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天沼春樹  文芸・実験室

文芸・美術的実験室です。

猫迷宮  86

2011年04月08日 16時16分53秒 | 文芸

                         

 

 

 女の短いスカートから白い膝がのぞいている。長い髪は、最近はやりのワンレンとかいうやつだ。

「今日はデパート、早びけしてきたのです」

 なんの告白がはじまるのだろうか。やはり池袋あたりの百貨店に勤めているらしい。着ている物もそれなりに洗練されている。もうすこし小奇麗なアパートが似合いそうだ。色白の瓜実顔。目鼻立ちはうすくて、眼をふせていると雛人形のにみえる。だまって喋らせることにした。

「神尾さんの夕刊を盗ろうとしたら。もうおかえりでした」

「新聞とってないんですか」

「あまり読みません」

 どういうことだ。単なる盗癖なんだろうか。

「もうひとりのわたしが手癖が悪くて・・・・」

 態度にはみせなかったが、その言葉にすこし動揺していた。またおかしな人が出てきた。もうひとりの自分て、多重人格なのだろうか。それとも、気味の悪いことを言って、この場をのがれようとしているのか。弁解のようにも聞こえなかった。さきほど、自分だって、「やめとけ!」と、もうひとつの声を聞いていた。たぶん、そういう言い方をしているだけなのかもしれない。女は、すこし体をゆらして、座りなおした。

「ときどき無性に物を盗みたくなるんです。子どものとき何度か補導されました」

「なにかが欲しいわけじゃないんだ」

 わざとタメグチぽく応答してやる。こっちはカウンセラーなんかじゃないんだから。

「はい、なんだか小さな罪を犯したくなるんです」

 新聞をヌカれた側にすれば、小さな罪とも言いたくなかったが、黙っていることにした。

「就職した職場で、ときどき、商品を盗みたくなるんです」

「やったことあるの?」

「いえ、さすがにできませんでしたけど」

「それで?」

「神尾さんところの新聞をこっそりヌイていくと、気持ちがスッとして、職場ではそんな気持ちがおこらなくなったんです」

「それ、病気とちがいますか?」

 思い切っていってやった。カウンセラーじゃないんだから。

「そうかもしれません。もうひとりの自分が勝手に動きだすんです。物を盗んでやると、おとなしくなります」

 もうひとりの自分ではなくて、むしろ自分の中にいる他者だろうという気がした。

それに、手癖が悪いのは、その他者じゃなくて、自分だろう。さっきは、そうはいっていなかった気がした。

「いつから、もうひとりが現れたの?」

「十四歳くらいの頃からです」

「そいつが、盗めっていうの?」

「いえ、盗みたいのはわたし。盗んで、いそいでその場をはなれようとしているときには、わたし、ひとりきりになってる。あの人、どっかに隠れて出てこないから」

「でも、これから、うちの新聞を盗めなくなったら、困るね」

 なんだか相談ごとにつきあっているかんじになってしまった。

「来月から新聞やめるんだ」

「そうなんですか・・・」

 女は途方にくれたような顔をした。そのまえに、もっというべきことがあるだろうに。

 「物を盗んだりすると、しばらくあの人出てこないんです」

「出てくると困るのかな」

「はい、あの人がわたしのからだを支配しようとするから」

 多重人格というより、二重人格だな、と密かに思う。比喩ではなく、本物の病気での。

 


猫迷宮 85 

2011年04月08日 01時08分03秒 | 文芸

 咄嗟のことだった。なにを思ったのだろう。部屋のドアをあけて、通路にとびだした。まさか、あの女にこれまでの新聞盗難を問いただすつもりはなかったのに。というより、すこしまえに見た悪夢で懲りていた。それでも、体のほうが先に動いて、帰ってきた女の後姿でもみてやれくらいの気持ちだった。ときどき、そんなことがある。なんでそうしたのか、あとでわからないようなことが。

 通路に出て、アパートの奥のほうを見た。女はドアの鍵をあけているところだった。こちらがあわてて飛び出してきたのに気づかれてしまった。ぎょっとしたようにこちらを見つめている。それから、むこうもあわてたみいたに、鍵をガチャガチャいわせている。なんだか、手がふるえて鍵がうまく入らないみたいだった。驚いたにしても、アヤシイ素振りに見えた。やめておけ!と、心のうちで声がした。その声は、女のいるほうへ歩き出した自分をとめる声だ。やめておけ! あの夢とおんなじことになる。しかし、体がもう動き出してとまらない。

「ちょっと、あんた。まちなさいよ」

 と、夢とまったくおなじ声をかけている。やめておけ!

 むこうは、ようやくドアが開いて、中に逃げ込むかんじになっている。

「ちょっと、話があるんだけどな」

 まだ閉まりきっていないドアのノブを強引につかんでしまった。やめとけ! もうひとりの自分が必死に制している。あの夢では、女は「何なんですか? やめてください!」などと、かん高い声をあげだのだった。

 ノブをすこしだけひっぱると、女は上がり口に突っ立ていた。騒ぎ立てるでもなく、こちらを凝視している。

「あの、一号室の神尾ですけど・・・」

 すこし声をふるわせてしまった。用件をいってやろうとしたとき、女の部屋の上がり口に、新聞の山ができていた。うちでとっている新聞とおなじものだった。読んだようすはなく、きちんと積み重ねてあるだけだった。

「あの、これって、うちのですよね」

 否定されればそれまでだったけれど、ここまで来たら確かめたかった。反駁されたら、アヤマッテしまえばいいや、と肝をすえた。このアパートで、その新聞を購読しているのが自分だけなのは、販売店の主人に確かめてあるから、どんな言い訳ををするのか、嘘をつくのか。こちらは、もちろん、文句をいってやるだけだ。来月から新聞はとらないつもりなのだし。

 女はうつむいてしまった。夢に出てきた女のように気が強くはなさそうだった。黙ってうなだれている。本ボシなのか?

「あの、すいませんけど、新聞がちょくちょくヌカれていたんで、ちょっとね」

 こちらもすこし気おくれした物言いになった。

「困るんですよ」

 女はまだ口をきかない。こういうのは要注意だ。突然に悲鳴をあげて、こちらが変質者の濡れ衣を着せられてしまうことだってある。

「どうぞ、入ってください」

 と、女は顔をあげた。

「えっ?」

「中で話します」

 考えてもみなかった応答だった。

「いいですよ、新聞返してくれれば帰りますから」

 女はハイヒールを脱いで部屋にあがっていった。振り返って、「お返ししますから」と、そういった。

「これ、持って帰るだけでいいよ」

 すこし乱暴な口調になってしまった。

「よくはありません。あがってドアをしめてください。大きな声はこまります」

 女は畳の上に正座して、こちらが上がってくるのをまつふうだった。