平成27年10月3日(土)に参加した、
JR東海主催 さわやかウォーキング
「清洲城と美濃路の古き街並みを訪れ「清洲越し」を偲ぶ①」の続きです。
道を一本東の方へ入りました。
少し細い道を歩いて行きます。
古そうな建物。
線香屋さん。
これはなんだろう?
どこかで見た事のある形。。。
無造作に置かれていましたが。
街道沿いの正覚寺というお寺さんの前まで来ました。
少し埋まってしまっている塚がありました。
外町 一里塚道標。
1945年頃、元一里塚のあったところの用水を改修した折、川の中から自然石に彫られた道標が掘り出され、
この場所(正覚寺)に据え置かれた。
北 みのかいどう
南無阿弥陀仏
是より
西 つしまかい道
と描かれています。
美濃路はまだまだ続きますが、ここで思わぬものを発見!!
コースマップを拾ったw
これで迷うことは無さそう。
ラッキーでしたが、落とした人は困っているかもw
これは萩の花ですね。
可愛らしい花です。
この通りは本当に人がいなくて、車もほとんど通りませんね。
静かな場所です。
こういった古い感じの建物を、この通りのあちらこちらで見ることが出来ます。
こっちにも。
赤ずきん、キョロ^(・д・。)(。・д・)^キョロしながら、辺りを見ていると、ついに発見!
屋根神さま。
こっちにも。
今はどうかわかりませんが、
屋根神さまは、周辺地区の方々が集まって、安全や防災を祈願したのが始まりなんだそうです。
ソースが美味しいと評判の、太陽食品への案内があったので、行ってみます。
せっかく来たのに、閉まっていました。
時間的に遅かったのかな?
残念w
須佐之男神社
こんなところに?
普通は津島神社とするところだと思いますが、何故かな?
建速須佐野男ではない、この神を祀る意味は、この地域の特性にあるのですが、
詳しくは古事記に記されています。
新川沿いにある清洲 川護陣屋へやってきました。
古来からこの地域は、度重なる洪水によって甚大な被害を被っていたそうです。
寺野村 庄屋 丹羽義道は、農民の先頭に立って窮状の打開を尾張藩の訴願し続けた。
その為義道は、閉居処分を受けた。
安永八年(1779)洪水の惨状を視察した藩主 宗睦は、治水に長けた勘定奉行水野千之右衛門の庄内川の治水事業を命じた。
千之右衛門は庄内川に沿った新しい川の開削を計画した。窮乏する藩財政難による工事中断を免れるため、比良村(名古屋市北区)から
伊勢湾までを200箇所以上もの工区に分け、天明4年(1784)一斉に着工した。
工事の元方本陣は、当所の北側に設けられた。
着工後、過小な工事積算が発覚し、藩参政人見弥右衛門・普請奉行水野千之右衛門は、責を問われ降職・謹慎となったが、
藩主の英断により工事は継続され、天明7年、40万両の巨費を投じた新川が完成し、翌年の大水に際しても、
流域住民は水禍をまぬがれることが出来た(新川開削)。
新川橋に建てられていた石碑など。
今の新川橋。
新川。
今でも台風などで大雨が降ると、あの歩道は水に漬かるほど増水します。
平成12年に起きた東海豪雨も記憶に新しいですね。
治水対策は施されたそうですが、油断は禁物ですよ。
新川を渡ってきました。
こちら側の美濃路は、道が狭い割りに車の往来が激しいです。
気をつけて歩いて行きます。
コースはまだまだ続きますが、長くなりますので続きはまた。。