![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/c4/4d5ab30924435306a556508411815ea4.jpg)
非常に長い歴史を有する加茂井(かもゆ)用水、川西市小戸の旧家で見つかった文書が1696年の元禄年間のものであってすれば、その築造はさらに遡ることが出来ます。
本日は、前回に続いてこの加茂井を行けるところまでたどってみようと思いますが、その前に鴨神社で見落としているものがありますから、阪急電車の川西能勢口から栄根、加茂と来て、先ず台地を登ります。「またまた来ましたよー。」と先ずは神社にお参りです。
前回には立派な「とんど」の準備がしてあったところは、今日はその跡が残っています。前回、とんどの準備をするおっさんの軽トラで塞がれていたところには日露戦争の出征記念碑、ちょうどその日露戦役にあたる部分の年号が消えているのですが、裏面の明治40年建立でそれとわかります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/1f/1e54385a589918b9ad442f494f88257d.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/a0/086d9d6cf799dedf84cb07c3785ef6a5.jpg)
加茂井に関する記念物に関してはとんど準備のおっさん連中は無実でした。こちらの目が節穴なだけ。というのはこれは神前には無くて、道路から神社の境内に入ったところに密やかにたたずんでいたからです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/87/ab058f07ee4d88c3aa6d49258813ef48.jpg)
小戸3丁目付近にあった夫婦樋。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/66/0d941b1f250872669579e0b7e7083011.jpg)
栄根2丁目付近にあった七ツ石。
これを確認して坂を下り、前回加茂井と別れたところまで戻ります。考えてみたら、ここで加茂井は2つに別れています(考えなくても分かる)。ひとまずは東側の水路をたどることにします。(後で地図を見ると中国道の手前でまた合流するみたいです)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/6f/dd732973fd36d0e8056664e635e0c844.jpg)
これを追いかけていくと、まもなく暗渠となります。ただその跡は極めて明快で、迷うことはありません。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/3a/e7ca46e5aad346b87dca75dc50e81de0.jpg)
「こういうのは大抵は川か線路の跡なんや。」という歩く植物図鑑氏の教えの通りです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/59/68986251df4da1151a8613ad99d69405.jpg)
ほどなくして、流れが姿を現しますが、えらく細い流れになってしまっています。このような細い流れでも、さらに分水するところははっきりと分かります。それにしても、分岐点では水がなかったのに、何時の間にどこで水が流れるようになったのでしょうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/b0/b9d8cca614acf9ad92fd052c37e8220c.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/ad/b43f058aa3d768d6c20426e7d0ca83e1.jpg)
この流れは産業道路(県道13号線)の向こうに吸いこまれていきます。こちらは下を通れませんから、上に登って横断歩道を渡ります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/27/879501b5bcde8c863e8cddf4e6f852fb.jpg)
この辺りは加茂橋付近です。加茂井の流れは殆ど最明寺川に沿っていたのですが、ここでいよいよ川とはお別れです。最明寺川はここで猪名川に流れ込みます。加茂井の流れは川西航空機機器の敷地に沿って行きますが、人間は通れないので、工場の反対側に回って待ち伏せします(笑)。
姿を現した加茂井はいよいよ細くなっていますが、この流れにも複雑な分水のしくみが施されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/99/cd01d3a33405f1bdab3465183acb68ca.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/bc/bf1042adcf01169c43133121a2b35179.jpg)
川西航空機機器という会社はかつての川西航空機(現在の新明和工業)の伝統の一つを引き継ぐ会社でしょうね。二式大艇に代表される飛行艇は新明和のPS1やSS2へと伝承され、いずれも名機の名が冠せられる傑作です。そして何よりも川西航空と言えば、紫電改じやないか。かの悪名高きB29を高々度で落とすことが出来る傑作機、我に紫電改があと2千機あれば、むざむざと本土爆撃を許さなかったものを。
源田実(真珠湾攻撃時の第一航空艦隊[空母赤城・加賀・蒼龍・飛龍を中心に編成]の航空参謀)大佐を指令とした343空戦闘機隊[横須賀→松山]は、この紫電改を独占配備されたことによって太平洋戦争末期における最強の航空機部隊の名が与えられました。実際にB29を一番多くたたき落としたのは小園安名大佐の302空[厚木]ということですが、こちらは雷電(設計はゼロ戦と同じ堀越二郎技師)を主力とする部隊でした。何か太平洋戦争末期というと一方的にやられまくった感があり、それは概ねそうなのですが、何百という敵機の群れに殴り込み、一方的に敵機をたたき落としまくった戦闘もありました。先ほど、「あと2千機」と言ったのはそのためです。
現在、東シナ海や南シナ海で横暴の限りを尽くす支那についても、支那の海軍力や航空戦力はスゴイから自衛隊は戦ってもすぐ負けるようなことをいう文化人と称するアホが多くいますが、冷静に戦力を分析すれば実は海上自衛隊や航空自衛隊のほうが強い。しかも支那は今の体制では長期戦には堪えられません(1979年、60万の大軍でベトナムに侵攻し、ボロ負けして撤退)。等々、ついつい話が長くなりました。
おー、この会社が栄光の川西航空機の名を受けついでくれているのかと感謝であります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/04/3678752b7c26fe95f31e98b82867705c.jpg)
万代百貨店付近にも何やら水をせき止める装置がありました。ここで再び産業道路を横断します。加茂井は自由に道路の下を渡っていきますが、こちらは信号の所まで行かないといけないので大変です。道路を渡ってまもなく中国縦貫道にぶちあたります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/dc/4d1b3945e18f7b51c29054fcf3e8672f.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/50/a2b5c2f4e34f1344e4f07c73af7af8a1.jpg)
その中国道の下もしっかりと流れていくのが見えます。また水が増えています。どこから供給されているのでしょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/8f/89287426fe2086eb3554b4f4b02077b7.jpg)
中国道を越えてしばらくは、加茂井に沿って歩くことは困難です。けれども残された農地が見える辺りになると再び流れの横を歩くことが出来ます。ここいらでもだんだんと水量が増えています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/63/7897e7d4a0aebf5dff0459166c51ea4a.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/08/62e4af80ff7117df10ebe721adbe24c7.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/d8/b36f0084cd832f434551fa8fee58dc38.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/14/2c1d683aca93f12318b2c4e86d5e90cb.jpg)
残された田
ここでは、田に水を入れるところも確認できます。この高さの穴に水が流れるようにするには下流で水を留めて水位をかなり上げなくてはなりません。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/2f/d40b8b30c4417e290a48f5cc9ec9bbfd.jpg)
田んぼ側
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加茂井側
すでに田では無くなって、住宅地になったところは水が流れ込まぬように穴が塞がれています。もう可哀想で可哀想で。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/18/fc5ce36a7774278e961616b9225058a4.jpg)
いつの間にか加茂から久代(くしろ)に入っています。春日神社の入り口が見えました。ここから神社まで、またまた台地への登りになります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/a7/1a320649825c5a3bf2cb2e8ebeb2e8fe.jpg)
この春日神社、江戸時代の初期にはここにお祀りされていたことは確かなようで、御本殿も非常に古い時代のものなのですが、創立の由来等は何も分からないようです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/c3/ae3e90922cce9fef08ea59362150a128.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/f6/3417b0c42117418a675972b54ae96a8f.jpg)
ちょっと変わった御本殿。
何と何と加茂井関係の石造物がここにかためて置いてありました。まるで加茂井博物館であります。これは何も知らなかったので、欣喜雀躍であります。
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分水石
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/0d/02bca5f383d9feab015395750a1095f2.jpg)
樋門(鴨神社のは2つ並んでいたので夫婦樋といったのですね)
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分水溝石
やはり日露戦争の出征記念碑がありました。この村だけで随分と多くの人が出征しています。はたして何人の方が無事に帰ってみえたのでしょうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/7c/f15eb06964def3dc08a03bd489ccf180.jpg)
再び坂を下り、しばらくの間は加茂井の清い流れの横を進みます。こうして別れたり、出会ったりしながら歩いていくと、加茂井そのものが何か古い親友のような感じがしてきます。しばらく行くと、更地だらけの所がありました。標石には「運輸省」、大阪空港の騒音対策で住民が転居し国が買い取った土地なのでしょう。今日は何なのでしょうか、それほど飛行機の騒音は気になりません。けど、これはよそ者の感想で、毎日やったら腹が立つやろな。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/5b/0e06bd854288ae7bceffb22f536d808d.jpg)
気が付くといつの間にか伊丹市に入っています。「鋳物師」とはちょっと変わった地名ですね。伊丹市域では加茂井は市が管理しているようです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/54/c46016b586992a7c82c88f7640e3eb22.jpg)
ここまで来たらと、またまた加茂井とは分かれて、台地の上に登ります。右手に自衛隊の駐屯地が見えてきました。この伊丹駐屯地には中部方面総監部と第36普通科連隊(歩兵連隊)が置かれています。連隊が所属する第3師団司令部は近くの千僧駐屯地に置かれています。阪神大震災の時にいち早く出動態勢を整えて待機していたのに、政府からの災害派遣要請(これがないと動けない)が遅れ、そのために救えたはずの多くの人命が失われ、悔しい思いをした部隊です。時の首相の村山のオッサンは例のアホなアホな党出身。自衛隊に頼むということに抵抗感があったのでしょうね。このアホ政党、次の参議院選挙で消えて無くなりますかねえ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/f9/47193ee3cea74b625c50c2a28634c55e.jpg)
隊員の制服の「中」のマーク、中部方面隊の中だったのですね。今にして初めて悟りました。「なんちゃら中隊」の「中」だとずっと思ってた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/b1/82467cc467af7275e8aaf40aafe49ca1.jpg)
さて、その伊丹駐屯地と道路を隔てて「伊丹廃寺」。寺跡は駐屯地の中までも広がるようです。金堂の横に塔が立つ法隆寺式の伽藍配置で、今は一目見ればそう分かるように整備されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/da/5ad3e4c024c5d92d6f12c63e39f4f337.jpg)
その説明板に龍蓮寺の名が無いのは、その口承を立証できないからでしょうか。伝わる話では奈良時代の初めに行基と藤原不比等(当時足を病んでいた)が有馬温泉に行く途中、この地で天に昇る龍の姿を見て、寺の建立を決意したということです。説明板は考古学的成果のみを記し、口碑に触れていないのは何かもの足りません。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/65/46f74a69f14d0f46433c002d1bfef7b3.jpg)
さらに伝承では、織田信長の有岡城攻めのころには未だ寺が残っていたということを伝えています。行基と不比等の話は『川辺郡誌』に記載されているそうですが、小生は未だ未読です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/13/980bdada7eb73df8221d1e4cf6eeb264.jpg)
基壇
坂を下りて加茂井に戻ります。ここからしばらくの間はやはり清い流れの横を歩くことが出来ます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/3b/04a0b085c489665d9fd4b3e51286b001.jpg)
少し歩いたところに小さなお稲荷さんのお社がありました。そのお社から上に上がれるように階段が付いています。またまた、台地上に登ると「臂岡天満宮」がありました。大宰府に赴かれる途中の菅公がここで肘を枕に昼寝をされたということから付いた名ということです。近くを通る西国街道は、このころには堂々たる山陽道であり、菅公がこの辺りを通って行かれたことは間違いありません。
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/9c/255b78611a92d5755761b748fc816a97.jpg)
ここの牛さんは錦を着ている
天満宮に参拝して、再び丘を下り加茂井沿いの道を行くと、アレアレ?加茂井が川に流れ込んでしまいました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/84/ab206756f5297b9351a18e90b15c3e68.jpg)
この寒空に川で遊んでいる子達がいたので、「この川は何て言うんやー。」と尋ねてみましたが、何か七五三帰りのような正装をした女の子(こいつが大きな石を豪快に川に投げ込んで遊んでいる、携帯でチマチマとゲームをしている子は見習うべき)が「わかりませーん」と大声で答えてくれました。後で調べたところ多分「駄六川」だろうと思います。
この時に最明寺川での経験が役立ちました。「用水路川を越す」ということがあり得るからです。よく見ると対岸に細い水路があるし、護岸にはかつて水をせき止める装置があった跡が見られます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/d2/d7e6046b900626b8cbd77154f76f2d42.jpg)
一見、対岸の水路は駄六川に水を流し込んでいるように見えますが、川の水位を上げれば水は逆に向こうに流れていくはずです。トルコ艦隊山を登るならぬ加茂井坂を上るというところですね。対岸に渡ると、この先は暗渠になっていて、その上は遊歩道になっていました。快適な道が続きます。下が暗渠になっている証拠は等間隔に設置されているマンホールです。けど、今写真を見たらマンホールは全然写っていませんね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/f0/43aa83dc674d39d2205e2ad849e9eb04.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/78/46f7cae677cc8394877609eb3b895229.jpg)
この道沿いに、旧白州邸跡の記念碑がありました。全く知らなかったものです。こんなものが突然飛び出してくる。じゃけん(何故か伊予弁)徘徊はやめられん。
白洲次郎のお父さんは伊丹の人だったのですね。正子と結婚した次郎はここに住んでいます。今は一宇も残っていません。白洲正子は小生があちこち徘徊するもとを作ってくれた人物の一人です。近江の油日や木之本をウロウロしたのは100%その影響です。正子の著作を歩く植物図鑑氏が教えてくれました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/72/618b64fb685440deced7089028bcddcd.jpg)
近くに藤原良経の歌碑。「猪名山の道のささ原埋れて落葉が上に嵐をぞ聞く」、ここに来るまでに、もう一つ歌碑があったのですが、それは無視したのにここでは「良経」の名前に足を止めました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/28/bf9f24570053eef35d748422fda311e2.jpg)
藤原良経は九条兼実の子で、太政大臣にまでなった人物です。源義経が兄に逐われて京都から逃亡した時に、「お尋ね者よしつね」と言うのは、この良経さんに失礼だということで、義経の名は義行に改名されました。勿論、本人の与り知らぬところです。けれども「義行」は「良く行く=上手に逃げおおせる」であり、だから義経は捕まらないのだということで、次には「義顕(よしあき=良く顕れる)」と改名しました。ウソのような話ですが、『吾妻鏡』などは大まじめに「義顕」と表記しています。義経が衣川で殺されるまでの記事に実は義経は登場しません。義顕の名があるのみです。ホンマ、昔も今も…絶句。けれど、これを以て「源義経はいなかった!」等という本を書いたりしたら本当に三文作家。
さらに進むと加茂井プロムナードが突然に終わり、別の道に合流しました。「あれー?」見たことがあるぞという景色は猪名野神社に残る有岡城の土塁跡でした。後で調べると、この有岡城の堀の一部が加茂井として利用されたということですが、それは加茂井の築造年代を探る良いヒントになりますね。やはり駄六川のところで考えたことは正しかったようです。「加茂井、丘を越えて行こうよ」という感じ(古くさー)。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/0e/070759741be9c2271bce0cf95dc05b69.jpg)
プロムナードが合流した道は伊丹の中心街へと続いていきます。これから先は下水路の地図が必要です。まあ、伊丹まで続いているということを確認したことで、加茂井とのデートもここで終了です。
猪名野神社には鬼貫の句碑。「鳥ハ未口もほとけす初桜」。猪名野神社の御祭神は牛頭天王=素戔嗚尊です。この社前でもとんどの跡が見られますね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/96/08e178a9e1223082e992ab7fa66bc1fb.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/b1/3b10502ed382c3747471ad75c37e212c.jpg)
伊丹の飲み屋もむちゃくちゃ魅力的です。小西酒造(白雪)のレストラン、久しぶりにヒューガルデンホワイトなども飲みたいのですが、一人ではどうも、ということで伊丹駅からバスで池田に向かいました。椋橋神社の帰りに久しぶりに焼いたたこ焼きがメチャメチャ下手くそだったので、修行に行かなくてはなりません。バスは池田まで行かず川西止まりになっていることをスッカリ忘れていましたが、まあ距離としては歩いても知れたものです。途中で加茂井を横切りました。「おー、遥か向こうのお前さんと会ってきたぞー」。今回不十分ながらも用水路に沿って歩いたことで加茂井に対する執着というか、そのようなものが湧いてきました。近々どこぞの図書館に行って、もう少し詳しく調べてみたいと思います。その後で、またおまえさんに会いに来るからなー。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/e9/cb1d74596812f8ab1fa4242696a3e1ca.jpg)
今日は少しうまく焼けた。
中途半端な時間で、店は空いていました。小生の後ろで飲んでいたおっちゃん、癌で千葉の病院に入院していたのが、今日は無事にたこ焼きを食べに来られるようになったとオバチャンは喜んでいました。「おたくさんと違って…」などと言うから、「何かいな?」と思うと、「あの人はビールはたこ焼きが焼けてから出すんです。」。
今回の選挙で無事に衆議院議員に返り咲いた人は、さすがに選挙の後は来られないそうです。これは国会を大阪に持ってきたら解決できます。大阪府立体育館なんか議場としてどう?
本日は、前回に続いてこの加茂井を行けるところまでたどってみようと思いますが、その前に鴨神社で見落としているものがありますから、阪急電車の川西能勢口から栄根、加茂と来て、先ず台地を登ります。「またまた来ましたよー。」と先ずは神社にお参りです。
前回には立派な「とんど」の準備がしてあったところは、今日はその跡が残っています。前回、とんどの準備をするおっさんの軽トラで塞がれていたところには日露戦争の出征記念碑、ちょうどその日露戦役にあたる部分の年号が消えているのですが、裏面の明治40年建立でそれとわかります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/1f/1e54385a589918b9ad442f494f88257d.jpg)
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加茂井に関する記念物に関してはとんど準備のおっさん連中は無実でした。こちらの目が節穴なだけ。というのはこれは神前には無くて、道路から神社の境内に入ったところに密やかにたたずんでいたからです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/87/ab058f07ee4d88c3aa6d49258813ef48.jpg)
小戸3丁目付近にあった夫婦樋。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/66/0d941b1f250872669579e0b7e7083011.jpg)
栄根2丁目付近にあった七ツ石。
これを確認して坂を下り、前回加茂井と別れたところまで戻ります。考えてみたら、ここで加茂井は2つに別れています(考えなくても分かる)。ひとまずは東側の水路をたどることにします。(後で地図を見ると中国道の手前でまた合流するみたいです)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/6f/dd732973fd36d0e8056664e635e0c844.jpg)
これを追いかけていくと、まもなく暗渠となります。ただその跡は極めて明快で、迷うことはありません。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/3a/e7ca46e5aad346b87dca75dc50e81de0.jpg)
「こういうのは大抵は川か線路の跡なんや。」という歩く植物図鑑氏の教えの通りです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/59/68986251df4da1151a8613ad99d69405.jpg)
ほどなくして、流れが姿を現しますが、えらく細い流れになってしまっています。このような細い流れでも、さらに分水するところははっきりと分かります。それにしても、分岐点では水がなかったのに、何時の間にどこで水が流れるようになったのでしょうか。
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この流れは産業道路(県道13号線)の向こうに吸いこまれていきます。こちらは下を通れませんから、上に登って横断歩道を渡ります。
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この辺りは加茂橋付近です。加茂井の流れは殆ど最明寺川に沿っていたのですが、ここでいよいよ川とはお別れです。最明寺川はここで猪名川に流れ込みます。加茂井の流れは川西航空機機器の敷地に沿って行きますが、人間は通れないので、工場の反対側に回って待ち伏せします(笑)。
姿を現した加茂井はいよいよ細くなっていますが、この流れにも複雑な分水のしくみが施されています。
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川西航空機機器という会社はかつての川西航空機(現在の新明和工業)の伝統の一つを引き継ぐ会社でしょうね。二式大艇に代表される飛行艇は新明和のPS1やSS2へと伝承され、いずれも名機の名が冠せられる傑作です。そして何よりも川西航空と言えば、紫電改じやないか。かの悪名高きB29を高々度で落とすことが出来る傑作機、我に紫電改があと2千機あれば、むざむざと本土爆撃を許さなかったものを。
源田実(真珠湾攻撃時の第一航空艦隊[空母赤城・加賀・蒼龍・飛龍を中心に編成]の航空参謀)大佐を指令とした343空戦闘機隊[横須賀→松山]は、この紫電改を独占配備されたことによって太平洋戦争末期における最強の航空機部隊の名が与えられました。実際にB29を一番多くたたき落としたのは小園安名大佐の302空[厚木]ということですが、こちらは雷電(設計はゼロ戦と同じ堀越二郎技師)を主力とする部隊でした。何か太平洋戦争末期というと一方的にやられまくった感があり、それは概ねそうなのですが、何百という敵機の群れに殴り込み、一方的に敵機をたたき落としまくった戦闘もありました。先ほど、「あと2千機」と言ったのはそのためです。
現在、東シナ海や南シナ海で横暴の限りを尽くす支那についても、支那の海軍力や航空戦力はスゴイから自衛隊は戦ってもすぐ負けるようなことをいう文化人と称するアホが多くいますが、冷静に戦力を分析すれば実は海上自衛隊や航空自衛隊のほうが強い。しかも支那は今の体制では長期戦には堪えられません(1979年、60万の大軍でベトナムに侵攻し、ボロ負けして撤退)。等々、ついつい話が長くなりました。
おー、この会社が栄光の川西航空機の名を受けついでくれているのかと感謝であります。
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万代百貨店付近にも何やら水をせき止める装置がありました。ここで再び産業道路を横断します。加茂井は自由に道路の下を渡っていきますが、こちらは信号の所まで行かないといけないので大変です。道路を渡ってまもなく中国縦貫道にぶちあたります。
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その中国道の下もしっかりと流れていくのが見えます。また水が増えています。どこから供給されているのでしょう。
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中国道を越えてしばらくは、加茂井に沿って歩くことは困難です。けれども残された農地が見える辺りになると再び流れの横を歩くことが出来ます。ここいらでもだんだんと水量が増えています。
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残された田
ここでは、田に水を入れるところも確認できます。この高さの穴に水が流れるようにするには下流で水を留めて水位をかなり上げなくてはなりません。
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田んぼ側
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加茂井側
すでに田では無くなって、住宅地になったところは水が流れ込まぬように穴が塞がれています。もう可哀想で可哀想で。
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いつの間にか加茂から久代(くしろ)に入っています。春日神社の入り口が見えました。ここから神社まで、またまた台地への登りになります。
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この春日神社、江戸時代の初期にはここにお祀りされていたことは確かなようで、御本殿も非常に古い時代のものなのですが、創立の由来等は何も分からないようです。
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ちょっと変わった御本殿。
何と何と加茂井関係の石造物がここにかためて置いてありました。まるで加茂井博物館であります。これは何も知らなかったので、欣喜雀躍であります。
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分水石
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樋門(鴨神社のは2つ並んでいたので夫婦樋といったのですね)
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分水溝石
やはり日露戦争の出征記念碑がありました。この村だけで随分と多くの人が出征しています。はたして何人の方が無事に帰ってみえたのでしょうか。
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再び坂を下り、しばらくの間は加茂井の清い流れの横を進みます。こうして別れたり、出会ったりしながら歩いていくと、加茂井そのものが何か古い親友のような感じがしてきます。しばらく行くと、更地だらけの所がありました。標石には「運輸省」、大阪空港の騒音対策で住民が転居し国が買い取った土地なのでしょう。今日は何なのでしょうか、それほど飛行機の騒音は気になりません。けど、これはよそ者の感想で、毎日やったら腹が立つやろな。
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気が付くといつの間にか伊丹市に入っています。「鋳物師」とはちょっと変わった地名ですね。伊丹市域では加茂井は市が管理しているようです。
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ここまで来たらと、またまた加茂井とは分かれて、台地の上に登ります。右手に自衛隊の駐屯地が見えてきました。この伊丹駐屯地には中部方面総監部と第36普通科連隊(歩兵連隊)が置かれています。連隊が所属する第3師団司令部は近くの千僧駐屯地に置かれています。阪神大震災の時にいち早く出動態勢を整えて待機していたのに、政府からの災害派遣要請(これがないと動けない)が遅れ、そのために救えたはずの多くの人命が失われ、悔しい思いをした部隊です。時の首相の村山のオッサンは例のアホなアホな党出身。自衛隊に頼むということに抵抗感があったのでしょうね。このアホ政党、次の参議院選挙で消えて無くなりますかねえ。
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隊員の制服の「中」のマーク、中部方面隊の中だったのですね。今にして初めて悟りました。「なんちゃら中隊」の「中」だとずっと思ってた。
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さて、その伊丹駐屯地と道路を隔てて「伊丹廃寺」。寺跡は駐屯地の中までも広がるようです。金堂の横に塔が立つ法隆寺式の伽藍配置で、今は一目見ればそう分かるように整備されています。
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その説明板に龍蓮寺の名が無いのは、その口承を立証できないからでしょうか。伝わる話では奈良時代の初めに行基と藤原不比等(当時足を病んでいた)が有馬温泉に行く途中、この地で天に昇る龍の姿を見て、寺の建立を決意したということです。説明板は考古学的成果のみを記し、口碑に触れていないのは何かもの足りません。
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さらに伝承では、織田信長の有岡城攻めのころには未だ寺が残っていたということを伝えています。行基と不比等の話は『川辺郡誌』に記載されているそうですが、小生は未だ未読です。
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基壇
坂を下りて加茂井に戻ります。ここからしばらくの間はやはり清い流れの横を歩くことが出来ます。
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少し歩いたところに小さなお稲荷さんのお社がありました。そのお社から上に上がれるように階段が付いています。またまた、台地上に登ると「臂岡天満宮」がありました。大宰府に赴かれる途中の菅公がここで肘を枕に昼寝をされたということから付いた名ということです。近くを通る西国街道は、このころには堂々たる山陽道であり、菅公がこの辺りを通って行かれたことは間違いありません。
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ここの牛さんは錦を着ている
天満宮に参拝して、再び丘を下り加茂井沿いの道を行くと、アレアレ?加茂井が川に流れ込んでしまいました。
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この寒空に川で遊んでいる子達がいたので、「この川は何て言うんやー。」と尋ねてみましたが、何か七五三帰りのような正装をした女の子(こいつが大きな石を豪快に川に投げ込んで遊んでいる、携帯でチマチマとゲームをしている子は見習うべき)が「わかりませーん」と大声で答えてくれました。後で調べたところ多分「駄六川」だろうと思います。
この時に最明寺川での経験が役立ちました。「用水路川を越す」ということがあり得るからです。よく見ると対岸に細い水路があるし、護岸にはかつて水をせき止める装置があった跡が見られます。
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一見、対岸の水路は駄六川に水を流し込んでいるように見えますが、川の水位を上げれば水は逆に向こうに流れていくはずです。トルコ艦隊山を登るならぬ加茂井坂を上るというところですね。対岸に渡ると、この先は暗渠になっていて、その上は遊歩道になっていました。快適な道が続きます。下が暗渠になっている証拠は等間隔に設置されているマンホールです。けど、今写真を見たらマンホールは全然写っていませんね。
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この道沿いに、旧白州邸跡の記念碑がありました。全く知らなかったものです。こんなものが突然飛び出してくる。じゃけん(何故か伊予弁)徘徊はやめられん。
白洲次郎のお父さんは伊丹の人だったのですね。正子と結婚した次郎はここに住んでいます。今は一宇も残っていません。白洲正子は小生があちこち徘徊するもとを作ってくれた人物の一人です。近江の油日や木之本をウロウロしたのは100%その影響です。正子の著作を歩く植物図鑑氏が教えてくれました。
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近くに藤原良経の歌碑。「猪名山の道のささ原埋れて落葉が上に嵐をぞ聞く」、ここに来るまでに、もう一つ歌碑があったのですが、それは無視したのにここでは「良経」の名前に足を止めました。
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藤原良経は九条兼実の子で、太政大臣にまでなった人物です。源義経が兄に逐われて京都から逃亡した時に、「お尋ね者よしつね」と言うのは、この良経さんに失礼だということで、義経の名は義行に改名されました。勿論、本人の与り知らぬところです。けれども「義行」は「良く行く=上手に逃げおおせる」であり、だから義経は捕まらないのだということで、次には「義顕(よしあき=良く顕れる)」と改名しました。ウソのような話ですが、『吾妻鏡』などは大まじめに「義顕」と表記しています。義経が衣川で殺されるまでの記事に実は義経は登場しません。義顕の名があるのみです。ホンマ、昔も今も…絶句。けれど、これを以て「源義経はいなかった!」等という本を書いたりしたら本当に三文作家。
さらに進むと加茂井プロムナードが突然に終わり、別の道に合流しました。「あれー?」見たことがあるぞという景色は猪名野神社に残る有岡城の土塁跡でした。後で調べると、この有岡城の堀の一部が加茂井として利用されたということですが、それは加茂井の築造年代を探る良いヒントになりますね。やはり駄六川のところで考えたことは正しかったようです。「加茂井、丘を越えて行こうよ」という感じ(古くさー)。
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プロムナードが合流した道は伊丹の中心街へと続いていきます。これから先は下水路の地図が必要です。まあ、伊丹まで続いているということを確認したことで、加茂井とのデートもここで終了です。
猪名野神社には鬼貫の句碑。「鳥ハ未口もほとけす初桜」。猪名野神社の御祭神は牛頭天王=素戔嗚尊です。この社前でもとんどの跡が見られますね。
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伊丹の飲み屋もむちゃくちゃ魅力的です。小西酒造(白雪)のレストラン、久しぶりにヒューガルデンホワイトなども飲みたいのですが、一人ではどうも、ということで伊丹駅からバスで池田に向かいました。椋橋神社の帰りに久しぶりに焼いたたこ焼きがメチャメチャ下手くそだったので、修行に行かなくてはなりません。バスは池田まで行かず川西止まりになっていることをスッカリ忘れていましたが、まあ距離としては歩いても知れたものです。途中で加茂井を横切りました。「おー、遥か向こうのお前さんと会ってきたぞー」。今回不十分ながらも用水路に沿って歩いたことで加茂井に対する執着というか、そのようなものが湧いてきました。近々どこぞの図書館に行って、もう少し詳しく調べてみたいと思います。その後で、またおまえさんに会いに来るからなー。
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今日は少しうまく焼けた。
中途半端な時間で、店は空いていました。小生の後ろで飲んでいたおっちゃん、癌で千葉の病院に入院していたのが、今日は無事にたこ焼きを食べに来られるようになったとオバチャンは喜んでいました。「おたくさんと違って…」などと言うから、「何かいな?」と思うと、「あの人はビールはたこ焼きが焼けてから出すんです。」。
今回の選挙で無事に衆議院議員に返り咲いた人は、さすがに選挙の後は来られないそうです。これは国会を大阪に持ってきたら解決できます。大阪府立体育館なんか議場としてどう?
所々の脱線解説も面白い。まあ村山のトンちゃんの話も登場しましたが、どういう指導者を持つかでその民族の力が推し量れる気がします。まあ外交で外交でと独り言を言っている瑞穂ちゃんを特使としてお隣の国々に派遣すればたちどころに懸案問題を解決してくれることでしょう。府立体育館を議場に?ケツの穴が小さいなあ~。
義経ですが彼が死んだのは衣川??
この大阪平野(?)を水から攻めるシリーズを期待してます。私は山の中に生きていますので峠から爺ちゃん婆ちゃんの心意気を考えてみたいと思っています。海のシリーズはないかな?清盛は海を見ていたけど家康は内を、てなことを考えたりします。
何か情緒的なコメントになってしまいました。
それが、京都市の政策で小川は埋め立てられ、道路が二車線に拡張されました。川は完全に道路の下の排水溝になって、暗渠の形跡さえありません。
今は車の排気口と舗装の照り返しで、気温はかなり上がっています。お陰でビールの消費量も増えました。
冗談はさて置き、この川西航空機器の社名はいつか見た記憶があるのですが、飛行機の部品を作っているのでしょうか。gunkanatagoさんも、これを機にshidenkaiと改名されるとか・・・。
源田実と言えば精悍な容貌が印象的です。晩年は参議院議員になって、共産圏の核廃絶に熱心だったかと記憶していますが、うろ覚えです。
鴨神社には、日露戦争の出征記念碑があるのですか。私の伯父は第二次大戦ですが、「中華民国湖南省常徳県常徳小西門前方約三百メートルにて壮烈な戦死を遂ぐ。享年二十三歳」の文字が墓石に刻まれています。
鋳物師は福岡か何処だったかに、町が付いて「いもじまち」と呼ぶ地名がありましたが、ここはどう読むのでしょう。「いものし」と、そのまんまでしょうか。
暗渠徘徊もどんどん進んで、白川屋敷の辺りはさすがに風情がある様です。環境保全もやはり資力の差でしょうか。
それもそうとして、私の高校時代に「成吉思汗は義経だった」とかの本が出ました。作家は推理系の高木某です。かなり売れたみたいです。今は跡形も無いみたいですが。
最後は落ち着く所に落ち着かれて何よりでした。復帰した議員とは、例の女性ですか?村山某のいた党は消滅寸前ですが・・・。
しかしながら、これは一種の泥沼で、その後に加茂井が広く伊丹市域を灌漑していたことも分かりました。加茂井の果てはどこにあるのかということと、伊丹郷以後の探査はどうすればいいのかというのが宿題となっています。
いずれ、愛知用水や豊川用水をたどる旅などもしたいですね。
日露戦争の出征碑はあちこちで見ることが出来ます。日清戦争は珍しいようです。支那事変や大東亜戦争は負け戦だったので誇らしく出征碑を建てることができなかったようですね。それでも戦死された方は死にたくないのに国のために出征して亡くなられているのですから、手厚く顕彰すべきだと思います。
鋳物師はやはり「いもじ」ではないかなと思います。伊丹と鋳物がすぐには結びつかないので「?」なところが多くあります。
「紫電改」のハンドルネームは格好良いのですが、どこかの馬鹿会社が育毛剤の名に使っていますね。今はそちらを思い浮かべる人の方が多いのではないかと思います。
高木彬光の「成吉思汗の秘密」、懐かしいカッパブックスで読みました。小男の義経がどうしてチンギス=ハーンの如き隆々たる偉丈夫に化けられたのか等と言うことも何やかやと説明していましたね。南條範夫の「生きていた義親」などと合わせて当時は楽しませてもらいました。けど、やはりこの手の話だと八切止夫ですよね(笑)。
用水の流れを追いながら、旧川西航空機、伊丹の自衛隊駐屯所、旧白州屋敷、藤原良経の歌碑など話題豊富ですね。私はひとつの言葉から飛躍した妄想、雑念の湧きやすい人間ですから、「紫電改」でいろんなことが・・・
子どもの頃プラモデルで紫電改を作りました。ちばてつやの「紫電改のタカ」の影響です。飛燕と紫電改は当時の私のお気に入りの戦闘機でした。
別の話ですが、高校の数学の先生で、授業の上手い、それこそ神業のような、わかり安い授業をする先生がいて、若い頃、紫電改に乗っていて松山航空隊で終戦を迎えたと言う噂がありました。生徒の人格を尊重をするおだやかな言葉使いの人で、皆から尊敬されていました。先生は「難しい問題なんて意外と少ない、めったにないといってもいい。ただ難しそうにみえるだけだ。本当に難しいのは、案外簡単そうにみえる問題がそうだ」と言ってました。うーん、人生もそうじゃないかなと後々思いました。
自衛隊をめぐる左翼政党の観念的な動きの批判も的を得ていて、問題なしですよ~。
最後にたこ焼きがでてくるのは、徘徊堂さんの退出の花道であり、様式美ですね。これがなければ、どうも落ち着きません。(笑)私も今度帰国した時、電気たこ焼き器を買うつもりですが、日本は100Vベトナムは220Vなのでちょっと難しいかもしれません。
浮舟様が「紫電改」のファンであったとは嬉しいですね。「紫電改のタカ」も思い出しました。それにまた陸軍機では「飛燕」がご贔屓とのこと、小生も好きな戦闘機です。それにしても松山航空隊の生き残りが先生とは何かスゴイ話ですね。そう、左翼が描く軍人像はワンパターンで、概ねがえげつない狂信者として描きますが(そのくせ北朝鮮の狂信性などについては何も言わない)、これは自分たちの影を投射している訳で、本当は軍人には心暖かい人格者が多いですよね。
たこ焼き器、そういう事情では電気製品は無理なのでは(笑)。道具屋筋で「たこ焼き用鉄板」を求められたらいかがですか。ガスコンロの上に乗せるヤツです。千枚通しも要りますね。それから溶いたメリケン粉を鉄板に流し込むヤツも。千日前にいらっしゃる時はお供しますよー。鉄板も持たせていただきます。
川西航空機の「紫電改」のお話が出ましたので少し。
昭和19年7月5日、旧制京都三中(現山城高校)の3、4、5年生が、愛知県半田の中島飛行機に学徒動員され、主人は4年生でした。配属された工場では海軍艦上攻撃機「天山」と海上偵察機「彩雲」を作っていました。そんななか、三中生13人が非業の死を遂げられたそうです。戦時下の苦しい青春時代を経ても、のちのち戦闘機の話になると熱く話していました。中学といえば半田の思い出しかないようでした。
旧白洲邸 武相荘(ぶあいそう)(東京都町田市)は7年ほど前に訪れ単純に感銘し、その後に琵琶湖歩きに出ました。
池田のたこ焼き「ひばり」さんは何曜日が定休ですかしら・
偵察機の彩雲は当時としては世界最速の飛行機だったのでは。それにしても、勤労動員はエライ遠いところの工場にまで出かけたものなのですね。
加茂井の記事に過分のお褒めの言葉をいただき、恐縮です。また、近いうちにアップしますが、加茂井そのものは伊丹郷町で満足してはいけない事態になるとともに、今度は「小戸井」というのが出てきました(笑)。師匠からのメールでは「昆陽井(こやゆ)」というのもあるみたいです。
池田の「ひばり」の定休日は火曜日です。ささ舟様は召し上がらないですが、もし同行の方がおられて、いきなり「緑一(みどりいち)!」と注文されたら、おもしろいかも(笑)。
所々の脱線解説も面白い。まあ村山のトンちゃんの話も登場しましたが、どういう指導者を持つかでその民族の力が推し量れる気がします。まあ外交で外交でと独り言を言っている瑞穂ちゃんを特使としてお隣の国々に派遣すればたちどころに懸案問題を解決してくれることでしょう。府立体育館を議場に?ケツの穴が小さいなあ~。
義経ですが彼が死んだのは衣川??
この大阪平野(?)を水から攻めるシリーズを期待してます。私は山の中に生きていますので峠から爺ちゃん婆ちゃんの心意気を考えてみたいと思っています。海のシリーズはないかな?清盛は海を見ていたけど家康は内を、てなことを考えたりします。
何か情緒的なコメントになってしまいました。
もはや国賊といってもいい福島某、こやつの「外交」は=「譲歩」ですから、任せておいたら対馬はバ韓国に、沖縄は支那に、北海道はロシアに割譲することになるでしょうね。天下のため、国家のため、人々の福祉のため、社民党はこの世から消えて無くなるべきですね。
義経は明快に衣川で死んだと思います。生かしておきたい気持ちがまさに判官贔屓(笑)。
常民と言えば大げさになりますが、歴史に名を残さぬ大多数の「普通の人々」の暮らしや生き様、そう言ったものを少しでも知ることが出来たらと思います。消え去っているような伝承を探すことが出来たら当たり!ということで。