城北文芸 有馬八朗 小説

これから私が書いた小説をUPしてみようと思います。

お天道様

2022-06-07 14:44:10 | 小説「沖縄戦」


 一九四五年四月一日に米軍が沖縄に上陸してから二か月近くが過ぎ、米軍が一つ一つ徐々に日本軍の洞窟陣地を破壊し、いよいよ牛島中将ら幹部が立てこもる洞窟に近接してきた。作戦参謀の八原大佐は玉砕戦術、バンザイ攻撃に傾きがちの長参謀長を批判的に見てきた。八原大佐は幾人かいる参謀の中でも主に作戦の計画を策定する中心であった。だが、作戦は参謀長の指示の下に八原大佐が策定した。作戦は参謀の間で議論し、参謀長がまとめ、牛島司令官に裁可を求めるのだった。牛島司令官は今まで参謀長のもってきた作戦計画に反対したことはなかった。いつでも裁可だった。八原大佐は長参謀長の攻撃作戦指示の中でなるべく自軍の損害が少なくなるように作戦を立てたが、長参謀長を説得して攻勢作戦をやめさせることはできなかった。
 一九四五年四月一日の時点で、日本軍は少なくとも三か月分の食料を各洞窟陣地の中に集積していた。首里の本部陣地には五か月分の食料が貯蔵されていた。本部陣地には一流の料理人や菓子職人もいて、白いご飯や缶詰のおかずもあった。おやつまで食べられた。ビール、日本酒、ぶどう酒などもあった。参謀長はウイスキーを秘蔵しちびちびと飲んでいた。発電機が稼働しており、洞窟内は常に電灯がついていた。外気を取り入れる通風機も機能していた。司令部内には女性も勤務していた。盛装して化粧した彼女たちのおかげで洞窟内は華やいだ。その娘たちも五月の中頃には司令部の指示で後方に撤退していった。
 摂氏三十度を超す洞窟内の温度と、高い湿度のため、洞窟内は常にべとついていて、兵隊たちは汗疹に悩まされた。タバコもカビが生える状態であった。
 五月も終わりに近づくと、日本軍は幾度かの米軍に対する無謀な攻撃で主力戦力を大幅に失ったあげく、首里の地下陣地を放棄して、豪雨と厚い雨雲を味方につけて、南部喜屋武半島を目指して、十万人と言われる沖縄守備軍の内生き残った約五万人の兵が南へ撤退を開始した。 
 米軍による大量の戦艦からの砲撃と艦載機による空爆をうけながら、それでも日本軍はまだ輸送用トラック八十台ほどを温存していた。そのトラックに少なくなった日本軍が一か月ほど生き延びられるくらいの食料を積んで日本軍は南を目指して夜間出発した。八原大佐もそのトラックに乗って南を目指した。途中で豪雨が止み、雲の切れ目に月が顔を出した。夜の野原に幼い女の子が泣き叫んでいるのを八原は見つけた。八原は手を差し伸べてその女の子をトラックに乗せ、摩文仁へ連れて行こうかと一瞬思いが湧いた。しかし、乗せていったところで、最後は米軍に焼き殺される運命である。八原にはどうすることもできなかった。
 八原大佐は日本軍を南部に撤退させることで、沖縄戦を長引かせ、米軍の本土上陸を遅らせることが重要だと考えていた。そのために沖縄の人口の大きな部分を占めた南部住民を戦火に巻き込んでしまった。また、住民は知念半島に避難するという方針が出されたが、知念半島にはすでに米軍が展開していて、怖気づいた住民は結局日本軍と一緒に行動することになった。それが住民の被害を大きくした。
 日本軍と行動を共にしていた者には県知事や県庁職員、警察部職員等がいた。それらの者たちも南部に撤退してきた。また、首里の後方にあった陸軍病院も自力で歩けない重傷患者らに自決用の毒薬を与え、彼らを置き去りにして、摩文仁の壕に移動した。おにぎり一つを与えられた比較的軽傷の患者は南を目指して畑の中をさまよい歩いた。陸軍病院には県立女子高等学校の生徒たち二百人余が看護要員として従軍していた。
 米軍は日本軍が首里で最期まで戦うだろうと予想していたので、日本軍の撤退に最初のうち気づかなかった。また、梅雨の時期と重なり、厚い雲が垂れ込め、航空機の視界が利かなかった。そのため、日本軍は思ったより安全に撤退することができた。とはいえ、実際に喜屋武半島に到達したのは五万の兵のうち三万人だけだった。二万人は退却途中で死傷したか、動けなくなって途中に留まったものと思われる。
 沖縄南部にはガマと呼ばれる石灰岩でできた鍾乳洞が地下に無数に存在していた。天井には鍾乳石がつららのように垂れ下がり、常に水滴がポタポタと落ちていた。洞窟の底には水たまりができていて、水を飲むことができた。それが恰好の避難所となった。
 真壁村の大きな自然洞窟の中には住民三百人ほどが避難生活を送っていた。そこは奥行き百メートルはあると思われるほどの大きな隆起珊瑚礁の洞窟だった。地下に川が流れていた。
 日本軍が南部に撤退した時には日本兵や一緒に避難してきた住民たちがその大きな洞窟に入り込み、洞窟内部の避難者は倍の人数に膨れ上がった。
 そこに島田県知事や県庁職員、警察官たちも避難してきた。島田知事は日本軍が南部撤退を決めた時、軍司令部に対し首里放棄、南部撤退は住民の犠牲を大きくするとして反対を申し入れた。しかし、それはかなわなかった。また、軍司令部の早めの司令と強力な指導があれば、四百人の警官をまだ掌握していた島田知事や警察部長は住民を知念半島に避難させることができたかもしれなかったが、住民への避難指示は遅れ、知念半島にはすでに米軍が入り込んでいた。日本軍のしたことは住民の避難計画を策定することよりも軍事戦略、戦術を作成し、戦闘を長引かせることが主任務であり、住民の安全ということが頭の中の考えに入る余地がきわめて少なかった。むしろ、鬼畜米英の捕虜になるより死を選べという考えが住民に浸透し、渡された日本軍の手榴弾などをつかって集団自決をした人たちも多数いたくらいであった。そもそも命を守るという発想より、国のため天皇のために死ぬことが一億国民に求められていたのだった。
 だが、長参謀長はさておき、牛島中将や八原大佐が人命を散らすことを奨励していたとは思えないふしもあった。小禄の洞窟陣地に立てこもっていた海軍が、六月二日以降となっていた撤退命令を読み違え、五月二十六日に自軍の重火器を破壊して、南部に撤退を始めてしまった。それを知った牛島司令官は海軍部隊に小禄の地下壕に戻り三十二軍の撤退の支援に回るよう命令した。海軍沖縄方面根拠地隊司令官の大田少将は命令を誤読したことに深く責任を感じ、部隊を小禄の洞窟陣地に戻すとともに、そこで最期まで戦う決意を固めた。そして、いよいよ米海兵隊が小禄飛行場の海岸から上陸し、海軍陣地を包囲すると、六月五日、観念した大田海軍司令官は、沖縄軍司令部に決別の電報を送った。そして、次の日に東京の海軍次官あて、「沖縄県民斯く戦えり」という有名な決別電報を発した。その電報には天皇陛下バンザイという言葉はなく、沖縄県民の窮状と献身する姿が伝えられていた。
 三十二軍の撤退の支援に協力してくれた海軍部隊とせめて最期を共にしようと考えていた牛島司令官は大田少将の決別電報を読んで、あわてた。すぐに大田司令官に撤退命令を出したが、大田司令官の決意は変わらなかった。撤退命令の行き違いですでに海軍は手持ちの重火器を破壊してしまったため、米軍が包囲網を狭めてくる際には、歩兵による突撃戦術より方法がなかった。六月十一日、いよいよ米軍が海軍司令部の地下壕に集中攻撃を始めた。六月十二日に大田司令官は兵隊全員を一堂に集めたが、整列したものはわずか二百七十名であった。彼はそこで、自決ではなく、できるものに脱出を命令した。一万人の海軍を統括していたことになっていたが、海軍といっても実際は現地で招集した兵隊が多数であった。それに、海軍の精鋭部隊を含め、大部分を首里の防衛に援軍として送り込んでいた。六月十三日、三百人の傷病兵や数人の幹部将校たちは手榴弾を爆発させ、自決した。責任者である大田少将は短銃で自殺した。いわゆる玉砕であったが、できるものは生き延びよと命令もしていた。日本兵百五十九名の集団投降があったのもこの命令があったためと思われる。沖縄戦で初めての日本兵の集団投降であった。
 島田知事らはいまだに住民指導や警備隊本部と称していたが、今となっては、実際は外部との連絡は何もなすすべもなく、米軍の攻撃にさらされていた。空の上をトンボと呼ばれる軽飛行機が飛び回り、偵察していた。やがて艦砲射撃がはじまり、壕のちかくに砲弾が落下してきた。米軍の攻撃は照明弾をつかった夜間の攻撃もあったが、それも常というわけではなく、主には昼の間だけで、夜になると砲弾の音は静かになった。
 グラマンなどの米軍の艦載機も飛び回り、爆弾を落としていったが、夕暮れ時にはいなくなるので、その時が兵隊や住民が食料を確保するチャンスの時だった。砲弾の炸裂で土が掘り返された畑にもサトウキビやイモが残っていた。
 そのような時に日本兵十数人が壕の中にやってきた。これからここを野戦病院として使うから全員今すぐ壕から出ていけというのであった。小さい子どももいるのにとんでもないことをいう兵隊であった。もともと戦争を引き延ばして国体護持、天皇に有利に終戦を導こうとしていたのが沖縄に派遣された日本軍であるから、住民のことは二の次三の次であっても不思議でもなんでもなかった。彼らは大声で怒鳴り散らし、住民を追い出そうとした。「役人も警察も戦場にはいらん。早く出ていけ」と怒鳴るのだった。
 普段は温厚で知られる島田知事の顔色も変わるかに見えた。
「ここにおられるお方をどなたと心得る。沖縄県知事閣下にあらせられるぞ。警察部長もおられる。われらは沖縄軍司令部の命を受けて住民の指導と警護に当たっているところである。この壕を出て行けというのであるなら軍司令部の許可証を見せてもらいたい。それがなければこの壕を明け渡すわけにはいかない」
 と島田知事付の警視が断固として言い放った。もとより彼ら日本兵には許可証などあろうはずもなく、兵隊たちはすごすごと立ち去った。
 米軍の艦砲射撃が激しくなる中、洞窟の中にいた者たちは外部との連絡も一切できない状態であった。六月半ばごろ、島田知事は解散を宣言した。そして、知事と警察部長は一足先に軍司令部のある摩文仁を目指して避難して行った。
 知事と警察部長は洞窟を去ったが、その他の県庁職員や警察職員はまだ洞窟に残っていた。油もなくなり、やがて壕の中は真っ暗闇になった。
 その後いく日かして、十数人の敗残兵が洞窟にやってきた。彼らは乾いた一番過ごしやすい場所を占領すると、住民や県庁職員たちを湿った場所に追い出し、バリケードを作って入れないようにした。また、「子どもが泣き声を上げると、敵に聞こえるから泣かせるな、泣かせたら殺す」と脅した。
 いよいよ米軍が近づいてくると、壕の中にガソリン缶や手榴弾が投げ込まれ、兵隊や住民の間に死傷者が多数でた。洞窟の底を流れる川は血の色で赤く染まっていった。死体がいくつも川に浮かび、蛆が湧いてきた。死臭のする川の水を人々は飲んで生き延びるのだった。
 乳飲み子を抱えたお母さんは栄養が足りないせいか十分な乳が出ず、子どもがよく泣いていた。そのうち、やせ細った赤子は泣く力もなくなり、力つきて動かなくなった。お母さんは泣きながら「こんなときに産んでしまってごめんね」と言い、暗闇の中手探りで這いずっていき、その乳飲み子の遺体を洞窟の端っこを掘って埋めた。
 日本兵は住民が持っていたわずかな食糧も取り上げ、自分たちで食べてしまった。そして住民たちは食料になりそうなイモやサトウキビを探しに洞窟の外に出たかったが、日本兵が銃を持って監視していたため出ていかれなかった。壕内の情報が敵に知れてしまうという理由で外出が禁止されていた。そのため、高齢者などの弱い者から餓死する者も出てきた。また、母親の持っていた黒砂糖を日本兵が取り上げ、それを取り返そうとした子どもが日本兵に殺されるという事件も起こった。
 残留していた警官が見かねて住民を外へ出すように兵隊に要求した。兵隊は銃を握りしめて強硬に「まかりならんと」言うのだった。警官も、「これでは全員餓死してしまう」と強く迫った。新たな出入り口を掘って出ていく分にはいいことになったが、珊瑚礁の岩盤は鋼鉄のように硬く、ツルハシやシャベルを使っても簡単にはすぐに出入り口を掘って出ていくことはできなかった。
 住民は日本兵のいるところで沖縄方言でしゃべることができなかった。スパイと見なされ、なにをされるかわからなかった。
 その住民の中に沖縄出身の海軍上等兵が小禄の海軍地下壕を追われて洞窟に逃げてきていた。ハワイ出身の彼の妻も一緒だった。その後、二人は洞窟を出て、アメリカ軍の捕虜になった。彼の妻が英語を話したため、洞窟の様子が米軍に伝わった。彼女は米軍に住民の救助を要請した。
 アメリカ軍の通訳として従軍していたマイケル軍曹は捕虜となっていた具志堅というその海軍上等兵を捕虜収容所の有刺鉄線越しに尋問した。洞窟の中には日本兵がいるので、住民を救出するのは難しいということがわかった。そうでもなければマイケルは自ら洞窟に入って話をすることもやぶさかではなかった。とはいえ、マイケルは陸軍日本語学校で標準的な日本語を習っただけで、沖縄方言は話せなかった。なので、洞窟に入って説得するのは沖縄出身の二世が一番適役だった。沖縄方言で話すので信用されやすかった。
 具志堅という捕虜は自ら住民の説得を買って出た。米軍は火炎放射器による洞窟攻撃を一時中止し、彼に一人で説得に行かせた。
 彼が洞窟に入り、住民に方言で話しかけると、日本兵たちは「このスパイめが」と言って銃口を向けてきた。
「いま出て行かないと、これから一斉攻撃が始まって、皆殺しにされてしまう。手を上げて出ていけば命が助かる。これは本当だ」と彼は言ったが、皆は彼の言うことを本気にしなかった。結局、彼は二度三度と洞窟に通うことになった。
 彼が「本当にこれが最後だ。いま手を上げて洞窟を出て行かないと米軍の一斉攻撃が始まる。皆殺しにされる」と言った時に、ようやく住民の間で「どうせ死ぬのならお天道様を見て死のう」という声が上がり、住民たちは手を上げて洞窟を出て行ったのだった。こうして住民たちは救われたのだった。
 



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