稲穂を見せ始め、実りの時を目指して真っ盛りです。

 

うなぎ 杵の川樽酒

2016年08月19日 | 随想
 やっとうなぎにたどりつきました。諫早で一番と評判の老舗です。アーケード街の玄関から裏通りまで貫く〝うなぎの寝床〟は目測と体感で20m。年輪そのものの黒く光る店内は大広間も小上がりもテーブル席も、(2階はこの日閉鎖されていましたが)満席の盛況はこれも目分で50人超。お盆前の12日(金)、夏休み真っ盛りの昼食どきとあれば・・・。

 

 楽焼の容器ごと蒸されたこの地独特のかば焼きです。「たまには贅沢もいいでしょう」と言うつれあいの励ましで特上を奮発しました。右端の異景は箸をつける前の一写を忘れさせた食欲のいたずらです。

 現役時代の十数年前、出張の際に何度か来た覚えはあります。ネット情報で、「諫早のうなぎはほぼ食べつくした。この店が最高」という書き込みがありましたが、グルメでも、うなぎの通でもない者に味覚の評価は避けるのが矜持というものでしょう。「ふんわり柔らかくおいしかった」にとどめておきます。

 高級吟醸酒も大衆地酒も区別なく半世紀以上も飲み続けてきた日本酒、〝利き酒〟には多少の自信があります。冷たいものを注文して出てきた<杵の川樽酒>の300ミリリットル瓶。ラベルに「うなぎ上り」の愛称が大書されていました。特注品でしょうか。口に含んだときのクセのない味わいとさわりの良さ、のどごしのなめらかが小欄の好みでした。うなぎの味覚にも寄り添って最高でした。

 諫早とうなぎ。干満の差と干潟の有明海、その海にそそぐ本明川が育んだ食文化は地勢の文化でもあります。九州では同じうなぎの名所である柳川も同じ有明海と、その海にそそぐ矢部川水路の地勢があっての食文化なのでしょう。

 書き忘れそうになりました。この諫早の老舗、江戸・文久年間の創業だそうです。木造2階建ての風格も一見に値します。昭和4年に建てられて、先の戦争も諫早大水害も乗り越えて現在があるのだそうです。味わいと風格の木造建築です。
 
 ご先祖様のこの上ない恩恵をお伝えして、お盆墓参の帰路、「諫早日記」の報告でした。
 

伊東静雄

2016年08月17日 | 随想
 

 木々がうっそう繁る山城の址がそっくり諫早公園です。高さ50mとされる小高い城址の山頂に向かう石段の入り口に伊東静雄の詩碑の案内板がありました。

 諫早出身の詩人です。京都帝大国文科に学んで大阪の中学校(旧制)、高校(新制)で国語教師として過ごし、終生故郷に戻ることはありませんでした。孤高の詩人と言うべきか。詩作は大学卒業のころから始め、萩原朔太郎に絶賛されてデビューしました。「浪漫的、日本的な叙事詩に繊細な耽美を加えた詩風」と評されます。「伊東の詩はすべて哀歌だ」と言ったのは作家の富士正晴でした。

 戦前・戦中、伝統への回帰を訴えて「日本浪漫派」を率いた保田與重郎の影響が大きかったといわれます。保田は不遇な戦後、『萬葉集の精神』という渾身の集大成を残しました。若き三島由紀夫が伊東に心酔したことはよく知られます。処女作の推薦文を依頼され、その願いを断ったというエピソードを残しています。

 傾斜のある階段を歩いて数分、
   天然石に刻まれた詩碑は中腹の樹下に。
         三好達治の揮ごうとありました。

 <手にふるる野花は それを摘み
    花とみづからをささへつつ あゆみをはこべ>

 この詩人を紹介するのに私には百科事典を頼りにする以上の素養はありません。中学校時代の鮮烈な思い出があります。雲仙岳を前にして有明海に面する佐賀県境。小、中学校時代を過ごした小長井という小さな村で中学校に入学していきなり受けた衝撃でした。

 校内弁論大会でいかにも利発に見える3年生の女生徒が弁じた「伊東静雄論」。名前すら知らない詩人について朗々と論評する姿に小学校とは違う中学校の”大人の雰囲気„、特別な資質を持つ人の存在が別世界に思えました。

 <馬車は遠く光のなかを駆け去り 私はひとり岸辺に残る
           ・・・・・
  如何にしばしば少年等は 各自の小さな滑板にのり
  彼の島を目指して滑り行っただらう
  ああ わが祖父の物語! 泥海ふかく溺れた児らは
  透明に 透明に 無敵なしゃっぱに化身したと>
                      (『有明海の思ひ出』より)

 

 有明海は広大な干潟と干満の差が大きいことで知られます。島原半島を背景に遥か向こうに小さな島がいくつかありました。夢と不思議の島でした。干潮になると少年たちは大人たちに交じって今では潟スキーと通称される滑り板にのり、ぬるぬるした干潟の上を蹴って家計を助ける漁と、遊び兼用の移動手段にしました。ムツゴロウ、しゃっぱ、牡蠣・・・もちろん本来は大人たちの漁の手段でした。「しゃっぱ」は、潟海に穴をあけて棲む蝦(えび)に似た甲殻類です。    
     
  

諫早眼鏡橋

2016年08月14日 | 随想
 

 諫早公園に移設保存されている眼鏡橋です。〝トンボ眼鏡〟の長崎・眼鏡橋と比べてモダンな印象に見えるのは眼鏡の部分にあたるアーチの形状が半円ではなく、三分の一の円に意匠した効果によります。微笑みにも似た優美な表情が諫早大水害の証人として悲劇の号泣をおし隠して、石橋の精の慈愛に見えたのは半世紀以上も前の歴史に多少なりともかかわった者の感傷なのでしょうか。

 昭和32年(1957)7月24~25日、1昼夜1000ミリを超す局地的集中豪雨で諫早市を貫流する本明川は氾濫し、満身創痍になりながら堪えた石橋がアダになってしまいました。濁流や流れ下る倒壊家屋等をせき止める堤防となり、洪水を市中広範に拡大させる〝元凶„にならざるを得なかったのです。

 犠牲者の数は539名に上りました。当時、長崎市内の県立長崎西高校3年生で軟式庭球部に所属していた筆者は仲間と語らって〝救援隊〟を組織し、夏休みを利用して被災した諫早高校の復旧作業に参加しました。ネット・ポールの8分目ほどまで堆積した泥土、泥土に埋まったナベやカマ、小動物の死骸などさまざまな被災物の排除作業。遅々としてはかどらない作業に自然の脅威を体感したものでした。

 説明板によりますと、江戸時代の天保10年(1838)の建造で、全長45m、高さ6m、幅5m。使用された石材は約2800個に達したそうです。水害で繰り返し流失する木の橋に代わる地域住民念願の夢の橋だったに違いありません。役割を終えて本明川のほとりに憩う178年目の石橋は何を思うのでしょう。

 長崎への墓参小旅行の途中、名物のうなぎ料理にありつこうと立ち寄った諫早での一コマです。かば焼きにたどり着くまでに寄り道はまだ続きそう。
  
  

長崎に銘菓あり、もしほ草

2016年08月13日 | 随想


 長崎のお盆は精霊流し。その賑わいは夏の風物でも異形の詩風です。母をその精霊流しの賑わいの中で送って20年余になります。両親が眠る墓参の小旅行は11日~12日に設定して混雑を避けました。

 長崎の旅で欠かさないのがこの老舗菓子店、もちろん、つれあいの好みです。天保元年の創業と説明されなくても店の構えの風格がすべてを物語ります。お目当ては「もしほ草」。
素材は<求肥と昆布>とお店の説明です。

 求肥にも説明がいるでしょう。白玉粉を水でこねて蒸し、砂糖・水飴を加えて練り固めた、餅に似た菓子です。これに昆布の風味が加わった本体を上質の砂糖でまぶして完成です。もちもち感と磯の香りが絶品。高級感を備えて海とシュガーロードの起点だった長崎らしい逸品です。

 「もしほ草」の由来がホームページにありました。集積した海藻を集めて海水を流しかけて乾燥させる古来の製塩法に学んだのだそうです。まさにその藻塩草(もしおくさ)(ホンダワラなどの海藻)のイメージから生まれたことになります。

 長崎の中央繁華街、浜町から観光通りを経て諏訪神社に通じる仲通り商店街の一角。近くには眼鏡橋があり、「龍馬通り」ののぼりがはためく庶民的な風情のある通りです。長崎の旅。一見の、味覚体験の価値はあります。
 

 


  楽興 ~ ヤナーチェク → 『1Q84』

2016年08月08日 | 楽興
     

 ヤナーチェクは19世紀から20世紀前半にかけて活躍したチェコの作曲家です。音楽ファンの間でもさほどポピュラーではありませんが、「シンフォニエッタ」が村上春樹の小説『1Q84』のプロローグで印象的に描かれてにわかに評判になりました。6,7年前になりますか。

 リオのオリンピック開幕に触発されて久しぶりにレコード棚を探して針を落としました。チェコの民謡に取材した旋律やリズムがちりばめられて親しみやすい小交響曲の風情ですが、金管楽器のファンファーレが全曲の序奏となって特徴的です。つまり、オリンピックに協賛のレコードコンサート?

 レコードジャケットに若い小澤征爾の顔があしらわれています。ボストン交響楽団の音楽監督に就任したばかりの頃でしょうか。30年以上も前、シカゴ交響楽団を指揮した珍しい記録です。

 若々しい情熱とリズム感が若き小澤らしい、と言えば後付けです。当時、ベルリンフィルに匹敵すると評された腕達者のシカゴ響。合奏のみごとさは当然として華やかな金管の響きはリオのオリンピックにふさわしいものでした。オルトフォンのMC30カートリッジが音盤から拾い上げた音響をマッキントッシュの管球アンプが老兵タンノイ・ウエストミンスターを励まして立派に再現してくれました。
       

 さて、村上春樹氏の『1Q84』。青豆という奇妙な名を持つヒロインが渋滞の高速道路のタクシーで耳にする設定でした。一節を聴いただけで彼女に「ねじれに似た奇妙な感覚をもたらす」ことになります。分厚い2巻の大著は難解でした。読書中に感じた不思議な感覚だけが残って、「シンフォニエッタ」が小説の中でどのような意味をなしたのかも忘れ果てていました・・・。