教職員組合板橋支部の元支部長である立花さんに頼まれて、今年の六月十一日に岩手県の小繋というところに行くことになった。小繋事件のあったところである。小繋事件とは、今から六十年近く前に、小繋山から自分たちが植えた木を切り出して自分たちの家を改築しようとした村人たちが百五十人もの警官隊に逮捕された事件である。そこは親子三代に渡って小繋山の入会権をめぐって法廷闘争がたたかわれたところである。六月の初めに山中湖の付近で国際コモンズ学会というのが開かれ、世界中から学者が集まった。その会議の共同議長であるマッキーン博士(米国デューク大学教授)がフィールドトリップの一環で被災した東北沿岸を訪問する機会に小繋を訪問し、小繋の集会所で講演と村人らとの交流を行うというものであった。私はそこでの通訳ボランティアを引き受けたのであるが、インターネットで調べてみると、マッキーンさんは若いころ東京大学に留学していて、日本語に堪能だということが分かった。東京大学留学中に小繋の入会権訴訟を知り、朝日新聞記者を通じて戒能氏の弁護士グループを紹介してもらったようである。後にマッキーンさんらによって、国際コモンズ学会という学者の組織がつくられたそうである。「コモンズ」というのは、古代よりイギリスの牧草地(イギリスというよりはスコットランドと言ったほうがいいかもしれない)で昔ながらの牧畜を営んでいたに地元の人が羊を放牧させていただれのものでもない土地を共有地という意味で「コモンランド」とイギリスでは呼んでいたところからきている。今日では、牧草地だけでなく、森林、漁場、灌漑用溜池の水利、それらを共同で利用しているところ、あるいは、それらを共同で管理している組織や社会的仕組みをいうこともあるということである。
事前にコモンズについてインターネットで下調べをした。知らないことばかりだった。マッキーンさんらの研究はギャレット・ハーディンという人が発表した「コモンズの悲劇」という論文(共有地では土地がだれのものでもないため羊をどんどん増やしてしまい、次第に牧草を食い荒らし、荒廃するというもの)に反論するものであった。先住民族の共有地を奪って囲い込み私有地に変えていくという民族問題にも関係しているようである。
東北新幹線を盛岡で乗り継ぎ第三セクターのいわて銀河鉄道の二両編成の列車でドア開閉ボタンを内側から押して小繋駅に降り立ったのは午前十一時ごろだった。目印の黒っぽい帽子を被っていた。どうせ降りるのは一人だけだろうという言葉どおり、降りたのは私一人だった。無人駅で、駅前に駐車場があるだけで、店もなにもなかった。二年前まで九戸村の共産党村会議員だったという背のひょろりとした橋本敏夫さんが自動車で迎えに来てくれた。立花さんとは高校時代の同級生だそうである。かなり廃車寸前の使い込んだ自動車に見えた。後ろのガラスにヒビが入っているように見えた。
集会はすでに十時から始まっていた。急遽ボランティア通訳をしてくれることになった谷さんという若手の女性の博士が通訳をしていた。私は少し手伝う程度で済んだ。外国の方はマーガレット・マッキーン博士とインドのミノーティ・チャクラバルティ博士(デルヒ大教授)の二人で、外国人にしては小柄な女性たちだった。「民主文学」に「こつなぎ物語」を連載している野里征彦さんも来ていた。地元の村人の方たちが数人、皆高齢の人達だった。そして若い学生の人達が十人くらいはいたようである。あとは主催者や小繋の会の人たちがいた。録音をする人たちもいた。
昼休みに集会所のすぐ近くの立花さんの実家で昼食を食べた。立花さんの実家は黒っぽい木造の家で、一九五五年ごろにつくられたものという話だった。つまり、警察から盗木材だと言われた木で建てられたものが今も残っていた。入口のドアの前には車椅子が置いてあった。立花さんの実母が歩行困難になっていて、立花さんの姉が身の回りの世話をしていた。立花さんの実家も集会所も奥州街道に面していた。小繋部落は奥州街道沿いに家が並び、現在では九十人程が居住しているそうである。江戸から松尾芭蕉が歩いてきた奥の細道のまだ先のところである。
二千ヘクタールあった小繋山の入会地は、様々ないきさつがあって、茨木県の不在地主に売られ、住民による訴訟が起こされ、住民側が敗訴したが、一九五五年に調停が成立し、百五十ヘクタールで入会権が認められた。今では薪で暖を取る家は少ないようだが、まだ薪を採って積み上げている家もあった。
マッキーンさんの講演では「コモンズの悲劇」を書いたギャレット・ハーディンが自分の論文は間違えであったという論文を書くという手紙をマッキーン博士に送ってきたということが話された。ただ、その論文は当人がなくなってしまい、出版されずに終わってしまったそうである。また、マッキーンさんは、一九五五年に父や叔父祖父が早朝百五十人もの警察隊によって包囲され逮捕されたという村人の話を聞き、「秘密の話があります。私も警察に捕まったことがあります。友人の言論の自由を求めた事件に、弁護の論文を書いて捕まりました」と話されました。ミノーティ博士はガンジーが愛した歌をベンガル語で歌った。歌詞の内容は「誰も戦いに力を貸してくれないなら、一人で進め。たとえ呼びかけに応える人がいなくても、戦い続けよ」とのことです。また、カナダのコロンビア州の先住民の共有地が私有化された戦いで、五千年もの間共有地として使われていたが、先住民に文字がなかったために記録が残されていなかったが、オランダのヘーグの国際裁判所に提訴して口承による記録を認めさせたという話がありました。日本の裁判で負けても国際裁判所があるという話でした。また、インド国内でも企業によって共有地が工場にされてしまう事件が発生しているそうです。世界規模でこの種の人権問題、命の糧を守る戦いがいろいろなところ、特に途上国で続いているとのことです。その意味で小繋の戦いは世界的に先駆的な意義を持っている戦いと言えそうです。
小繋部落も過疎化で後継者がいない問題、学生が熱心に参加していたこと。岩手大学名誉教授の早坂啓三さんが小繋の会会長として頑張っていたこと。科研費という名前の国からの研究補助金があることを初めて知りました。科研費を使って岩手大学図書館内に小繋事件の資料館をつくったそうです。早坂さんらの尽力で若い研究者も育っていきそうです。学問の自由の確立も大切だと思いました。古きを知り、新しきを知れば、百戦危うからずということもある。「民主文学」にも若手が降臨してくれないかなと思いました。 (2014年7月25日記)