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榛名古道

ブログでは「榛名古道」と名乗っています。

榛名山のスルス峠について

2021-11-04 11:12:42 | 榛名古道
「スルス峠」は榛名湖と旧箕郷町(現高崎市)を結んでいた峠です。麓から峠に至る道は今では廃道と化している区間があり、それだけに探索のしがいがあります。

明治時代以降に盛んに使われた道ですが、自動車が物流の主役を担う以前の道という意味で、私のブログでは「古道」として扱います。

なお、地形図では「磨墨峠」の表記ですが、「摺臼峠」や他の表記もされることがあり、私のブログでは「スルス峠」で統一させていただきます。



このブログにまとめたきっかけはクタビレ爺イさんのブログでの山はこれからさんのコメントです。

Unknown (山はこれから)
2021-05-15 01:21:43
(略)それから、スルス峠から表口石標までの山を巻くルートが不明です。
少々話が逸れますが、土屋文明氏が高崎中学時代の習作で「枯野抄」という作品が、ガラメキ温泉が舞台で、高崎からガラメキへ向かう途中、松之沢へ迷い込みやすい、とか、温泉湯の描写、温泉からスルス峠、とか、往時の様子を伺い知ることができます。

私が複数回の探索を行ったところ、スルス峠から表口石標までのルートがだいぶ分かってきました。後述するように遺跡として馬を通すための敷石が二か所発見できました。




「群馬県歴史の道調査報告書第二〇集 信仰の道」

「奈良文化財研究所」の中の「全国遺跡報告総覧」
で読むことができます。

55ページから111ページが榛名山に関する部分ですが、特に57,62-65,85,90-92ページが黒髪山表口登拝路を扱っている箇所で、スルス峠の道とも重なっています。

ちなみにこのシリーズ「歴史の道調査報告書」は各都道府県ごとに作成されており(群馬県は全二十集)、古道探索愛好家にとって情報の宝庫です。道だけでなく周辺の石造物なども載っています。

榛名山の古道という点では同シリーズの「三国街道」、「信州街道」、「吾妻の諸街道」も見ておくとよいと思われます。特に、後述するように本ブログではスルス峠の道の起点を下小鳥にある三国街道の道標としていますので、起点に関しては「信仰の道」より「三国街道」の方が詳細です。

「良好な自然環境を有する地域学術調査報告書 44」
スルス峠を扱った資料ではありませんが、「相馬山・黒岩県自然環境保全地域」の38-39ページに榛名湖付近の開発史が短く載っています。

「榛名湖は古来榛名神の「みたらし沼」として不入の地とされていた」
「1884年(明治17年)には沼ノ原に榛名牧場ができいてる」
「蚕種飼育・採氷・養魚を目的として榛名湖畔に人が住みつくようになったのは明治20年代」

これらから、後述する二万分一地形図図に見えるような、馬道としてのスルス峠の道が整備されたのは明治20年頃以降のことではないかと考えられます。

前橋及高崎近傍17号(共17面)
大日本帝国陸地測量部/編 -- 大日本帝国陸地測量部 -- 〔1910〕 --
明治四十年測図の二万分一地形図を群馬県立図書館がデジタル化した資料です。

県内全域はカバーしていませんが、スルス峠の道はHTML版では005「榛名湖」、008「榛名山町」、009「柏木澤」に載っています(PDF版も同様)。

その「榛名湖」の図の右下の隅を拡大すると、スルス峠を通る片側実線片側破線の道が下のような形に見えると思います(地形図における道の表示は、先の「枯野」にある荷を載せた馬が通ったという記述とも整合します)。「C〇」はこのブログで便宜上使うカーブの番号で、「∃」は土の崖の記号です。

\  / — C8
 C9  / 
  C7――
      \ 
       C6
      /
     C5
      \
       C4   
       /                 ∃
      C3    C1 ∃ 
       \  / |∃
        C2  ∃\ 

「詳説デ・レイケ堰堤ガイドブック」
こちらもスルス峠を扱った資料ではありませんが、このブログで使う地名の多くはここから取っています。代表的なものが「夕日河原A渓谷」と「夕日河原B渓谷」です。夕日河原A渓谷は二万五千分の一地形図における「磨墨峠」と「相馬山」の文字の間の「1207」の文字の辺りを源頭とする谷/沢で、標高980メートル付近の十字渓の下流も含みます。B渓谷はA 渓谷の東側を並走して標高900メートル付近で合流する谷/沢です。A渓谷とB渓谷の合流後は「黒岩川」とも「榛名白川」とも呼ばれます。その黒岩川が標高650メートル付近で合流する沢が「中河原」で、中河原の方を「榛名白川」と呼んでいる資料もあります。中河原に標高600メートル付近で合流する沢が「栗の木沢」です。「榛名白川」は狭義では中河原と栗の木沢の出合より下流を指します(「詳説デ・レイケ堰堤ガイドブック」40ページ)。

先ほど拡大した「榛名湖」の図に戻ります。「1050」の等高線を見ますと、スルス峠(鞍部)からダイレクトに続く谷が等高線の凹みとして表現されています。この谷をA渓谷の支流ということで「A1」とします。同じ「1050」の等高線を東にみていくと、「A1」と、本流であるA渓谷との間に凹み(=谷)が三か所あることがわかります。それぞれの谷を「A2」「A3」「A4」とします。カーブ番号と合わせて見ますと、C1はA渓谷の徒渉点、C2とC3付近ではA4がどこなのか不詳ですが、C4、C5、C6はA3とA4の間にあるように見え、C6とC7の間で道はA3を渡り、C8とC9の間でA2の源頭部を通って、C9の右曲がりででA1の源頭である鞍部に到達しています。

山はこれからさんがおっしゃっている土屋文明の「枯野」も収録されていまし、他にも榛名湖の氷切りの話など、明治から昭和初期にかけての榛名山での人々の暮らしぶりがうかがえます。

「群馬の峠 西北の地 三山の地」岩佐徹道
の120ページ。

カツギ屋がスルス峠を通って物資を担ぎ上げたり、榛名湖の氷を馬で降ろしたりしていた話や、箕郷の子供がスルス峠を通って榛名湖までスケートをしに行った話が載っています。

「プリン掬い峠」について:

「スルス峠」から麓に向かって下ってゆくと、相馬山頂から南に垂れる尾根と鷹ノ巣山から北に垂れる尾根がつくる鞍部(標高920-930メートル付近)を通ります。私はこの鞍部のことを「プリン掬い峠」と呼んでいます。なぜなら、私の住んでいる麓から見ますと、相馬山から鷹ノ巣山にかけての稜線がつくるカーブの上にちょうど榛名富士が乗っかって見えるからで、スプーンでプリンを掬う様子に見立てているのです。

こちらのPIXTAさんの写真で説明しますと、左寄りに写っている最も高い山が相馬山、その左が榛名富士、さらにその左が鷹ノ巣山です。



以上、長々と述べてきました。探索図は別記事にしました。


ゆけ!ゆけ!仙人くつ!!

2021-04-24 11:31:56 | ヤマレコ連動記事
中之条町、沢渡温泉の近くにある「仙人窟」の記事です。(隣の東吾妻町にも同じ「仙人窟」がありますが。。。)

これから仙人窟の内部を探検しようという方々に、少しでも安全に探検できるよう、私の失敗から伝えられることを伝えていきたいと思います(`・ω・´)シャキーン

まず行く前の準備としまして・・・

・昭和45年(1970年)版の「群馬縣吾妻郡誌」(「完全復刻版 吾妻郡誌」)のp243に仙人窟内部の詳細な図がある。

同じ「吾妻郡誌」でも他の版、例えば昭和61年(1886年)版などには収録されていません(´・ω・`)

県内の図書館を調べてみると(全部は調べられませんでしたが)、

中之条町ツインプラザ図書館


前橋市立図書館

に1970年の「完全復刻版」があるようです。

コピーしてクリアファイルに入れて持って行ってもいいですが、持っていかなくてもいいくらい事前に頭に入れてしまうことを推奨します。(文字が戦前の旧字体な上に掠れて読みにくいところもありますので読み解くのに時間がかかります)

次は装備についてです。私は前回の記事でもいったように、古界名山の帰りに寄りましたが、
ほぼ古界名山に登った装備のまま仙人窟に突入してしまったので装備不足を実感しました。il||li _| ̄|● il||li 

・強力なヘッドライトと、もしものことがあった時バックアップ出来るよう、複数人での行動が必須。

内部は本当に真っ暗です。私の最大の失敗は単独行だったことと、手で持つタイプのライトを持って行ってしまったことでした。洞窟の中で岩を登り降りする場所があり、岩の間にライトを落としてその拍子にスイッチが切れでもしたら・・・((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
 
・グローブ、沢用の靴、ヘルメット等、沢登り用の装備。

岩の上を地下水が流れている場所を通ります。入口までの山用の装備とは別の装備が要ります。

・オプションで、入口からの距離を測るロープ。

事前に1メートル毎などに印を付けておくといいかも知れません。入口近くにロープを結び付ける場所があります。(道標や丸太の柵など)

田村正勝という方の「吾妻郡の名石と伝承」という資料があり、こちらも

中之条ツインプラザ図書館


前橋市立図書館

にありますが、そのp66に、探検気分でロープを手にした若き著者の写真があります(後ろにコウモリも写りこんでいる)。昭和45年の写真なので先の「完全復刻版 吾妻郡誌」を見て準備してきたのだと思われます。

その「完全復刻版 吾妻郡誌」によると、終点まで97.3m、支洞を合わせると全長約165mなどとあります。

一方、「吾妻の里山」や
「私が登った群馬300山 上」
 ではもっと短いように書かれていますが、それは著者が二人とも奥に続く道を発見できなかったからだと思われます。

かく言う私も、入り口から入って最初は「こんなもん?」と思ってしまいました(ノ∀`)アチャー

ですが、右奥に行くと白い矢印があり、それを辿っていくと完全に真っ暗闇になり、ライトで探っていくと次々に矢印が現れます。水音のみが響く中、距離感は失われ、矢印は奥へ奥へと続きます。岩場を登り降りするのにロープならぬ細い紐が設置されていますが、その頼りなさがまた探検気分を盛り上げてくれます。

帰路は帰路で、往路見なかった行き止まりの✖印に二回も遭遇してしまいました。そして・・・細い紐がくくり付けられていたのが・・・洞窟の天井と床の間に“つっかえ棒”として立てられた枯れ木であることを見てしまった!(゜д゜)<アラヤダ

最後に一つ、私めの方から僭越ながらアドバイスをば・・・

・嘉門達夫の歌で探検隊気分を昂める(っ’ヮ’c)ウゥッヒョオアアァアアアァ 
ゆけ!ゆけ!仙人くつ ゆけ!ゆけ!仙人くつ
ゆけ!ゆけ!仙人くつ どんとゆけ!!

( ゚Д゚)σ<そこ!同じ嘉門達夫だからって「鼻から牛乳」にしないように!
ロープの準備は万端みたいだけどな!(* ̄ー ̄)ニヤリ 

(=゚ω゚)<どげえな山? こげえな山!>(^ω^ )

2021-04-05 13:11:39 | 後藤信雄著「吾妻の里山」
2021年の3月、古界名山に行ってきました。山名板が山頂ではない場所に落ちていたので山頂に戻しておきました。v(。・ω・。)ィェィ♪ 

どこに落ちていたかは、こちらのブログのPhoto6にある通りです。

古界名山(こげえなやま) - 山の彼方に (fc2.com)

登りに差し掛かり大きな倒木を潜り抜けると頂稜に出た。山名標でもあるかと先に進んでみたが見当たらず。引き返してみれば雑木林が途切れた展望箇所に風化して文字が消えてしまった金属製の山名板らしきものが落ちていた。

(以上、引用)

私が見た金属板には山名と「1131M」だけが大きな字で書かれていました。上のブログと下のクタビレ爺イさんのブログの写真を総合して考えますと、

1160m峰から古界名山  H-21-4-19

金属板の文字が一度消えた後、書き直したのではないかと思います。(山名板が落ちていた場所についてはブログの最後の方でもう一度触れます。)

古界名山に登ろうと思った理由は、名前が(・∀・)イイ!!からです。

古い世界の名前の山と書きますが、

読みは「こげえな山」。

地元の言葉だと「こんな風な/こんな様な山」という意味にもなります。

マウンテン・オブ・

ザ・ネーム・オブ・ザ・オールドワールド

(かっこよく言ってみた。(`・ω・´)=3)

この記事では「吾妻の里山」(以下「里山」)と


「私が登った群馬300山<上巻>」(以下「300山」)
 
 
の記事を基にしながら、危険なポイントや迷いやすいポイントを挙げていこうと思います。

「岩峰に阻まれますが、右手へ回り込み」(「里山」p51)

仙人窟への道から分岐して尾根上のテープの目印の誘導に従っていると、目印は岸壁(岩峰)の手前でゆるやかに右に曲がってゆきますが、赤の系統と赤以外の白やピンクの二系統の目印があり、菱形(ダイヤモンド状)に四つの印がついているところもあります。赤系統の方が岩壁に近づいてから右に曲がります。

「岩壁の基部を慎重に巻いて進みます。」(「里山」p51)

早くも本コース最大の危険ポイントです。

岩壁の右側に人ひとりが通れそうなルートがあり、最初は水平に近いのですが、下って赤い目印があり、そこは直進せずに、左上によじ登ります。再び水平に近くなりますが、そのまま直進していくと絶壁の上に出てしまうので、その前に右下方に降りられそうなスロープ状の岩があるので、木の根をロープ代わりにしつつ岩壁の下まで降ります。

降りた付近には人一人入れそうな岩小屋(横向きの岩の窪み)があるので、帰路岩壁に取り付く目印にします。帰路も水平~赤い目印のあたりが危険ポイントです。

「再び高みに向かって尾根を行くと」(「里山」p51)

その尾根に左から合わさる尾根があります。帰路は尾根を間違えないように、赤い目印で左折して急降すると憶えておきます。

「水平な踏み跡が現れるのでこれを左手に行きます。」(「里山」p51)

踏み後は植林帯の中を下っていくようですが、植林帯の中を通るのが苦手なので、そのまま尾根を直進しました。

緩やかだった尾根が再び急登になる手前、左手に植林帯の西の端=植生界が見えてきます。その端から僅かに東に植林帯に入った斜面に道型が見えるので、そこへ向かいました。(道型から振り返ってみると、踏み跡が植林帯の中を通るルートと、植林帯を出て尾根に合わさるルートに分岐していました。)

「踏み後は途切れますが、」(「里山」p51)

そのまま北西~南東に垂れる小尾根を回り込んで水平に進むとガレ場の急斜面の上に出ますが、小尾根を少し降ると下のガレてるクボに降りられます。

そのクボの隣に、まるで整地されたかのような真っ平な平地があります。3月には朴の木の枯葉が大量に落ちていました。地形図に表されていないことから、人工的な地形なのでしょうか。

「前方のヒノキ林に入れば山頂へ続く主稜線で」(「里山」p51)

「主稜線」と表現されていますが、正確には三等三角点「焼止」のある1210.2m峰と古界名山の西隣の1070m峰を結ぶ稜線です。知らずに直進して1070m峰の方に行きかけました。低いほうの1070m峰に続く稜線の方が古界名山に続く稜線より僅かに高いので間違いやすいのです。もとの稜線(尾根)から古界名山へ続く稜線に左折するところにピンクの目印があります。

「里山」p51に「こげえな山山頂」として山頂ではない場所の写真が載っています。山名板が落ちていた場所です。

「300山」では

「地元の人が展望はないと言っていた古界名山に付く。雑木林の小平地。2
分先へ行くと、同じ位の標高で松が2本ある岩頭がある。」(「300山」p255)

と、誤解の少ない表現になっています。ただ、「同じ位の標高」とありますが、山頂から岩頭(山名板が落ちていた場所)へは尾根を数メートルくらい降ります。

帰路に仙人窟にも寄ったのですが、それは次の記事で。

♡神様からの愛の伝言♡

2020-12-30 16:08:28 | 群馬の低山
先日、上毛新聞の記事にもなった、嵩山のハート型の影・通称「神様からの愛の伝言」を見に行ってきました。
地元の人が毎日のように登られているので、見に行こうという人は地元の人に聞くのが早いと思いますが、ここではいくつか注意点をば・・・


記事には「2度目の曲がり角」とあり、現地にある地元の方が作った掲示板には「二つ目の右折」とあります。ですが、実際には五合目から四つ目の角(=二つ目の右折の次の左折)が見やすいポジションです。


そのポジションから見て、正面よりかなり右の奥の上方に、影が映る木が見つかります。(私は最初、正面寄りの別の木だと思っていました。地元の方がいなかったら見逃していました(ノ∀`)


私が見た12月25日には、13時44分頃が見頃でした。影の縁も記事の写真より太く見えました。冬至に近かったからでしょうか。


小林泰彦の「日本百低山」で


「テーマパーク嵩山中随一のみどころ」(p68)と絶賛されていた


「一升水」が涸れてしまっている分、


嵩山の新たなみどろことして神様が用意したのでは・・・などとロマンをかき立てられます☆・*:.。..。.:*・☆(人´Д`)ポッ