私のジャズライクライフと学習戦略

2008-07-11 | ジャズ・フュージョン
彼は、千葉出身、私は石川県小松市出身で、一回りもふた周りも彼が年下だったが、
新聞配達の仕事は互角にがんばっていた。受験生なので集金は私が代配でしていましたが、毎朝3時前にきちんと出て、真っ先に配達に出るようにがんばっていました。

(以下、タイプミス修正版)

受験では残念でしたが、特に①や②に相当するとは思えません。
どうしても早稲田に入りたいという自分の思いにはうそをつかない点が立派であると誉めて良いと思います。それで、彼はどちらかというと、やはり、③でしょう。 
自分の勉強のペースをつかみきれずに、成績はUPしていないのだけど、最後に詰め込んで追い上げが効くだろうと、進学校の期末試験の経験と同じくらいに考えているところから、抜け出れていなかったのではないでしょうか?
入試の水準と受験人口からすると、その類推で走りきるのは至難です。
毎日夜遅くまで受験対策をカリキュラムに入れた予備校や塾に通っている高校生が受験生として集中しているのです、それだけ、親のお金と、彼らの時間が投資されている。
これに勝るほどの学習戦略と実践がなければ、やはり③。
”敵をまず知る、そして己を省み、戦略を立てる。”
これがないと、どんな人も、③です。

私はというと、②のように運が悪いわけでもないと思いますが、現役のときだけがある意味、運が悪かったと思います。

小松明峰高校では、文系クラスで2年はじめまでは硬式野球部。野球好き少年でした。
(下手の横好きレベル?それでも、中3の夏休み前、自宅の裏の養護学校のグランドで投球練習のようなことをしているとき、野球部の監督に就任したばかりのT先生に、小松明峰で野球しないか!?と勧誘を受けたので、これはレギュラーをとれるかも・・・と甘い希望を抱き、受験勉強をやめて、それ以後は野球の練習だけを毎日していました。(ランニングとか基礎のことは無知の為、勝手に体が成長して付いてくるとしか思っていなかったので、要はアホですが・・・))
よって、自然と比較的得意だった英語と生物以外、特に定期試験前以外は何も勉強しないし、歴史や地理が好きではなかったし、価値もわからなかった。それでも、受験用の勉強は2年生後半になると好き勝手にちょろちょろやり始めてみました。

いわゆる共通一次試験の模試では、自己採点で本番で700点/1000点中は堅かったし、目標は800点だったのに、始めの国語の時間から、祖父からもらった中古のディジタル腕時計が止まったのでした。これは、予想された危機かも知れませんが、運が悪かったとしか言いようが無いです。
このタイプの問題を何度も慣れるほどこなした後では、時計は不要だと知りましたが。(今はまた時計が気になるようになってます:そういうものなのでしょう、受験問題を解くということは。)
このときは、問題を解くコツも知らず、時間を見ながらどこまでその場で試行錯誤するかが勝負でした。そのため、パニック状態となり、90点/200点中 くらいになったのではないでしょうか。140点~160点を狙っていたので、終わりました・・・その後、数学も時計が無いのでかなり絶望的。今では、体でわかるので、上手く配分できますが、現役のときの問題解答経験値は非常に粗末なもので、なるべく効率的に勝負をかけているときやはり、時計は必需品です。

金沢大学文学部を目指していたのですが、
このとしは、600点前後しか点がなかったので、
富山大学文学部を受験、二次試験の英語で奮闘しましたが、不合格となりました。

この時点の総合偏差値は50台前半でした。いいときは60くらいあったので、
私立の早稲田~立教を併願すれば、どこかに入っていたでしょう。
ただし、貧乏な我が家では、進学自体が疑われており、受験費用は
毎年 国立一校、一回分だけ。
合格しても、入学金すら払ってもらえません。


次の年は確か、また共通一次試験はトラウマとなって、本番では上手く集中できず、
730点くらい。それでも、金沢大学文学部を受験し、やはり不合格。

この時点も、総合偏差値は大して上がらず、60前後。

ここまで、文系。
依然として、家計は苦しく、学費のめどは皆無。そのため、
モチベーションは単に、合格するためだけ・・・???それからどうするの???
これでは、しっかりと勉強するわけないですね。

さて、友人の影響を受け、数学Ⅲと物理を独学し、理系に転向。
次は、それでも760点くらいと、共通一次はトラウマで飽和・・・。
ここまで、塾や予備校にはお金が無いので全く気ままに、自宅でお勉強・・・
殆ど、野球場で壁に向けてピッチング練習や、広場でノックの練習や素振りばかりしていた二年間でした。貧乏でおいしい物を食べたり、旅行に言ったり、車の免許を取ったり、恋をしたりということとは、全く無縁でしたが、ひたすら健康には恵まれていました。

無謀にもいきなり東大理科一類に出願し!、いわゆる”足切り”にあい、一次選抜で一部イベントに参加したときの芸能人のように落選しました・・・・。
この時点の理系での総合偏差値は 多分60前後。(二次までに集中して挽回できるという根拠の無い自信というか、目標だけあれば今生きている意味があると感じていたのでしょう。目標がないよりましでした。)

それで、まじめに勉強してからどこまでできるか勝負だと思い、中学のときの同級生がそこを出て東大理科一類に合格したと知っていた、
駿台予備校の午前部理科一類に行こうと決め、
日経の奨学生に採用され、葛飾区に父のトラックで移動。
当該予備校には数回の選抜試験があり、一度目までに3日あったので、野沢の数Ⅲの参考書を、とめてもらった倉庫部屋で(今からするとすごいところに入居したもんだ・・・)読破して(極限と微分だけだったかな?)挑んだ。それで331番の入学許可がもらえたので、私の挑戦も無謀というほどでもなかったんだと安堵し、新聞配達・集金・通学の生活を開始したのでした。

それまで毎年550人は駿台午前部理一から合格するので、これは行けると勘違いしたものでした。
夏を過ぎるころには通学率は30%に落ち、勉強しているとはいえない状況に陥った。
合格しても、どうやって通学するのだろう???この疑問が大きかったと思います。

結局、3度目は、本番にはランクを下げ(都会で配達集金しながら理系の大学????と思った)金沢大学理学部物理学科が全ての駿台全国模試でA判定だったので、受験した。

しかし、共通一次800点くらいでは、現役生の追い上げと、過去問の傾向の違いの対策をしていなかったことが効き、集金にがんばった挙句の果て、二次試験本番では負けてしまいました。絶望のどん底。このあたりの大学の採点は、非常にあやしい取引などがありそうですが、もっと赤本の過去問を研究して物理を満点とるべきでした。

そのしばらく後、高校の同窓生の友人の助けで、車を出してもらい、福井大学の電子工学科の二次募集に出願。
多分余裕で、合格した(と、勝手に思っていた)。

この時点の総合偏差値65前後。

思うに 私は当然、③ でしょう。
敵の追い上げをよく把握せず、勉強に手を抜いていた。

毎年偏差値を5アップさせたので、ボンクラでもなく。
運が悪いほど逼迫したレベルまで勉強したとも思えず。

3浪といっても、親の予算ゼロ、自力・独学、しかし認識不足と劣悪な戦略のため。
いろいろあると思います。
早稲田に失敗した彼はどんな状況だったのだろう???
いまはどうしているのだろう???

それで、今も、完全に学習するまで学習スタイルが身についたとは自分自身納得していない、納得するまでやろう。そう思っているのです。

これからはさらにバージョンアップした学習戦略を取りたいと思います。

彼からも連絡が欲しい。

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