うきは拾遺集

    野鳥の声に目覚め、筑後川を眺めて暮らす。
   都鄙の風聞、日日の想念、楽興の喜び&九州ひと図鑑。

新元号 令和 ー 自立した清々しい姿でありたい

2019年04月22日 | 随想
         新元号に寄せる紫舟さんの思い 

 新しい元号となる「令和」はおおむね好意的に受け止められているようですが、「令和」という言葉から得たインスピレーションを、「自立した清々しい姿」と表現した女流書家・紫舟さんのことばが過日の読売新聞に紹介されていました。新しい世代を担う女性らしい新鮮な語感に感銘しました。

 同じ和をもつ昭和は「同調」が「和」と呼ばれ、平成は「古き良き成長の昭和を回顧して生きた時代」との歴史認識の上に立って、「私たちは再び『和』を元号として手に入れました。この和は、『和して動ぜず』でなければならない」と。多様性と個性、同調と自主性という価値観の共有。この元号に見合う時代の生き方として誠に的確で美しいと思いました。紫舟さんの感性と教養に乾杯! 新聞でこそ拾えます。新聞にも乾杯!
 

梅屋庄吉 (1868-1934) 《『西方の風~九州ひと図鑑』(山﨑潔著)》より(4)

2019年04月16日 | コラム
                孫文君、財ヲ以ッテ君ヲ支援ス。

 中国・清王朝を倒した孫文の辛亥革命。梅屋庄吉は若き日に香港で孫文と交わした、「君は兵を挙げたまえ。われは財を挙げて支援す」の盟約を貫いて不屈の革命家を30年間、生涯にわたり支えた。北京オリンピックに続く中国の国家的事業として開催された2010年の上海万国博覧会。日本館が企画した「孫文と梅屋庄吉展」の開会式で梅屋の曽孫にあたる小坂文乃さん(日比谷松本楼常務取締役)はこのように呼びかけた。

 「志を同じくした日本人と中国人がアジア平和のために共に行動した歴史を中国の方々ににもぜひ知っていただきたい」と。両国の友好が必ずしも安定しない環境で「孫文と梅屋庄吉展」は6日間に2万人を超える見学者を集めて中国人の心にいぶし銀の光をともした。欧米列強による蹂躙、政治腐敗で中国は瀕死の巨像であった。「満州族の王朝である清を倒さなければ漢民族の未来はない」との思い。

 孫文は理想の国づくりのために共和国樹立を悲願とした。列強からのアジア解放を唱えた日本のアジア主義者たち。中央政界の犬養毅、福岡の頭山満、熊本の宮崎滔天らが物心両面で支援した歴史はよく知られる。梅屋も有力な同志だったが、「陰徳(人知れず行う善行)」を信条として孫文との関係の口外を没後も遺書で禁じた。梅屋庄吉の存在がクローズアップされたのはごく最近のことである。

 広東省の農家に生まれた孫文が革命家につながる西洋思想に目覚めたのは兄を頼ったハワイであった。帰国して医学を修め、いったん開いた診療所を閉じて革命団体「興中会」を組織したのもハワイである。梅屋と孫文の出会いは革命16年前の1895年(明治28年)、最初の蜂起が失敗して日本に亡命中の香港であった。梅屋はこの街で写真館を営んでいた。

 多くの中国人が暮らす長崎の商家に育ち、大陸は心理的に近かった。アジアを転々として見たものは欧米の前で抑圧されて屈辱的な人々の姿であった。清朝打倒の計画を打ち明けて援助を乞う孫文に梅屋は盟友たるを約した。29歳孫文の大志と27歳梅屋の意気に対する配剤であった。民族主義、民権主義、民主主義。いわゆる三民主義を掲げて歴史に残る辛亥革命(1911年)を達成しても「孫文の革命」は挫折と再起の連鎖であった。

 自身が臨時大総統となった中華民国は成立したが、政権は内部抗争に明け暮れ、政府・国家を運営する力はなかった。清朝の元官僚で軍閥を背景に独裁化する袁世凱に対する数次の反攻も失敗に終わり、更なる亡命を余儀なくされるのである。

 梅屋は滞在中の住まいを提供し活動費を支えた。宋慶鈴夫人との縁を取り持って東京・新宿の自邸で挙式を実現させのも梅屋であり、新婚の家財道具選びには妻のトクが同伴した。ちなみに孫文の後継者として国民党を率いて中華民国を統一した蒋介石の妻・宋美齢は慶鈴夫人の妹である。

 日本の対中国政策と中国国内における共産党勢力の伸長で孫文の立場は大きく変わりながら最初の国共合作を演出して辛亥革命から14年後に没した。「革命、未だ成らず」の遺書に署名して・・・。梅屋は南京での国葬に日本人としてただひとり棺に付き添った。蒋介石が毛沢東の共産党との内戦で敗れ、台湾で中華民国を継承するのはその後の歴史である。

 
 梅屋に話を戻す。孫文との出会いのあと、拠点をシンガポール移し、国際都市で映画興行に打って出て巨利を得た。辛亥革命の口火となる蜂起の報が届くや現地に撮影隊を派遣する。公開用ではない盟友だけのための記録映画である。時を経て梅屋は明治38年(1905)に帰国、新興文化である映画産業に没入して興行と製作を本格的に始めていた。白瀬中尉の南極探検の記録映画を製作、全国で上映して大成功を収めるのはその翌年である。

 同業を誘って「日本活動写真株式会社」(「日活」の前身)を設立したのは1912年(大正元年)。現在の金額にして2兆円とも言われる支援金はこうした事業で得た私財のすべてであった。孫文の没後、梅屋は4体の銅像をつくって中国国民に贈った。中国の「革命の父」を敬愛する日本人がいたことの証として。文化大革命期に撤去の危機から逃れることができたのは周恩来の尽力であった。

 今も広州に2体、南京、マカオに1体ずつ、変わらぬ友情を伝える。ことしは辛亥革命100年である。                     
                                     (2011年7月号掲載)

庖丁道、そして浦安の舞い

2019年04月14日 | 随想
 茶道や華道と同じように庖丁道という「道」があることを初めて知りました。昨日、二日市八幡宮(福岡県筑紫野市)の春祭りを見学し、総勢6人による”秘儀〟の一部始終を見ることができました。料理をして膳を整えること、すなわち「庖丁」であると総称し、食の儀礼、礼式の流派の一つとして室町時代に始まったのだそうです。創始者である幕府の奉行衆・大草三郎公次(きんつぐ)に因んで大草流庖丁道。足利将軍家における調理は信用のおける譜代の家臣が担当していました。
 庖丁道とは料理に関する作法・格式・調理法などを調理器具の「庖丁」に託して象徴的に表現されたものです。権力者を抹殺するのに毒が盛られることが古来、珍しくなかった厳しい現実が背景にありました。料理に手が触れることはご法度。この日は拝殿前に特設舞台が用意され、生のタイのさばきは左手の長い金属製?のハシと脇差にも見える右手の庖丁を巧みに動かしてきれいに三枚に処理されました。ひれの部位?が神具の御幣の形に仕上げられたのも見事でした。
 ちなみに当時は、本膳料理をいただくことが主で、「茶の湯」は、本料理の添え物に過ぎませんでした

  

  

  

 それより前の舞台では雅楽の合奏、美しい巫女による「浦安の舞」も奉納され、併せて日本伝統文化の実演を堪能することができました。蛇足ながら、「浦安の舞」は大戦前の昭和の初めに昭和天皇が詠まれた歌を主題につくられました。

   天地(あめつち)の神にぞ祈る朝なぎの海のごとくに波たたぬ世を

 浦安の「うら」は心を意味する古語で「心中の平穏」を表し、御製の歌は天皇の平和を願う心情を詠んだものだと解釈されています。
 いずれにしても、このよう豪華な奉納行事が毎年行われていると聞いて、当地の有名な二日市温泉をはじめ地域の結束と財力をうらやましく思いました


   
   

   
 

出光佐三(1885-1981) 《『西方の風~九州ひと図鑑』(山﨑潔著)》より(3)

2019年04月12日 | コラム
                  海賊ノ愛ト誠ト信念ト。 

  出光興産の創業者。反骨の経済人、国際石油資本(石油メジャー)の理不尽に立ち向かった石油・民族資本の雄として記憶に刻まれている。明治18年に生まれて石油を商いし、ひたすら「坂の上の雲」を見つめて95年の波乱を生きた。昭和56年春の、その死を悼んで 詠まれた歌がある。

  国のためひとよつらぬき尽くしたる きみまた去りぬさびしと思ふ

 さびしと思ふ ー 詠み人と、「海賊」と呼ばれたこの人との間に縁はない。昭和天皇である。昭和の戦争、敗戦で廃墟となった。復興に欠かせない石油は欧米・国際カルテルの搾取と支配にあり、市場はそのさじ加減であった。理不尽でも受け入れざるを得ない状況に出光は敢然、抗した。イランが石油の国有化を宣言し、旧宗主国のイギリスと権益をめぐり激しく争っていた。

 究極の決断がイラン石油の直接買い付けだった。イランに大義があると判断した。イギリス海軍が展開するペルシャ湾の奥深く、自社のタンカー「日章丸」を潜入させ、決死の積み込みを決行したのは昭和28年の春である。極度の緊張は避けられなかった。きわどいが、しかし周到に計算された。国際法上の問題、各国・国際世論の動向、航海上の危険など想定されるあらゆる局面に対する準備、対策を講じた。

 目的地やコースを偽装し、監視・封鎖網をあざむいての航行。神戸を出港し、アバダーン入港が外電で報じられると、「敗戦国の民間企業、世界の海軍国にケンカを売る」と大騒ぎとなった。国際価格の半値で買い取った22,000キロ・リットルを満載して47日ぶりに東京湾に帰着した。歓喜の埠頭。映画ニュースのカメラの前で言い切った。

 「これは出光の仕事ではない。国家、国民としてやるべき仕事である。国民としての態度を失わないよう自分を戒めることがわたしの仕事」。安くて上質の石油を得て日本のガソリン価格は年間130億円(当時)も下がったと伝えられる。積み荷の所有権を主張するイギリス・石油メジャーは東京地裁に提訴し、第1回口頭弁論は日章丸が帰着した日に開かれた。出光の主張が認められ、訴状は控訴審の途中で取り下げられた。

 世界も快哉を叫んだ。「日章丸事件」と記録されるニュースは筆者・田舎の中学生の記憶にも不思議なほど鮮明である。おそらく新聞報道に依った。テレビはNHK、日本テレビが同年、東京のみで開局したばかり。ラジオも身の回りになかった。《国のためひとよつらぬき尽くしたる・・・〉は、昭和天皇の万感であったと想像する。
 
 福岡県赤間村(現・宗像市)が佐三の生地である。長崎街道から分岐して博多を経由して肥前唐津にいたる街道の赤間宿。藍問屋の二男は神戸高商(現・神戸大学)に学んだ。興隆期の港町・門司で日本石油の特約店として出光商会を開業するのは25歳の明治44年、油を積んで大八車を引く姿が石油王の原点である。関門海峡の漁船に帆掛け船から発動機船への転換を働きかけ、油の時代を先導した。

 地域専売で圧力をかける業界には洋上販売の奇策を編み出し、「海に境界線はない」論法で対抗した。「海賊伝説」の始まりから「日章丸」は42年目の快挙であった。ときに倒産の危機に直面しながら戦前の満州に進出して貨車の車軸凍結で悩む南満州鉄道に寒冷用の特製油で外国油の独占を奪い、戦中には海軍と結んで中国、東南アジアに販売網を広げた。

 敗戦で海外資産のすべてを失いながら玉音放送の2日あとには1,000人の従業員に「首切りはしない」と宣し、「すぐ再建にかかれ」と檄した。組織を再編した出光興産の再起は旧海軍燃料廠の廃油処理を足掛かりとした。悪臭、危険、油まみれ・・・タンクの底の廃油をくみ取る作業は全国8か所、1年半に及んだ。そして、石油メジャーの呪縛を解き放ち、産油国との間で取り引きを直結した日章丸である。
 
 解雇なし、定年なし、出勤簿なし、労働組合なし・・・人間尊重と「社員は家族」の価値観を信条とした経営哲学は出光佐三のの名とともに神話となった。産土神である宗像大社への崇敬が精神の基にある。戦前からすでにその荒廃に心を痛め、戦後いち早く復興に取り組んだ。神社史の編纂とそのための沖ノ島発掘調査は古代祭祀遺跡と祈りの姿を明らかにし、本殿、拝殿の改修にも私財を投じて数十億円、事業は30年におよんだ。
 
 中国大陸や朝鮮半島と日本を結んで玄界灘に浮かぶ。古代の祭祀遺跡そのものとして孤絶現存する沖ノ島を中心とした「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」が世界文化遺産に登録されたのは平成29年(2017)のことである。 出光佐三なしに文化遺産登録はなかった。           
                                     (2019年1月号掲載)

 『西方の風』 ~ 九州人の物語(2)

2019年04月09日 | コラム
                       序 文

  「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が2018年(平成30年)のユネスコ世界文化遺産に登録されました。対象となった12の関連遺産は教会などの建築物より、潜伏キリシタンが禁教時代の約250年間にひそかに育んだ宗教的な伝統と集落の営みでした。長崎郊外の外海・出津集落、隠れキリシタンの信仰告白の舞台となった大浦天主堂などが含まれます。九州地域の文化遺産が世界に評価されて登録されたのは「明治日本の産業革命遺産」(2015年)、「山・鉾・屋台行事(博多祇園山笠など)(2016年)、「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」(2017年)に続くものでした。これより前の2011年(平成23年)には筑豊炭田(福岡県)の生活風俗を伝える「山本作兵衛炭坑記録画・記録文書」が世界の記憶遺産に登録されています。わたしたちの祖先が刻んだ歴史、文化の営みの証であり、その厳しさと豊かさを改めて思います。
 
 日本列島の独よりも早く新しい文物にふれてきた西国のこの地。ここを舞台に偉業を成した人々について学び、一書にしようとしている者には、遺産の礎になった無限の人々とともに、光芒を放って本書の登場する人たちを振り返って特別の感慨があります。「九州」という呼称はその昔、筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後、それに日向、大隅、薩摩国と九つの国で成り立っていたことに由来するのだそうです。それぞれの風土が独自の人と文化を育てたことはご案内のとおりです。ここに収められているのは私たちが誇りにしている英雄、偉人、異才たちであり、この土地この歴史に使命感とともに美しい生き方を刻んだ人たちの群像です。

 原文は福岡銀行を中心とする「福岡フィナンシャルグループ(FFG)」の経済紙『FFG調査月報』の巻頭コラムとして平成23年(2011)から平成最後の年である童31年の春まで8年間にわたって掲載したものです。「偉人伝」という与えられたテーマ。先人の足跡を振り返ることによって九州経済の一線で活躍される方々の元気と勇気を励ましたいとの願いであろう自分なりに想像し、執筆の心構えとしました。『九州ひと図鑑』として七十数編をまとめた初版(平成30年3月、株式会社FFGビジネスコンサルティング刊)に、その後の掲載稿を加えて刷新・改定を試みたのが小書です。増補改訂に際して署名も改めました。

 ここで言う「九州人」は、出身者や住み着いた人たちに限らず、人生の一時期を過ごして地域の発展に尽くし、新しい文化・芸術を創造してその気風を醸成するのに足跡を残した人たちも含まれます。夏目漱石、柳原白蓮、シーボルト、グラバーのような人物です。いわゆる偉人という人たちに限りません。多彩な群像を眺めて九州が人材のワンダーランドであったことを改めて教えられます。

 ことさら申し上げることではないと思います。一人の人物を描き切ることはそれ自体、至難です。傑出した対象であればなお、あるべき姿で彫出するのは筆者の能力を超えます。力の及ばざる自覚しながら筆を進めてしまった畏れにいます。ガイドブックのつもりで読んで下されば少しは楽になります。案内人のおぼつかなさがむしろ読者の方々の更なる興味や関心を誘い、結果として偉業を成した人たちの美しい心の風景に導くことになればと願うばかりです。そして、私たちがいま手にしている豊かさや誇りを確かめ、日本人が忘れがちな ”生きがい„ ”生き方の美学„ といった言葉で凝縮されるものを群像の中にあわせて読み取って下されば冥利につきます。

 あと二か月で平成の時代が改まり、5月1日から新しい年号が始まります。時代の節目に新装版を敢行することができたことに意義を感じています。皆様方の身近にあって時折りページをめくって下さる機会に恵まれますれば幸甚に存じます。
                                 
                                  平成31年3月1日  著者
 

『西方の風』  ~  九州人の物語(1)

2019年04月08日 | コラム
 『西方の風』 《九州ひと図鑑》 (山﨑潔著 洒落堂出版) 
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        〒839-1407 福岡県うきは市浮羽町三春649番地
              (fax 0943-77-2971)
              (Mail  miha15@ark.ocn.ne.jp)strong>

   古来、日本列島のどこよりも早く新しい文物・思想にふれてきた西国のこの地。その歴史に鮮烈な軌跡を描き、独特の文化と風土を築いて名を残した人々の群像です。ここで言う「九州人」には、出身者や住み着いた人に限らず、人生の一時期を過ごし地域の発展に尽くし、新しい文化・芸術を創造してその気風を醸成するのに足跡を残した人たちも含まれています。
全351ページの重厚の大冊に収められた81人の群像。元読売新聞社会部記者だった著者の、簡潔にして洗練された文章が偉人、英雄、異才たちの人物像を情味をたたえて描きます。九州の歴史、風土を知る入門書としても恰好です。当欄で全文の掲載はできませんが、それぞれの人物について導入部の味わい深い文章を紹介することで”出会いの場„とさせていただくことにしました。

 
 

                  登場人物の総覧

 出光佐三 梅屋庄吉 大浦慶 グラバー 小泉八雲 西郷隆盛 佐野常民 シーボルト 楠本イネ 鄭成功 ド・ロ・神父 永井隆 広瀬武夫 細川ガラシャ 柳原白蓮 ハンナ・リデル 青木繁 油屋熊八 一井正典 伊東玄朴 稲尾和久 井上伝 岩崎弥太郎 岩松助左衛門 犬童球渓 上野彦馬 梅ケ谷藤太郎 江上津直・井上甚十郎 江藤新平 大久保利通 大隈重信 大友宗麟 貝原益軒 亀井南冥 川上音二郎 河村光陽 北里柴三郎 北原白秋 草野丈吉 久留島武彦 黒田如水 五代友厚 五人の庄屋 小松帯刀 小村寿太郎 斎藤茂吉 佐藤慶太郎 島井宗室 島村湖人 杉田久女 仙厓 副島種臣 高群逸江 滝廉太郎 立花宗茂 辰野金吾 田中久重 種田山頭火 丹下ウメ 長夘平 鉄川与助 東郷平八郎 徳富蘆花 中村天風 夏目漱石 鍋島直正 野村望東尼 林芙美子 広瀬淡窓 広田弘毅 福沢諭吉 布田保之助 二川相近 松田雅典 宮本武蔵 本木昌造 安元知之 夢野久作 横井小楠 若山牧水  渡辺与八郎