しばらく黙ってむかいあっていたが、ともかくこの女が犯人であったのがわかって、心のおさまりがついた気がした。咎めだてするつもりはなかった。もうしませんといわれても、こちらも新聞の購読をヤメるのだからもう関係はない。
「そこの新聞をもらってかえれば、もういいですよ」
「すみませんでした」
「うん」
「警察とかにいわないんですか」
「警察に捕まったって、その盗癖はやめられないんでしょ」
意地悪だったが、本質をついてやった。また、どこかで、べつの何かを盗むのことになるはずだ。大きなヤマはふまないけれど、ちっぽけな他人の物をときどき盗んで、精神の安定をはかろうとするだろう。
「そうですね。あの人が出ていってくれないと・・・」
「誰か相談する人いないんですかね。医者でもいいんじゃないかな」
女は顔をあげて、こちらをじっとみつめた。
「神尾さんも、わたしが病気だと思いますか」
自分は名のらぬくせに、こちらの姓名をきちんと呼ぶので、ちょっと嫌な気がした。根拠のないハンデがついたような気がする。
「わかりませんね、医者じゃないし。でも、話していることは、尋常なことじゃないよ」
丁寧なのだか、タメグチなのかわからない物言いになった。混乱されられたみたいだ。はやく自分の部屋にもどりたい。
「神尾さんのからだのなかには、ほかになにも住んでいませんか?」
「すくなくとも別の人格は住んでない気がするね。ケモノみたいな衝動は住んでるけれど、それも自分の一部だよ」
「ケモノですか?」
そこに食いついてくるなよ、と思う。
「わたしには、山尾素子って女の人が住んでいるんです」
自分よりさきに、自分の別人格を教えてもらうとは思わなかった。
「で、あなたの名前は?」
「白井薫といいいます。カオルです」
いよいよ部屋にひきあげたくなってきた。なんだか、ぞろぞろとほかの人格も出てきそうな気がして薄気味悪いのだ。ほんとに精神科に診てもらうべきだ。一昨日の老女なら警察に保護してもらえたけれど、今回は《窃盗犯》の嫌疑もあるからヤメておいたほうがいいだろう。
「とにかく、万引きとかで捕まらないうちに、なんか手を打ったほうがいいね。お医者さんへいくのがいちばんだと思うな。その山尾素子って人に出ていってもらえばいんでしょ」
そんな簡単にいかないことはわかっているけれど、「医者へ行け」というのがこの際、最高のアドバイスには違いない。
「お医者さんは、個人のプライバシーはきちんと守ってくれるんじゃないかな。職業上の守秘義務があるからね」
「神尾さんもですか?」
どうにも、ピントがはずれてくる。
「はい、この件はすぐに忘れちまいますよ。誰にも言いません。それに、このアパートにいつまでいられるかもわからないんです」
相手を安心させてやるつもりで、余計なことまで言ってしまった。
「引越すんですか?」
「うん、家賃が払えなくなりそうだからね。会社がアブナイんですよ」
「困りますね」
同情するようなことをいわれて、なんか脱力する。
「とにかく、新聞をひきとって、もう帰りますから」
女の返事をまたずに、立ち上がると、上り口の新聞の束を拾い上げて、外に出た。ドアをしめるときに、ふと表札がわりのプレートに眼がいって、すこし驚いた。居住者の名前が、白井薫ではなくて、山尾素子だったのだ。