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天沼春樹  文芸・実験室

文芸・美術的実験室です。

猫迷宮  87

2011年04月09日 16時31分24秒 | 文芸

 しばらく黙ってむかいあっていたが、ともかくこの女が犯人であったのがわかって、心のおさまりがついた気がした。咎めだてするつもりはなかった。もうしませんといわれても、こちらも新聞の購読をヤメるのだからもう関係はない。

「そこの新聞をもらってかえれば、もういいですよ」

「すみませんでした」

「うん」

 「警察とかにいわないんですか」

「警察に捕まったって、その盗癖はやめられないんでしょ」

 意地悪だったが、本質をついてやった。また、どこかで、べつの何かを盗むのことになるはずだ。大きなヤマはふまないけれど、ちっぽけな他人の物をときどき盗んで、精神の安定をはかろうとするだろう。

「そうですね。あの人が出ていってくれないと・・・」

「誰か相談する人いないんですかね。医者でもいいんじゃないかな」

 女は顔をあげて、こちらをじっとみつめた。

「神尾さんも、わたしが病気だと思いますか」

 自分は名のらぬくせに、こちらの姓名をきちんと呼ぶので、ちょっと嫌な気がした。根拠のないハンデがついたような気がする。

「わかりませんね、医者じゃないし。でも、話していることは、尋常なことじゃないよ」

 丁寧なのだか、タメグチなのかわからない物言いになった。混乱されられたみたいだ。はやく自分の部屋にもどりたい。

「神尾さんのからだのなかには、ほかになにも住んでいませんか?」

「すくなくとも別の人格は住んでない気がするね。ケモノみたいな衝動は住んでるけれど、それも自分の一部だよ」

「ケモノですか?」

 そこに食いついてくるなよ、と思う。

「わたしには、山尾素子って女の人が住んでいるんです」

 自分よりさきに、自分の別人格を教えてもらうとは思わなかった。

「で、あなたの名前は?」

「白井薫といいいます。カオルです」

 いよいよ部屋にひきあげたくなってきた。なんだか、ぞろぞろとほかの人格も出てきそうな気がして薄気味悪いのだ。ほんとに精神科に診てもらうべきだ。一昨日の老女なら警察に保護してもらえたけれど、今回は《窃盗犯》の嫌疑もあるからヤメておいたほうがいいだろう。

「とにかく、万引きとかで捕まらないうちに、なんか手を打ったほうがいいね。お医者さんへいくのがいちばんだと思うな。その山尾素子って人に出ていってもらえばいんでしょ」

 そんな簡単にいかないことはわかっているけれど、「医者へ行け」というのがこの際、最高のアドバイスには違いない。

「お医者さんは、個人のプライバシーはきちんと守ってくれるんじゃないかな。職業上の守秘義務があるからね」

「神尾さんもですか?」

 どうにも、ピントがはずれてくる。

「はい、この件はすぐに忘れちまいますよ。誰にも言いません。それに、このアパートにいつまでいられるかもわからないんです」

 相手を安心させてやるつもりで、余計なことまで言ってしまった。

「引越すんですか?」

「うん、家賃が払えなくなりそうだからね。会社がアブナイんですよ」

「困りますね」

 同情するようなことをいわれて、なんか脱力する。

「とにかく、新聞をひきとって、もう帰りますから」

 女の返事をまたずに、立ち上がると、上り口の新聞の束を拾い上げて、外に出た。ドアをしめるときに、ふと表札がわりのプレートに眼がいって、すこし驚いた。居住者の名前が、白井薫ではなくて、山尾素子だったのだ。