ハナウマ・ブログ

'00年代「ハワイ、ガイドブックに載らない情報」で一世を風靡した?花馬米(はなうま・べい)のブログです。

Go To 「新しい日本人」

2020年07月28日 | 沈思黙考

いま、あふれるほどの不安要素に包まれたような日本。しかし諦めたり、ヤケになったりすることはない。光明はあるはずだ。しかしそこへ進むためには、戦後の日本に決定的に欠けていたものを、正しく位置づけなおす作業が必要だ。

不安の中の日本

いま日本人を覆っている様々な不安のなかで、もっとも解決が困難かつ長期的に悩まされる問題は、やはり少子高齢社会の加速であろう。こればかりは、子育て世代を手厚く保護したり、女性の社会参画を加速させたりしてみても、解決できるようなレベルの問題ではない。
仮に単純解決するのであれば、移民を認めて多くの外国人を入れ、日本国籍を与えるようなことしかないだろう。しかしこれとて、いわば「数合わせ」の解決であって、「日本人とはなにか」、「日本・日本社会」とはなにか、といった非常に難しい問題を乗り越えていく必要がある。
つまり少子高齢社会は、今後も確実に加速していく日本の近未来なのである。

しかし問題はそれだけではない。
原子力や化石燃料といったリソース論を含めた今後のエネルギー利用のあり方、海洋汚染も含めた環境破壊の問題、近隣国の覇権拡大...。そこへ大規模な地震、年中行事のように起きる気象災害、そして新型コロナウイルスと、自然界からの警告かとも思える出来事が次々と起こっている。

こういった不安が渦巻く中、なかにはうっぷん晴らしか破滅主義かと思えるように、意図的に車を暴走させてみたり、他人のちょっとした落ち度を見つけては徹底的に非難し、完膚なきまでに叩きのめそうとしたりする者も目立ってきている。またそうした動きに同調・加勢してしまう大勢の人々が背後に控えている。

しかしこんな不安だらけの中であるからこそ、我々はグッと両足を地につけ、心の重心を低くして冷静に立ち向かう心構えが必要である。
ただ右往左往して嘆いてみたり、他人を罵(ののし)り攻撃してみたり、あるいは逆に消えてしまいたくなるような自分の気持ちを、しっかりコントロールする力を持つ必要がある。
そのためにはまず、物の見方や考え方を磨く必要がある。基礎的な思考力、状況判断力を鍛えるといってもいい。

アジアに劣後している日本

第2次世界大戦の結果、ゼロリセット状態となった日本は、アメリカなどの助けも受け、やがて工業生産力を基礎に世界に冠たる経済大国に成長した。
20代OLと呼ばれる女性たちが、自分の貯金でハワイや香港へ買い物旅行することが決して珍しくない時代を経て、やがてバブルという見せかけの好景気をピークに、転がり落ちるように現在の日本に流れ着いた。

この間、日本人の誰もが大なり小なり見下していたであろう中国は、GDPで世界第2位の経済大国であった日本を、2010年には追い越し、2014年には日本の2倍に、昨年2019年は2.7倍を超えるまでに達した。
中国との比較だけではない。ある時期までアジアで断トツの経済力を誇っていた日本は、国民一人あたりGDPで見た場合、2007年の時点ですでにシンガポール、ブルネイに抜かれている。その後2009年に一時的に1位を取り戻すものの、翌年はすぐにマカオとシンガポールに抜かれている。2013年にはマカオ、シンガポール、ブルネイに続く4位に堕し、2014年には香港にも抜かれている。

2018年の国民一人あたりGDPで見るならば、我々日本人はマカオ、シンガポール、香港に生きる人々よりも下流に位置しているのである。「自分たちの後ろにいるアジア人たち」と何となく信じ込んでいた日本人はいま、自分たちがそれらの人々よりも貧しいアジア人となっていたことに気づかねばならない。
団塊世代を中心に、こういった実感を未だに持てていない世代もあるようだが、日本はとうの昔に、アジアのいくつかの国や地域に劣後しているのである。

もちろん、「だから経済復興して1位を取り戻そう」などという話ではない。我々は状況の変化に無頓着であってはならず、自分の立ち位置の認識をしっかりしておこうという話である。

哲学なき経済至上主義の果てに

ところで、1988年から1995年にかけて、オウム真理教という名の集団による、殺人事件、殺人未遂事件が何度も起こった。大勢の若者がその集団に引き寄せられ、特に優秀な能力をもった若者は、その能力を反社会的な行為へと集約させていった。そのベースには彼らの、誤った、捻じ曲がった使命感が存在していた。

しかし残念なことに日本社会は、宗教というキーワードそのものに、「そもそも怪しいもの」といった単純な脊椎反射をする能力しか持ち合わせていなかった。
マスメディアも、社会の中で正しく機能している宗教と、単なる殺人集団との違いを解説する能力を持ち得ず、結果として人々の不安をあおることしかできなかった。

また、若者の街・秋葉原で起きた無差別殺人事件なども、犯行に至った個人の問題を越えて、事件の加害者も被害者も、そして同じ社会に生きている大多数の傍観者さえ、経済最優先の社会における「被害者」であるような気がする。

確かに、事件(や事故)はいつの時代でも人間社会に起き得るものである。しかし、ゼロリセット以降の75年間を切り出して眺めてみるとき、経済的な成功にしか、生きることの価値を見出せないような社会づくりに盲進してきたことを、認めないわけにはいかない。
経済の成長、経済効率の向上こそが、国民を豊かにするものであって、精神的・心理的なものごとは、経済に悪影響が出ない範囲で、一部のもの好きにやらせておけばいい、といったような空気を是としてきた。

もちろん戦後しばらくの期間(戦後30~40年間ほどだろうか)は、全国津々浦々から絶対的貧困(食べて生きていくことが困難)をなくすために、経済最優先は正しい針路だったかも知れない。
しかし、ほぼ同期間にわたって「国家神道が起こした戦争」という文脈が、いつしか奇妙な形で日本社会に蔓延していった。「宗教は危険なものなのであるから、儀式あるいは趣味・趣向のような範囲でやらせておいて、社会的な発言や行動に結びつけてはならない」といった、捻じ曲がった理解が日本を覆っていったのだ。

特に日本の公教育では、宗教や思想といったキーワードに極端なアレルギーを持ち、現場の教員たちも集団監視のような空気の中で神経を尖らせてきた。そうして一方では、バス旅行や修学旅行などで、寺に参ったり、神社に参ったり、教会で頭を垂れてみたりと、わけのわからない宗教観を育んできてしまった。

つまり日本人は、経済最優先の針路を盲進するだけでなく、同時に宗教的思考を放棄して戦後を生きてきたのである。
その結果、マネーゲームが加速する世界に巻き込まれ、倫理なき資本主義に飲み込まれ、そのことによって結果として人生の質や生死にまで影響を受けてしまっている。
まだこの世に出てきてもいないエネルギー資源や、実ってもいない収穫物に価値をつけて売り買いし、実質的な企業価値もないのに株価が上がるといった異常な経済社会を生きている。子や孫、ひ孫の世代から金を借りて解決しようとする社会を生きている。
いったい資本主義の理想とは、こんなものだったのかと考え込んでしまう。

いま必要なのは「正しい宗教教育」

誤解のないように言っておくが、「正しい宗教」を広めようという意味ではない。宗教に関しての「正しい教育」が日本人に必要なのではないかという意味である。別の言い方をすれば、人間教育としての宗教教育である。
そしてこれは学校教育だけでは不十分で、きちんとした宗教教育を受けられなかった大人たちにも必要だ。つまり社会教育の範囲である。

ただ正直なところ、大人たちを教育するということは、相当に難しい。無宗教タイプの大人たちは「そんなことをやるから、世の中がおかしなことになってしまうのだ」と固く信じているし、すでに何らかの信仰を持っている人にとっては、他の宗教・宗派を俯瞰する行為そのものが、自己否定感や罪悪感をともなうからだ。
しかし、本当の信仰者であるならば、きっと知的な人生哲学者であるはずだし、自分と異なる宗教が一定の影響力を持って長く存在していることにも関心が湧いて当然だと思う。そうでなければ、たまたま選んだ(選ばされた)宗教物語に埋没して、思考停止に安住しているだけといえるのではないだろうか。

確かに、世間には宗教的思想をベースとした私立の学校が多く存在する。積極的にその宗教的思想を授業に反映させているところもあれば、あくまでも創立者や学校の思想として抽象論的に存在しているところもある。
しかし本来は、公立も含めて中学・高校ぐらいで、人生哲学としての宗教教育が必要なのではないか、というのが筆者の立場である。

もちろん学齢によってカリキュラムは異なるし、当然のことながら個別具体的な宗教・宗派に偏ったり、それらを称揚したり、危険視したりすることはいけない。
そうではなく、この世界にはさまざまなものの考え方があって、それをベースに人々は日々の行動を(意識する・しないに関わらず)決定しているということを、まず教えてほしいと思うのである。

そうすることで、なんとなくではあっても「あぁそんな、ものの考え方もあるのかぁ。そんなふうに社会を眺め、世の中を整理している人々もいるのかぁ」と思ってくれるだけで、おおきな意味があると思う。
そうしていつか(大人になった時)、たとえば「なぜアメリカはああなのか」、「なぜアイツはああなのか」、「なぜ人間はこうなのか」、「なぜ日本社会はこうなのか」などといった、さまざまなシーンで深く考えるための力となるはずだ。
また、社会の中で正常に機能している宗教と、宗教に名を借りた殺人集団や詐欺集団について、ダメ系マスメディアにも踊らされない、しっかりとした思考力を持てるようにもなる。

これからは真の国際人を育てようという声がある。
そうであれば、文科省ローカルの受験英語の教育開始を早めたりするよりも大切なことがある。
それは、我々が生きるこの世界には、有史前後からいかなる思想・宗教が存在していて、それを動機やベースにして(ある意味命がけで)生き、活動している人々が存在しているのかを学ぶことだ。

未来に不安を抱きながら、日常では理解しがたい、整理しづらい事件や災害、信頼できない権力者の施策に振り回されている日本人には、今後もしっかりとしたものの見方や考え方が不可欠である。
自分以外の、自分たち以外の人々には、この社会が、世の中が、まるで異なったかたちで見えているということを知ることは、これからの日本にとって大変重要な意味を持つものだと考えるのである。

哲学なき人は、自分で自分の首を絞めるような選択をしてしまうのではないだろうか。これからの日本人は、世の中の宗教や思想を(たとえうわべだけでもよいから)学んで、自身と自身を取り巻くすべてのモノ、コトをしっかりと見抜き、考えるチカラをつけていく必要があると思う。
それこそが「戦後日本人」からの卒業であると思うのだ。


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