![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/25/b652bd4819d5d16af3c158092292f596.jpg)
本日も雨、こういう言い方をすると店には悪いがこれはチャンスかも知れぬと思い、川西市の絹延橋うどん研究所に「うどん」を食いに行きます。師匠に教えてもらってから何回かお邪魔しているのですが、肝心のうどんは食うたことがない。何と何とmfujino様までが千里を遠しとせずにチャッチャと行かれてサッと食されている。これはやはり一度食うておかねばならぬと強く思ったのであります。今までに、一度だけ「うどん」を食せる時間にのぞいたことがあるのですが、その時は満席で座れませんでした。
本日も池田から歩いて行きます。阪神高速道路の猪名川架橋(通称ビッグハープ)も何か景色に馴染んできた感じです。雨の日は道路の排水溝から下の河原に水が落ちてきますから気を付けなくてはなりません。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/9d/0c04d18077314142b3c527d8d8880a90.jpg)
河原では大きな亀と、小さな花を見ました。亀の方はカメラを向けた瞬間に川に入ってしまいましたが、花は逃げません。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/3c/31672d4d8cf4bee6e4ddc3b26aad278a.jpg)
午後1時をまわっていましたが、うどん研は相変わらず盛況で、かろうじて空いていたカウンターに座らせてもらいました。ビールは「バス」、英国ビールです。ところがところが肝心のうどんの写真がない。確かに撮ったと思ったのですが、出てきてそのまま食うてしまったようです。もちもちとしたおいしいうどんでした。繁盛しているのもよく分かります。次回のビール祭ではするめの天麩羅を出して欲しいというのを言い忘れました。
ショックなのは池田の地酒「緑一」の一合瓶が手に入らなくなってしまったと言うこと。「滅多に出ないけど、飲む人が飲んだらよろこんでくれはるのに。」と残念そうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/97/0f363c46b0680b27ece85136492b6208.jpg)
さて、雨も降っているし、どこに行くべえと考えたのですが、池田市でも絹延橋付近から北側の地域はあまりウロウロしたことがない。しかもこの後たこ焼きを食さねばなりませんから(爆)、あまり遠くには行きたくない。
池田でもこの辺りは以前に五月山から東山付近に道無き道を下りてきたことが1回と、五月山にある日の丸展望台付近から友人の車で林道を下りてきたことが1回あるだけです。ということで池田市木部付近をウロウロしてみることに決めました。
絹延橋を池田側(というより橋付近は左岸も右岸も池田市なのですが)に渡り、道路に沿って少し北上します。道路はしばらく行くと能勢方面と亀岡方面に分岐しますが、ここは昔から能勢街道と亀岡街道の分岐点でした。道路の地名表示では「きべ」とありましたが、「きのべ」というのも聞いたことがあり(バスの駅名はこれ)、ここから考えると絹延橋の「きぬのべ」はその転訛で、アヤハトリ。クレハトリ伝承の発展・定着に伴い典雅な名前が付けられたと考えられます(或いはその伝説になぞらって)。
写真は取り忘れましたが、この付近に「あんま」という大きな看板のある家がありました。今は体裁良く「マッサージ」と記すところが多いように思いますが、昔ながらの言葉遣いを好ましく感じます。「ちょっと研修を受けただけの者がやる『マッサージ』やないで、わしはプロの按摩や」てなもんでしょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/de/050f9f21229c1ece4cc7492eba335901.jpg)
道路から離れて集落内をさまようこと暫し、何やら顕彰碑があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/f9/7343d6399f1672c810cd5d8cd0f8bc4c.jpg)
歌はただ今師匠が解読中
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/81/5a3d3da46c3e1001c99983b169dd3536.jpg)
猪名川右岸に池田市がある理由はこれでしょうね。以前に師匠の推理も聞いたことがあります。下村氏が出在家村と小戸村から勝ち取った中ノ島が河川改修で失われたときに、その分だけ右岸の方に土地が余った言うことでしょう。中ノ島を右岸が取り込む形で改修が行われたことも分かります。この辺りは「下村」さんの表札が架かる家が多くありました。
その顕彰碑の少し東に天神社。牛の座像があり、しかもその背にはっきりと梅鉢が刻されていましたから、菅原道真を祀る天神社だと分かります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/6a/ffbf2fbc6700be8ffcb3c98c9602814f.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/a6/4905ff4297981e4038d03c85727ff4c9.jpg)
箕面の高山にある住吉神社とよく似た感じがします。まあ、一山越えればの距離ですから、祀る神は違っても社殿などは同じような感じであってもおかしくはありませんね。証拠も無いことですが、ここいらの天神さんというのは、近世に菅原道真を祀りだしたのではないだろうか、本来はその集落集落の産土というか、そういう神様を祀る場であったのでは等と思います。
駐車場には紀部神社とあり、木部の語源がこれならば、紀氏の一分派がこの辺りに住んでいたことになり、本来ならばその氏神(和歌山の日前宮の御祭神と同じであったかも)を祀るべき社であったとも考えられます。紀氏、東漢氏、秦氏など多くの古代氏族の伝承が残っている池田の地は、やはり相当早くから開けた土地であったと言えるでしょうね。まあ、そういった氏族への帰属意識が薄まるにつれて、流行の神様を祀っておこうという意識が強くなる。あちこちに天神さんやえべっさん、八幡さんや牛頭天王(八坂神社)、熊野さん等々がある理由の一つはこれではないでしょうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/12/424b1be8bfdf97fb7f229354a4af181e.jpg)
神社を出て山裾を歩くと竹林寺、瀟洒なかわいい寺です。これも半可通で申し訳ないのですが、道場型式の寺という感じです。偶然ですが、来週行く予定の寺も竹林寺です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/13/12d4d7c0614158f3d4159507b69524ee.jpg)
日の丸展望台に上がる林道があります。以前に下りてきたのはここだったか?自分が運転して走ろうとは絶対に思わない道です。展望台への林道は、この少し北にもありました。日の丸展望台、今は墓場の中の展望台になってしまいました。池田市の大失政です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/fd/a927c301343591f387d1bb789efb12b9.jpg)
段蔵がひとつとそうでない蔵がありました。この付近は水に浸かる心配がそう無いからかな等と思っていましたが、これは大きな間違いでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/1c/4f65a2f5e208c9ba8a258b2295bc2ddd.jpg)
段蔵
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/07/29d0cb9ad34aaca93b098597b3ec632e.jpg)
細河小学校のフェンスに地図。この亀岡街道は池田市北部の久安寺付近までは「余野街道」というそうです。余野川に沿っているからでしょうが、集落としての余野は豊能町になります。結局、この地図に載っていたものは何一つ見ることが出来ませんでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/6c/2e6689e723fc7bb20320703d9fe9a70e.jpg)
地図の貼ってあるところから集落内にぐるりと入り込んだところに「昭和35年の台風の時にはここまで水が来たぞい」という標識が立っていました。この辺りでも段蔵は必要です。というか、段蔵の石垣を遥かに超える高さです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/69/7f4fc5367265c5228f1d46648c21c81d.jpg)
専行寺の前を通り、名号碑を兼ねた道標を見て、この辺りが魚雷の格納庫の跡なのではというところに辿り着きます。標識も何もありませんので、誰か尋ねる人はいないかなと思っていましたら、ちょうどオッチャンが家から出てきました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/a5/e2c54604eb5ecfbe1c5429eb90ff47a2.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/57/6fd9512c276be14ec7ea950d3eedaf11.jpg)
「すみません、この辺りに海軍の魚雷格納庫跡があると聞いたのですが。」
「えっ、何か調べたはるの?」
「いやいや、ただの物好きです。」
「この辺りの山沿いが全部そうや。入り口は私有地の中になっていて、入られへんわ。それで、何で調べたはるの?」
オッチャンは小生が雨の中を何でこのようなところまで来たのか知りたいみたいでしたが、本当に何も理由が無く、ただの興味ですから、答えようがありません。その言によると、ここらに格納された魚雷は伊丹からまあ疎開させてきたものであること。麓の工事でもう跡と言える跡は残っていないであろうということでした。オッチャンがこの辺りといったところを撮っておきます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/d8/8ec0edd0ecdfb76a727937fbc6546585.jpg)
この辺り
伊丹の飛行場にあった魚雷ですから、雷撃機用の魚雷ですね。けれどもこの地に疎開させねばならないほど戦局が押していたのなら、肝心の雷撃機自体も既に失われていたのではと思われます。雷撃機を載せていく空母も殆どが沈められていたでしょう。
話は飛びますが、山の歌で「穂高よさらば」というやつ、これは元々は「雷撃隊出動の歌」ですね。雨の中、「母艦よさらば」という歌詞が口をついて出ます。
しばらく麓を徘徊し、天理教の大教会が立っている辺りの石垣のへこみなどを怪しいなぁ等と思いましたが、これという跡は何も見つけられませんでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/be/9d018b16ce688fe1af7f8e60939fd761.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/3e/dec6fceac88c31233c06586c16085143.jpg)
さて、最初はこのまま久安寺まで行けるかもと考えていましたが、魚雷格納庫跡で徒労感がドーと押し寄せてきました。進路反転、たこ焼きを食うために戻ります。絹延橋の少し南の地蔵堂には道標が移されていました。亀岡でなくて「亀山」と彫られていますから、そこそこ古いものですね。愛宿山と見えるのは愛宕山のことでしょうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/54/e44ce063ac3b72c10a99ee48f10da3f2.jpg)
中橋の所で東に入りました。本養寺の常不軽菩薩も雨に濡れて合掌されています。今までと違って今日の雨はもう冷たいですね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/e1/4e1d7310ebc62f551b2b0c439f050de0.jpg)
遊郭、稲垣家住宅、喫茶リラ跡、呉春酒造の前を通り、目指すたこ焼きまであと50メートルの地点です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/73/a2a8c98ce3b63594c28070efe1f4ccc4.jpg)
たこ焼き屋のおばちゃん曰く、「先代のお姉さん(すなわち先代その人)が木部の人ですわ。自転車でここまで来たはってん。亡くなってもう三回忌ですわ。」と。先代のお孫さんで、高校生の時にしばらく前でたこ焼きを焼いていたお嬢さんも未だ木部に住んでいるそうです。「そろそろ、お嫁さんですわ。はやいですなあ。」とおばちゃん。この店、55年以上は続いているなあと思っていましたが、何と来年で60周年だそうです。緑一の一合瓶を扱っている店も教えてもらいました。うどん研に御注進です。
本日も池田から歩いて行きます。阪神高速道路の猪名川架橋(通称ビッグハープ)も何か景色に馴染んできた感じです。雨の日は道路の排水溝から下の河原に水が落ちてきますから気を付けなくてはなりません。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/9d/0c04d18077314142b3c527d8d8880a90.jpg)
河原では大きな亀と、小さな花を見ました。亀の方はカメラを向けた瞬間に川に入ってしまいましたが、花は逃げません。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/3c/31672d4d8cf4bee6e4ddc3b26aad278a.jpg)
午後1時をまわっていましたが、うどん研は相変わらず盛況で、かろうじて空いていたカウンターに座らせてもらいました。ビールは「バス」、英国ビールです。ところがところが肝心のうどんの写真がない。確かに撮ったと思ったのですが、出てきてそのまま食うてしまったようです。もちもちとしたおいしいうどんでした。繁盛しているのもよく分かります。次回のビール祭ではするめの天麩羅を出して欲しいというのを言い忘れました。
ショックなのは池田の地酒「緑一」の一合瓶が手に入らなくなってしまったと言うこと。「滅多に出ないけど、飲む人が飲んだらよろこんでくれはるのに。」と残念そうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/97/0f363c46b0680b27ece85136492b6208.jpg)
さて、雨も降っているし、どこに行くべえと考えたのですが、池田市でも絹延橋付近から北側の地域はあまりウロウロしたことがない。しかもこの後たこ焼きを食さねばなりませんから(爆)、あまり遠くには行きたくない。
池田でもこの辺りは以前に五月山から東山付近に道無き道を下りてきたことが1回と、五月山にある日の丸展望台付近から友人の車で林道を下りてきたことが1回あるだけです。ということで池田市木部付近をウロウロしてみることに決めました。
絹延橋を池田側(というより橋付近は左岸も右岸も池田市なのですが)に渡り、道路に沿って少し北上します。道路はしばらく行くと能勢方面と亀岡方面に分岐しますが、ここは昔から能勢街道と亀岡街道の分岐点でした。道路の地名表示では「きべ」とありましたが、「きのべ」というのも聞いたことがあり(バスの駅名はこれ)、ここから考えると絹延橋の「きぬのべ」はその転訛で、アヤハトリ。クレハトリ伝承の発展・定着に伴い典雅な名前が付けられたと考えられます(或いはその伝説になぞらって)。
写真は取り忘れましたが、この付近に「あんま」という大きな看板のある家がありました。今は体裁良く「マッサージ」と記すところが多いように思いますが、昔ながらの言葉遣いを好ましく感じます。「ちょっと研修を受けただけの者がやる『マッサージ』やないで、わしはプロの按摩や」てなもんでしょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/de/050f9f21229c1ece4cc7492eba335901.jpg)
道路から離れて集落内をさまようこと暫し、何やら顕彰碑があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/f9/7343d6399f1672c810cd5d8cd0f8bc4c.jpg)
歌はただ今師匠が解読中
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猪名川右岸に池田市がある理由はこれでしょうね。以前に師匠の推理も聞いたことがあります。下村氏が出在家村と小戸村から勝ち取った中ノ島が河川改修で失われたときに、その分だけ右岸の方に土地が余った言うことでしょう。中ノ島を右岸が取り込む形で改修が行われたことも分かります。この辺りは「下村」さんの表札が架かる家が多くありました。
その顕彰碑の少し東に天神社。牛の座像があり、しかもその背にはっきりと梅鉢が刻されていましたから、菅原道真を祀る天神社だと分かります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/6a/ffbf2fbc6700be8ffcb3c98c9602814f.jpg)
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箕面の高山にある住吉神社とよく似た感じがします。まあ、一山越えればの距離ですから、祀る神は違っても社殿などは同じような感じであってもおかしくはありませんね。証拠も無いことですが、ここいらの天神さんというのは、近世に菅原道真を祀りだしたのではないだろうか、本来はその集落集落の産土というか、そういう神様を祀る場であったのでは等と思います。
駐車場には紀部神社とあり、木部の語源がこれならば、紀氏の一分派がこの辺りに住んでいたことになり、本来ならばその氏神(和歌山の日前宮の御祭神と同じであったかも)を祀るべき社であったとも考えられます。紀氏、東漢氏、秦氏など多くの古代氏族の伝承が残っている池田の地は、やはり相当早くから開けた土地であったと言えるでしょうね。まあ、そういった氏族への帰属意識が薄まるにつれて、流行の神様を祀っておこうという意識が強くなる。あちこちに天神さんやえべっさん、八幡さんや牛頭天王(八坂神社)、熊野さん等々がある理由の一つはこれではないでしょうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/12/424b1be8bfdf97fb7f229354a4af181e.jpg)
神社を出て山裾を歩くと竹林寺、瀟洒なかわいい寺です。これも半可通で申し訳ないのですが、道場型式の寺という感じです。偶然ですが、来週行く予定の寺も竹林寺です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/13/12d4d7c0614158f3d4159507b69524ee.jpg)
日の丸展望台に上がる林道があります。以前に下りてきたのはここだったか?自分が運転して走ろうとは絶対に思わない道です。展望台への林道は、この少し北にもありました。日の丸展望台、今は墓場の中の展望台になってしまいました。池田市の大失政です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/fd/a927c301343591f387d1bb789efb12b9.jpg)
段蔵がひとつとそうでない蔵がありました。この付近は水に浸かる心配がそう無いからかな等と思っていましたが、これは大きな間違いでした。
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段蔵
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細河小学校のフェンスに地図。この亀岡街道は池田市北部の久安寺付近までは「余野街道」というそうです。余野川に沿っているからでしょうが、集落としての余野は豊能町になります。結局、この地図に載っていたものは何一つ見ることが出来ませんでした。
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地図の貼ってあるところから集落内にぐるりと入り込んだところに「昭和35年の台風の時にはここまで水が来たぞい」という標識が立っていました。この辺りでも段蔵は必要です。というか、段蔵の石垣を遥かに超える高さです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/69/7f4fc5367265c5228f1d46648c21c81d.jpg)
専行寺の前を通り、名号碑を兼ねた道標を見て、この辺りが魚雷の格納庫の跡なのではというところに辿り着きます。標識も何もありませんので、誰か尋ねる人はいないかなと思っていましたら、ちょうどオッチャンが家から出てきました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/a5/e2c54604eb5ecfbe1c5429eb90ff47a2.jpg)
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「すみません、この辺りに海軍の魚雷格納庫跡があると聞いたのですが。」
「えっ、何か調べたはるの?」
「いやいや、ただの物好きです。」
「この辺りの山沿いが全部そうや。入り口は私有地の中になっていて、入られへんわ。それで、何で調べたはるの?」
オッチャンは小生が雨の中を何でこのようなところまで来たのか知りたいみたいでしたが、本当に何も理由が無く、ただの興味ですから、答えようがありません。その言によると、ここらに格納された魚雷は伊丹からまあ疎開させてきたものであること。麓の工事でもう跡と言える跡は残っていないであろうということでした。オッチャンがこの辺りといったところを撮っておきます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/d8/8ec0edd0ecdfb76a727937fbc6546585.jpg)
この辺り
伊丹の飛行場にあった魚雷ですから、雷撃機用の魚雷ですね。けれどもこの地に疎開させねばならないほど戦局が押していたのなら、肝心の雷撃機自体も既に失われていたのではと思われます。雷撃機を載せていく空母も殆どが沈められていたでしょう。
話は飛びますが、山の歌で「穂高よさらば」というやつ、これは元々は「雷撃隊出動の歌」ですね。雨の中、「母艦よさらば」という歌詞が口をついて出ます。
しばらく麓を徘徊し、天理教の大教会が立っている辺りの石垣のへこみなどを怪しいなぁ等と思いましたが、これという跡は何も見つけられませんでした。
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さて、最初はこのまま久安寺まで行けるかもと考えていましたが、魚雷格納庫跡で徒労感がドーと押し寄せてきました。進路反転、たこ焼きを食うために戻ります。絹延橋の少し南の地蔵堂には道標が移されていました。亀岡でなくて「亀山」と彫られていますから、そこそこ古いものですね。愛宿山と見えるのは愛宕山のことでしょうか。
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中橋の所で東に入りました。本養寺の常不軽菩薩も雨に濡れて合掌されています。今までと違って今日の雨はもう冷たいですね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/e1/4e1d7310ebc62f551b2b0c439f050de0.jpg)
遊郭、稲垣家住宅、喫茶リラ跡、呉春酒造の前を通り、目指すたこ焼きまであと50メートルの地点です。
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たこ焼き屋のおばちゃん曰く、「先代のお姉さん(すなわち先代その人)が木部の人ですわ。自転車でここまで来たはってん。亡くなってもう三回忌ですわ。」と。先代のお孫さんで、高校生の時にしばらく前でたこ焼きを焼いていたお嬢さんも未だ木部に住んでいるそうです。「そろそろ、お嫁さんですわ。はやいですなあ。」とおばちゃん。この店、55年以上は続いているなあと思っていましたが、何と来年で60周年だそうです。緑一の一合瓶を扱っている店も教えてもらいました。うどん研に御注進です。
まあそれにしても池田がお好きなこと。全ては緑一とかのたこ焼きがその要因と考えますが(^_・)
♪ 母艦よさらば 撃滅の
翼に映つる 茜雲
返り見すれば 遠ざかる
瞼に残る 菊の花
いやあ、博学ですね。この歌を知ってる人は、日本人の1%もいないのではないですか、驚きました。
メリケン粉からメリケン粉への小さな旅、その間、渋い神社、戦時中の遺跡を訪ねる散策、時間を有効に使った面白い紀行ですね。
私もメリケン粉の思い出をひとつ。
高校が山の上にあり、部活が終わって帰る頃、空腹にたえられず、山ノ下の飲食街(灘区水道筋)にあるたこ焼き屋によく行ってました。お客が6人も入ったらいっぱいになる店で、出汁で食べるたこ焼きでした。高校生の頃って、なんであんなに食べ物が美味しいんでしょうね。おばさんの目を盗んで、青海苔をおもいきりふりかけなおしたりしてました。ははは。
卒業して何十年かして行ってみたら、店がなかった。さびしかったですね。高校はなくなってもいいからたこ焼き屋なくかってほしくなかった。(ちょとウソです・・)いつまでもあると思うな親と店ですね。
池田、いいことも悪いこともすべてこの街で学習しました。惚れた姉ちゃんもいたし(爆)。
本当に店はたくさん無くなりますね。どこかで書きましたが、池田ではその時その時に馴染んだ喫茶店は全滅しました。一番印象深いのは煙草を覚えた「北陽」(爆)。元宝ジェンヌのお姉ちゃんがいたアゼリアなどはカウンターにはひっつき虫が一杯で、永遠に続きそうな感じでしたのに。
浮舟様が通われたたこ焼きも出汁で食べるのですね。この池田の店も出汁で食べます。この店は、100周年まで持ちそうですから、帰国されたらうどん研ともども是非お越し下さい。
私は本格的なうどんも好きですが、立ち食いならその値段で2回食えるというしみったれた考え方の人間です。
最近はお酒もそうで、居酒屋に行くのなら、立ち飲みに2軒、3件行けるぞという風に考えています。(日本に帰った時の話です)年金生活のなせるわざか。酒飲みの達人の域に達したのか、わかりませんが・・
うどんの注文は、きつねうどん5、玉子うどん2、こぶ2、てんぷらうどん1の割合ですね~。通はすうどんとかいいますが、ちょっと贅沢感を味わいたいですね。
徘徊堂さんはてんぷら(スルメ、ゴーャ)が好きみたいですから、やはりそのセンですか。
酒場に関しては、まだまだ「立ち飲み」の域には達していません。本を読みながらということが多いので、やはり座れる店が…というところです。大阪の場合、やはり総じてと言うと立ち飲みの方が安いですが、立ち飲み値段の座って飲める居酒屋もたくさんあります。
立ち食いのうどん・蕎麦を上回るのは、川西市の川西能勢口駅の阪急百貨店が入っているビルにあるうどん屋で、きつねうどん¥250で、おにぎりが2個まで付いてきます。京阪の七条駅の近くにあったお婆さん軍団がやっている店も格安だったのですが、これは無くなりました。
ついでの雑談です。私はラーメンのオタクや居酒屋のオタクのブログもみますが、ある日は「この人、ようやるなあ、アホとちゃうか」とおもい、ある日は「立派なものや」とおもいます。ラーメンを1年間に500杯食べる人もめずらしくないです。酒屋めぐりの人は、仕事のない日が活動の中心になり、1日5,6軒まわり、最後は記憶喪失で、写真に写った肴で思い出すというありさまです。結論、やはり、そういう体を張ったブログは偉業です。
フアーブルも1日中、コガネムシ(糞ころがし)を見ていた変人です。いいや、彼は、体系的な学問の成果を残した学者だというむきもあるでしょうが、なあに同じことだとおもいます。たまたま世間の価値基準と合致しただけです。大切なのは執念、情熱です。
対して、うどん屋の親父は全般的に見て痩せていますね。これは汁の油分の差でしょうね。まあ、グルマンにとってはそんなことはどうでもいいのかも知れません。
あの出汁のたこ焼きは大阪のものでしょうか?京都ではあまりないのでは?
花も蕾の若桜/五尺の命ひっさげて/国の大事に準ずるは/
我ら学徒の面目ぞ/ああ、紅の血はもゆる
後につづけと兄の声/ 今こそ筆を投げうちて/勝利ゆるがぬ生産に/ 勇みたちたるつわものぞ/ ああ紅の血はもゆる
主の愛唱歌、学徒動員の歌 『紅の血はもゆる』です。
学徒出陣の歌も亦名曲ですね。栗尾トンネルが開通間近になり、国道から外れる喫茶店が店じまいとなりました。ご主人の足跡を訪ね、一度ご案内したいと思っていたので残念です。