今回の女子サッカーW杯では、日本チームが優勝した。
これはあくまで彼女たちがすごいのであって「日本」がすごいのではない。
はやぶさが惑星探査からいろいろな障壁を乗り越えて帰ってきた。
このことははやぶさの研究チームがすごいのであって、「日本」がすごいのではない。
しかし、一部の人たちはこれらの成功を「日本がすごいのだ」と意味を変えてしまう。
サンプルとして『シートン俗物記』さんのこの二つのエントリーのコメント欄に注目してほしい。
http://d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20110716/1310803436#c
http://d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20110719/1311067204
その中でも象徴的なコメントをあげてみる。(基本的に原文ママだが改行だけ手を入れた)
灰汁の強いものを選んだことは断わっておく…
…………………………………………
うむ 2011/07/17 05:57
(前略)
あと、日本代表に対する嫌悪感もなんだかなあ。自国の国をとことんひいきして応援する人々なんて世界中に溢れているわけだし、あえて否定することじゃないよね。
別に自国の代表だからって応援しないのも選択肢だけど、あれだけオリンピックやワールドカップが盛り上がっている事実をもう少し踏まえたほうがいい。
日本は素晴らしい国 2011/07/17 08:02
日本万歳!
頑張れ日本!
日本人に生まれて本当に良かった!
自分はなでしこジャパンを見てて素直にそう思えます。
しかし、ブログ主の考え方って吐き気がするわ。
日本・日本人に対して嫌悪感の塊で、いったいどこの国の人よって感じで・・・
まるで在日OO人の思考だぞ。
namae 2011/07/17 12:41
スポーツに対する興味の入り口は何でもいいんじゃいの?何をそんなにプリプリしてるのかまったく理解できんわ。日本人が世界で活躍する姿を見られるのも単純に嬉しいでしょ。
(後略)
在日消えろ 2011/07/17 15:00
何処の国でも自国の選手が世界1を狙っている競技にはスポーツ嫌いの一般人でも応援をする。日本が特殊とでも言いたいのか、この低脳は。在日のくせに生意気に日本人のふりして日本人を批判しているつもりだろうが見え見えなんだよお前が支那朝鮮系なことは。
……………………………………………
このエントリーに批判的なコメントの多くに共通する点は無条件に「日本=自分」としていることである。
これらの書き込みをした人たちには、「①日本人ならば、日本が勝つと無条件にうれしがるべきなのだろうか」「②日本人ならば無条件に日本チームを応援しなければならないのだろうか」といった疑問はわけのわからないバカみたいなものだと思う。
しかし、はっきりしているのは、「すごいのは日本チームの彼女たちであって、日本国籍を有する人全般ではないし、彼女たちも日本チームだからすごいのではない」ということだ。仮に彼女たちが日本国籍を有していなくても、彼女たちはすごいのだ。それなのに、彼女たちを、「日本の選手」として称賛する。某石原東京都知事閣下は彼女たちに「勝ってくれてありがとう」と言ったようだが、彼女たちはありがとうを言われたくて優勝したわけでも、まして、某石原東京都知事閣下のためにサッカーをしたわけでもない。これなどはまさに「日本」を自分と一体化させているいい例だろう。
彼女たちに縁故も何もない人間にとっては、本来アメリカチームもドイツチームも、日本チームと大きな変わりはないはずである。彼女たちと共通しているのは、ただ一点、日本国籍を有する、ということのみだ。しかし、なぜ同じ国籍を有していることが、前述の①や②の疑問を解決するキーになりえるのかオレにはわからない。
以前、「日本人」が一挙に4人ほどノーベル賞を受賞したことがあったが、そのうちの一人は本当は日本国籍を有しておらず、日本人ではなかった。それなのにマスコミは彼を「日本人」として扱い称賛した。しかし、これは非常におかしなことだ。特に自然科学の分野などは、どの国の誰が称賛されるべき研究をしようが、同じことではないだろうか。仮にアインシュタインが日本人だったら、相対性理論の内容が変わるのだろうか。
しかし、実際には日本人ではない研究者を「日本人」として称賛した。なぜ、受賞した研究が「日本人」でなければならなかったのか、よく考える必要がある。
これらのことに共通することは、「国」と自分を一体化させてしまうということである。
「みんなが一つになって…」と言えば聞こえはいいが、日本人が12000万人いれば12000万とおりの日本像がある。ある人にとってそれは、「自分自身」と全く置き換えが可能なものかもしれないし、ある人にとっては明確に境界線が引かれているものなのかもしれない。「みんなが一つになって…」といったとき、それは自分が抱いている「日本像」以外の日本像を、切り捨ててしまっている危険性があることだけは覚えておいてほしい。
「国」は個人とは一体化しようとしない。だが、ある個人は「国」と一体化しようとする。そして一体化しないものを排除しようとする。戦前の「非国民」のレッテル貼りや今回取り上げたコメントに見える「在日」認定がその例である。けれど、「国」に一体化しようとする個人の動きは、権力者にとって非常に都合がいい。
また、「国」と一体化しようとする思考は、「国」を流動的なものとして捉えられない危険性もはらむ。今現在、「日本」に対しての認識は人それぞれで違うというだけで、すでに「日本」は流動的なのだ。それを無理に一体化させようとすると、その一体化の基準にそぐわない「日本認識」は切り捨てざるを得なくなり、よくて無視、悪ければ攻撃の対象となってしまう。『シートン俗物記』さんのエントリーにあがっている「マイナーなスポーツが注目されない理由」や、今回の女子サッカーのように「普段注目してないクセに大舞台になったとたん俄然騒ぎ出すニワカが増える理由」はこの辺にあるのではないかと思う。
「国」と個人を一体化させようとする傾向は日本に限ったことではない。
けれど日本のそれは非常に悪い傾向があると感じる。
少なくともオレが昔住んでいた国では、一般の30分しかないニュース枠で15分も使ってサッカーの勝負についての報道をしたりはしなかった(スポーツ報道の番組が別に確保されていた)。
ちなみに…
韓国人、中国人、日本人の3カ国のうち、一番愛国心が強い国民はどの国の国民だろうか。
多くの人は韓国人か中国人のどちらかを選ぶだろうか。
しかし、実際は日本人である。
韓国人も中国人も、良い条件でチャンスがあれば、国を出たいと考えている人が多い。国籍を変えることも、日本人ほど抵抗を感じたりしない。
韓国人も中国人も「国」は個人を守らないことをよく知っているからだ。
これはあくまで彼女たちがすごいのであって「日本」がすごいのではない。
はやぶさが惑星探査からいろいろな障壁を乗り越えて帰ってきた。
このことははやぶさの研究チームがすごいのであって、「日本」がすごいのではない。
しかし、一部の人たちはこれらの成功を「日本がすごいのだ」と意味を変えてしまう。
サンプルとして『シートン俗物記』さんのこの二つのエントリーのコメント欄に注目してほしい。
http://d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20110716/1310803436#c
http://d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20110719/1311067204
その中でも象徴的なコメントをあげてみる。(基本的に原文ママだが改行だけ手を入れた)
灰汁の強いものを選んだことは断わっておく…
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うむ 2011/07/17 05:57
(前略)
あと、日本代表に対する嫌悪感もなんだかなあ。自国の国をとことんひいきして応援する人々なんて世界中に溢れているわけだし、あえて否定することじゃないよね。
別に自国の代表だからって応援しないのも選択肢だけど、あれだけオリンピックやワールドカップが盛り上がっている事実をもう少し踏まえたほうがいい。
日本は素晴らしい国 2011/07/17 08:02
日本万歳!
頑張れ日本!
日本人に生まれて本当に良かった!
自分はなでしこジャパンを見てて素直にそう思えます。
しかし、ブログ主の考え方って吐き気がするわ。
日本・日本人に対して嫌悪感の塊で、いったいどこの国の人よって感じで・・・
まるで在日OO人の思考だぞ。
namae 2011/07/17 12:41
スポーツに対する興味の入り口は何でもいいんじゃいの?何をそんなにプリプリしてるのかまったく理解できんわ。日本人が世界で活躍する姿を見られるのも単純に嬉しいでしょ。
(後略)
在日消えろ 2011/07/17 15:00
何処の国でも自国の選手が世界1を狙っている競技にはスポーツ嫌いの一般人でも応援をする。日本が特殊とでも言いたいのか、この低脳は。在日のくせに生意気に日本人のふりして日本人を批判しているつもりだろうが見え見えなんだよお前が支那朝鮮系なことは。
……………………………………………
このエントリーに批判的なコメントの多くに共通する点は無条件に「日本=自分」としていることである。
これらの書き込みをした人たちには、「①日本人ならば、日本が勝つと無条件にうれしがるべきなのだろうか」「②日本人ならば無条件に日本チームを応援しなければならないのだろうか」といった疑問はわけのわからないバカみたいなものだと思う。
しかし、はっきりしているのは、「すごいのは日本チームの彼女たちであって、日本国籍を有する人全般ではないし、彼女たちも日本チームだからすごいのではない」ということだ。仮に彼女たちが日本国籍を有していなくても、彼女たちはすごいのだ。それなのに、彼女たちを、「日本の選手」として称賛する。某石原東京都知事閣下は彼女たちに「勝ってくれてありがとう」と言ったようだが、彼女たちはありがとうを言われたくて優勝したわけでも、まして、某石原東京都知事閣下のためにサッカーをしたわけでもない。これなどはまさに「日本」を自分と一体化させているいい例だろう。
彼女たちに縁故も何もない人間にとっては、本来アメリカチームもドイツチームも、日本チームと大きな変わりはないはずである。彼女たちと共通しているのは、ただ一点、日本国籍を有する、ということのみだ。しかし、なぜ同じ国籍を有していることが、前述の①や②の疑問を解決するキーになりえるのかオレにはわからない。
以前、「日本人」が一挙に4人ほどノーベル賞を受賞したことがあったが、そのうちの一人は本当は日本国籍を有しておらず、日本人ではなかった。それなのにマスコミは彼を「日本人」として扱い称賛した。しかし、これは非常におかしなことだ。特に自然科学の分野などは、どの国の誰が称賛されるべき研究をしようが、同じことではないだろうか。仮にアインシュタインが日本人だったら、相対性理論の内容が変わるのだろうか。
しかし、実際には日本人ではない研究者を「日本人」として称賛した。なぜ、受賞した研究が「日本人」でなければならなかったのか、よく考える必要がある。
これらのことに共通することは、「国」と自分を一体化させてしまうということである。
「みんなが一つになって…」と言えば聞こえはいいが、日本人が12000万人いれば12000万とおりの日本像がある。ある人にとってそれは、「自分自身」と全く置き換えが可能なものかもしれないし、ある人にとっては明確に境界線が引かれているものなのかもしれない。「みんなが一つになって…」といったとき、それは自分が抱いている「日本像」以外の日本像を、切り捨ててしまっている危険性があることだけは覚えておいてほしい。
「国」は個人とは一体化しようとしない。だが、ある個人は「国」と一体化しようとする。そして一体化しないものを排除しようとする。戦前の「非国民」のレッテル貼りや今回取り上げたコメントに見える「在日」認定がその例である。けれど、「国」に一体化しようとする個人の動きは、権力者にとって非常に都合がいい。
また、「国」と一体化しようとする思考は、「国」を流動的なものとして捉えられない危険性もはらむ。今現在、「日本」に対しての認識は人それぞれで違うというだけで、すでに「日本」は流動的なのだ。それを無理に一体化させようとすると、その一体化の基準にそぐわない「日本認識」は切り捨てざるを得なくなり、よくて無視、悪ければ攻撃の対象となってしまう。『シートン俗物記』さんのエントリーにあがっている「マイナーなスポーツが注目されない理由」や、今回の女子サッカーのように「普段注目してないクセに大舞台になったとたん俄然騒ぎ出すニワカが増える理由」はこの辺にあるのではないかと思う。
「国」と個人を一体化させようとする傾向は日本に限ったことではない。
けれど日本のそれは非常に悪い傾向があると感じる。
少なくともオレが昔住んでいた国では、一般の30分しかないニュース枠で15分も使ってサッカーの勝負についての報道をしたりはしなかった(スポーツ報道の番組が別に確保されていた)。
ちなみに…
韓国人、中国人、日本人の3カ国のうち、一番愛国心が強い国民はどの国の国民だろうか。
多くの人は韓国人か中国人のどちらかを選ぶだろうか。
しかし、実際は日本人である。
韓国人も中国人も、良い条件でチャンスがあれば、国を出たいと考えている人が多い。国籍を変えることも、日本人ほど抵抗を感じたりしない。
韓国人も中国人も「国」は個人を守らないことをよく知っているからだ。
自分たちこそが醜い存在だってことに気付かないんでしょうか。
コメントありがとうございます。
他者を貶めても自分(自国)が素晴らしいってことにはなりませんよね。
貶める他者がないと、自分たちのプライドが保つことができないっていうのは、「自分が貶めている他者」に依存しているという、かなり矛盾した状況なんですが…気持ち悪くないんですかね。自己の中でどのような整合性を持っているのか興味のあるところではあります…
コメントありがとうございます。
謝るんなら、態度としては一貫しているんでしょうけど…
^^
あくまで予想ですが、「この反日がっ!!」って反応になる人が多いんじゃないでしょうか。
んでも、日本社会において、「経済的侵略」に対する言及があんまりないのも問題だとは思います.
謝ってもリベリアの人たちは
「は? あなた、もしかしてタイヤメーカーの社員?」
と言うかもしれませんね。
イギリスのテレビでは、中国の携帯電話製造工場、タイのエビ養殖、インドネシアの硫黄鉱山などで働く人々の生活がいかに過酷か、ドキュメンタリーで放映されますよ。
まぁ、態度が一貫していたとしても、そもそも「日本=自分」でいいのかって問題とは別ですけどね^0^
>イギリスのテレビでは、~
その中に日本の労働の問題も入れてほしいものですが…
ところで、単純に興味があるのですが、そういった番組の中には、「オリエンタリズム(今勉強中で、よくわからない部分もあるのですが)」的な視点がある可能性がありますか?
ただ、「日本のワビサビ文化とは何か?」みたいなもっと軽めのドキュメンタリーになると、作りがパターン化しているものもあります。中盤ごろに「日本はいかにカワッテルか」という展開になって、終盤になると邂逅して「私たちはこの旅の終わりに彼らのことが理解できた気がする」といったナレーションで〆る。好意は感じますが、少々うんざりもします。
イギリスのジャーナリズムは高い水準にあるんですね。
いまだに「なでしこ」がニュースに登場する某日本とは大きな違いです…。
ところで、Kayさんのブログに二度目のコメントを書かせていただいたのですが、とどいてないようですT-T…操作ミスの可能性もありますが…
BBCはすごいですよ。何がすごいかといえば、空気を読まないところが。最近印象に残っているのは、イングランドも(日本も)立候補した将来のワールドカップ開催地を決定するイヴェントの前日ぐらいに、FIFAの決定がいかに腐敗と結びついているかというドキュメントを放送したんです。誘致活動していたイングランドのフットボール協会はカンカンです。このタイミングでFIFAの機嫌を損ねることをするなんて!
イラクへ兵を送ることを決めたブレア首相に面と向かって「あなたはブッシュのプードルなんて呼ばれてますね」と言うジャーナリストもいます。日本で小泉さんに同じこと言えた記者いませんよね。
ジャーナリズムにとって、これは誇るべきことですよね。
日本の報道関係にこのことを求めるのは、猫にキリギリスのように鳴く事を求めるようなものなのでしょうね、きっと…