城北文芸 有馬八朗 小説

これから私が書いた小説をUPしてみようと思います。

沖縄軍最後の命令

2023-04-18 13:50:14 | 小説「沖縄戦」

沖縄軍最後の命令    有馬八朗

 一九四五年四月一日に始まった米軍の沖縄侵攻作戦も六月を過ぎて、いよいよ大詰めを迎えていた。沖縄の日本軍は最南端の摩文仁方面に後退し、そこに司令部を移した。そして、圧倒的な物量の米軍の掃討作戦の前に追い詰められていった。
 沖縄本島最南端の摩文仁の洞窟に日本軍は司令部を移した。洞窟の南側はすぐに海岸である。この地域の海岸は険しい断崖が続いていて、アメリカ軍が大軍で上陸するには適さない場所であった。
 摩文仁洞窟の東北方向二キロくらいのところに仲座岳、北方向二キロくらいのところに八重瀬岳、その西隣に与座岳があって、日本軍の兵隊が洞窟に立てこもった。日本軍はこの狭い地域に全部でまだ三万人の兵士を擁していた。摩文仁の周辺には沢山の自然洞窟ができていて、中でも具志頭(ぐしかみ)には数百人も収容できる自然洞窟があった。ここには鈴木少将が指揮する混成旅団の大隊が入って固守することになった。
 小禄の海軍洞窟にいた海軍部隊の主要部隊は牛島司令官の発した命令を取り違えて、五月二十四日に砲台、機関銃座のすべてを破壊し、数百人の小部隊を残しただけで、南部に撤退を始めた。その海軍の動きを察知した陸軍司令部は海軍部隊に対し五月二十八日、海軍根拠地に復帰するよう命令した。
 海軍部隊の司令官だった大田実少将はすぐにに配下の兵隊を引き連れて小禄の海軍洞窟に戻った。しかし、砲台等はすべて破壊してあったので、抵抗する力は白兵戦を挑むか、自爆攻撃をするか、少人数で闇夜に敵のキャンプに忍び寄り、不意打ちをくらわすのが精いっぱいの抵抗であった。
 六月二日、牛島司令官は改めて海軍部隊に「撤退せよ」と命令した。その時、沖縄軍の司令部はすでに摩文仁に到着していた。その時、大田少将は意地でも最後まで海軍洞窟で戦う強い意志を持っていたものと思われる。二二六事件を思い出すまでもなく、日本軍にはいろいろと理由をつけて部下の者が内密に独断で行動を起こす傾向が見られた。
 その命令の二日後の六月四日には米軍の第六海兵師団が水陸両用車に乗って、小禄海軍基地の裏側に当たる那覇の海岸に上陸し、海軍洞窟を完全に包囲してしまった。洞窟には五千人の日本軍が息をひそめていた。この洞窟の攻防には十日ほどかかり、双方に多数の死傷者を出した。
 この海兵隊の水陸両用車は米軍にとって物資の補給の上でも役に立った。沖縄特有の豪雨によって道がぬかるみ、補給物資が前線の兵士に届けにくくなっていたため、兵士は食料を節約して戦っていたのだった。
 六月五日、海軍洞窟が米兵に包囲されようとしている時、大田少将は大本営、その他、陸軍宛てに、「軍主力の喜屋武(きゃん)半島への退却作戦も、長堂以西国場川南岸高地地帯に拠る(よる)わが海軍の奮闘により、すでに成功したものと認める。予は、課せられた主任務を完遂した今日、思い残すことなく、残存部隊を率いて小禄地区を死守し、武人の最期をまっとうせんとする考えである。ここに懇篤(こんとく)なる指導恩顧を受けた軍司令官閣下に、厚く御礼を申し上げるとともに、ご武運の長久を祈る」という同文の電報を発した。
 この大田少将からの電文を受け取った牛島司令官以下軍首脳たちは驚愕した。すぐに牛島司令官は大本営、その他、海軍宛てに、撤退を促し、陸・海軍合流し、最期を全うしたいと切望する旨打電した。その後、海軍部隊に再び撤退命令が発せられた。
 だが、大田少将の意志と決意が固かったためか、包囲されたため撤退不能に陥ったためか、海軍部隊は動かず、海軍基地にとどまったままであった。一気に陥落すると思われていた小禄地区の戦闘だったが、周辺の高地で日本軍はよく持ちこたえ、アメリカ軍をてこずらせた。双方に多数の死傷者を出した。戦況は毎日無線で摩文仁の司令部に送られてきた。しかし、ついに六月十一日になって、「敵はわが司令部洞窟を攻撃し始めた。これが最期である。無線連絡は十一日二三三〇を最後とする。陸軍部隊の健闘を祈る」という電報が八原の元に届いた。
 アメリカ軍の司令官バックナー中将は六月十日に、牛島将軍宛ての降伏勧告書を日本軍の前線内部に投下した。そこには「歩兵戦術の大家である牛島将軍よ。閣下の率いる軍隊は、勇敢に闘い、善戦しました。歩兵の戦略は、閣下の敵である米軍から、ひとしく尊敬されるところであります・・。閣下は本官同様、長年学校と実戦で経験を積まれた立派な歩兵の将軍であります・・。しかし、閣下もご承知のように思われますが、いまや日本軍の抵抗も数日で終わるであろうことは明白であります。これ以上悲惨な戦闘を継続しても有為な青年を無益に犠牲にするだけであります。したがって、人格高潔な将軍よ。速やかに戦いを止め、人命を救助せられよ」と大意書かれてあった。
 アメリカ軍は沖縄戦で住民や日本軍に向けて多数の宣伝ビラを飛行機や大砲から投下した。米陸軍の通訳が日本語に翻訳して投下していた。アメリカ陸軍の通訳養成所を出た伍長のマイケルも沖縄戦に参戦し、アメリカ軍に従軍していた。日系二世の通訳たちと協力しながら、ビラの作成に従事したり、時には拡声器を使って、前線に近い洞窟に潜む日本兵や住民の説得に当たった。
 六月十日ごろには以下のようなビラが住民や兵士向けに日本語でまかれた。
「生命を助けるビラ
一、このビラに書いてある方法通りにする人はアメリカ軍が必ず救けます。
二、そして國際法によって良い取り扱ひ、食物、着物、煙草、手當などを與えます。
三、男は褌、もしくは猿股だけを着け、女は自分の着ている着物で宜しい。直ぐ、必要な着物をあげます。
四、夜間は絶対にアメリカ軍の所へ來てはいけません。
五、此のビラは軍人軍属も一般人民も朝鮮人も誰でも使えます。
六、此のビラを持たなくても右に書いた通りにすれば宜しいのです」
 そのころ、沖縄南部の激戦の収まった戦線で、アメリカ陸軍通訳のマイケルは小型拡声器で、日本軍が立てこもっているとみられる洞窟に向かって「命を助けるので手を挙げて出てきなさい」と呼びかけた。何の反応もないので、マイケルは、ピストルを握りしめ、懐中電灯をかざしながら洞窟に足を踏み入れた。いつどこからか弾が飛んでくるかわからなかった。中に入ったマイケルはその場のあまりの悲惨さに言葉を失った。負傷した兵士や病気になった兵士が数十人も、足の踏み場もない洞窟の中で声もなくうめいていた。蒸し暑い洞窟内は悪臭で満ちていた。洞窟の外は激しい雨音がした。その雨が洞窟の中に流れ込み、水浸しになっていた。傷ついた日本兵には何の補給もなく、溺れそうになりながら、軽傷の兵士たちも死んでいくほかない状態であった。死亡した遺体の首にたくさんの白い蛆虫が湧いているのをマイケルは見た。
 日本の航空隊も多くて数機であったが、毎日のように決死の飛行を行い、喜屋武(きゃん)半島の陸地に向けて弾薬などの補給物資を投下しようとした。その量はわずかなものであったが、日本兵の期待を繋ぐものであった。
 最後の日本軍の司令部となった摩文仁の洞窟は海岸沿いの自然洞窟であった。すぐ裏側が崖っぷちとなっていて、断崖絶壁であった。洞窟の天井には鍾乳石が垂れ下がり、雨水が四六時中滴り落ちていた。八原大佐の寝棚の上からも水が滴り落ちてくるので、彼は眠れなかった。八原にはそれが水責めの刑にあっているように感じられた。
 日本軍の野戦築城隊が司令部の自然洞窟に発電機を設置し、電灯を灯したが、数日で断線してしまった。アメリカ軍の哨戒艇が至近距離を遊弋するようになり、崖に向けて機関銃を乱射するようになったのだった。崖下に設置していた発電機から伸びた電線が機関銃の乱射で切れてしまうのだった。
 また、断崖から数十メートルの海上を遊弋する米軍の哨戒艇から流ちょうな日本語で、「兵士諸君、諸君らは最後までよく戦った。しかし、勝敗はいまや決している。これ以上戦うことは無意味である。命は保証する。薬や食べ物も与える。崖下に降りて、我々のところに泳いでこい」と拡声器で呼びかけるようになった。
 日本兵はだれもそのような呼びかけを意に止めていないようであったが、八原は兵士たちの様子を注意深く観察していた。一人だけ、哨戒艇の方に泳いでいく者があったという報告が八原にあった。それが兵士だったのか住民だったのかは確認されなかった。
 司令部洞窟では食料も残り少なくなり、兵士等には一人当たり握り飯一日一個の配給となった。若い当番兵は日が暮れると、危険を冒して、周辺の農家の畑に食料調達に出かけた。砂糖黍やサツマイモが主だったが、大豆が見つかることもあった。勿論、断りなく失敬したものであった。サツマイモは小指大のものが多かったが、八原にとっては空腹時に食べる茹でたサツマイモは米よりもうまく感じるのであった。
 海岸の崖下に泉があって、住民や兵士が水筒を持って集まる場所があった。アメリカ軍の哨戒艇がそれを知ると、その周辺にたびたびやってくることになった。哨戒艇からの機銃掃射で泉の周辺に死体が折り重なるようになり、そこは日本兵の間で「死の泉」として恐れられるようになった。
 首里の司令部洞窟に八原たちと一緒にいた三十名ほどの女性たちが摩文仁の司令部洞窟を探し当て、やってきた。八原たちが彼女らと首里で別れる時、「私たちは女ではありません。一緒に死なしてください」と泣いて抗議した娘たちだったが、米軍によって軍民が島の南端に追い詰められると、彼女らは結局摩文仁の司令部を頼ってやってきた。娘たちは今までの苦労話を涙ながらに話すのだった。参謀長は、もうどこにいても同じ運命だとばかりに、彼女らの司令部滞在を許可したのだった。
 沖縄から本土に帰還を命じられて様子をうかがっていた神少佐が刳船に乗って沖縄を脱出することに成功し、与論島を経由して徳之島に到着し、そこから飛行機で東京に向かった。その一報が摩文仁の司令部にもたらされると、司令部の洞窟の中は羨望のため息で満たされたのだった。
 六月十七日になって、バックナー司令官からの降伏勧告文が摩文仁の沖縄軍司令部に第一線の兵士の手を通して届けられた。そこには敵の将軍に対する丁重な尊敬の言葉とともに、十二日をもって崖下の海岸に白旗を持った五名の代表を派遣することを求めていた。
 期限が過ぎていたこともあったが、日本軍の司令部にいた軍人たちはこの勧告文を一笑に付した。彼らの思いは、国のために尽くして、死んだあとで、魂となって靖国神社で会おうということであった。白旗を持って命乞いをすることなどありえなかった。それは最も軽蔑すべきことだった。
 摩文仁の司令部洞窟の北側二キロほどに八重瀬岳、その西側に与座岳、さらにその西側の海岸近くの真栄里の高地に日本軍は防衛線を展開した。八原はその残存兵力を三万人と推定したが、実際の戦力は未訓練の後方部隊や沖縄防衛隊の少年たちがその大半を占めていた。
 物量に圧倒的に優るアメリカ軍の昼間の砲撃は止むことなく相変わらず続いていた。米戦艦の大型砲弾が落下すると自然洞窟の司令部はグラグラと揺れ動いた。弱い部分の壁面が崩壊する時もあった。
 アメリカ軍は戦車などの爆弾による攻撃のみならず、新たに火炎放射器を使った攻撃を多用し始めた。米軍は洞窟の上に馬乗りになり、垂坑道からガソリンを投下した。これをやられると日本軍は防ぎようがなかった。結果は目も当てられないような日本軍兵士の悲惨な光景となった。洞窟にいた者は蒸し焼きになった。あるいはその前に煙で酸欠になり死亡するのだった。
 八原の元には前線から無電が次々と入って来る。八重瀬岳を拠点としていた弱体化した日本軍六十二師団は大した抵抗もできずに八重瀬岳を放棄した。アメリカ軍第七師団は東側から八重瀬岳を攻撃した。それと共に北側の八重瀬岳と与座岳の間の緩急部から浸透作戦を開始した。北側と東南側から挟撃された与座岳の日本軍二十四師団は、間もなくして与座岳の山頂を米軍に奪われた。すると、その後、殴り込み部隊の米海兵隊が俄然強襲攻撃を始めた。中央の国吉台は争奪戦が続いた。八原のところには国吉台が奪われたという報告が入るすぐ後に国吉台を奪い返したという報告が現地の守備隊から入ってきた。前線の西側の海岸沿いからは報告が届かず、八原は戦況の掌握ができなかったが、真栄里(まえざと)東南の高地を守っていた歩兵連隊の司令部の洞窟が爆雷攻撃を受け、連隊長以下全滅するという短い電文が到着するに及び、苦戦していることが知れるのだった。
 摩文仁の司令部洞窟の東側一キロ余の近距離に米軍戦車群が砲撃を始めた。西側二キロほどの真壁(まかべ)村付近をを米海兵軍団が侵入、同じく真壁村の南に位置する米須付近には米軍戦車数台が暴れ回っているとの報告が寄せられるに至った。電話が全く通じなくなり、時々無線が通じるのみだったが、やむなく徒歩で伝令が司令部にやってくるのだった。伝令たちの伝えるそれも「某大隊全滅」とか「某連隊長戦死」という八原には気分の滅入る報告ばかりであった。砲撃の音が司令部の洞窟近くで賑やかに聞こえるようになった。
 そんな中、アメリカ軍の司令官バックナー中将は西側の海岸に近い真栄里周辺の高地の戦いを視察していた。米軍第八海兵連隊が沖縄戦の最終局面になって増援のため沖縄に投入され、新たに第一海兵師団に追加配備されたのであった。第八海兵連隊はレーダー基地を建設するため、沖縄本島の西側にある島を攻略した後、六月十五日に沖縄本島に上陸した。その新参者の第八海兵連隊の戦いぶりの視察にバックナー中将はやってきたのであった。
 第八海兵隊は国吉台の道路を確保して日本軍を二手に分離し、一方を海岸に追い詰める作戦であった。六月十八日正午ごろ、バックナー中将はウォレス大佐と並んで海兵隊の戦車と兵隊が国吉台の谷を連なって侵攻する様を丘の上から一時間ほど双眼鏡で視察した。アメリカ軍の中将は普段星三つの付いたヘルメットをかぶっていたが、そのヘルメットが日本兵に狙われるあそれがあったので、部下から注意され、彼は無印のヘルメットに替えていた。視察を終えて、次の場所に移ろうとしていたその時、日本軍の砲弾が数発近くのサンゴ礁の岩に着弾し、サンゴ礁の破片を吹き飛ばした。その破片が中将の胸を貫通し、司令官はその場に倒れ込んだ。バックナー中将はその十分後、担架の上でアメリカ軍の兵士に介助されながら亡くなった。
 摩文仁高地の東側から米軍の戦車群が侵入を始め、大暴れして帰って行くようになった。アメリカ軍が摩文仁の司令部洞窟に到着するのもあと数日と予想された。司令部の最期の時はあと数日に迫っていた。
 戦線が混乱し、日本軍は諸部隊との連絡も不可能になりつつあった。連絡が届かない状態では司令部が各部隊に命令を発して指揮をするわけにもいかなくなった。牛島軍司令官は各部隊に発する最後の軍命令を起案するように命じた。
 沖縄での戦闘開始以来の全作戦命令が綴られた分厚い二冊の作戦綴りを大事そうに抱えた長野参謀は、「高級参謀殿、これが最後の軍命令です。参謀殿自ら起案してください」と八原に言った。
 八原は、最後の一人まで玉砕するということに疑問を感じていた。それでは日本民族滅亡ではないか。本土決戦でいたずらに死者を増やしていって、何を守ろうとしているのだろうか。敗戦を少しでも彼らに有利にして、大本営にいる彼らが生き延びようとしているだけではないのかと八原は考えるようになった。
 八原は長野参謀にこの最終命令の起案を頼んだ。それはやりたくないことを彼に押し付けた形だった。
「今や戦線錯綜し、通信もまた途絶し、予の指揮は不可能となれり。自今諸子は、各々その陣地に拠り、所在上級者の指揮に従い、祖国のため最後まで敢闘せよ。さらばこの命令が最後なり」
 八原がこれを参謀長に持って行くと、長参謀長はいつものように赤インクに筆を浸し、「最後まで敢闘し、生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」と太々と加筆した。
 牛島司令官はこれまたいつものように黙って淡々と署名するのであった。その沖縄戦最後の命令の意味するところは、今後は各々の部隊の判断に任せ、最後の一人が死ぬまで戦闘を継続しろということであった。六月二十二日に沖縄軍司令官たち二人が海を臨む崖の中腹で自害したあとも多数の犠牲者が止むことなく発生することになったのも、この最後の命令によるところが大きかった。各部隊は遊撃戦と称し、山にこもり、八月十五日の終戦後まで生き延びた部隊もあった。沖縄軍の正式な降伏調印式があったのはその年の九月七日になってからであった。牛島司令官や長参謀長らは自害していなくなっていたため、先島群島司令官の納見中将らが代わりに沖縄軍を代表して降伏文書に調印した。住民に対しても、降伏して捕虜になれと言わなかったため、六月二十二日以降も住民の犠牲者を多数増やす結果になったのだった。
 薬丸参謀は、沖縄軍の司令部が崩壊し、軍の組織的戦闘ができなくなった後の作戦計画を提案した。彼の提案では、各参謀は、前線を突破し、アメリカ軍占領地内に潜入し、各参謀が占領地内の残存小部隊を糾合編成して米軍に対し遊撃戦を展開すべきというものであった。
 薬丸少佐は彼の計画を提案した時に、八原の耳元で、「参謀は指揮官ではない。ここで死ぬ必要はない」と、低いが強い口調で囁いたのだった。参謀たちは無言で同意し、司令官の決裁を受けた。牛島司令官はいつもの通り淡々と具申通りに署名するのだった。
 六月十八日朝、長参謀長は、薬丸、木村参謀にアメリカ軍の包囲網を突破しアメリカ軍占領地内で遊撃戦を指揮すべく出撃の命令を下した。三宅参謀、長野参謀には、本土に帰還し、大本営に戦況、戦訓を報告せよと命令した。彼は八原高級参謀にも長野参謀とほぼ同様の本土帰還命令を与えた。
 八原は、後世の証のためにと参謀長が紙に書いた命令をしっかりと握りしめた。それと同時に八原には、「よくぞおめおめと生きて帰ってきたもんだ」と後ろ指を差す人たちの姿も容易に想像できた。本土帰還を命令した長参謀長に感謝しつつ、八原は、牛島司令官と長参謀長の最期を必ず見届けてから、この地をあとにしようと思った。
 六月二十一日になると、アメリカ軍の戦車群が稜線を超えて、摩文仁の部落に侵入し、小渡付近を防御する日本軍を背後から攻撃するに至った。部落の周辺にアメリカ軍の陣地が構築された。いよいよ司令部洞窟が攻撃されるのは時間の問題となった。夜には大本営から参謀総長、陸軍大臣連名の決別電報が沖縄軍司令部に届いた。その電報の中にアメリカ軍の司令官であるバックナー中将が戦死したというビッグニュースが入っていた。それは沖縄軍には初耳であった。海外のニュースが大本営を通じて入ってきたのだった。洞窟にいた兵士たちは、それを聞いて、戦争に勝ったような気分になった。長参謀長に至っては有頂天の極みだった。しかし、牛島司令官だけは敵将の死を悼むかのようにボーッと遠くを見ているような浮かない顔をしていた。
 六月二十二日、ついに米軍の歩兵は摩文仁の司令部洞窟の頂上を占拠し、真上から垂坑道に手榴弾を投下した。参謀長室付近に多数の死体が散らばっていると聞いた八原が垂坑道の近くにある参謀長の部屋に行こうと、多数の死体を乗り越えて進むと、参謀長室は崩れてなくなっていた。八原が付近を探すと、参謀長は牛島司令官の部屋の寝棚に座っていたのだった。両将軍の周囲には将兵が総立ちになり、護るように囲んでいた。部屋の隅には女性が泣き出しそうになるのをこらえて呆然としていた。八原が医療室を覗いてみると、誰かわからないほどむくんだ顔をした女性が二人ベッドに横たわっていた。八原が見るところ、彼女らを早く楽にするために軍医が青酸カリを注射する準備をしているところのようであった。
 夜になって、沖縄軍司令部は、両将軍の遺体を埋葬する係の副官部将兵十名と最後の電報を大本営に送る通信部隊十数名を残して、他の全員が山頂を奪回する攻勢に出ることに決めた。そして、両将軍は奪回した山頂で自決することに決したのだった。
 いよいよ日本軍最後の攻勢開始の時刻が迫ってきた。月も出ていない漆黒の静かな時が流れていた。アメリカ軍の哨戒艇が二隻、洞窟の崖を監視するように、闇夜にひっそりと浮かんでいた。アメリカ軍のいつものパターンで、夜間は砲撃がパタリと止むのであった。
 先頭を切って工兵分隊が唯一開口していた副官部の洞窟出口から一名ずつ匍匐前進して出撃した。しかし、アメリカ軍からは手榴弾攻撃もなにも反撃の兆しもなかった。闇夜に浮かぶ崖の下のアメリカ軍の哨戒艇からの砲撃もなにもなかった。八原は、アメリカ軍はいつものように夜間は休んでいるのだろうかと思った。山頂付近で散発する銃声が聞こえたが、戦闘が始まっている様子でもなかった。
 やがて残る司令部全員の攻撃命令が下され、将兵が軍刀を携えて出て行った。作戦部の書記らもそれに続いたのだった。が、実際の戦闘の経験のない彼らに多くを期待することはできないと八原は考えていた。案の定、彼らは山頂に行く手前の断崖絶壁に阻まれて、引き返してきた。
 八原が山頂部奪還総攻撃は断念せざるを得ないことを参謀長に伝えに行くと、参謀長はすでに酒が回っているらしく、上機嫌であった。ろくに八原の報告も聞かずに、「まあ、いいから一杯やれ」と八原に酒を勧めるのだった。
 夜半を過ぎて、参謀長は山頂奪回を断念することに決し、司令官と参謀長は副官部出口で自決することになった。その他の者は夜が明ける前に洞窟を退去する手筈だった。
 午前三時ごろに呼び出しがあり、八原が正装して出口に行ってみると、将兵が列をなして洞窟を駆け降りる時を待っていた。司令官と参謀長は白い服装に着かえていた。その時、急に洞窟内に一発の轟音が鳴り響いた。それは二人の沖縄軍最高責任者が自決する直前に前触れもなく経理部長が短銃自決をした音であった。
 翌日、無抵抗の摩文仁洞窟を捜索した米軍は日本軍司令官のらしい軍服が落ちているのを発見した。洞窟の中はもぬけの殻だった。司令官の遺体はどこを探しても見つからなかった。      (初出『城北文芸』2023年春刊)
 


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