城北文芸 有馬八朗 小説

これから私が書いた小説をUPしてみようと思います。

夏子さん

2022-06-14 17:14:17 | 私小説


 もう三十年以上も前のことである。私は池袋にあった外国語専門学校に夜間通っていた。
 私は当時小さな製薬会社に嘱託作業員として勤めていた。元々は臨時従業員を募集していたところに入ったものであった。その会社に入ったとき、私は弱冠二十五歳であった。
 実は私は高校を卒業していなかったので、学歴・経験不問という臨時工の募集に応募しがちだった。高校の期末試験をボイコットし、留年になるかと思っていたところ、校長から反省を求められ、拒否した。すると、退学処分となってしまった。校長からあなたのために余分な税金を使わせるわけにはいかないと言われた。担任の教師からは、今の教育に不満があるのなら、試験をボイコットするのではなくて、学校を卒業して、社会に出てから政治家になって世の中を変えたらいいじゃないかと言われた。今考えると、その通りだと思うが、その時の私は意固地になっていて、聞く耳を持たなかった。その時私が何をどういうふうに変えたかったかというと、色々あるが、一番大きなものを一つだけ言うと、一点を争う大学の入学試験の合否判定のやり方を変えてほしかった。ある程度のレベル以上に達した人には入学資格を与え、志願者多数のため入学定員を超過する場合は、入学試験の点数順や客観性の疑われる方法ではなく、公平公正な抽選による選抜にしてほしいと考えた。便利に使われているが、相当あいまいな日本の法律用語に翻訳すると、「相当程度の知識と学力を有する者の中から抽選で入学者を選抜する方式」とでもいうことになろうかと推測する。
 高校を退学処分になった後、私は二年ほどパートタイムや臨時作業員やアルバイトの仕事を転々と働いてみて、賃金の格差の面で正社員として働かないと損かなと思うところがあり、池袋の職安に行って相談した。その後、その職安で紹介された会社に面接に行き、高校卒業の資格はなかったが、高卒と同じ条件で、ある印刷会社の正社員として採用された。その会社はある大会社の下請けのような会社で、従業員数は五十人くらいだった。工場長は私に「うちは学歴差別はしないよ」と私に言った。確かに高校の勉強が会社の作業に直接役に立っているわけでは全くなかった。私はその印刷会社で製版という工程に配属され、水銀灯で写真のネガの影をアルミの原版に焼き付ける作業をおこなった。排気扇の能力が弱く、作業部屋にはアンモニアの臭いが漂っていた。毎日トルエンでガラスを拭いたりするので、シンナー遊びをする人のように脳が委縮するのではないかと心配になった。そういう心配なことに加え、残業が多いのも嫌だった。週刊誌などのグラビアの製版を作成していた関係で、多いときは二校、三校、深夜まで校了にならず、待機させられることもあった。残業の時は、出前のラーメンを会社持ちで食べられるし、割り増し賃金も貰えるので、悪いことばかりではないが、早く帰って自分の時間を持ちたい私には辛かった。その会社には労働組合がなかった。私は労働組合をつくって自分たちの労働条件を改善したいと思った。要求すればこの工場長ならすぐに改善に着手するような気がした。だが、一年や二年で労働組合を組織することは難しかった。それに、私はそこで三年は働こうと思っていたのだが、残業の多さにたまらず、たったの一年で辞めてしまった。面接の時、「長く働くつもりです」と言ったことが気になった。嘘はつきたくないと思ってはいたが、実際にはむずかしかった。三年で辞めるつもりですと言ったら採用されないに違いなかった。
 私が工場長に「アンモニアの臭いがきつい」と言うと、彼は私の作業場にやってきて、「これはひどいな。換気扇を変えなければいかんな」と言って出て行った。というわけで、私は労働組合を組織することはできなかったが、実際は職場環境改善の要求を個人的にしていたのだった。
 会社には社長室というのがあった。そこに社長がいるのかどうかはわからなかった。私は社長の姿をほとんど見たことがなかった。彼に会う時は、ボーナスを渡されるときだった。一年に二回、六月と十二月にボーナスが出て、従業員は一人ずつ社長室に入って行き、にこにことした社長からボーナスを渡されるのだった。従業員は「ありがとうございます」と社長に頭を下げるのだった。
 私はその印刷会社を辞めてから、あるスーパーのパートタイム店員をしながら、自由時間には図書館に行き、本を読む毎日を過ごした。私は図書館で、日本語に訳された分厚いモラエスの全集を読み、静かに感動した。私が昔の人の精神を受け継いだのと同じように、私の肉体はほろんで太平洋に帰ったとしても、私の精神は、血のつながりはなくとも、人種を超え、時代を超えて、後世の人につながるであろうと夢想した。でも、それには私は何かを後世に残さなければならなかった。私にとって、それは絵画だった。自分のことはさて置き、モラエスを読んで思ったことは、昔の人の経験を知ることによって、自分が長く生きているのと同じ、あるいはそれ以上の記憶の蓄積が得られるということだった。そういう楽しい毎日を過ごした後、残業がほとんどないというその製薬会社の門を叩いたのだった。
 その会社は製薬会社といってもさほど大きな会社ではなく、従業員数百人程度の会社だった。いくつかの工場が東京周辺にあり、販売促進のための営業所がいくつか地方にも置かれていた。
 臨時従業員として入ったその製薬会社も私はそんなに長く働く気はなかったのであるが、一年、二年と働いている内に、正社員とほとんど同じ仕事をしているのに、ベースアップは正社員と比べると全く少ないし、ボーナスは雀の涙で、ほとんど出なかったので、不当だと思うようになった。そこで、ぼくは係長の武田さんに正社員にしてほしいと頼んでみた。武田さんは東北地方の水産高校の出身だった。体が大きく、がっしりとしていた。色も白く、髪をリーゼントでオールバックにしていた。無口な人で、休憩室に置いてある係長用の机の前に座っていることが多かった。無駄口はたたかなかった。家に帰っても奥さんと必要なこと以外一言も話さないのではないかと思われた。奥さんに「オイ」「フロ」「メシ」くらいしかしゃべらず、髪を気にするあまり、夜はポマードをつけて頭にヘアキャップをかぶって寝ているのではないかと思われた。
 武田さんは源さんと相談してみると言った。気安く源さんと呼ばれていたが、源さんは課長だった。
 その会社には労働組合があり、正社員はすべて組合員であった。組合員にならないと正社員になれない制度だった。ただ、組合員は正社員だけで、臨時従業員や嘱託作業員は組合員にはなれなかった。というか、組合員として組織する対象ではなかったのだろう。私にはだれからも組合加入の声がかからなかった。
 組合の役員になった人は夕方になると組合の会議だと言って職場から離れて行くことがあった。同じ仕事を一人少ない人数ですることになるので、あとに残った人はその分仕事がきつくなった。私はその組合の役員をちょっとうらやましく思わないでもなかった。その時の組合役員をしていたのは高木さんだった。世話好きな感じの人で、よくしゃべった。「大丈夫か」とか「疲れてないか」とかなにくれとなく私に声をかけた。高木さんの話では、臨時従業員から正社員になった女性がその同じ職場にいるというのであった。中途採用と言っていた。つまり、その会社は御多分に漏れず、日本の他の会社と同じように、学校を卒業した新卒者を四月に一括して採用していたのだった。地方の水産高校の出身者が多かった。また、中学校を卒業して入った人たちもいた。私が武田さんに正社員になることを頼んだと高木さんに言うと、高木さんは、「源さんはあんたや武田さんみたいな無口で不言実行タイプの人が好きだから、大丈夫だよ。正社員になれるよ。おれも源さんに言っとくよ」と言った。私は昔からたまにボーっとするところがあり、いつかなどは、ドロップの原料のキャラメルと水飴五十キロくらいを入れたタンクのドレインバルブを閉め忘れ、原料をすべて下水に流してしまったことがあった。こんなことをやった人は前代未聞だったが、私は会社に相当な損害を与えてしまった。ひょっとすると、正社員に推薦されない理由があるとすれば、そんなことも理由のひとつにはなりえるかなと私は思った。我ながら、信じられないミスをしたものだった。とても重要な仕事は任せられないに違いない。
 昔は魚の肝臓からビタミンを抽出して製品を作っていたので、工場から魚の腐ったような臭いが発生して、近隣の住民から苦情が寄せられたと高木さんは言っていた。そんなこともあって、昔は魚に関係する水産高校の新卒者を採用したとのことであった。水産高校出身者は魚の臭いを嫌がらないということがあったらしい。私が入ったころには魚の肝臓は使わなくなっていた。だれだったか忘れたが、スイスから化学的に合成されたビタミンAを輸入していると言っていた。私はなぜ遠くのスイスから輸入するのだろうかと思った。日本ではできないのだろうか。特許の関係だろうか。日本でもできるようになればいいのにと私は思った。
 結局、私は正社員にならなかった。なぜかというと、私が正社員になった場合、かえって給料が臨時作業員の時より下がってしまうのだった。十八歳の新卒者の給料体系から始まるのだった。日本のたいていの会社は日本型経営と言って、新卒者採用、終身雇用、年功序列を特徴としていた。一年ごとに給料が高くなるのだが、定年近くの人と新卒者の給料の違いは三倍くらいの違いがあった。年配者が少なく、若年者が多かったそのころは会社にとって都合のいい制度と思われた。若い人は給料が少ないことが不満ではあったが、自分が年を取れば給料が増えるという期待もあり、それが楽しみでもあった。実際は、年を取るとともに、終身雇用や年功序列賃金制度が崩れていき、欧米の制度に近づいていった。また、パートタイム、アルバイト、臨時作業員、期間工、派遣社員など、同じような労働をしていても正規社員より賃金がかなり低く、身分が不安定な非正規と言われる新しい日本型経営と思われる労働者の形態が増えて行った。
 あまり長く働く気のなかった私は正社員にならず、臨時従業員よりは給料の高い嘱託作業員になったのだった。もっとも、組合の役員をやっていた高木さんが、正社員になって何年かすれば給料の調整があるから年齢相応の給料に補正されていくというようなことを私に教えてくれたが、私はそれほど長く勤める気がなかったのだった。
 コンベアベルトの上に木のトレーを載せたり、コンベアーで流れてきたトレーをパレットの上に積み上げたりする作業を人の力でやっていた。比較的軽い作業を六十五歳以上の高齢者や女の人がやっていた。力のいる作業を男の正社員や臨時の作業員がローテーションを組んで交代しながら作業を行っていた。私は根が怠け者なのか、もっと楽にできる方法はないだろうかとよく考えた。私のアイデアを実行するには機械の設計を変えることになり、大きな投資が必要になりそうだった。売上が下がっている状況で大きな投資をしても見合うだけの資金の回収ができるだろうか。戦争直後の食糧難時代と違って、右肩上がりのバブル時代であり、食生活も豊かになり、栄養不足の子どもも少なくなっているのではないかと思われた。かなり難しそうな気がした。だが、その後、私がその会社をやめてからだったが、その会社はアジアの途上国に輸出をするという方向で、生産を継続していった。
 夕方になるとくたくたに疲れ、家に帰ると、一、二時間は横になって休まないと疲れがとれなかった。肩の筋肉がカチカチになった。常に肩が凝った状態で、疲労感がとれなかった。夏休みや正月休みで一週間ほど休む時は、肩がスーとしたが、芯のところの筋肉の硬さはほぐれずに残ったままだった。そしてまた仕事が始まり、疲労が蓄積していった。何年も同じ職場で働いているうちに、同じ指の個所にトレーの圧力がかかるために、私の指が変形し始めた。タコができるくらいはよくある話だが、骨が変形してきた。まっすぐな指ではなくなってしまった。機械の騒音にも悩まされた。特に周波数の高い、金属のこすれるキーキーという音には閉口した。耳が痛くなってきたのだった。聴覚がやられそうだった。私は耳栓をつけて作業するようにしたが、そのことで高木さんから文句を言われるようになった。機械の小さな異常音を察知するには耳栓をつけていては察知できないというのだった。必要な話もききとれないのでは困るということで、最終的には会社指定の病院で耳の検査を受けさせられた。そこは会社に都合のいいような検査結果を出す病院ではないかという疑いを私は持っていたが、検査を受けに私はその病院に行った。ヘッドホーンから音を流し、聞こえるか聞こえないかを口頭で答える検査だった。ヘッドホーンをはめてみて、私は聞こえても聞こえないと言うこともできると思った。嘘をつくことができるのだ。医者のほうもそのことを十分心得ていて、疑い深そうな目で私を見ていた。「本当にきこえないんですね」と念を押した。私は聞こえるときは聞こえる、聞こえないときは聞こえないと正直に答えた。医者は私が嘘をついていると思ったらしく、「異常なし」と言った。すぐに一緒にいた看護婦が医者の間違いを指摘し、もう一度検査をやり直した。結果、私の耳の聴力が低下していることが判明したのだった。そのことが直接のきっかけで、いつか私はその会社をやめることにしたのだった。
 いずれにしても、私はその会社に長く勤める気はなかったのであるが、嘱託作業員になり、臨時従業員よりは高い給料となり、指は曲がってはきたが、注意して見なければわからない程度の曲がり具合であり、仕事にも慣れていき、生活は安定していった。月日の経つのは早いもので、私がその製薬会社に臨時従業員として入ってからあっというまに五年が過ぎ、六年が過ぎていった。これだったら、正社員になっていた方が収入は多くなっていただろうと思われた。ところが、肝油ドロップの生産量が年々縮小してきた。三日に一日は機械を止めるようになった。戦後の食料難と違って、日本人の栄養状態も改善してくると、肝油ドロップの必要性がなくなってきているように思われた。そこで、私はその頃にはもう少しスキルの必要な仕事に転職することを考えていた。ここの仕事だったら、二、三日すればおおよそのことができるようになってしまう。もっとも、機械が故障することも多々あり、ベルトコンベヤーを止めたり、故障個所を修理して生産を復帰させるのも自分たちで行っていた。それらのことが一通りできるようになるには、故障が起きるたびに先輩のやることを見て、修理のしかたを覚えていくので、もう少し時間がかかった。係長でも直せないような故障が起きると、事務所にいる源さんという課長が呼ばれて、二人で話しながら直した。課長も元々はこの現場で働いていた人だった。機械の図面を出してきて二人で考えていることもあった。また、私は他の工程の部門に配置転換になることもあった。ドロップを作る工程と、そのドロップに砂糖をコーティングする工程があり、砂糖をコーティングする工程は多少の熟練を要し、二、三ヵ月かからないと上手くできないようなところであった。が、いずれにしても、どの会社でも通用するようなスキルと言えるものとは思えなかった。
 というわけで、私は外国人向けの観光ガイド業を目指すことにした。観光客がくるのは主に春・秋の気候のいい時期、夏・冬は観光ガイドの仕事はない。あまり実入りのいい仕事ではなさそうだが、仕事のない時期にはたくさんの自由時間が得られる。私は絵を描くことをお金になるかならないかは別として私の生涯の一番大切な仕事と考えていたため、この観光ガイドという仕事は理想的な仕事のように思えた。問題は、私がこのような実入りの少ない仕事をしたとして、私と結婚をしてくれる女性がいるだろうかということだった。かなり探し当てるのはむずかしそうであった、かといって、自分の方向を変える気にはならなかった。もともと意固地な性格で、そのために高校も退学処分になったくらいであったので、わが道を行くことに変わることはなかった。
 池袋にあった外国語専門学校の夜間部に行くことにした。学歴不問であり、レベルに応じたクラスに振り分けるための英語による簡単な問答はあったが、入るのに試験もなかった。だれでも受け入れてくれるところだった。入学資格が高校卒業以上とあったら私は最初からあきらめて行かなかっただろう。
 最初の講義に行ってみると、周りから「おい、見ろよ、先公みたいなやつがきたぞ」という声が聞こえた。私はもう三十歳を超えていた。十代後半か二十代前半の彼らからすると私は完全に場違いなおじさんであった。
 最初に学長から入学者全員が集まった講堂で学校の説明を受けた。学長は東大卒で、自らもかなり難しい国家資格である通訳ガイド試験に受かった人とのことだった。堅苦しい感じの英語で説明した。当時はインターネットという便利なものがまだなかったが、私はこの専門学校の夜間部に入る前の何ヵ月か、歩きながらウォークマンで英語のテープを聞いて、英語の話を理解できるように準備していた。その成果があって、ゆっくりした簡単な英語を理解できるようになっていた。学長の話はわかりにくかったが、大体のことが少しでも分かればよしとした。習うより慣れろだった。
 学生にはけっこういろんな人がいた。資格不問なので、中学生の女の子もいた。大学生のダブルスクール、インドネシア人の若者、家庭の主婦等々いろいろだった。有名私立大学を卒業したという私と同じくらいの年配の男性もいた。何回も通訳ガイドの試験を受けるものの、落ちてばかりいるとのことだった。家が裕福なため、働かずに勉強をする毎日なのに受からない。大卒でたっぷり勉強する時間のある人でも受からないような試験であるらしい。逆に、受かってしまえば、供給が少ない分だけ需要が多いとも言えた。ただ、バスのガイドなどは朝が早いので、けっこう大変みたいだった。就職に有利となるように資格だけ取って実際はガイドとして働かない人も多いらしかった。
 クラスの講師は外国人がほとんどだった。中には串野さんのように日本人の講師もいたが、子どものころからインターナショナルスクールに通っていて英語はペラペラだった。自宅では英字新聞しかとってないらしい。漢字が読めないのかもしれない。
 私はある時、その学校の階段をのぼっていくと、廊下のベンチに黒縁の眼鏡をかけた背の高そうなやせた感じの若い女性が一人ですわっているのに気が付いた。その人のレンズの奥の目が私に出合った。自然と「こんばんわ」という挨拶の言葉が私の口から出ていた。私から先に挨拶をすることなど誰に対しても未だかつてなかっただろうに、私の口が勝手に話していた。それほど私は無口で通していた。
 なんとその女性と私は帰りの電車の方角が同じで、一緒に帰ることもあった。ある時、隣同士で電車のつり革を持っていると、彼女は「私はひのえうまの生まれで、結婚できない運命なのよ」と言い出した。
「そんなの迷信だよ。だれも信じないよ」と私は言った。
「私、最近、彼氏に振られちゃったの。やっぱり結婚できない運命なのよ」
 こんなかわいい子を振ってしまう男もいるもんなのか。相当もてる男に違いないと私は嫉妬した。でも、私にとってはチャンスかもしれなかった。
 そのころ、世間では三高という言葉がはやっていた。だれがはやらしたものかわからないが、新聞やテレビで盛んに言われていた。高学歴、高収入、高身長で三高と言った。私はこのどれにもあてはまらなかった。歌は世につれ、世は歌につれ、というが、つい十数年前には「ついて来いとは言わぬのにだまってあとからついて来た。俺が二十でお前が十九、さげた手鍋のその中にゃ、明日のめしさえなかったなぁ、お前」という歌がはやっていたものだったが、今やバブルの絶頂期に近づきつつあるころでテレビやラジオや新聞が勧める価値観がお金持ちにシフトしてきているように思われた。
 ちょうどその頃は、円・ドル為替レートに変動相場制が導入されて十年ほど経った頃だった。一九八五年のプラザ合意のころで、為替は一ドル二百円から二百五十円の間を行ったり来たりしていた。日本の労働者の賃金はまだ先進諸国に比べて低い状態と私は思っていた。国内に天然資源はないし、日本は貧乏な国だと思っていた。もっとも、それはそのうち一ドルが百円を切るようになり、日本の労働者の賃金も為替相場が変わることによってドル換算では急に倍以上の収入を得ていることになり、名目上は日本人の賃金が欧米に近づくことになったのではある。
 ところが、その頃はまだまだ欧米に比べて日本の労働者の賃金は低かったのだったが、オーストラリアの大学を卒業したというイラン人の若い女性の講師から、「日本人はよく日本は貧乏な国だと言いますが、日本は貧乏な国ではありませんよ。こんなに自動車が多い国は貧乏な国ではありませんよ。お金持ちの国ですよ」と言われて、国の発展段階によって見方がずいぶん変わるものだとその時私は思った。イランでは一九七九年に革命が起き、イランの皇帝が国外に逃亡し、ホメイニを指導者とするイスラム共和国が樹立された。このイラン人講師はアメリカが世界中で悪いことをやっていると非難したが、ホメイニは嫌いだと言っていた。その逃亡した皇帝がアメリカに入国すると、イランの学生がアメリカ大使館の塀を乗り越え、大使館員を人質に取り、元皇帝の引き渡しをアメリカに要求した。そのことによって、アメリカはイランと国交を断絶し、イランに経済制裁を課した。
 私はその頃、英語の青春小説を読んでいて、その中に出てくる「VD」という語の意味がわからず、その女性講師に聞いたところ、その女性講師もわからず、「あとで同僚にきいてみる」と言われた。彼女は本人の言うところによると二十九歳で、小柄だった。西洋人のように鼻が高く、唇が薄かったが、髪の毛や目の色は黒く、肌の色も浅黒かった。
 その後、嘉手納で米軍の軍属だったという背の比較的低い(と言っても私よりは高かったが)ヒスパニック系の感じの男性講師が私のところにやってきて、やや興奮した口調で、「本当に知らなくてきいているのか。女性だからってからかっているんじゃないだろうな」と日本語で言った。結局、意味は教えてもらえなかった。
 その頃、そのクラスの学生の中では、「ソース顔、しょーゆ顔」という人間観察がはやっていた。テレビで明石家さんまという芸人がはやらせたものだったが、日本人の顔を二つのタイプに分類し、どちらのタイプに属するか当てるゲームだった。最初は意味がわからないので、当たらないのだが、聞いてみると、ソース顔は丸顔、彫が深く、目が大きいタイプ、しょーゆ顔は細面で平べったく目が細いタイプであることがわかった。ソース顔は外国人、しょーゆ顔は日本人ということではなくて、日本人の中の二つのタイプということであった。どうもこれは日本列島に先に住んでいた人のタイプの人と、あとから朝鮮半島から稲作とともにやってきた人たちのタイプ、特徴を表していることが想像できた。上野の森にいる西郷さんのようなタイプとさんまさんのようなタイプとも言える。日本人は、一般的に言って、この二つのタイプの混血であり、個々人によってどちらのタイプの特徴が強く表れているかを見ることができるのだった。
「太郎さんはソース顔よ。夏子さんは、そうね、どちらとも言えないわね。中間かな」
 ロサンゼルスに親戚がいて、夏休みに長期間よくそこに泊まりに行くというダブルスクールの女子学生が、私とあのひのえうまの女性に向かって言った。あの黒縁眼鏡の女性はもう眼鏡をかけていなかった。コンタクトレンズに変えていた。最初に会った時は黒縁眼鏡をかけていたためよくわからなかったが、彼女は目の大きな女性だった。だが、彫は浅く、丸顔とも言えなかった。
 夏子さんは休み時間によく廊下でタバコを吸っていた。私はタバコを吸わなかったし、もともと無口で通しているため、自分から無駄口を話かけることはなかったのに、私はなぜか夏子さんの方に引き寄せられて行き、「何を吸っているんですか」と声をかけていた。
「マイルドセブンよ」と夏子さんは言った。マイルドなタバコなのかと私は思った。
「ぼくもタバコを吸おうかな」と私が言うと、夏子さんは、
「やめときなさいよ。からだに悪いのよ」と言いながら、平然とタバコを吸っていた。他人の健康を心配しているのに、自分はしたいことをするという一見矛盾した態度に私はますます興味をそそられた。また、私はだめと言われると興味を引かれ、やりなさいと言われるとやらなくなるというへそ曲がりの性格だったので、私に子どものころのいまわしい思い出がなければ、多分私はタバコを吸うことにしていただろう。実は私は最初からタバコを吸う気はなく、ただ夏子さんの反応が見たくて言ってみただけなのだった。
 ある日、学校からの帰りに、池袋の山手線のホームで、夏子さんは通行人の男に絡まれていた。夏子さんは仲のいい女のクラスメートと一緒だった。私は近くにいたのだが、関わり合いになりたくなかったので、遠巻きにしていた。
 夏子さんの友達が私のところにきて、「夏子さんが男の人にしつこくからまれているのよ。『おれの彼女に手を出すな』って言ってあげてよ」と言った。
 私は他人に言われるとやりたくなくなるタイプの人間で、かつ、今で言う草食系男子のはしりだったので、啖呵を切れないのだった。単に臆病なだけとも言える。どこかに駅員はいないかとキョロキョロしてみたが、見当たらなかった。そのうち夏子さんは「逃げろ」と言って、閉まる寸前の山手線のドアの内に駆け込んだ。夏子さんはけっこう逃げ足が速いなと私は思った。
 日本人の英語講師である串野さんは、見たところ三十過ぎの女性であった。小柄な人で、パーマで縮れた髪がパサパサした印象を受けた。彼女は独身で、北海道が好きで、夏休みは北海道で過ごすという話であった。日本では年齢を聞くのは割と一般的だが、英語圏の人たちはまず年齢を聞かない。私がイラン人の講師の年齢を知っているのは本人が自分から言ったためである。見た目よりは実際は若いということを言いたかったようだった。英語圏の文化は年上も年下も対等に扱う文化であった。先輩後輩によって敬語を使うということもない。丁寧語はあるにしても、日常的には敬語そのものをほとんどきいたことがない。日本では女性に年齢を聞くのは失礼だという常識もあり、私が串野さんに年齢をきくことははばかられた。ところが、独身かどうかは、割と平気できくことができた。独身であることは隠す理由はないようだった。各クラスは七、八名の少人数であったが、よく全体で集まって、ゲームをしたり、劇をしたり、遠足に行ったりした。全体で集まっても、四、五十人だったが、ある時、串野さんは、講堂に集まった四、五十人の学生に「将来子どもは何人ほしいか」と質問したことがあった。
 結婚もしていない串野さんが、まだ独身であろう若者たちになぜそういう質問をしたのだろうか、本人に聞いてみなければ、よくわからない。その当時は今のように少子化問題は発生していなくて、世の中の景気はバブル崩壊の前で、ジュリアナ東京が流行っているころだった。私は他人から「若く見えるからまだ大丈夫だよ」とはげまされる年齢になっていたが、結婚して子どもができることは当たり前のことで、自分もそのうち親となっているに違いないと思っていた。子どもも三人ぐらいほしいと思っていた。
 串野さんは男の人と女の人を分けて質問した。最初は男の人に手を上げてもらった。「五人以上ほしい人。四人ぐらいほしい人。三人くらいほしい人」などと質問し、そのつど手を上げさせた。私は三人に手を上げた。男の人の中では三人に手を上げる人が一番多かった。
 私の隣には夏子さんが座っていた。私が夏子さんのそばに行ってしまうのだった。なぜか気になってしかたがなかった。下手をするとストーカーのようだったが、いまのところ私は彼女に特に避けられてはいないようだった。私は女の人も三人くらいが一番多いだろうと思っていたが、違っていたので、意外だった。なんと、一人が一番多かったのだ。夏子さんもほしい子どもの数は一人に手を上げていた。
 私はまだ結婚もしていなかったし、なんの切実感もなかったが、子どもは三人くらいが適当かなと思っていた。子どもを育てていくときの困難とか苦労とかには考えが及ばなかった。多いほうが楽しいくらいの考えだった。子どもを出産するのは女性であって、育児も女性の担う割合が大きいのが世間では一般的である。女性の方が現実的に考えているに違いないと私は思った。私は、もしかすると、将来、東京の子どもの数が減るのではないかと漠然と思った。
                      (初出2019年「城北文芸」52号)


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