(1) 虚子俳話より
詠おうとするものは如何なるものであっても差し支えない。人間はもとより結構、社会もとより結構、唯この季題を最もよく活用したものである事を要する。
作者が満腔の熱情を傾けて詠おうとする処、如何なるものもこれを拒む事は出来ない。唯俳句には季題というものがある。その季題の有しているあらゆる性質、あらゆる連想、それらの物を研究し、これをその熱情の中に溶け込まして、その思想とその季題とが一つになって、十七字の正しい格調を備えて詩となる。それが俳句なのである。
唯の詩でない。俳句という詩なのである。無季の句、若しくは季の働きの無い句は俳句ではないのである。
(2)風雅の対象は
俳句は“花鳥風月”などの風流な事柄を詠むものであると思っている人は多い。芭蕉は「笈の小文」で「風雅にいる人は自然に従い、四季の移り変わりを友として暮らしているから、目に見えるもの、心に浮かぶもののすべてが花や月と同じで、すべて風雅の対象である」といっている。
「何を対象として詠んでもいいのであるが、唯一つ、季題を最もよく活用したものでなければならない」と虚子はいっている。
(3) 季題の活用とは
“季題”とは歴史的に歌人や俳人によって磨き上げられてきた季節の言葉であり、それらは同時に、自然に対して鋭い感受性を持つ日本人一般の季節感によって裏打ちされてきた美しい言葉である。
季題の性質には次の三つのことがいえる。一つは季節感が豊かな季の言葉である。二つ目は歴史的な背景を持つ言葉である。三つ目は日本人の生活に溶け込んだ言葉である。
これら季題の持っているあらゆる性質とあらゆる連想を一句の中に生かすことが俳句なのです。
以上