このシーンに見覚えのある方はニッカ・ウイスキーの愛飲家で音楽を愛する少しハイカラで趣味のいい方ではないかと勝手に想像します。国産ウイスキーが、平成の現在、ちょっとしたブームだそうです。もちろん、和製ウイスキーのパイオニア、ニッカウヰスキーの創業者である竹鶴政孝を主人公にしたNHKの朝のドラマ「マッサン」の波及効果です。
今から30年ほど前になりますが、1980年代にウイスキーをさわやか、清澄なイメージで強く印象づけたテレビ・コマーシャルがありました。ヘンデルの「オンブラ・マイ・フ(なつかしい木陰)」をイメージ・ソングにアメリカの新進ソプラノ、キャスリーン・バトルを起用した「スーパー・ニッカ」のそれです。みどり深い湖畔の風景を背景に純白のドレスをまとった歌姫のリリカルなソプラノは衝撃ということばがふさわしいほど新鮮で、テレビCMの常識を超えていました。キャスリーンは黒人です。緑と湖と白とのコントラストがとても印象的でした。そのシーンをジャケット・デザインにして、CMで流された「オンブラ・マイ・フ」を含めた四つの歌曲を収めたのがこのレコード(1984年)です。
当時、キャスリーンは日本ではほとんど無名でした。それがかえって新鮮なイメージを強くし、清純でリリカルな声質とあいまってみごとな宣伝効果を発揮しました。彼女を起用し、このようなシーン演出をしたスタッフには、思い出して脱帽です。CMディレクターの林靖夫氏がキャスリーンのゴスペルを聴いた感動をライナーノートに書き残しています。《これはもう感動の領域を超えて、官能の深みにいる恐怖を感じさせるものだった。あの小さな愛らしい普通の肉体のどこから、あの声が紡ぎ出されるのか、最近、めったにおめにかかれない神の美技であろう》。
このレコードは12インチの普通のLPながら45回転(通常は33回転)で、標題曲のほかにラフマニノフの「ヴォカリーズ」、オルフの「カルミナ・ブラーナ」の中の1曲、そして、シューベルトの「夜と夢」のわずか4曲で1500円の定価がついていました。ぜいたくなつくりですね。
それからほどなく世界の歌姫になったキャスリーンは1987年のカラヤン指揮のウイーンフィル・ニューイヤーコンサートに招かれます。晩年のカラヤンにも愛されました。「春の声」の軽やかな歌声が印象的でした。こうした10年を経てわたしたち日本人に心からの愛をこめて送り届けてくれたのがこのアルバム、日本語で歌う日本歌曲集です。石川啄木・越谷達之助の「初恋」、武島羽衣・瀧廉太郎の「花」、北原白秋・山田耕筰の「この道」、林古渓・成田為三の「浜辺の歌」そして日本古謡の「さくらさくら」、アルバムタイトルの「ファースト・ラブ」は「初恋」からの引用でしょう。
それにしても繊細可憐、澄みわたったソプラノの、なんと日本歌曲にふさわしいのでしょうか。彼女の日本語は流暢とまでは言えないかもしれません。しかし、久しぶりに彼女の歌を聴いて日本語とその詩の美しさを改めて教えてもらったような気がしました。ことばと旋律が余りにちぐはぐな、日本語の発音やことば遣いのあまりの下品さに耳をふさぎたくなっているこのごろ、心底救われる思いがしました。言葉に対する敬意、詩に対する愛、旋律にたいする共感・・・日本と日本文化に対するキャスリーン・バトルの愛と尊敬の念、最高の心技体に心から拍手を送りました。