私の写真日記

私は喜寿近くになり50年勤め完全退職しました。これから健康寿命を伸ばし夫婦共々穏やかに楽しむ人生を願っています。

ともに白髪と禿げるまで(その2 沖縄へ)

2024年09月30日 | 自分のブログ

以前も(昨年の夏に)ご紹介した内容です。

最近は何故か50年という節目を感じるのです。働いて50年で退職とか、今度は結婚して50年を記念して沖縄旅行にも行ってきました。

やはり、これから何年、どのように過ごすかなどを考えてしまうからなのでしょう

また、最初の画像はここからスタートします。昭和47年に就職し、48年に結婚でした。

男の子二人に恵まれ、家庭のことは女房任せの時代でした。

仕事が残ったと言いながら、毎晩のように仲間と酒を飲んで帰宅です。

サラリーマンは気楽な稼業ではありませんでした。(スーダラ節のようには行きません)

では、なぜ沖縄にいくことを選んだのかです。

一番は会社の沖縄支店の友人が、キンキンに冷えたORIONビールとポンドステーキを食べさせたいと誘いがあったからです。(一緒に中国の青島と上海にも行きました。中国では冷えたビールは飲まないようです。ぬるいビールは喉に染みることなく何の味も感じません)

18歳の時に船で2日間かけて、パスポート(身分証明書)取得して、バイトで3万6千円稼ぎ現金を100ドル(1$が360円の時代です)にしての沖縄だったのです。当時は佐藤栄作総理だったのです。そう車も右側通行だった沖縄です。すべて米軍仕様になっています。

当時(18歳)の時に訪れた地です。ひめゆりの塔などを見ると、戦争の惨さを感じます。

米軍が逃げのがれた洞窟に火炎放射器が火を噴いたり、手榴弾が投げ込まれたり、祖国のために岬から飛びこんだ方も多くいます。

当時 期せずして、学生運動が活発化していました。安保反対!と・・・。

甲子園の野球で沖縄代表は砂を集め袋に入れましたが、沖縄近くの海に投棄した時代です。

外国扱いですので、砂などの持ち込みは出来なかったのです。

実に58年前に単身で晴海ふ頭から2日間の船旅で沖縄泊港に着岸しました。エメラルドブルーの泊港は、今でも鮮明に覚えています。

また、その時は台風が去ったあとでしたので、那覇丸は木の葉のように揺れて大半の方が船酔いでした。

*画像を見てもおでこが広がり、禿げるタイプになってきました。ともに白髪は私には困難な状態です。

今では信じられないような、大型客船が横づけしています。

今回は羽田から約3時間の飛行機の旅です。

定刻に飛び立ちました。フライトの3時間て中途半端な時間ですね。私は飛行機は慣れていますが、女房はそんな機会は何度もありませんでしたので、眼下の海をを見下ろしているだけです。

今の沖縄はインバンドも含み観光ブームで、レンタカーの予約が取れないのです。

沖縄支店の友人が、探しまわって取ってくれました。

こんな時ですので、ぼったくり業者もあるようです。特にアジア系の外人相手では同じくアジア系の白タクが横行していると聞きました。

本土のレンタカーは「わ」ナンバーですが、沖縄ではレンタカーが多く今は「わ」ナンバーが足りなくなり「れ」ナンバーが主流と聞きました。

那覇空港から高速道で1時間半かけて、沖縄市宮里まで向かいます。高速道料金は国の支援があるのか非常に安く感じます。

途中のパーキングエリアで休憩です。

ソフトクリームと初めてソーキそばをいただきました。美味しかったですよ!

那覇市はやはり米軍の街のように思えます。

宿(貸し別荘マンション)は、友人の紹介で驚くほど安く(タダ同然で)お借りしました。

宮里にあるガーデンヒルズの上階です。5部屋くらいあるマンションです。

夕日がきれいに望めます。

その日、友人が基地全体が見渡せる場所に案内いただきました。

友人も職場(支店)までは、この基地のために遠まわりして行くと言っていました。

私18歳の時に行った鉄条網の中は変わりませんが、周辺は大きく変化していました。

夕刻には、マンションのオーナーが地元しか食べられない料理を用意していただきました。

部屋も特別に安く貸していただき、夕食までごちそうになるとは思っていませんでした。

朝日がきれいな見晴らしの良い場所です。私は耳が遠いので騒音は聞こえませんでしたが、女房は逆で下を走る車の音がだいぶ気になったようです。マンションの高層階に住むと外の音がよく聞こえるようですね。

友人はいろいろと調べてくれて、観光コースなどをラインで教えてくれます。

3時間ほど南に行った「美ら海水族館」(ちゅらうみ)」向かいました。

関取にも沖縄県出身の「美ノ海 義久(ちゅらのうみ よしひさ」がいます。きっとこの場所の出身なのでしょう。

大きな水族館で半日過ごしました。そう隣接するプラネタリュームにも行きましたね。

帰り道には普天間移転反対ののぼり旗反対住民が座りこんでいました。これが沖縄の方の現実的な気持なのでしょう。米軍基地が半分以上が使われている(占領されている)のです。

短い内容にしようと思ったのですが、沖縄に対する思いが強すぎて長くなています。ご勘弁を!

この立ち姿を見ても、18歳当時とは異なり、体形も崩れ白髪になるタイプではないことが分ります。

そう、このORIONビールのTシャツは、友人からペアルックでいただいたものです。

友人が紹介された遺跡(戦争の傷あと)などを周りました。

各施設で受け付けている方も、お若く当時のことはご存じ無いようです。

57年前に訪れたこの地の写真をお見せしました。あぁ~そうなんですか?と・・・。

やはり、そうなんでしょうね。時代は少しずつ流れているのです。

3泊して帰路につきました。待ち時間を利用して有名なハンバーガーを並んでいただきました。

定刻に羽田に着きました。

結婚50年目を記念しての沖縄の旅でしたが、過去を思い出すもがたくさん有ります。

私たちは、戦争(沖縄のあり方)など、観光で伺うにしても歴史なども知る必要があると思いました。

いま、76歳になっても特に自分の周りでは大きなことはありませんでした。

沖縄・米国・ベルリンやその他の諸外国・結婚・子どもの成長・退職・親との別れ・・・。

こうして、ブログを打ちながらこれまでにお世話になった方々や出来事に感謝したいと思っています。

18歳の時の行動と76歳になった今の比較で。「私の写真日記」として個人的な記録になってしまいました。どうかお許しを!

 

yuki76

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする