1541年、細川晴元の命により、細川高国の残党が籠もるとされた一庫城(兵庫県川西市)を攻めるべく、三好長慶らが軍勢を北摂に進める中、木沢長政が晴元に背いて兵を挙げます。摂津の有力国人が多く長政に味方したため、長慶らは軍の不利を悟って当時本拠地としていた越水城に引き揚げます。木沢長政の叛心が何によって生じたのかはわからないのですが、晴元周辺での勢力争いに原因があると考えられます。この細川晴元がかつては自分を助けてくれた三好元長、一向一揆、法華一揆を次々に裏切り、壊滅的な打撃を与えてきたのですが、今度は裏切られる番に回ったのです。
木沢長政離反の原因を作った摂津国人衆はまもなく晴元側に復帰しますが、長政は詫びを入れるタイミングを失したのか、抵抗を続けます。1542年、この段階ではまだ晴元麾下にあった長慶は遊佐長教らと共に河内大平寺の戦いで木沢長政を撃破、これを戦死させます。木沢長政は、長慶の父元長滅亡の原因を作った人物の一人でありますから、先ず一人仇を倒すことが出来た訳です。次のターゲットは、一族にして元長を裏切った三好政長に絞られました。まあ一族といっても4代前に遡ってやっと共通の先祖に出会う訳ですから、他人みたいなものでしょうが。
木沢長政戦死地の柏原市太平寺にある石神社
1543年、細川高国の養子である細川氏綱が晴元打倒の兵を挙げます。依然晴元側に立つ長慶は、標的政長とも協力して氏綱側と何度も戦います。遊佐長教は早くに氏綱側に付いたようです。細川晴元と将軍義晴の仲もぎくしゃくとしてきます。1546年には、義晴は晴元と対立して近江へと出奔しています。この状態が長引けば阿波から義晴の弟で、かつて自らが擁していた義維を迎えたのでしょうが、まもなく手打ちとなり義晴は京都に戻っています。けれども将軍職は息子の義輝に譲りました。こうした合間にも、長慶は三好政長排斥を何度も晴元に訴えたものと考えられます。しかし、その願いは晴元の受け入れるところとはなりませんでした。
1548年、河内高屋城攻めに赴いた三好長慶は、遂に細川晴元を見限り、氏綱側に寝返ります。以後1549年の6月まで摂津方面に盛んに兵を出して晴元・政長派の武将達と戦いますが、江口の戦いにおいて決定的な勝利を得て三好政長を討ち取ります。再び父の仇を倒したのですが、今度は政長の息子政勝が延々と長慶に戦いを挑み続けることになります。後詰めに来ていた晴元は、そのまま京都に引き返し、さらに義晴・義輝父子と共に近江に逃れ、ここに晴元政権は崩壊するのです。
1550年、流離の身のままに義晴が亡くなります。義輝は京都奪還のために大文字の左の山にあった中尾城に篭もりますが、4万の大軍を率いて入京した三好長慶の勢力には抵抗できず、再び近江へと逃れます。1552年、和睦なって晴元共々入京、氏綱を管領とします。しかしまもなく、和議は破れ再び近江に逃れることになります。晴元も以後約10年間、三好長慶相手に何度も戦いを挑むことになりますが、戦う事に勢力は弱体化し、1561年にまさしく尾羽うち枯らした状態で長慶と和睦、摂津富田の普門寺に隠棲し1563年に亡くなります。この晴元のような人生を歩んだ者は当時の武将と雖もそうそうはいません。昨日の友は今日の敵は明日の友であさっての敵という転変凄まじき人生でありました。
かくして、見事に父の仇を報じ、京都に三好政権をうち立てた長慶でありましたが、1565年にわずか42歳で病没します。織田信長の入京はその2年後のことです。長慶が京都でブイブイ言ってたら、信長もああ鮮やかに入京することはできなかったでしょう。長慶の後を受けた松永久秀や三好三人衆が将軍義輝を殺したのは無理からぬ事で、本来三好氏にとっての主筋は阿波にいる義維とその子義栄であったのです。12代義晴の系統は絶やす必要があったのです。義栄は阿波から迎えられ14代将軍となりますが、遂に京都に入ることはありませんでした。えらく長引きたる三好氏と細川氏の抗争はこれにて打ち止めであります。自分自身の頭の中で全く整理できていないため、間違いも多いであろうと思います。
写真は三好長慶が1553年に入城した芥川山城の碑
(08年2月記を一部書き換えて再録)
木沢長政離反の原因を作った摂津国人衆はまもなく晴元側に復帰しますが、長政は詫びを入れるタイミングを失したのか、抵抗を続けます。1542年、この段階ではまだ晴元麾下にあった長慶は遊佐長教らと共に河内大平寺の戦いで木沢長政を撃破、これを戦死させます。木沢長政は、長慶の父元長滅亡の原因を作った人物の一人でありますから、先ず一人仇を倒すことが出来た訳です。次のターゲットは、一族にして元長を裏切った三好政長に絞られました。まあ一族といっても4代前に遡ってやっと共通の先祖に出会う訳ですから、他人みたいなものでしょうが。
木沢長政戦死地の柏原市太平寺にある石神社
1543年、細川高国の養子である細川氏綱が晴元打倒の兵を挙げます。依然晴元側に立つ長慶は、標的政長とも協力して氏綱側と何度も戦います。遊佐長教は早くに氏綱側に付いたようです。細川晴元と将軍義晴の仲もぎくしゃくとしてきます。1546年には、義晴は晴元と対立して近江へと出奔しています。この状態が長引けば阿波から義晴の弟で、かつて自らが擁していた義維を迎えたのでしょうが、まもなく手打ちとなり義晴は京都に戻っています。けれども将軍職は息子の義輝に譲りました。こうした合間にも、長慶は三好政長排斥を何度も晴元に訴えたものと考えられます。しかし、その願いは晴元の受け入れるところとはなりませんでした。
1548年、河内高屋城攻めに赴いた三好長慶は、遂に細川晴元を見限り、氏綱側に寝返ります。以後1549年の6月まで摂津方面に盛んに兵を出して晴元・政長派の武将達と戦いますが、江口の戦いにおいて決定的な勝利を得て三好政長を討ち取ります。再び父の仇を倒したのですが、今度は政長の息子政勝が延々と長慶に戦いを挑み続けることになります。後詰めに来ていた晴元は、そのまま京都に引き返し、さらに義晴・義輝父子と共に近江に逃れ、ここに晴元政権は崩壊するのです。
1550年、流離の身のままに義晴が亡くなります。義輝は京都奪還のために大文字の左の山にあった中尾城に篭もりますが、4万の大軍を率いて入京した三好長慶の勢力には抵抗できず、再び近江へと逃れます。1552年、和睦なって晴元共々入京、氏綱を管領とします。しかしまもなく、和議は破れ再び近江に逃れることになります。晴元も以後約10年間、三好長慶相手に何度も戦いを挑むことになりますが、戦う事に勢力は弱体化し、1561年にまさしく尾羽うち枯らした状態で長慶と和睦、摂津富田の普門寺に隠棲し1563年に亡くなります。この晴元のような人生を歩んだ者は当時の武将と雖もそうそうはいません。昨日の友は今日の敵は明日の友であさっての敵という転変凄まじき人生でありました。
かくして、見事に父の仇を報じ、京都に三好政権をうち立てた長慶でありましたが、1565年にわずか42歳で病没します。織田信長の入京はその2年後のことです。長慶が京都でブイブイ言ってたら、信長もああ鮮やかに入京することはできなかったでしょう。長慶の後を受けた松永久秀や三好三人衆が将軍義輝を殺したのは無理からぬ事で、本来三好氏にとっての主筋は阿波にいる義維とその子義栄であったのです。12代義晴の系統は絶やす必要があったのです。義栄は阿波から迎えられ14代将軍となりますが、遂に京都に入ることはありませんでした。えらく長引きたる三好氏と細川氏の抗争はこれにて打ち止めであります。自分自身の頭の中で全く整理できていないため、間違いも多いであろうと思います。
写真は三好長慶が1553年に入城した芥川山城の碑
(08年2月記を一部書き換えて再録)
戦国大名が、一つの目的として京都に旗を立て天下に号令することを目指していたとする従来の考え方はぼ否定されつつありますが、三好長慶も室町幕府や細川氏が管領となる体制を破壊するところまでは目指していなかったのではと思います。三好氏の覇権がその後数代続いていたらどうなったかは解らないですが、9代将軍の足利善尚や10代義稙等が六角氏征伐に意を注いだように、三好氏の権力が畿内で確立していれば逆に各地の戦国大名を征伐するという行動も見られたかも知れません。ずるずると戦乱が続いていて、イギリスなどにやられていたかも知れませんね。
日本が欧米の植民地にならずに済んだのは信長・秀吉・家康が奇跡的に登場したからということも言えそうですが、物語としてみた場合は彼ら3人以外にも魅力的な武将がわんさかといると思います。
gunkanatagoさまの意図とは離れるかも知れませんが、この時代の宗教と政治に考えざるをえませんでした。信長が朝倉を討ったことは非難されませんが、延暦寺を討ったことは非難されます。しかし私は延暦寺が一つの軍事組織であれば信長の行動は朝倉を討つことと何の違いもなかったのではないのではと考えないのでもないのですが、この辺りの事情はどうなのでしょうか?
また戦国の武将の人生を支えていたのはどういう哲学であったのでしょう。こんな事を考えるのも、「愛」の甲をつけた兼続がドラマに登場している影響でしょうか。
人間、何時・何処で生まれたかがその人の人生やその哲学に大きく影響していると考えてしまうのは、学生時代に、会田雄次著「敗者の条件」を読んだ影響、呪縛から逃れられていないためなのでしょうか。
私はビジネスで教えられたのは PDS(Plan,Doo,See)で、この中で一番大切なものはPlanだと解釈して今を生きているつもりです。
長慶に就きましても織田・豊臣・徳川の10分の1でも人口に膾炙しておれば、「ああ、あの太平寺の戦いか。」とか「江口の合戦なあ。」というような感じでいけると思うのですが、なかなか雰囲気をつかむことができません。
けれども信長以前にも素晴らしい武将がたくさんいたのは事実で、それらを少しずつ知っていけたらと考えております。
「歌連歌ぬるきものぞと言うものの梓弓矢も取りたるもなし」三好長慶。