花洛転合咄

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惟喬親王のこと④

2009年04月01日 | 茶話
 北山の山村や近江の谷深く、惟喬親王の伝承が残っているのですが、平安京の南、大阪府島本町の水無瀬や枚方市の渚を舞台にしても親王を偲ぶ話が伝わっています。有名なところでは『伊勢物語』で「昔、惟喬親王と申す親王おはしましけり。山崎のあなたに、水無瀬といふ所に宮ありけり。年ごとの桜の盛りには、その宮へなむおはしましける。その時、右馬頭なりける人を、常に率ておはしましけり。時世経て久しくなりにければ、その人の名を忘れにけり。狩りはねむごろにもせで、酒をのみ飲みつつ、やまと歌にかかれりけり。いま狩りする交野の渚の家、その院の桜ことにおもしろし。その木のもとにおりゐて、枝を折りてかざしにさして、上中下みな歌よみけり。馬頭なりける人のよめる、「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」…。」とあります。
 長い引用で恐縮ですが、くだくだと物語を述べるよりは手っ取り早い。在原業平の歌の中でも有名だという点では№1ともいえる歌は、このような状況で詠まれたのであります。この後、親王一行は天野川(禁野たる交野が原の南限か?)まで出て、そこでまた七夕にちなむ歌を詠んでいます。この春野の宴、まことにのどかで、「ほっこり」している一行の様子がよく判るのであります。

          
          勝手に桟敷ヶ岳「都眺めの岩」とした辺りからの景色

 ところがこれが、世間の解釈では「文徳天皇第一皇子の惟喬親王は藤原氏を母に持つ惟仁親王と皇位を争って敗れ、その憂さを晴らすために交野で猟をしに渚院へ云々。」となるようで、この「渚院(なぎさのいん)」の説明には惟喬親王の「憂さ晴らし」という言葉が添付されるのです。伊勢物語のどこを見ても「憂さを晴らしに」等とは記されていませんし、まして文徳実録などでも、それは確認できません。按ずるにこれは、何時の時代にか誰かが伊勢物語の解釈をしていたときに、「惟喬親王という人は皇位争いに敗れた気の毒な人だ、交野での猟もその鬱々とした心を慰めるものであったに違いない。」と考え、「憂さ晴らし」なる語を用いたものが、孫引きの孫引き、引用の引用ですっかりと定着してしまったものに違いありません。まあこれを最初に言いだした人の性格が、「皇位争いに敗れたら悔しい」と思う性格であったのでしょう。文学・歴史上の解釈もその人の性格が反映するという好例です。
 親王の心事を量るに卑近な例で畏れ多いことですが、我々なども、狩りこそしませんが、勉強と称して各地の見学に出かけて「(学習は)ねむごろにもせで、酒をのみ飲みつつ…。」というのは、よくあることで(というより100%そうだ)、そういうときに「憂さを晴らす」などという感情が入るのだろうかと甚だ疑問です。素直に読めば誠におおらかでのびのびとした様子。これこそが親王の性格そのもので、皇位争いなど既にして超越されていたように感じられるのです。桟敷ヶ岳から恨みの目で都を眺めておられたとは到底思えない。
 まあ藤原伊尹の子孫に祟ったという肥大漢藤原朝成のような人もいます。たかが大納言になれないくらいで憤死しているのだから、皇位に就けないというのは本当に悔しいだろうという解釈も解るのですが、それは人それぞれという当たり前のことを踏まえていないのです。「自分はこう思うから人もそうに違いない」と思ってしまうところに落とし穴がある。
 かつて小西甚一氏に『古文の読解』なる名著がありました。その中で氏はよく辞書などに載っている寝殿造の絵について、「あれは江戸時代に澤田名垂あたりが言いだしたもので間違いが多いのだが、その後の学者がよく調べもせずに引用を重ねたために広まったのだ。」と喝破されていました。惟喬親王の交野が原の遊興に関して「憂さ晴らし」等という語を用いるのも似たようなものだと思います。
 土佐日記に「かくて船引き上るに、渚の院といふ所を見つつ行く。その院、昔を思ひやりて見れば、おもしろかりける所なり。後方なる丘には、松の木どもあり。中の庭には、梅の花咲けり。ここに人々のいはく、「これ、昔名高く聞こえたる所なり。故惟喬親王の御供に、故在原業平の中将の、世の中に絶えて桜の咲かざらば春の心はのどけからましといふ歌よめる所なりけり」。」とあり、普通憤死した人の屋敷は化け物屋敷となるのですが、そういう雰囲気は全くうかがえません。
 「桜はすぐに散るからなあ、桜さえなかったら春はもっとのんびりできるのになあ。」「ほんまや、ほんまや。」ということで悲壮感ゼロですね。親王任国のあがりはあるし、離宮もあるしと申すところ。但し、権勢に重きを置かぬ解釈(皇位に就けなくても別に悔しくはなかろう)をする小生の如きはやはり永遠に権勢の座に就くことはないでしょう。

 (08年6月の記事に加筆して再録) 


4 コメント

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桜はのんびりと。 (道草)
2009-04-01 18:40:00
惟喬親王に関する伝説は門外漢で、コメントなど申し訳なく思っております。桜も平常通り4月になって満開を迎えるようです。花見で気炎を上げたのは、勤務時代に大阪造幣局の夜桜の下で仕事関係の仲間達と騒いだのが最後です。もう、数年以上前になります。最近は業平ならずとも、至極のんびり楽しんでおります。
それと、これも余談ですが、水無瀬の名称の由来は何なのでしょう。近くに山崎という水の名所がありますのに・・・。
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水無瀬 (gunkanatago)
2009-04-01 21:23:50
道草様、コメントをありがとうございます。本当ですね。水無瀬神宮にも湧き水がありますし、水無瀬の滝などというのもあります。サントリーの蒸留所は水の良い山崎ですし、なぜ水無瀬なのかは釈然としません。一度調べてみます。大阪も大川端は桜が見事ですね。ただ、人の数に先に酔ってしまいますから、うろうろするのは大抵は盛りを越した後です。
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Unknown (mfujino)
2009-04-01 23:23:01
gunkanatagoさま、 今回の記事楽しく読ませていただきました。惟喬さん大阪方面へも足を延ばしておられたのですね。私は北山の山の中だけと思っていました。確かに、悲運の親王、と自分の気持ちで人様を判断することがありますね。それと誰かが書けばそれが既成事実というか定説みたいに走り出す。貞任塚も今の祠が京北町誌に載ってしまいましたのでそれが当たり前になってしまったように。まあインターネットのこわさもこういったところにあるのかも。
さて惟喬さんから脱線しますがその昔の貞任塚行きは如何でしょう。連絡を取りたいので我がブログの右に、メッセージを送る、メニューがありますのでそこからアドレスを教えていただきたいのですが、、、
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ありがとうございます (gunkanatago)
2009-04-02 12:41:10
mfujino様、コメントをありがとうございます。本当に貞任塚がまさしくそれですね。京北町史に乗ってしまえばもう確定です。ということは、結構権威ある書物でも間違った記載があるものだということですね。今回もお教えいただかなければ、もう今の貞任塚を本物と信じて疑いませんでした。連絡のお知らせ、ありがとうございます。アドレスを送らせていただきます。
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