本日の出発点は地下鉄の谷町六丁目駅、駅の写真は撮るのを忘れましたので、地下鉄に乗る前に京阪の天満橋駅周辺をウロウロしていたときに見つけた楠正行の奮戦の碑を載せておきます。
南朝の正平2年(1347)11月、住吉で細川氏などの軍を破った正行は、その追撃戦で、この辺りに架かっていた渡辺橋に敵兵を追い詰めます。橋に殺到した敵兵は川に落ちるものも多く、そうした敵兵を助けて衣料と食料を与えてやったため、多くの兵が以後は正行に付き従うようになったという話が残っています。この翌年には四条畷で正行は戦死してしまうのですが、楠父子を無理な戦いに追いやって戦死させた南朝の廷臣達には怒りを感じます。北朝の光厳上皇に仕えさせてあげたかったなぁ(詠嘆)。
それはともかく、谷町6丁目から西に歩き、東横堀川のところまでくると、そこからが長堀川の川の跡です。現在は広い道路となっています。
末吉橋
今は東横堀川に架かる末吉橋が拡充されていますが、長堀川があったころにはこの地点には、当然長堀川を渡る安綿橋(52)が架かっていました。けったいな名前ですが、橋を架けた二人の商人の名を継ぎ合わせたもののようです。
橋を渡ったことにするためには、この広い長堀通りを何度も渡らねばならず、交通量もそこそこなので、信号待ちに随分と時間を使いました。橋の後の番号は、このちょっかいを始めてから幾つ目の橋かを示しています。以前に渡った橋には番号を付けません。
長堀通りを西に歩き始めてすぐに板屋橋(53)。この通りには写真の如く昔長堀川に架かっていた橋の写真も付けた解説板が立っていて随分と親切です。ただ、通りの北を歩いているときは南は確認できず、南を進めば北が確認できませんので、見落としているものも沢山あるだろうと思います。
板屋橋跡
長堀橋(54)まで来ると長堀通りの地下はクリスタ長堀なる商店街となります。腹が減ったり、トイレに用があるときは何時でも地下に潜ればよいとなかなか快適であります。
この辺り、長堀通りの南側一帯は「鰻谷」と言われるところですが、その商店街の名を示す看板にも昔の橋の名が記されています。
中橋(55)は、中央分離帯に一つだけ欄干が残されていました。
さらに進んで三休橋(56)、心斎橋や中橋、長堀橋を渡る人たちを一人でもこの橋に向けて、三つの橋を休めてやるから三休橋というそうですが、まことにや。
御存じ心斎橋(57)です。ついこの間まで、橋そのものが歩道橋として使われていましたが、クリスタ長堀の完成と共に地べたに下ろされたと言うことです。つまり地下街を川に見立てた訳ですな。
歩道橋があったころ、シャープ婆(最近はソフトバンク婆)が歌う「若い2人の心斎橋(歩道橋の上で逢い引きする歌)」という歌で「車は流れる橋下を…」という文句があるのに対して、NHKラジオのアナウンサーが「いったい何で川を車が走るのでしょうね。」等ととぼけたことを言っていて、「ああ、こいつは現場を知れへんな。」と思ったことがありますが、歩道橋も撤去され、今だったらもう全く通じないフレーズになってしまいました。
ここらで南に折れて難波に出て、自由軒のカレーでも食べて帰りたい衝動に襲われますが、まだ徘徊を始めて40分ぐらいしか経っていません。
御堂筋に架かっていた橋は新橋(58)というようです。佐野屋橋(59)を経て四ツ橋へ。四ツ橋はもう何回も通っていますね。この辺りで、クリスタ長堀は終わっていました。
佐野屋橋跡
宇和島藩の蔵屋敷跡に由来する宇和島橋(60)の欄干は一つだけ、しかも普通では近づけないところにポツンと置かれています。車が信号待ちする間にダッシュして近くに行き写真を撮ってダッシュして戻るというヤツですが、こんなところで車にひかれたら「何しててん」ということになりますね。必死で道路を渡ったから数に入れます(笑)。
西大橋(61)までやって来ました。ここからは長堀川の跡がプロムナードとなっていて、何やかやとあります。
先ずは間長涯天文観測の跡の碑。とうとうここに落ち着いたかと言う感じです。間長涯(1756~1816)は大坂の町人にして天文学者、有名な伊能忠敬の師でもあります。
遊歩道
長涯先生が天文観測をするときには富田屋橋(62)を通行止めとしたそうですが、誰も文句は言わなかったということです。まあ、たくさん架かっていますから一つぐらいええんやという感じでしょうね。1816年に死んでいる者を「幕末の天文学者」とはちょっと?です。
蔵屋敷の用に資するためでしょうか。ここいらは橋の密度がとても高いような気がします。西に進んですぐに問屋橋(63)。
プロムナードが終わるところに木材市塲発祥地の碑と白髪橋(64)の説明板。
鰹座橋(65)を越えて南には、司馬遼太郎が『龍馬が行く』を書いた場所と言われる西長堀アパートが見えます。
このビルも古そう(「細野ビル」であると師匠より教示)
上の細野ビルのオーナーは実にフランクな人だそうです(師匠情報)。西区の区役所前には、道標があります。
ここでしばらく長堀通りを離れて土佐稲荷神社にお参りです。神風連としては当然ですね。
玉造橋(66)が長堀に架かる一番西の橋でした。程なくして長堀川は木津川に流れ込んでいました。
長堀通りは尽きましたが、今しばらく散歩します。木津川に架かるのは伯楽橋(67)、下に水があるというのは久しぶりです。橋の名は近くにあったという島の名に由来するそうですが、その昔には馬場か馬市でもあったのでしょうか。
橋を渡った松島公園に朝鮮通信使の碑、瀬戸内海を航行してきた使節一行は、ここで船を乗りかえて京都に向かったとのこと。随分と遠回りのようにも思うのですが、神崎川などは通らなかったのでしょうか。
木津川を下ります。続いて千代崎橋(68)。ここまで来るとということで、麗しの松島遊郭も偵察しました。小生の大叔父はここで女郎と心中しています。南地の芸者をひかせて妻とし、その妻が出ていったあとは堅気の娘を嫁としましたが、生来の遊び癖は治らなかったようです。一族の墓にも入れてもらえず、爺さん婆さん等が生きているときには名前を出すだけで轟々たる非難に晒されてきた人であり、勿論小生は会ったことなどありませんが、何となく好きな人物でもあります。色々とやったことを知ると「憎めんなぁ」という感じ。
千代崎橋
松島
「あれ?兄ちゃん、何してんねんな?」と何か馴染みに語りかけるように引き手の婆さんが声をかけます。「ちょっとぶらぶら。」とでも返事しようものなら、「はよ入らんかいなぁ。」と注意されます(爆)。一番いいのはニコッと笑って何も言わずに通り過ぎることです。「にいちゃん!これ、ちょっとにいちゃん!」としつこく言ってきたら、「今日は忙しねん。」等と言いますが、忙しい人間がこんな所をウロウロしている訳がない。本日は崇高なる目的がありますので、おやまはんの熟視と婆さんの誘いに耐えることが出来ました(爆)。
けれども、たこ焼き屋が三軒も四軒も連なっているともうあきません。ひとまずここでたこ焼きとビールです。女郎買いに比べたら思いきり安上がり。
ドーム前歩道橋(69)は、昔は無かった橋ですね。これを渡って、南に進むと木津川から岩崎運河が西の方に分かれていきます。この地点では道頓堀川も合流しています。この運河を越える橋は岩松橋(70)。
ドーム前歩道橋
右は岩崎運河
道頓堀川が流れ込むが水門が閉じられている
岩崎運河は今では尻無川の水源となっています。さらに進んで渡し船に乗って地ビールかなあという考えも浮かびましたが、環状線の線路が見えましたので、京橋に行くことにしました。大正橋(71)を渡り、もう少しだけ南に下ります。
大浪橋(72)を渡り、大正駅のほうに向かいます。橋のたもとに渡海場の跡の碑、早渡というのは、列車で言えば特急みたいなものでしょうか。この橋から南は渡船の世界、次の橋は見えません。
南を望む
橋を渡り終えて向こうを見ると何やら道標らしきものが見えます。交差点までは300メートルほど、仕方がないということでまたまた道路横断です。ホンマ、こんなところではねられたら誰も同情しません。勘助島の名は木津の勘助さんから付いたものでしょうね。
大正駅までの途中、さすがに沖縄料理の店がたくさんあります。入り口に「島らっきょう」と張りだしてくれていたら入ったものを。
大正駅から環状線で京橋に。駅前の京街道の碑は動かされていました。というか、元の位置に戻されたような気もします。
本日も丸一屋。真っ昼間だとここがいいと思います。イカの天麩羅は小さくてさびしいけれども(爆)。
さてさて、本日で大坂三郷(北・南・天満)の主立った橋はだいたい渡ったことになります。これからは三郷内で漏れたのと周辺の村々(天王寺村や難波村等々)の橋と言うことになりますが、「808」はちょいと厳しいのでは。
さらに、今記事全体を見直すと、鰻谷の所は「藤中橋」となっていますね。てっきり中橋と同じものと思っていましたが、調べてみると「藤中橋」というのも有ったみたいです。ウー、こいつ一つのために鰻谷に行かんとあかん。
南朝の正平2年(1347)11月、住吉で細川氏などの軍を破った正行は、その追撃戦で、この辺りに架かっていた渡辺橋に敵兵を追い詰めます。橋に殺到した敵兵は川に落ちるものも多く、そうした敵兵を助けて衣料と食料を与えてやったため、多くの兵が以後は正行に付き従うようになったという話が残っています。この翌年には四条畷で正行は戦死してしまうのですが、楠父子を無理な戦いに追いやって戦死させた南朝の廷臣達には怒りを感じます。北朝の光厳上皇に仕えさせてあげたかったなぁ(詠嘆)。
それはともかく、谷町6丁目から西に歩き、東横堀川のところまでくると、そこからが長堀川の川の跡です。現在は広い道路となっています。
末吉橋
今は東横堀川に架かる末吉橋が拡充されていますが、長堀川があったころにはこの地点には、当然長堀川を渡る安綿橋(52)が架かっていました。けったいな名前ですが、橋を架けた二人の商人の名を継ぎ合わせたもののようです。
橋を渡ったことにするためには、この広い長堀通りを何度も渡らねばならず、交通量もそこそこなので、信号待ちに随分と時間を使いました。橋の後の番号は、このちょっかいを始めてから幾つ目の橋かを示しています。以前に渡った橋には番号を付けません。
長堀通りを西に歩き始めてすぐに板屋橋(53)。この通りには写真の如く昔長堀川に架かっていた橋の写真も付けた解説板が立っていて随分と親切です。ただ、通りの北を歩いているときは南は確認できず、南を進めば北が確認できませんので、見落としているものも沢山あるだろうと思います。
板屋橋跡
長堀橋(54)まで来ると長堀通りの地下はクリスタ長堀なる商店街となります。腹が減ったり、トイレに用があるときは何時でも地下に潜ればよいとなかなか快適であります。
この辺り、長堀通りの南側一帯は「鰻谷」と言われるところですが、その商店街の名を示す看板にも昔の橋の名が記されています。
中橋(55)は、中央分離帯に一つだけ欄干が残されていました。
さらに進んで三休橋(56)、心斎橋や中橋、長堀橋を渡る人たちを一人でもこの橋に向けて、三つの橋を休めてやるから三休橋というそうですが、まことにや。
御存じ心斎橋(57)です。ついこの間まで、橋そのものが歩道橋として使われていましたが、クリスタ長堀の完成と共に地べたに下ろされたと言うことです。つまり地下街を川に見立てた訳ですな。
歩道橋があったころ、シャープ婆(最近はソフトバンク婆)が歌う「若い2人の心斎橋(歩道橋の上で逢い引きする歌)」という歌で「車は流れる橋下を…」という文句があるのに対して、NHKラジオのアナウンサーが「いったい何で川を車が走るのでしょうね。」等ととぼけたことを言っていて、「ああ、こいつは現場を知れへんな。」と思ったことがありますが、歩道橋も撤去され、今だったらもう全く通じないフレーズになってしまいました。
ここらで南に折れて難波に出て、自由軒のカレーでも食べて帰りたい衝動に襲われますが、まだ徘徊を始めて40分ぐらいしか経っていません。
御堂筋に架かっていた橋は新橋(58)というようです。佐野屋橋(59)を経て四ツ橋へ。四ツ橋はもう何回も通っていますね。この辺りで、クリスタ長堀は終わっていました。
佐野屋橋跡
宇和島藩の蔵屋敷跡に由来する宇和島橋(60)の欄干は一つだけ、しかも普通では近づけないところにポツンと置かれています。車が信号待ちする間にダッシュして近くに行き写真を撮ってダッシュして戻るというヤツですが、こんなところで車にひかれたら「何しててん」ということになりますね。必死で道路を渡ったから数に入れます(笑)。
西大橋(61)までやって来ました。ここからは長堀川の跡がプロムナードとなっていて、何やかやとあります。
先ずは間長涯天文観測の跡の碑。とうとうここに落ち着いたかと言う感じです。間長涯(1756~1816)は大坂の町人にして天文学者、有名な伊能忠敬の師でもあります。
遊歩道
長涯先生が天文観測をするときには富田屋橋(62)を通行止めとしたそうですが、誰も文句は言わなかったということです。まあ、たくさん架かっていますから一つぐらいええんやという感じでしょうね。1816年に死んでいる者を「幕末の天文学者」とはちょっと?です。
蔵屋敷の用に資するためでしょうか。ここいらは橋の密度がとても高いような気がします。西に進んですぐに問屋橋(63)。
プロムナードが終わるところに木材市塲発祥地の碑と白髪橋(64)の説明板。
鰹座橋(65)を越えて南には、司馬遼太郎が『龍馬が行く』を書いた場所と言われる西長堀アパートが見えます。
このビルも古そう(「細野ビル」であると師匠より教示)
上の細野ビルのオーナーは実にフランクな人だそうです(師匠情報)。西区の区役所前には、道標があります。
ここでしばらく長堀通りを離れて土佐稲荷神社にお参りです。神風連としては当然ですね。
玉造橋(66)が長堀に架かる一番西の橋でした。程なくして長堀川は木津川に流れ込んでいました。
長堀通りは尽きましたが、今しばらく散歩します。木津川に架かるのは伯楽橋(67)、下に水があるというのは久しぶりです。橋の名は近くにあったという島の名に由来するそうですが、その昔には馬場か馬市でもあったのでしょうか。
橋を渡った松島公園に朝鮮通信使の碑、瀬戸内海を航行してきた使節一行は、ここで船を乗りかえて京都に向かったとのこと。随分と遠回りのようにも思うのですが、神崎川などは通らなかったのでしょうか。
木津川を下ります。続いて千代崎橋(68)。ここまで来るとということで、麗しの松島遊郭も偵察しました。小生の大叔父はここで女郎と心中しています。南地の芸者をひかせて妻とし、その妻が出ていったあとは堅気の娘を嫁としましたが、生来の遊び癖は治らなかったようです。一族の墓にも入れてもらえず、爺さん婆さん等が生きているときには名前を出すだけで轟々たる非難に晒されてきた人であり、勿論小生は会ったことなどありませんが、何となく好きな人物でもあります。色々とやったことを知ると「憎めんなぁ」という感じ。
千代崎橋
松島
「あれ?兄ちゃん、何してんねんな?」と何か馴染みに語りかけるように引き手の婆さんが声をかけます。「ちょっとぶらぶら。」とでも返事しようものなら、「はよ入らんかいなぁ。」と注意されます(爆)。一番いいのはニコッと笑って何も言わずに通り過ぎることです。「にいちゃん!これ、ちょっとにいちゃん!」としつこく言ってきたら、「今日は忙しねん。」等と言いますが、忙しい人間がこんな所をウロウロしている訳がない。本日は崇高なる目的がありますので、おやまはんの熟視と婆さんの誘いに耐えることが出来ました(爆)。
けれども、たこ焼き屋が三軒も四軒も連なっているともうあきません。ひとまずここでたこ焼きとビールです。女郎買いに比べたら思いきり安上がり。
ドーム前歩道橋(69)は、昔は無かった橋ですね。これを渡って、南に進むと木津川から岩崎運河が西の方に分かれていきます。この地点では道頓堀川も合流しています。この運河を越える橋は岩松橋(70)。
ドーム前歩道橋
右は岩崎運河
道頓堀川が流れ込むが水門が閉じられている
岩崎運河は今では尻無川の水源となっています。さらに進んで渡し船に乗って地ビールかなあという考えも浮かびましたが、環状線の線路が見えましたので、京橋に行くことにしました。大正橋(71)を渡り、もう少しだけ南に下ります。
大浪橋(72)を渡り、大正駅のほうに向かいます。橋のたもとに渡海場の跡の碑、早渡というのは、列車で言えば特急みたいなものでしょうか。この橋から南は渡船の世界、次の橋は見えません。
南を望む
橋を渡り終えて向こうを見ると何やら道標らしきものが見えます。交差点までは300メートルほど、仕方がないということでまたまた道路横断です。ホンマ、こんなところではねられたら誰も同情しません。勘助島の名は木津の勘助さんから付いたものでしょうね。
大正駅までの途中、さすがに沖縄料理の店がたくさんあります。入り口に「島らっきょう」と張りだしてくれていたら入ったものを。
大正駅から環状線で京橋に。駅前の京街道の碑は動かされていました。というか、元の位置に戻されたような気もします。
本日も丸一屋。真っ昼間だとここがいいと思います。イカの天麩羅は小さくてさびしいけれども(爆)。
さてさて、本日で大坂三郷(北・南・天満)の主立った橋はだいたい渡ったことになります。これからは三郷内で漏れたのと周辺の村々(天王寺村や難波村等々)の橋と言うことになりますが、「808」はちょいと厳しいのでは。
さらに、今記事全体を見直すと、鰻谷の所は「藤中橋」となっていますね。てっきり中橋と同じものと思っていましたが、調べてみると「藤中橋」というのも有ったみたいです。ウー、こいつ一つのために鰻谷に行かんとあかん。
グラスノチスて、長いことシベリアにおられたのですね。名前だけを見たらロシア料理かなと入ってしまいますね。小生はこう見えて(どう見えるかわかりませんが)、ロシア料理は良く食べに行きました。「敵を知り己を知れば…」等と屁理屈を唱えていたものです。
松島遊郭、遠目では完全に灯が消えている感じでしたが、近づいてみると昔と変わらぬ声がかかったので少し安心しました(爆)。あんまり歩いている人が少ないと隠微な感じがしますから、時代劇に出てくる吉原みたいに多くの人に歩いて欲しいですね。
佐野屋橋、富田屋橋、・・・そうか、淀屋橋だけじゃなかったんだ豪商の名前のついた橋は。高知の播磨屋橋もありますが・・。
私は、利用するのはいつも環状線ばかりしたから、西九条駅、大正駅に近づいてくると、よしよしという感じで、読んでいます。
松島遊郭あたりもさびしいですね。世界遺産に登録できませんね。まだ飛田のほうがふんいきを残しているかも・・・
大正といえば沖縄料理の店が有名ですが、「グラスノチス」という店にいってみたいですね。その地の収容所にはいっていた店主がその苦労を忘れまい、残った人生を薄利多売の精神で奉仕しようと商売を始めたとか。その店主こも90才をこえたとか・・・。一度会ってみたい人です。無理かもしれませんね、ご高齢で。
またまたパソコンを修理に出して20日間ほどごぶさたでした。京橋の丸一屋について次回、申し上げたいことありです。
あの栗の渋皮煮は本当に絶品でしたね。これをスタンダードに栗というものを思うと、町で売っている天津甘栗などは、「これは栗とちゃう。」ということになります。大変な手間をかけて作られたものを本当にありがとうご゛ざいました。
木津の勘助さん、この辺りに住んでいたのでそのようにいうのだと思います。木津川は八幡付近で淀川となり、大阪でまたまた分流するとちょっとややこしいですね。
今回もたくさんの橋を渡られましたね。
地図を開けて、谷町六丁目から西に目を向けますとすぐに京セラドームの位置がわかりました。
京セラドームは孫の贔屓のソフトバンク戦を観に4回ほど行きました。ということは、gunkanatagoさんが70番目に渡られた岩松橋をわたしもJR大正駅からすぐに渡っていたのですね。橋名も知らずに・・・
問屋橋はとんやばしでなく「といやばし」て言うのですね。
木津の勘助さんは木津の出身の人でしょうか?淀川にそそぐ木津川とはまた違う木津川ですよね。
昨日はお急ぎの所ですのにお手間かけて申しわけございませんでした。
大坂三郷内では、中之島の西部が残っています。こやつをパッパとやってしまったら一段落で、以後は外周部となると歩く距離も長大になりますので、そう頻繁には出来ないのではと思っています。
道頓堀川の水がもっときれいになればいいなあとは思いますが、、これをプールに等と言うのは奇抜すぎて気持ち悪いですね。中途半端な箱物はあかん、というのはフェスティバルゲートでしたか、それの失敗で分かるはずなのですが。第一道頓堀なんか今でも人があつまっているやないかと思います。これ以上を望むのは強欲です。空堀の商店街や中町当たりが「もっと人さんに来て欲しいな」と願うのはよく分かるのですが。
鯖の生寿司、食べません(爆)。
クリスタではないですがかの道頓堀川を巨大なプールにしようと堺屋さんが提唱されて
地元もそれに乗っているようですが、私にはピンときませんね。堺屋さんももう奇想天外なアイディアが出て来なくなるお歳ですから次代を背負う若者の発想の孵卵者として活躍された方がいいのではという気がしないでもないのですが...それともそんなアイディアを出す若者がいないのでしょうか?いえいえ居るはずですが何かの議題に上らないのではないでしょうか。有名人にアイディアを求め、行政の力を引き出さそうとする実業人の世界になってしまっては大阪も爺ちゃん都市になってしまうのでしょうか。
八百八橋計画は現代の新しい橋も含むのでしょうけど、江戸時代までの橋という意味では今回が西限と考えるのですがどうなんでしょう。難波村ならいざ知らず、天王寺村なんて橋はあったんでしょうか。まさか阿部野橋なんて...(^_・) 72橋達成お見事です。808のゼロを取って88までにしとおきなはれ。
丸一屋ではきずしは如何でしたか?こちらでは秋祭りで鯖寿司は食しましたが、これぞ鯖のきずしというのに最近飢えております(*_*)