ハナウマ・ブログ

'00年代「ハワイ、ガイドブックに載らない情報」で一世を風靡した?花馬米(はなうま・べい)のブログです。

コロナが我々に問う、生き方と死に方

2020年08月05日 | 沈思黙考

新型コロナウイルスに関しては、悲観的な捉え方とともに「それほど心配することはない」といった意見も並存している。しかし、いま我々に問われているのは悲観でも楽観でもなく「どう生きるか、どう死ぬか」という哲学なのではないだろうか。

統計がもたらす悲観と楽観

新型コロナウイルスに関する世間の受け止め方は、大きく悲観論と楽観論に分けて考えることが出来そうだ。
悲観論はたいてい、新規感染者数グラフを筆頭に、いくつかの切り口における人数や件数の増加傾向に着目し、今後の状況悪化のシナリオを懸念する。
楽観論は、他の感染症と比較した場合の致死率の低さや、他のさまざまな死因(病気や事故などすべて)による死者数を比較して論じている場合が多いと感じる。

「悲観的に準備し、楽観的に行動する」というのが戦略的思考の基本だと教えられたことを思い出すが、マスメディアや医療関係者を中心に、一般的にはやはり悲観論のほうに傾いているといえるだろう。
感染者の多くが発症しないとはいえ、それらの感染者は別の人を感染させてしまう能力を持った人である。PCR等の検査数が圧倒的に少ない現下の日本においては、未だ検査を受けていない多数の「隠れ感染者」が、仕事に遊びに街や観光地へと活動範囲を広げ、感染の拡大装置として機能しているともいえる。
さらに、陽性と判定されても家庭療養を余儀なくされている人も増えている。つまり本来なら、それなりの環境へ隔離されるべき感染者が、素人の環境に置かれているのである。これが医療崩壊でなくて何であろうかという気にもなる。 そしてここへ来て、医療の専門家といわれる人たちの政治に対する語気も強くなってきた。

対して楽観論はこうである。 新型コロナウイルスは、確かに感染力は強いかもしれないが、致死率は非常に低い。したがって感染者数の増加だけをとらえて悲観するのは神経質すぎる。それよりも肺炎など一般的な呼吸器疾患で亡くなっている人や、その他の病気や事故が原因で亡くなっている人が圧倒的に多いのだから、全体を見渡してものを考えようではないかという姿勢である。

どちらもそれなりに一理あるように思えるが、大切なことは、どちらが正しい、正しくないということではないような気がする。なぜなら、今回の問題はそのとらえ方に非常に多面性があるということと、それらを比較したり対照させたりするときの考え方の問題が絡んでくるからである。

たとえばマスメディアというもの自体が持つ性格にも意識を向けておかねばならない。それは、何につけ「大変だ」と騒ぐことそのものが目的化しがちな彼らの宿命である。世間の問題意識を喚起しようという使命感と重なって存在するところが少しやっかいであるが、マスメディアのほぼすべてが広告ベースの活動である以上、それなりの意図が作用しないわけがない。

また、ほかの理由でも日本人はたくさん亡くなっているのだから、新型コロナのみに過敏になるべきでないというのも、まったく異なる性格のものを並べて論じているという限界がある。中には年間自殺者数や、未成年者の誘拐事案数までも引き合いに出してきている主張もあるようだが、それは科学的な比較や対照というより問題のすり替えであろう。

悲観論、楽観論いずれも統計数値を引っ張り出してきているので、一見まともな話であるかのように引き込まれてしまいそうだが、統計はつねに「読み解き」が重要である。
起きている事実、判明している事実をどう考えるべきなのかという知恵こそが、判断を誤らせないために不可欠である(もちろん、誤解を招くようなグラフづくりや見せ方の演出は問題外である)。
しかしこの読み解きの知恵、ものの考え方が貧弱であると、安易な解説に引き込まれてしまい、まんまと誰かの意図に踊らされたり、集団同調圧力のようなものに巻き込まれていったりしかねない。「自粛警察」などという現象も、戦時中の「非国民狩り」と重なって見える。

天然痘のストーリー

さて、ここで過去に存在した感染症の一つである、天然痘の例を考えてみたい。
この感染症はすでに人類が撲滅したものとして知られているが、ほかの感染症と同じく世界中の人々を震撼させたことは、歴史の事実として誰もが知っている。

天然痘は記録がある限りでは、紀元前から世界各地域で人類を悩ませて来た。そのなかでもよく知られている歴史の断片は、コロンブスの大陸発見に始まる、ヨーロッパ人(と彼らに連れてこられた黒人奴隷)のアメリカ大陸進出時の大規模感染であろう。
このときは、ネイティヴ・アメリカン(アメリカ・インディアン)の一部や、アステカ、インカ帝国が滅亡する大きな原因の一つともなった。

こういった事象を語るとき、損害の大きさを数量的に語るということが常識として行われる。感染者数、死亡者数などといった数字である。もちろんこれは非常に大切で基本的な指標ではあるが、ここではちょっと別の視点で考えてみたい。
それは、人々の苦しみ方、亡くなり方のストーリーである。

天然痘ウイルスに感染した場合、高熱や各部の痛みに加え、直径1cm以下程度の発疹が現れ、やがてこれが顔をふくめて全身を覆うようになる。呼吸器などの内臓も侵され、呼吸困難、呼吸不全、そして死に至るという経過をたどる。
もちろん、苦しんだ後に回復する場合もあるが、天然痘の致死率は20~50%といわれている。
それまで何事もなく日常を共にしていた身近な人が、ある時から突然、自分の目の前で、全身に発疹を呈しながら苦しみもがき、短期間のうちに亡くなっていくのである。患者は当然のことだが、それを見守る人にとっても、非常に苦しい体験である。世界観の崩壊といってもいい。そしてこれが人々の間に広がっていく状況や可能性に直面するとき、いま健康な人々も絶望的な気持ちに陥ってしまうのである。

繰り返しになるが天然痘はすでに撲滅されているし、仮に現代社会に現れてきたとしても、当時とくらべれば人類の対応力もついてきているから、単純に比較することはできない。
しかし、苦しみ方や亡くなり方のストーリーに着目すると、単純に統計数値を見て結論を出すことの限界を感じるのである。

新型コロナのストーリー

東日本大震災に代表されるような大規模災害や無数の事件事故には、どうしても報道できない真実というものが存在する。
あまりにも無残であったり、苦しむ人をさらに苦しませたりするようなことを、いくら真実だからといって、裁判でもない公開の場に晒すことには問題があるからだ。

もちろんこれは人として当然の態度であるが、我々としては「明らかにできない、明らかにしづらい悲しさ」というものが、この社会にはきっと多く存在しているのだということを、忘れたくはない。

毎日、浴びせかけられるような大量の新型コロナウイルス情報のうち、発症した人々の苦しさに密着したレポートは非常に少ない。それはやはり取材が容易でないということもあるし、むやみに人々の不安をあおりかねないという問題もあるだろう。
けれども、当事者たちにとっては、その体験こそが自分の人生であり、この世の現実である。
「なんでこの私が」「どうしてこの人が」という強い疑問と、何かを呪いたくなるような気持ちが、心を絞めつけてくる。

この感染症によって軽度、重度の症状を発症している人の生き様や、残念ながら回復することなく亡くなっていく様子、そして亡くなった後の様子については、ある程度は一般に知られるようになった。
たとえ肉親であっても近づくことは許されない。医療従事者が皆、リスクを伴いながらも必死に救おうとしていることはわかっているのに、目に映るのは、自分の身内が「けがれた者」であるかのように取り扱われている現実。これを認めなければならないつらさ。
チューブを使って肺へ空気を送ることも厳しくなってくると、直接血管から血液を取り出し、体の外の装置で酸素と二酸化炭素を入れ替えて、再び体内に戻す処置をしなければならない(肺を休ませ回復させるため)。首筋と足の付け根にチューブをつけて、体中の血液をいったん外に出し、装置を通して戻さなければならない。本人はもちろん、身内や関係者はいたたまれない気持ちになる。
そして努力や祈りのかいもなく亡くなってしまっても、感染症であるがゆえに、遺体は2重の「納体袋」に密閉され、火葬されるまで一切、誰も会うことができない。

医療従事者もそのつらさを語っている。
病院で患者が遺体となった場合、清拭(せいしき)し、寝具に横にさせて霊安室へと移動する。一連の作業は、命の尊厳に満ちた行為である。しかし、感染症死亡の場合は、「袋詰め」をしなければならないのである。自分自身もつらいし、遺族の心中を察するとなお苦しいという。

いったい人にとって、本質的な人の死、人生の終わりとは、きっと計測可能な生体現象が停止した時ではない。身内や関係者一人ひとりが、その人の死を受け入れられた時ではないだろうか。だからこそ人の死に際して儀式を行うのであり、人だけがそういった儀式を行うのであると思う。

しかし感染症による死亡は、そんな厳粛な時間や空間を人から奪い去ってしまう。人が人であることの証をも奪い去ってしまうのだ。
そう考えると、新規感染者数だとか、致死率といった数値や統計、それをもとにした「科学的」議論が虚しくこだまするようだ。

科学的・合理的であることの限界

統計や数値といったものが、医学・疫学も含めて、科学的・合理的な検討を行うために必要不可欠であることは、論じるまでもない。
しかし、今回の感染症を前にして我々は、科学的・合理的であることのみが、人の幸せに資するのか、という考え直しを迫られているような気がしている。

戦後の日本人は、「生きる・死ぬ」といった、根本的な事柄には意識を背け、経済合理性とそれを支えるものとしての科学技術だけを価値として走ってきた。
その日本人がいま、ひとつのウイルスによって、人生哲学の底の浅さに右往左往しているように見える。「コロナで死ぬか、経済で死ぬか」といったような、極端な思考がでてくるのも「むべなるかな」である。

もちろん、感染拡大防止の対策は科学的・合理的に進める必要がある。しかし、それだけでは人々は決して救われないことを知るべきだろう。

いま日本人に求められるのは、哲学なき享楽の時代を終え、一歩深い人生哲学に意識を向けることである。
それは必ずしも難しい作業ではない。それぞれの立場で、立ち止まって考えてみることだ。いったい自分は何のために、何を目指して頑張っているのか、自分をごまかさずに、悩み考え抜くことだ。
そしてそんな姿勢をあざ笑うような「科学・経済至上教(ほとんど宗教だ)」の価値観に対しては、冷静な眼差しを向けておくことである。

科学と経済のみを至上価値として走ってきた我々の社会は、果たして幸せな人間社会を築いてきただろうか。いま我々は、この災禍が我々に気づかせてくれたことに意識を向け、発言・行動していく必要があるのではないだろうか。
浅はかな社会の流れに巻き込まれて、自分や家族の人生物語に、悲しい最終章を付け加える必要などどこにもない。


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